本日のリレー講座「テクノロジーによって私たちの暮らしや働き方はどう変わるか?」(浜田敬子先生)

 本日のリレー講座。講師:浜田敬子先生(ビジネスインサイダージャパン総括編集長)

タイトル「テクノロジーによって私たちの暮らしや働き方はどう変わるか?」。

・ゾゾスーツ(体のデータ収集)。アマゾンGO(ムジン店舗)。ギグエコノミー。ウーバー。ウーバーイーツ(出前)。タスカジ(家事)。ゴーストレストラン(厨房のみ)。タイルバック(時間単位の副業)。クラウドワークス(マッチング)。シュフティー(主婦)。キッズライン(ベビーシッター)。AirB&B. アマゾンプライム。ソシャルスコア(バーチャルスラム)。ウオルマート(口座提供)。

・デジタルポピュリズム。格差。テクノロジーから置き去りにされた人々。社会の不安定。トランプ誕生。苦しさがネットで増幅。怒り。声をあげよう。デジタル巨人とどう向き合うか。憲法改正。分断。

(データリズムとギグエコノミー。youtubeソフトバンクのAI戦略。孫正義のビジョンファンド。個人のビッグデータ戦略へのヒント。得意技。テープ起こし、、、)

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・高野滋課長(キャリア支援課):就職関係で意見交換

・高野課長(学長室):学内情勢

・高橋さん(知研):12月忘年会。2020年の50周年企画。野田事務所。

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品川キャンパス:17時半から。

・大学院運営委員会

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「名言との対話」11月22日。今井正「自分を無にして調べるのがぼくの主義だった」

今井 正(いまい ただし、1912年1月8日 - 1991年11月22日)は、日本映画監督

戦後日本映画の左翼ヒューマニズムを代表する名匠。東京帝国大学中退後、東宝の前身J.O.スタヂオに入り、入社2年で監督に昇進。戦後は独立プロ運動の中心人物として数多くの社会派映画を手がけた。フリーとして長く監督をつとめた今井は「映画を作る人間は、資本から独立して、自由の立場にいなければならない」との考えだった。

1974年8月23日に「知的生産の技術」研究会のセミナーで「私の映画づくり」というタイトルで講演をしていただいた。私はこの会には1980年入会なので聞いてはいないが、セミナー録が残っていて読んだ。「撮影のスタッフ、俳優さんたちが一番持っている力を出してもらうように持っていくことが私の演出方法」「照明、装置、俳優などたくさんの人を使って、一つの作品を作り出すという監督の仕事は演出家である」。「監督でなく、今井さんと呼んでくれればいいという態度の監督だった。限られた日数、限られた予算の中で、自分の思うようにもっていくことは実に難しい。そのことを黒沢明監督は「政治的能力70%、監督の才能30%」で成功するという説で、その意見に今井も賛同している。

今井本人は「山びこ学校」が自分の作品の中で完成度が最も高い作品だとしている。1951年いベストセラーになった無着成恭編集の山形県山元町の中学3年生の作品集を映画にしたものである。

『武士道残酷物語』は私もみている。戦国時代の武士から現代企業戦士に続く一族の物語だ。ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞した。演技派を目指し、7人の役を演じた主役の中村錦之助はこの作品でブルーリボン主演男優賞を受賞している。

国内外で賞を受けた作品だけを以下にあげてみる。『また逢う日まで』『にごりえ』『真昼の暗黒』『米』『キクとサム』『武士道残酷物語』『橋のない川』『純愛物語』『戦争と青春』『民衆の敵』『小林多喜二』『あにいもうと』。この人はやはり名匠だ。

今井正権威主義的なところがない人だ。スタッフとの関係もそうだし、テーマも下層の人々への同情と愛情がある。葬儀、告別式はやらない。戒名もいらない。墓名に名前を刻むなら「今井正」だけでよいが、それもいらない。今井家の墓だけでよい。以上が遺言であり、今井の死生観が表れている。そして、監督という仕事で、「自分を無にして」徹底的に調べあげるというやり方で優れた業績をあげた。自分を押し出さない、自分を消す、自分を無にする。今井正は一貫した人生観のもとに生涯を送った人だ。

 

今井正映画読本

今井正映画読本

 

 

教授会

大学

・金先生、趙先生。

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・学部運営委員会:指定校推薦問題。

・教授会:人事

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ラウンジ

・今泉先生:大学院

・下井先生。杉田学部長:ゼミ必修化。

・彩藤先生、志賀先生。

・飯田先生

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「名言との対話」11月21日。立川談志「落語とは「業」の肯定である」

立川 談志(たてかわ だんし、1936年昭和11年〉1月2日 - 2011年平成23年〉11月21日)は、東京府小石川区(現:東京都文京区)出身の落語家落語立川流家元

27歳で真打に昇進した天才落語家。1966年、30歳、日本テレビ笑点」を企画し、初代司会をつとめる。35歳、参議院議員に当選。47歳、落語立川流を結成し、家元となる。

