リレー講座をライブヴューイングでみる。講師はNHK の大越健介さん。テーマは「壁の正体」。

キャンパスで開催されたリレー講座を、ライブヴューイングで、湘南キャンパスと九段サテライトで聞くスタイルを始めている。

本日の講座は、多摩キャンパスでは一般299名・学生125名、湘南キャンパスでは一般30名・学生16名、九段サテライトでは一般76名が受講。 

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本日はグローバルスタディーズ学部での会議の前に、この講座を視聴。

講師はNHK大越健介さん。テーマは「壁の正体」。

 ・ジャーナリストは、一人の人間と真正面から向きあい、その人の生き様を突破口として、国、民族、世界のことを考えたことを人々に知らせていくのが仕事である。

・大きな言葉・大な主語(日本、国、国際社会、、)で語らないようにしている。「3・11で2万人が死亡」という言い方では真実は見えない。

稀勢の里の休場、ハラハラを乗り越えていく姿。大谷翔平のドキュメント、野球のみの生活、大したものだ。

・壁1「北朝鮮」:韓国の脱北者。マレーシアでの兄の殺人による反北朝鮮ムード。アメリカの冷静な分析。ロシアのウラジオストックでの北の労働者のまじめさによる友好ムード。壁の鍵穴から覗き実相に迫る。

・壁2「メキシコ」:中米(ホンジュラスエルサルバドル、、)からの移民希望者の大行進が本日国境に到着。人間の想像力に訴える。無数のストーリーがある。材料を提供する。

壁3「ヨーロッパ」:2度の世界大戦で傷つき「EU」という壮大な実験を始めた。移民・難民で揺れている。自国第一主義、反EU、反共存共栄。オランダ、フランス、ポーランド、英国、、。日本人は本当にかんがえているのだろうか。

壁4「台湾」:日本人大好きな台湾人。大陸の壁。

壁5「外国人労働者」:人手不足。心の準備はできているか。世界への貢献も。平和ボケ。

生身の人間が体現しているものを大切にする。

2020年のオリパラはチャンス。日本が世界をみる。世界が日本をみる。スポーツキャスターになった。日曜日21時からの「サンデースポーツ2020」。少しでも良い方向に変えていきたい。一人一人の人生をリスペクト。想像の翼。当事者として向き合う。

(ミクロの視点。リベラル。中国旅行。実際よりライブヴューイングの方がいい?表情がよくわかる、、、)

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安田学部長と懇談:人事。

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グローバルスタディーズ学部の学部運営委員会にオブザーバー出席。

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終了後、弟と焼き鳥屋で飲む。

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「名言との対話」11月14日。孫 基禎(ソンギジョン)「これからは二度と日章旗の下では走るまい」

孫 基禎(そん きてい、ソン・ギジョン、1912年8月29日 - 2002年11月15日)は、新義州出身のマラソン選手。

1936年。日本では斎藤実内大臣高橋是清蔵相が暗殺された2・26事件が起こり、ファシズムの影が色濃くなっていく。同年のベルリンオリンピックは、ナチスオリンピックとも呼ばれた。そのマラソン孫基禎2時間29分19秒 で優勝し日本にマラソン初の金メダルをもたらした。胸に日の丸をつけて走ったが、彼は日本人ではなかった。日本が植民地として統治支配していた朝鮮人だった。

「マラソンは練習も試合も一人だ。苦しいのは自分だけだよ。だから勝てば、練習で苦しかった分だけ喜びも大きい」と語っていた。その生涯最高の歓喜の瞬間に、孫基禎夢心地から我に返ったのは表彰台に立った時だ。国がない絶望感に襲われたのである。「優勝の表彰台で、ポールにはためく日章旗を眺めながら、『君が代』を耳にすることは耐えられない」。オリンピック記録映画「民族の祭典」では、表彰台ではうつむいたままであった。後で撮りなおした映像では、ゼッケンを裏返しに着て走っている。

優勝から16日目には『東亜日報』による日章旗抹消事件が起こる。孫基禎の胸にある日の丸を消して新聞を発行したのだ。これが南次郎朝鮮総督の逆鱗に触れ、記者が芋づる式に連行され拷問を受けた。そして新聞は無期限刊行停止処分にあう。この事件は韓国の小学校の国語教科書にあり、知らぬ人はない。

1940年、「再び陸上をやらない」という条件で入学した明治大学法科専門部を卒業。1947年、ボストンマラソン監督として教え子が優勝。1950年のボストンマラソンの監督として、1位、2位、3位を独占し、奇跡的大勝利をあげた。1948年のロンドンオリンピック1952年ヘルシンキオリンピックでは韓国選手団の総監督をつとめる。

1984年、ロサンゼルスオリンピック聖火ランナーとして、市内のコリア・タウンを走る。そして、1988年には、大韓陸上競技連盟会長にも就任し、76歳の孫基禎は母国で開催されたソウルオリンピック開会式では聖火をスタジアムに持って登場し、世界に感動を与えた。

2002年11月、孫基禎は、90歳で人生マラソンのゴールを迎えた。1936年当時、表彰台上の24歳の孫の手の中にあった月桂樹の苗木は、今では堂々たる大木となっている。孫 基禎の栄光と苦難の人生の軌跡によって、日本と朝鮮との歪んだ近代史の本質を垣間見ることができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人事委員会。学部運営委員会。理事長報告。

大学

午前

・人事委員会

・学部運営員会

午後

・理事長報告:杉田学部長と。

 

夕刻から

・自宅にて新パソコン設置。

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「名言との対話」11月14日、日高敏隆「人は作るもんちゃう、育つもんや」

日高 敏隆(ひだか としたか、1930年2月26日- 2009年11月14日)は、日本の動物行動学者

小学生の時に教育スタイルが合わず不登校となるが、担任の教師が自由な校風の麻布の小学校への転校を勧め、加えて昆虫学に無理解であった両親を説得してくれる。

 東京農工大学講師・助教授・教授を経て、1975年京都大学教授、1989年同大理学部長。1982年に創設された日本動物行動学会の初代会長。1995年から滋賀県立大学初代学長総合地球環境学研究所初代所長。

動物行動学の日本の第一人者である。エソロジーと呼ばれる動物行動学とは、生理学・心理学・遺伝学など、さまざまな方法論を用いて動物の行動を研究し、行動の総合的理解をめざす学問だ。私の宮城大時代に動物行動学の教授が同僚だったので、この学問には少しだけ興味を持った。人間も動物だと考えると、気が楽になったことがある。

1952年東京大学理学部動物学科卒業。 昼間に岩波書店に勤務し、夜間に東京大学研究室で動物学研究を行った。岩波にいたこともあるのだろうが、文章がうまく、ファンが多い。それは、毎日出版文化賞(『チョウはなぜ飛ぶか』、日本エッセイスト・クラブ賞(『春の数えかた』)を受賞していることでもわかる。他には、『動物にとって社会とはなにか』('66)、『ネズミが地球を征服する?』('72)、『昆虫という世界』('73)、『動物はなぜ動物になったか』('76)、『犬のことば』('79)、『群となわばりの経済学』('83)、『動物の体色』('83)、『ネコたちをめぐる世界』('89)、『生きものの世界への疑問』('91)、『動物の言い分 人間の言い分』(2001)、『人間はどこまで動物か』(2004)、『生きものの流儀』(2007)など多数。『日高敏隆選集』全8巻がある。また、啓蒙書も多く刊行している。入試で最も使われるエッセイを書いた人だ。戒名は蝶道院釋真隆。

「人間は理論が通れば正しいと考えるほどバカである」

「人間は自殺することのできる動物である」

山際寿一(後の京大総長)と民博の小長谷有紀の編の追悼エッセイ集である『日高敏隆口説き文句』では、執筆者の半分は科学者、残り半分は漫画家から写真家まで幅広い。日高が同世代、後世代に与えた影響力の大きさがわかる。また専門分野の研究だけでなく、学会の創設、大学や研究所のトップもこなした。この人は偉い人だ。