談志は古典落語を貫いたのだが、その中で「己を語る」独自の型を発明した人である。談志の感覚でしゃべる。登場人物が談志と被る。談志という人間を語る。つまり、自分語る芸である。落語を一人称で語った人だ。

談志には著書が多い。20代から書いていて累計で50冊以上になる。落語論、芸人論、自伝、評論、小説など分野は多岐にわたっているが、根底にあるテーマは「落語とは何か」だった。

手塚治虫舞の海のファンでもあり、各界の友人が多かった。談志が32歳の頃に行った紀伊国屋書店田辺茂一との対談は際どいが面白い。田辺は「夜の新宿市長」と呼ばれた遊び人である。談志は58歳で、『酔人・田辺茂一伝』を書いている。長く付き合ったことがわかる。

「狂気と冒険」が信条で、サインするときはよく書いていた。弟子は「芸人100点、人間0点」と語る。58歳、喉頭ガン。65歳、ライバル志ん朝の死。66歳、師匠小さんの死。74歳、声門ガン。享年75。生前に自分でつけた戒名は、立川雲黒斎元勝手居士だ。

談志の晩年の70代に仙台で噺を聞いたことがある。ほとんどは病気の愚痴だった。最盛期の談志を生で見たかったと残念に思った。

 

「多数に胡坐の自民党、何でも反対社会党、みんなロボット公明党、力の足りない民社党、日本にゃ向かない共産党、あるのかないのか社民連」「ひとつの仕事に就いてみてそれが面白くなってくるなら分かる。あなたにとっていい仕事なんだと思う」。「やだね〜」の独特の言い回しは談志の代名詞となり、頻繁にものまねされた。

談志は日本は法治国家ではなく、「情治国家」だと喝破していた。そういう国柄だからこそ、落語は廃れないのだろう。談志が関与した分野は広大だが、「おれには落語っていう拠り所がある」というように落語という立地点が確かだったから、思う存分に暴れられたのだろう。人間の「業(ごう)」とは、道徳や常識を振りかざすことではなく、欲望に弱く怠惰な人間の性(さが)を受け止めて赦し自分も同じだと笑う、ということだと思う。落語の人気は確かに「肯定」にある。

立川談志 増補新版 (KAWADE夢ムック 文藝別冊)

立川談志 増補新版 (KAWADE夢ムック 文藝別冊)

 

 

「週刊エコノミスト」11月27日号に女優の美村里江さんが『100年人生の生き方死に方』の書評を書いてくれた。

週刊エコノミスト11月27日号に書評。

 「読書日記」欄で、女優の美村里江さんが、「先人の言葉と共に考える100年生きる、ということ」というタイトルで拙著「100年人生の生き方死に方」について書いている。

美村里江 (女優・エッセイスト)。みむらりえ。 1984年埼玉県生 まれ。2003年にドラマ「ビギナ ー」で主演デビュー。大河ドラマ西郷どん」、ドラマ「パンドラIN」 (WOWOW)に出演中。「西郷ドン」では、大久保利通の妻役。

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研究室

・原稿修正

シラバス作成

ラウンジ

・高野課長:シンガポール出張

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「名言との対話」11月20日福田恒存「唯一のあるべき幸福論は、幸福を獲得する方法、を教へるものではなく、また幸福のすがたを描き、その図柄について語ることでもなく、不幸にたへる術を伝授するものであるはずだ」

福田 恆存(ふくだ つねあり、1912年大正元年)8月25日 - 1994年平成6年)11月20日)は、日本評論家翻訳家劇作家演出家

中学校教師、雑誌編集者、大学講師などを経て、文筆活動に入る。また劇作家、演出家としても活躍した。『シェイクスピア全集』の訳業により岸田演劇賞(1955)、国語国字改革を批判し金田一京助らとの論争をまとめた『私の国語教室』などで読売文学賞(1961)、多年の評論活動により菊池寛賞(1980)、「ハムレット」の翻訳演出で芸術院賞(1981)を受賞。福田は生涯にわたって「自著の単行本は歴史的かなづかい、即ち正かなづかいを用いる」と主張を変えなかった。

一方で、進歩派全盛の風潮の中で、平和論・憲法問題・国語問題などに評論活動を展開し、保守派の論客として鳴らした。論争の相手は、中野好夫小田実清水幾太郎などで、若いころ彼らの論争を楽しんだことを思い出す。

1987年から1988年にかけ『福田恆存全集』を刊行。また『福田恆存翻訳全集』が完結した翌年の1994年(平成6年)に死去。享年82。戒名は実相院恆存日信居士。葬儀委員長は作家の阿川弘之。没後、『福田恆存評論集』が刊行完結している。

「教育と教養は別物です。教養を身に着けた人間は、知識階級よりも職人や百姓のうちに多く見いだされる」「先人、友人、仲間、みな師と思うことが大切だ。そして後輩を大切に引っ張っていく力を自らつけていこうと努めているうちに、自然と力はついていくものだ」

古今東西、多くの人がそれぞれの「幸福論」を書いてきた。それは、幸福とは何か、幸福へいたる道を説いたものだが、福田恒存は、そうではないという。珍しく人生論を語った『私の幸福論』は女性誌に連載したものだが、福田らしく若女性を甘い言葉でなぐさめたりはしない。人生は未知の世界への旅であり、究極において人は孤独であるとする。そして「失敗すれば失敗したで、不幸なら不幸で、またそこに生きる道がある」という。不幸や失敗だらけの人生において、混乱しないためのものさしとしての理想を語った。それは、不幸に耐える術として幸福論である。 

私の幸福論 (ちくま文庫)

私の幸福論 (ちくま文庫)

 

 

相模湖CCで弟とラウンド

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相模湖CCで弟とラウンド。 本日唯一のハイライトはバーディを奪取したショートホール。一打目の白いボールをねじ込んだ。ただしトータルスコアは最悪!やはり、まぐれか、、、。

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7時44分スタートで、13時前に終了。コースはよく整備されていているが、この夏から秋にかけの台風で、折れた木々をずいぶん見かけた。

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「名言との対話」11月19日。甘糟章「読者の心の奥底の飢えとか、ニーズを見つけ、そこに穴を開けるのが編集者の仕事です」

 甘糟 章(あまかす あきら、1929年5月30日 - 2013年11月19日)は、日本の雑誌編集者マガジンハウス副社長。

 1959年平凡出版に入社。「平凡パンチ」、「週刊平凡」、「an・an」の編集長として、1960年代から70年代の流行の先駆者として活躍。その後、「クロワッサン」、「ダカーポ」などを創刊し、大人になった「an・an」世代へのライフスタイルの提言を行う。1980年代に至るまで、出版文化の中での影響力は大きなものがあった。「ハマトラ」(横浜・元町生まれのファッションスタイル)や「リセルック]の名付け親とも伝えられる。

 平凡パンチ:1964年4月創刊。男性向け総合情報誌。ファッション、風俗、グラビアなどを扱い、ラジオ番組「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」をスポンサードするなど、他メディアへの展開も行なった。

an・an:始まりは、『平凡パンチ』女性版。若年層をメインに購読されたいわゆるファッション雑誌。話題提供の発信源として認知された。

クロワッサン:創刊号のキャッチフレーズは「ふたりで読む ニュー・ファミリーの生活誌」。40歳前後の主婦がターゲット。生活だけでなくファッション・文化などもテーマとした。

ダカーポ創刊時のキャッチコピーは、「現代そのものが圧縮されているリトルマガジン」。誌面で取り上げるジャンルは、政治経済宗教文学サブカルチャーなどと幅広い。

青春時代には「平凡パンチ」は「週刊プレイボーイ」と並んで影響を受けた雑誌だ。ビジネスマン時代は、料理された情報が満載の小型版型の「ダカーポ」も好きな雑誌だった。JAL広報時代にはマガジンハウスの編集者とはよく付き合った。彼らはみなセンスがよく、時代の最先端を突っ走っている人たちだった。

 読者のニーズとは聞こえがいいが、それは「飢え」であると企画の名人・甘糟章は断言している。若い男性の飢え、若い女性の飢え、主婦の飢え、現代人の飢え、それぞれの「飢え」を満たすべく、強力なドリルで時代に穴を開けていこうとしたのが甘糟章の雑誌作りであった。メディアの形は変わっても、核心である「飢え」に焦点をあてるメディアは、人々の精神と肉体を撃つ。それは時代のテーマそのものだからだ。

 

 

 

 