日高敏隆自身は動物行動学について「動物の行動がどういうきっかけでおこるのか、とか、その行動はどういう意味を持っているのか。、、行動が進化するなんてのは、どうやって進化するのかよくわからない。そんなことを研究する学問です」と説明している。人間も動物だとする日高は、「人づくり」という言葉が嫌いだった。人は作るものではない。育てるものでもない。人は自分で育っていく。動物と同様に自然に進化していくものだ。親や教師は自分の姿を見せ、援助することしかできない。構えずに自分の役割を果たしていこう。

 

 

 

ジャーナリストと政治家。

「名言との対話」11月13日。田英夫「ジャーナリストとして政治に参加します」

 
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
 
   
   
   
 
   
 

田 英夫(でん ひでお、1923年大正12年)6月9日 - 2009年平成21年)11月13日)は、日本のジャーナリスト、政治家である。

祖父は台湾総督をつとめた田健治郎。田英夫はで海軍に入り特攻隊で出撃前に終戦を迎える。私の父と同い年だ。東大卒業後、共同通信に入り、社会部超、文化部長。その後、1962年から1968年までTBSの「JNNニュースコープ」の初代キャスターとして活躍する。歯切れのよい解説で国民的人気があった。ベトナム戦争報道で自民党からクレームがあり、降板する。

マスコミの現場「反対、反対」と言っているだけでは不十分だ、直接に政治の世界で働こうと、1971年に社会党から参議院選挙に立候補し、192万票の全国区最高票で当選する。社会民主的立場から党改革にあたるが、最終的に離党、除名され、社会民主連合を結成し代表となる。後に社会民主党に入党。

「ジャーナリストとして政治に参加します」というスローガンは国民の支持を得て政界に出たが、この田英夫の志は達成されたのだろうか。私が高校生の頃、外国人たちと懇談した時に、「君は将来何になるのか」と問われたことがある。「ジャーナリストかローヤー(法律家)だ」と答えたところ、それは矛盾しているとの反応があった。帰って父に報告すると、鋭い答えだなあと語っていたことを思い出した。批判する立場のジャーナリスと保守の法律家とは反対の側にある、という解説だった。弁護士という英語を知らなかったためだったが、貴重な教訓を得た。職業には「気質」というものが関係しているのではないか。近年、ジャーナリストから政治の世界に入って成功した例を見ないのはそれが理由かもしれない。

 

こちら現場―田英夫の国会・緊急発信

こちら現場―田英夫の国会・緊急発信

 

 

 

 

 

人間国宝

 「名言との対話」11月12日。藤原啓「筆を土にも変えただけ」

藤原 啓(ふじわら けい、1899年2月28日 - 1983年11月12日)は日本の陶芸家。本名は敬二

岡山県備前市の瀬戸内海の入江が目の前に開ける絶景の地に立つ藤原啓記念館と、2001年から始まったアートオリンピアと、湯河原にある人間国宝美術館とが合体してできた美術館(山口伸広理事長)がF A N美術館である。藤原のF、アートオリンピアのA、人間国宝のNからとった名前である。その景色を見ながら、啓の息子の藤原雄の茶碗でお茶をいただいた。藤原啓は、抒情詩人から40歳で陶芸に一転した人物だ。1970年備前焼人間国宝に認定される。

人間国宝は、それぞれの分野の現役が一人だけが指名される。備前焼の第一号は現代備前焼きを始めた金重陶楊だ。陶楊の作風はきびしく精悍である。第二号がその弟子で古備前を評価した藤原啓で、その作風はおおらかで素朴である。第三号はろくろの神様と呼ばれた山本陶秀(1906ー1994年)。第四号は藤原雄である。息子の藤原和(1958年生)には巨大作品が多い。啓の作品は単純・明快・豪放であり、雄の作品は温和で剛胆である。