古潭。秋の自然を楽しむ。

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「名言との対話」11月18日。羽仁未央「画一的な人生のパターンに向けて、みんなが競争しているのは、異常だと思います」
羽仁 未央(はに みお 1964年2月29日 - 2014年11月18日)は、日本のエッセイスト、メディアプロデューサー。
羽仁未央は、映画監督・羽仁進と女優・左幸子の娘。5歳から9歳はパリ。9歳から11歳は父の動物撮影に随伴しケニアで暮らす。小学校4年生で帰国し不登校に。1987年から香港在住。1982年、映画出演。1991年、映画監督、脚本。1998年、香港の中国返還についてレポートを行う。50歳で没。
左幸子と離婚した羽仁進の再婚の相手は別れた妻・左の13歳年下の実妹で13歳下。美術大学を卒業して羽仁家に出入りするようになる。女優・左幸子には映画のオファーが殺到していた頃で、未央の世話をするようになる。羽仁プロに入り、プロデューサーも務める。左幸子の密葬に親族100人ほどが集まったが、実母の死を知らされた未央は、「あの方とは親交がなかったから」とだけ答え、出席しなかった。
曾祖父・羽仁吉一(はに よしかず、1880年5月1日 - 1955年10月26日)は、日本のジャーナリストで、教育者。曾祖母・羽仁もと子(はに もとこ、1873年9月8日 - 1957年4月7日)は、日本で女性初のジャーナリスト。また、自由学園創立者。また家計簿の考案者
祖母・羽仁説子(はに せつこ、1903年4月2日 - 1987年7月10日)は、日本の教育評論家。説子の夫の祖父・羽仁五郎(はに ごろう、男性、1901年(明治34年)3月29日 - 1983年(昭和58年)6月8日)は、日本の歴史家。参議院議員日本学術会議議員。
父・羽仁進(はに すすむ、1928年10月10日 - )は、日本の映画監督。母・左幸子(ひだり さちこ、1930年6月29日 - 2001年11月7日)は、日本の女優。
こうやって羽仁家が生んだ個性あふれる人物を眺めると、血と遺伝子の存在を信ぜざるを得ない。不登校というより登校拒否の先駆者であった羽仁未央は、日本の教育制度に批判的であったし、日本では住みにくかったであろう。「不登校新聞」の創刊1周年号にインタビュー記事が載っている。「日本では、若い人が早いうちから好奇心を疲弊させてしまっている。生きていることって、もっと単純におもしろいことなのにって、日本に来るたびに感じます」。自由学園創始者の血筋は、自由人を生み続けた。その結晶が羽仁未央であったともいえる。
 
 

インターゼミ。

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「名言との対話」11月17日。木村義雄誰にでも全盛期はある。問題は、そこをどれだけ長く続けられるかだよ」

木村 義雄(きむら よしお、1905年明治38年)2月21日 - 1986年昭和61年)11月17日)は、将棋棋士十四世名人。最初の実力制による名人、かつ最初の永世名人である。

江戸っ子である下駄屋の職人の子。関根名人の紹介で柳沢保恵伯爵邸に書生として住み込み、慶應普通科に入学。外務省に給仕として入る。その間に勉強して写字生、書記生、そして外交官試験を受けるという考えだったが、転向して将棋の道を進む。

将棋界と新聞は縁が深い。木村は報知新の嘱託として、読者に向けて名人の講評や講習会を開き定跡を説明した。「二十年にわたる新聞社生活では、広い意味での社会学を学んだ。」「人間修行に自分ほど恵まれた者は少ない。文章も書き習った。」。野村胡堂芦田均、清沢冽、、、などの人物と接した。これが自分の強みだと意識し、一度失った名人を奪還する。

「人間と人間との戦いは、人間そのものが全面的に反映する、技術は末だ。棋士としての態度と心境を養おう」「競争相手のあることが技を磨く上において、最も大切である」「努力型は、、コツコツ修行を怠らないから、外観は地味でも指しこぼしは少ない」「自分より強い棋士を養成するには、自分が先ず強くならなけれなばならぬ」。信条は「勝ち将棋を勝て」であった。相撲で不敗を誇った双葉山と並びよく知られていた。こういう心がけであったから、木村は何をやっても一流になっただろう。作家の坂口安吾は「青春論」で「彼(木村)は心身あげて盤上にのたくり廻るという毒々しいまでに驚くべき闘志をもった男である」と讃えている。

大橋宗桂初代名人以降、、、小野名人、師匠の13世関根名人まで一代制名人が続いた。関根名人が引退し、一代制名人の時代は終わり、2年以上の実戦を通じて実力制名人として初めて木村が14世名人の座を得た。第六期名人戦で10歳ほど若い塚田八段敗れるが、第八期名人戦で、名人位に復位。第九期で大山、第十期で升田を退け、八期十年の名人保持者となる。第十一期で29歳の大山に敗れる。このとき47歳の木村は「良き後継者を得た」と言いこの言葉が有名になる。木村は十四世名人となった。

日本将棋連盟会長として、今日も続いている順位戦制度を創設して、近代将棋をけん引した。報知新聞嘱託として長く観戦記を執筆し名文家として知られた木村には、 名著『将棋大観』がある。

木村が生涯を閉じた11月17日は、「将棋の日」であった。満年齢81歳の「盤寿」での死去だった。将棋盤はタテヨコ9マスであり81マスがあることからきている。修行を一生と心得ていた木村義雄の生涯は将棋の神に魅入られた生涯であった。

「我が名局は敗局の中にある」「絶対有利が最大の危機であり、絶対不利は絶対有利に通じる。勝負は最後の一手を指し終えた時に決まる」など、木村は将棋に関する名言を残しているが、誰にでも全盛期はある。問題は、そこをどれだけ長く続けられるかだよ」は、実力制名人を八期十年続けた木村義雄の言葉だけに、迫力がある。一瞬の火花ではなく、長い時間光続けることこそが、あらゆる分野における名人への道なのだ。

 

ある勝負師の生涯―将棋一代 (文春文庫)

ある勝負師の生涯―将棋一代 (文春文庫)

 

 

 

 

午前は「立志人物伝」(学部)。夜は「立志人物論」(大学院)

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 大学院の5回目。立志人物論「怒涛の仕事量」がテーマ。以下、受講者の感想から。

日本人社会人

・怒涛の仕事量というテーマの中、今回は主に漫画家や物書き(歌人、小説家等)の方々が数多く紹介されておりました。仕事に向き合い没頭したからこそ、そこに人を惹きつける何かがあるのだろうと感じました。講義中に手塚治虫の言葉が紹介されました。トキワ荘に集う同志たちに向け、「一流の映画を見ろ、一流の音楽を聞け、一流の芝居を見ろ、一流の本を読め、そして、それから自分の世界を作れ」と語ったとのこと。漫画の世界のみならず、どの業界にも通じる言葉であり、常に自分自身に刺激を与え、磨き続けることで確固たる自分を持てという強いメッセージを感じました。もう一人、講義中に印象に残った人物がいました。志村ふくみという染織家で草木染めをされる方です。この志村ふくみの仕事観に驚嘆しました。草木染めという一つの仕事にただひたすらに打ち込み、我が子のように愛するその姿勢に、はたして自分自身もこの気持ちを持って仕事をしているか?と考えました。当然ながらまだまだこの境地には及ばず、至らない点が多いと自覚しました。怒涛の仕事量とは、まさにこのことで、仕事とプライベートの境界がなくなり、寝食を忘れる程没頭できるか?仕事に情熱、愛を持って接することができるか?ということに尽きると思います。今の世の中、働き改革と謳われておりますが、そんな言葉とは無縁の方々の生涯を振り返ることは大変興味深く、また、学ぶべき点も多かったです。本日もありがとうございました。

手塚治虫石ノ森章太郎赤塚不二夫は僕が少年時代慣れ親しんだ漫画家である。ギャグ漫画が好きだった僕は特に赤塚不二夫作品をよく読んだものであった。読む我々はあまり意識してなかったが、確かに次々に作品を生み出すその労働力は並外れた努力の賜物であると考える 。漫画は1枚描くのにすごく時間がかかるが単に書くだけでなくその絵の構想を練るのにも時間がかかり、作家に比べると求められる生産性、創造性はけた外れに要求されるし、連載していると毎週納期に追われる日々が続きそのストレスは想像を絶すると考える。漫画家の寿命が短いのはそのせいもあるかもしれない 。僕らに夢を与えてくれた漫画は人生の成長の過程いおいては色々な勉強にもなり漫画なしでは語れないものがある。例えばOne Pieceなどはリーダーシップを学ぶのに役立つと思うし、本だけでなく漫画から学ぶことはそのシーンを右脳に焼き付けるという意味においても記憶に残ると考える。 後半の女性作家に関しては、与謝野晶子のバイタリティには驚いた。国語や日本史の教科書によく出て来るので名前は知っていたが、11人の子供を産みながらそれでも5万を超える歌を読んだという事は知らなかった。正に量をもって質に転換している好例と言える。また、戦争に突き進んでいる時代においても戦地に赴く弟に死ぬなということを世論の批判も臆する事なくに言うところなどは勇気があるし肝っ玉が座っている。自分は和歌はあまり慣れ親しんでないが、一度じっくり読んでみたいと思う。