藤原啓は1899年、現在の備前市稲穂に生まれた。少年時代から文学を志望し、俳句や小説に熱中した。同郷の正宗白鳥に対する憧れや、賀川豊彦の「一粒の麦」に刺激をうけて、19歳の時に代用教員の職を投げうって上京する。東京では人生を知ろうとする思想の遍歴の20年間であった。若い詩人たちとの交遊、博文館での編集の仕事を通じて知り合った文壇の人たちとの交流、そして絵や音楽も学んでいる。しかし文学の道を進むという志は果たせないまま、38歳の藤原啓は東京を去って故郷に帰る。故郷では正宗白鳥の弟の惇夫の勧めで46歳から備前焼きを始める。特殊な勘と技術を要する備前焼きは、金重陶楊の指導によって、しだいにものになっていく。

備前は古くから日本有数の焼き物の産地であった。千年前の「延喜式」に明記されている。桃山から江戸にかけて紹鷗、利休、遠州ら茶人が輩出し、そのために茶器が尊重された。江戸の中期・後期には多様化と量産化に傾き、備前焼きは芸術性を失って低迷期に入った。その流れを再興したのが、四人の人間国宝たちである。

東館、本館2階は人間国宝美術館、平田郷陽卑弥呼などの人形、村上隆草間弥生ピカソの焼き物、なども観賞した。L館ではベンツのアウマートシリーズがあった。横尾忠則がペイントしている。アートオリンピアは、アートのオリンピックで、2015年には世界52ヶ国4186名のアーチストが参加。入選作品は東京、ニューヨーク、パリに募集拠点を設けた。各拠点で80位以内に入れば世界で作品が発表される。

 藤原啓は「はちきれんばかりの健康美を持った田舎娘のようなもの」と当時の備前焼を評し、桃山風の茶陶写しよりも、鎌倉期の力強い作風に引かれた。そして、単純、明快、豪放を作陶理念とし、藤原備前の骨子としていく。藤原啓の作風に対しては、「厳しさと甘みが渾然」というアメリカ人のクレーソンの評価がある。

井伏鱒二が藤原啓を「抒情詩人から陶芸家に一転した」と言ったように、詩魂を持つ藤原啓は「筆を土に」変えた啓。取り組む対象は違っても、表現者である自身は変っていないのであろう。遅咲きの藤原啓は故郷で花を咲かせた。その花はいくつもの世代が引継いでみごとな大輪の花になっていったのだ。

 

 

 

大分県高等学校PTA連合会振興大会で講演。

中津市の文化会館で行なわれた大分県高等学校PTA連合会振興大会で講演。

主な受講者は県内各地の高等学校のPTA会長たち300人。

テーマは「人生100年時代を迎へ撃つ、アタマとココロの革命を!」。

名刺交換した人は以下。

大分県PTA連合会会長。大分県副知事。中津市役所参与。大分県高等学校教職員組合副執行委員長。大分県教育庁次長。県会議員。中津北高校校長。豊陽中学校校長。大分東高等学校校長。中津南高等学校校長。

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 新貝前中津市長、由布院の木戸浩久さんと楽屋で懇談。

終了後は、聴きに来ていた高校の同級生達と焼肉を食べながら「アリラン」で昼食懇親会。昨日のゴルフ談議、、。

夕食は「邪馬台」の柿内理事長と三原事務局長、それにわたしの母と4人で「鬼太郎」で食事会。

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「名言との対話」11月11日。江上波夫「学問は人なり」

 
 
   
   
   
 
   
   
 

江上 波夫(えがみ なみお、1906年11月6日 - 2002年11月11日)は日本の考古学者。

中学生だった江上は関東大震災で避難した千葉の房総で地震のために隆起した洞窟の堆積物の断面に土器や動物の骨を見つけ、東京帝大の人類学教室に持ちこんだ。このことが学者への道に繋がり、太古の歴史を探究する学問をが天職となっていく。

歴史的事実の再現を試みるのが歴史学であり、細分化ではなく総体化、平面的ではなく立体化、抽象的ではなく実態的な歴史学を提唱する。構造図を脳裏に叩き込んで、その上で個々の実像の構築・復原に向かうことが重要とする方法論を駆使した。