・「人生を賭して為すこと」。人生を賭してなす仕事には、その人の原体験が深く根差している。今日は怒涛の仕事量というキーワードで、漫画家と歴史に名を残した女性をご紹介頂いた。怒涛の仕事の背景には、その人の原体験が隠れているのではないかと想像しながら授業を受けた。ご紹介頂いた中で特に印象に残ったのは、手塚治虫さんと志村ふくみさんだった。手塚治虫さんの作品は多く読んでいて、特に「火の鳥」は何度も読んでいて、読むたびに強い印象を受けている。他にも好きな作品が多く、「三つ目が通る」や「ブラックジャック」「鉄腕アトム」「ブッダ」「MW」「リボンの騎士」などどれを読んでも面白い。作風とテーマが多様で深い。授業では、手塚治虫さんが漫画家の後輩に「マンガを描くためには教養が必要だ」と繰り返し伝えたということが紹介されていた通り、古今東西の広く深い知識を縦横無尽に掛け合わせて、人間と動物、善と悪、愛と信仰、ロボットと心、古代文明と科学、など今の時代でも色褪せない本質的なテーマを持った作品を残している。授業でみたVTRでは実際にお話ししているご本人を見て、優しい人柄が伝わってきた。今回の話ではあまりフォーカスされていなかったが、手塚治虫は、基本的にマンガを子供たちのために描き続けた、ときいたことがある。学生時代に戦争を経験し、厳しい時代をマンガを描くことで、夢をもって生き抜いた経験がVTRで語られていたが、その少年時代の想いを元に「子供たちのために」とこだわり続けたのではないかと想像した。志を持続させて、人生を賭して為す仕事には、その人の原体験が深く根差している。手塚さんの同世代の方は、みなさん戦争という想像を絶するような辛い原体験を昇華させている。もうお一方は、授業でご紹介頂き始めて知った志村ふくみさん。WEBで肩書を調べたところ、染織家・随筆家となっている。
志村さんはVTR冒頭で、「色に命がある」と仰った。一瞬意味がわからず思考が停止した。その後お話を聴くと、志村さんは染織家という枠で捉えることに違和感を感じだした。志村さんは、「藍はその人の人格を写す」「人間は自然と対等ではない。」「古代から日本人は自然を崇めてきた」「私は人と人が向き合って、魂を育てることをしたい。」というようなことをおっしゃっていた。染織という一つのことを徹底的に突き詰めていくと、そこには日本の伝統的な価値観の連なりがあり、哲学があるのだと感じた。幼少期の原体験というようなことは描かれていなかったが、3.11を契機に、魂を育てていきたいという思いを持たれたと仰っていた。志村さんのVTRを見て、私が尊敬する佐藤初女さんという方を思い出した。初女さんは、もう数年前に亡くなられてしまったが、青森で森のイスキアという施設を運営されていた方で、NHKや映画でも紹介されたことがある。活動を一言で言いあらわしにくいのだが、日本のマザーテレサと呼ばれることもある素晴らしい方で一度お会いしたことがあるがとてもやさしくチャーミングだった。記念館はないが、書籍はご本人が書いたものを含めて多数発行されているのでもしご興味ある方がいたらご覧ください。NHKアーカイブ あの人に会いたい。

・本日の「怒涛の仕事量」のテーマで漫画家と女性がクローズアップされていましたが、近年はだいぶ様子が変わってきたと思われます。但し、後世に名を残す人は、才能はもとより凄まじい努力の結果が素晴らしい成果を生んでいるようです。漫画家に関して、手塚治虫石ノ森章太郎赤塚不二夫は私にとって大変懐かしくかつ当時は熱烈なファンでした。特に手塚治虫は半世紀たった今でも、その発想力、創造力は衰えることなく、夢を与え続けています。現在になり、ようやく技術革新が手塚治虫に追いついてきたように思えます。また、一種独特な感性でギャグ漫画の世界を築いた赤塚不二夫も天才と言わざるを得ません。人々を魅了した、いや驚かせたギャグ漫画の完成までには長い葛藤の時間を要したと思いますが、その裏の世界は微塵も見せていない赤塚不二夫の偉大さがあります。さて、もう一つのテーマである女性の活躍には、本当に感心させられます。今と違って女性の地位や評価が低い時代に成果と結果を出してきた、与謝野晶子樋口一葉は、どれほどの努力をしたのか計り知れません。まさに頭が下がる思いです。加えて、石井桃子は名前があまり知られていませんが、児童文学では第一人者であり、のんちゃん雲に乗る、熊のプーさんの編集、翻訳は誰でも見ている本ではないでしょうか。本日の講義ではあまり取り上げて頂けなかったようですが、向田邦子という脚本家はテレビドラマで数々のヒット作を残しています。寺内貫太郎一家というドラマはいまでも心に残っています。その活躍の裏には凄まじい生活があったと思います。そして、突然の航空機事故で亡くなるまで精力的に仕事をしていたようです。遺書が見つかるのですが、なんと2年も前に書かれたもので、向田邦子の覚悟が伺えます。「どこで命を終わるのも運命です。•••」凡人にはわかりませんが、悔いのない人生を送りたいものです。

・本日、論文ゼミが2時間超となったため、やむを得ず欠席させていただきました。申し訳ございません。「立志人物伝」の講義は毎回楽しみにしているので、非常に残念です。次回は必ず出席します。また、来週記念館に行くことを予定しているので、次回の講義までに記念館報告をさせていただきます。

 

留学生

・今回の授業の怒涛の仕事量をこなす人については三名の漫画家とたくさんの女性の偉人を紹介しました。漫画家は手塚治虫、石ノ森章太朗、赤塚不二夫です。私知っている方は手塚治虫、漫画界の第一人であり日本のアニメの創始者です。彼の自画像のキャラクターはよく自身のアニメの中で度々登場します。私は手塚治虫の二つの作品を見たことあります「鉄腕アトム」と「ブラック・ジャック」です。どちらもとってもおもしろく、子供の頃見た時と大人になって見たときの感想はやはり違いました。手塚治虫の魅了はどの年齢層でも夢中になれることでしょう。手塚治虫は漫画家だけでなく、医師でもあり。漫画家として毎日沢山の原稿を描かないといけず、新しいのアイデアを作れないといけないので強大の精神力持ってないと続かないだろうと思います。手塚治虫は一生で15万ページ以上の漫画作品を創作しました。ピークのときは13作の漫画連載をこなしました。大量の仕事の関係で、彼はどこに行く時でも原稿用紙を側に持っていました。たとえ旅の電車の中でも、飛行機の中でも、彼は漫画を描き続けました。私は子供から今まで好きなアニメはちびまる子ちゃんです。子供の頃からテレビで香港の声優さんの吹き替えがされたちびまる子ちゃんはとても好きです。今でも昔からずっと残していたDVDを今でもちょくちょく見ます。ちびまる子ちゃんを見た私は初めて日本の文化に興味を持ちました。日常的な生活、女の子の繊細な心、家族の暖かさ。これを知れたのはさくらももこの描いたちびまる子ちゃんのおかげです。2ヶ月前に亡くなったさくらももこ、今日はありがとうの会が挙行されました。彼女はもういなくなりましたが、彼女の作品はきっと永遠に感動を与えます。