また、日本の歴史は、日本国内に限って研究しようとす立場だけで完結はしないと主張し、東アジアの中の日本の、世界の中の日本という広い視点を大事にした。

江上波夫は、朝鮮海峡をわたってきた東北アジア系の騎馬民族の中心勢力であった天皇氏が、時間をかけて日本の土着勢力を征服し、統一国家を形成したとの説「騎馬民族征服王朝説」を発表した。1948年、江上が東大教授に就任した40歳の頃だ。このロマンあふれる壮大な仮説は、支持と反発の大論争をまきおこした。司馬遼太郎が最大の評価をし、手塚治虫は『火の鳥』でこの説を採用した。一方、批判の急先鋒の柳田國男折口信夫、佐原真らと華々しい論争を繰り広げた。

 蒙古を代表とする騎馬民族には、断続的な階級意識がない、開放的である、女性がよく働く、個人主義であり、民主主義的である、という特色がある。騎馬民族国家統一の能力が高く、農耕民族を制服し新王朝を建設する。しかし、しだいに土着民と同化していくという運命がある。日本という国は、採集型、農耕型、狩猟型の3層構造が入り交じって構成されている。日本は大化の改新までは騎馬民族型の社会であり、騎馬民が武士になったのだ、という。

ユーラシア大陸、オリエントの調査を徹底して行なったこの根っからのフィールドワーカーは、強いエネルギーの持ち主だった。海外調査の道を開いたことも大きな功績だった。1991年には、文化勲章を受章した。

江上波夫は、学問の放浪者、学問の探検家、学問の大食漢、遊牧民のような学者などさまざまに呼ばれている。江上の学問は、肉体的に胃袋の大きい大食漢であったと同様に、専門の東洋史学に加え、考古学、民族学などを統合する学際的な研究者だった。やはり、学問は人である。その人の核は、独自の問題意識である。

 現地に足を運び素手で触り、裸身で向かい、広く、あるがままに見聞を重ねる。そして歴史の鑑をみがき、今を考える。座右の銘ニュートンの「常にそのことを考えているので」であった。

「学問は人である」は、「芸人とは芸と人のことではないか」という森繁久彌の言にも通じる。作品と作者が不二一体となるほど徹底して人間性が投入された結果、すぐれた作品が生まれ出るということだろう。 どのような分野においても、優れた仕事は、それをなし遂げた人物の生きかたと分かつことはできない。

学問の探検

学問の探検

 

 

 

 

 

 

 

学問の探検

学問の探検

 

 

 

 

 

ゴルフ。夕食会。オリンピック選手らと懇親。

f:id:k-hisatune:20181110222345j:image周防灘カントリークラブにてクラス会でゴルフ。 

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夕食会のあと、二次会。

オリンピックデイ・ランで、中津に見えていたチームと合流。

 水泳、バイアスロンウエイトリフティングのオリンピック選手らと懇親。

現役では、重量挙げの三宅宏実さんがいて、いろいろ話ができた。

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以下、書きかけ。 

「名言との対話」11月9日。はらたいらはらたいらさんに3000点!」

 
   
   
   
   
   
   
   
 

はら たいら(本名:原 平1943年3月8日 - 2006年11月10日)は、日本の男性漫画家随筆家タレント

高知県の高校在学中からナンセンス漫画の才能を発揮していた。上京後は作品を出版社に持ち込んでは断られる生活が続く。1963年、『週刊漫画TIMES』(芳文社)の連載『新宿B・B(ベベ)』でデビュー1964年結婚。1972年週刊漫画ゴラク』の連載『モンローちゃん』がヒットする。その後、1980年 サンケイ新聞の『ルートさん』、1988年 北海道新聞中日新聞東京新聞)、西日本新聞の各夕刊連載の『セロりん』、1981年 - 1983年,1989年 - 1990年 日本経済新聞連載の『ゲンペーくん』、沖縄タイムスの『グルくん』、公明新聞の『ポッコちゃん』、京都新聞の『パトロールのパトさん』、日刊ゲンダイの『ゴシップちゃん』、朝日小学生新聞の『日記ちゃん』など、数多くの新聞漫画を手がける。