・本日は量のテーマでした。中国では、「量的な変化が質的な変化をもたらす」という話があります。しかし、質的な変化が起こす前に、物事を続けるのが誰でもできるものではないです。今日は一番印象に残ったは与謝野晶子さんです。彼女は24歳からずっと妊娠状態で、子供を育てながら、作品を完成しました。「人間は何事にせよ、自己に適した一能一芸に深く達してさえおればよろしい。」 ひとつことを深く追求することが大事ですが、自分に合っていることこそ、エネルギー源になれるではないでしょうか。
ちなみに、私は子供時代がないみたいに、漫画に興味が全然ないで1冊も見ませんでした。今日は色々な漫画家のインタビューを見たり、皆さんと交流したり、意外に漫画を一冊ぐらい読みたくなりした。それがこの授業の魅力だと思います。今日もありがとうございました。

・今回は「漫画」について、偉人の事を勉強した。自分と日本漫画の繋がりはどんどん思い出を浮かべた。日本の漫画について、小学三年生の時に、初めて見たのは日本の漫画『ドラえもん』という作品である。その作品は凄く面白いと思われた。これから数年間、「ドラえもん」はずっと私のランキングには1位になっていた。ドラえもん』とは、藤子・F・不二雄による日本の児童漫画・SF漫画作品。及び、作品内に登場する主人公(未来からやってきたネコ型ロボット)の名前である。作者が最も長く描き続けた代表作であり、漫画を原作として、テレビアニメ化、映画化、舞台化なども行われ、多くのキャラクター商品が販売されている。誕生から約半世紀を経た現在でも、日本国内では高い人気と知名度を維持しており、2012年9月にはドラえもん生誕100年前を記念して、各地で様々なイベントが開催された。海外でも、東アジアを中心に高い人気を誇る。そのあと、中学2年生の時は、多田かおるの少女漫画『イタズラなKiss』という作品は第一回目に読んだ。このから20代まで何十回を繰り返し読んだ。『別冊マーガレット』(集英社)で1990年6月号から連載開始。当初は短編(全3話)の予定だったが、多田かおる本人の希望と読者からの人気を受け、長期連載となる。1999年3月号まで連載中だったが、多田の急逝により未完となった。単行本は全23巻。累計発行部数は3500万部。1996年にテレビ朝日でテレビドラマ化された。2005年には台湾で『惡作劇之吻』のタイトルでテレビドラマ化され、同年度台湾のテレビドラマ年間最高視聴率を記録した。2007年に台湾で続編『惡作劇2吻』が放送され、前作に引き続き主演を務めた林依晨(アリエル・リン)は、台湾版のエミー賞に相当する第43回電視金鐘奨で主演女優賞を受賞した。2008年4月から同年9月まで中部日本放送およびTBSでテレビアニメが放送された。原作の未完部分を、多田が遺していた構想ノートなどを基に構成し、完結させたストーリーとなっている。2008年11月27日から同年12月7日まで『舞台版 イタズラなkiss 〜恋の味方の学園伝説〜』のタイトルでシアターサンモールにて舞台化された。
2010年には韓国で『장난스런 KISS 』(イタズラなKISS)のタイトルでテレビドラマ化された。2013年3月29日から『イタズラなkiss 〜Love in TOKYO』としてオリジナル要素も含めてCS放送フジテレビTWOに再ドラマ化されている。以上の各ドラマ(日本、台湾、韓国)は全部何回で見ました。その中で、台湾作ったドラマは大好きです。シンプルなストリーを通じて、主人公の誠実な感情を描いた。実は、その物語は、作者とご主人様自分の恋愛ストリーから作られた。多くのファンは、この原因で深く動いた。もちろん、私は大好きな日本漫画家授業に紹介した様々な偉人漫画家と比べて、そんなに有名ではない。でも、私にとって、印象が一番深いまたは感動された漫画家である。今日もありがとうございました。