はらたいらを有名にしたのがテレビの視聴者参加のクイズ番組クイズダービー」(大橋巨泉が司会)だ。1977年1月22日~1992年6月27日までの長期間にわたりレギュラー出演する。7割4分7厘という驚異的な正解率で、連続正解は27連勝(2度達成)で、同番組では歴代1位の連勝記録だ。いつもテレビで感心していた記憶がある。その淡々とした姿は宇宙人と呼ばれていた。

1992年秋口から、更年期障害による眩暈や集中力低下を訴え連載を減らし、闘病生活に入る。一連の経過は、著書「はらたいらのジタバタ男の更年期」・「男も『更年期』がわかると楽になる」などに詳しい。はらたいらのおかげで男性にも更年期が存在することが知れ渡った。また経験を生かし晩年は男性更年期障害の講演も行っている。

医師の忠告を無視して酒を飲み続けた末の63歳の死について本人は「不服はない。本望だ」と言っていたという。戒名は曼照院智徳道晃居士。

故郷に程近い高知県南国市の「はらたいらと世界のオルゴールの館」では原画を含め作品を鑑賞することができたが、2004年12月30日閉館している。

クイズダービーでは、参加者がはらたいらさんに3000点!」と大勝負を賭けるのが名物ともなった。全国的にはらたいらは頭が良く勘もいい人という常識になったのだが、意外なことに、漫画それ自体を読んでいた人は多くはなかったのではないだろうか。本業においてあらゆる分野の情報に目配りをしていた結果、偶然の経緯で副業で名を成したのであろう。やはり漫画家は勉強家でなくてはつとまらないようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「漫画の世界」ーー立志人物伝の7回目「怒濤の仕事量」前編

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ブログ執筆。テレビ体操。公園を散歩。

朝の散歩で見かけた秋の花や木が美しい。

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大学。

9時:授業準備。

10時:客員の久米先生と懇談。未来学会、専門職大学、、。

10時40分:「立志人物伝」の7回目の授業。

以下、久米先生の実況中継を転載(ありがとうございます!)

多摩大学 久恒啓一教授「立志人物伝」
 今日は漫画の日。手塚治虫 石ノ森章太郎 赤塚不二夫

なんと今日は素敵な日。いきなり今は亡き手塚治虫先生のビデオインタビューから。No Manga,No Lifeの私にとって、大学の講義で、三大巨匠(手塚・石ノ森・赤塚?)の生き様に触れることができるとは。さすが、日本で始めてシラバスやVOICEを取り入れた多摩大学

特に、手塚治虫の「火の鳥(特に未来編)」「ブラックジャック」に出会っていなかったら、私の人生観は大きく変わっていたことでしょう。未完の傑作「アドルフに告ぐ」の先も読みたかった。

もちろん、三人の記念館には行ったことのある私です。ところが....コミケ生みの親、米沢嘉博記念図書館、伝説のサブカル誌ガロ初代編集長、長井勝一漫画美術館まで押さえているところが、久恒先生のすごいところ。

寺島実郎学長の講座レポート「2019年 日本の進路」も怖かった。日本は常温(ぬるま湯社会)「不満がないが不安はある」「スマホ人生、モール人生、クーポン人生」日本人は内向き、学べない、保守化。GAFAに差をつけられる。日中、日米より米中の時代。

だからこそ、手塚治虫の言葉を、学生たちに向かって叫びたい!

「一流の映画を見ろ、一流の音楽を聞け、一流の芝居を見ろ、一流の本を読め、そして、それから自分の世界を作れ」

それから印象に残ったのは、文化勲章の辞退者の話。

河井寛次郎=名利を求めない主義で、自作にも銘を入れず人間国宝も辞退。

熊谷守一=孤高の画家。これ以上人が来ては困る。

大江健三郎ノーベル賞は受賞したが文化勲章はおかしい。

杉村春子=自分には大きすぎる。戦争中にもらえなかった人がいる。

手塚治虫の名言
https://note.mu/hisatune/n/n10140e554463

石ノ森章太郎の名言
https://note.mu/hisatune/n/n94d21275f5eb

赤塚不二夫の名言
https://note.mu/hisatune/n/n6f7ade63ea03

▼文庫リレー塾最終回は寺島塾長の「2019年 日本の進路」
http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2018/11/07/000000

▼リレー講座:阿部多摩市長・八木多摩信金理事長・寺島多摩大学長の鼎談。「異次元の高齢化への対処とリニア新幹線インパクト」
http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2018/11/08/000000

▼,多摩大学 久恒啓一先生
https://www.tama.ac.jp/guide/teacher/hisatune.html

久恒啓一 図解web
http://www.hisatune.net/

NOTE.MU

2月9日。手塚治虫 「一流の映画を見ろ、一流の音楽を聞け、一流の芝居を見ろ、一流の本を読め、そして、それから自分の世界を作れ」|久恒 啓一|note

手塚 治虫(てづか…

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以下。久米先生の午後の講義から。

【多摩大生からの質問に答えます 181018
 今期のおすすめアニメを教えてください】

多摩大生から寄せられた質問に答えてみました!

問 情報発信する時の為に自分のブランド価値を高める必要がありますか?
問 久米先生が日頃から行なっている努力は何かありますか?
問 会議をする時にスムーズにすすめる方法はありますか?
問 過去の記事で桜美林大学の講義VTRを見たのですが、アマゾンで久米先生の書籍が1円で買えると聞いたのですががどういうことでしょうか?
問 休日はどのように過ごしていますか?
問 今年1番の映画は?(久米さんの主観で)
問 多摩のおすすめスポットは?(久米さんの)
問 今はすごくインスタグラムが活発です。この次に話題となるSNSは?
問 今期のおすすめアニメを教えてください
▼回答はこちら

 BLOG.CANPAN.INFO

【2018講義04】記事で紹介した店主などへのメッセージの出し方

受講生のみなさま ようこそ!ビジネスコミュニケーションIIへ! こんにちは。客員教授の久米 信行です! 今週は、紹介したお店やおすすめスポットの 店長・館長・園長などに、お礼メッセージを出して ご縁を結ぶ方法を....

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「名言との対話」11月9日。利光松男「引き返す勇気を持て」

 
   
   
   
   
   

利光 松男(としみつ まつお、1923年11月23日 - 2004年11月9)は、日本実業家日本航空株式会社代表取締役社長。一般社団法人日本航空協会会長。公益財団法人日本棋院理事長。

父は大分県出身の小田急電鉄創業者の利光鶴松。松男は公には大分県中津出身と言っていたから、鶴松の本家は中津だったのではないか。

利光松男は戦後の日本航空の第1期生で、おもに旅客営業畑を歩む。ファミリーサービス、ホノルルマラソンパラオ諸島の開発の事業などを手掛けたアイデアマンだった。海外パックツアーの先駆けであるジャルパックの開発に関わり、品質のジャルパックの礎を築く。日航の取締役、常務から1983年にジャルパック社長、日航商事社長。1985年の御巣鷹山事故に際し、代表取締役副社長に就任した。1987年の完全民営化を実現する。1990年社長。「浮き沈みの激しい会社生活」だったと述懐している。

副社長、社長の10年間は、私の広報部時代と、直接の上司であったサービス委員会のスタッフとして仕えた人である。東京大分線開設時に発足した日航大分県人会でトップに担いだこともある。磊落な人柄で、私も可愛がってもらった。遠藤周作と深く長い親交はよく知られている。

退任後の1999年には日本棋院理事長に就任し、大ナタをふるい赤字体質を一掃する。

利光時代は構造改革と安全を両立した経営を行った。座右の銘は「引き返す勇気を持て」だったという。この言葉は2代目社長松尾静麿の「臆病者と言われる勇気を持て」がオリジナルだが、今回改めて資料にあたり、そういった意識で経営のかじ取りをしていたのかと納得した。