・私は怒涛の仕事量が高質の圧倒的な仕事量だと思います。大量な仕事を綺麗な完成する人はどの時代でも偉人になるでしょう。漫画家の手塚治虫はそのような人です。彼は漫画家になった後、胃癌で亡くなった前に、ずっと漫画の仕事に活躍していました。手塚治虫は医者の出身ため、作品も一般な漫画ではなく、哲学を包んで、現代につながる日本のテレビアニメに多大な影響を及ぼしました。本日もありがとうございました。

・今日はこの講義の中で一番面白かった授業だと思います。怒涛の仕事量をテーマに漫画家と女性について学びました。考えられないぐらい仕事量が大きくて、死ぬまで一生懸命それを続けた方は素晴らしいですね。中でも、漫画という話が出ましたので、とても興味がありました。私は小さい頃からずっとアニメが大好きで、いつもテレビで見ていて、私にとって嬉しくて貴重な思い出です。これを可能にしたのは漫画の父親手塚治虫です。彼の努力のおかげでいろんな世代の人たちは楽しい子供時代を過ごしたと思います。そして、女性のご紹介の中で樋口一葉のことを聞いて驚きました。貧乏の家族で生まれたんですが、勉強が大好きで、とても優秀な女性でした。母親が進学に反対しても、彼女は熱心で作品を完成しましたが、残念なことに24歳で死亡しました。やはり、この方の力になっていたのはきっと愛だと思います。仕事や趣味に対しての熱心さえあれば幸せになれると教えてくれました。

・今日のテーマは「怒涛の仕事量」です。授業に数多くの漫画家と女性が出てきました。手塚治虫は日本においてストーリー漫画の第一人者で、日本初のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作しました。日本だけではなく、海外でもよく知られています。私は子供の時に見たことがあります。次に、藤子不二雄石ノ森章太郎などといったトキワ荘メンバー漫画家達の名も出場してきました。日本において手塚漫画の影響を受けていない漫画家はいないと思います。手塚治虫の漫画の描き方で注目すべきは漫画の発想の仕方や漫画表現の根本を教えてくれる点です。全部の漫画は落書きから出発していることです。自由奔放なアイディアがすごく大事だと思います。もう一つ印象に残ったことは仕事量です。仕事の量をこなさないと、質の良い仕事はできないです。「質の高め方」を探るのはそれ対応する時間をかけた後に、「量をこなすこと」をへた後に自然に出てきません。簡単に言いますと、「量をこなすと質が上がる」ということです。やっぱり仕事の量をこなすと、たくさん工夫したら、根気よくやりさえすれば何でもできると思います。勉強も同じことです。専門分野の本が難しすぎて理解できないなどの悩みがよく出ています。でも一回読んでよくわからない場合は、何回繰り返せば、著者の主張がわかります。量をこなすにつれて、効率と質が上がっていき、質が上がれば、量もこなせます。

・第5回は先生から日本の漫画文化の紹介して通しで、仕事の量ついてテーマの志を習いました。日本の現代漫画は手塚治虫から大繁栄に向かっている。手塚治虫の日本の漫画の影響は大きく、ほとんどの早中頃の漫画家は手塚治虫の作品の啓蒙を受けている。その後の発展は、石森章太郎藤子不二雄白土三平横山光輝らが大きな役割を果たしてきた。日本の漫画の繁栄、世界的に漫画業が最も繁栄している国となった。調べてみると、漫画の作者は、画質を保証する必要があるほか、ストーリーの品質を保証しなければならない。もし周よりも1ヶ月96ページだが、新人の周の更なる可能性はほぼ0になっている。なぜなら、絵を描けるようになったから、彩漫の制作は時間がかかっているし、多くの新人は一撃で、通常、ほとんどの作品は2週間で1回更新して、つまり48ページである。あるいは、1ヶ月に1回の更新をしているので、まだ有名になっていない漫画家たちは、寝食を忘れ、流れ星を記録するようなインスピレーションを捉えています。夜は仕事に追われ、仕事の量が膨大である,日本漫画现今の地位と成就はかれらの勤勉的な働くと離れられません。私が大好きなん漫画家は宮城駿です、宮崎駿高畑勲は、国際的に広く評価されているアニメスタジオ・ジブリのスタジオを創設した。宮崎駿の作品はかなりの成功を獲得し、アメリカの絵画師ワット・ディズニー(Waltディスク)、イギリスのスポーツ師のナイキ・パックとアクションの先駆者、アメリカ動画師のロバー・アンキーと並行して、最も影響力のある人物だと思われている[ 3 ][ 4 ]。 宮崎駿東映アニメーションでプロのキャリアを始め、「グレーバーの宇宙旅行」の制作に参加した。彼はこの作品の中で自分の考えを出して、ついに映画の結末になった。アニメ産業で様々な役割を果たし、1979年に第1部アニメ「ルパン三世カオストロの城」を監督する。次の映画「風の谷」で広く称賛され、高畑勲と共にジブリのスタジオを作り、多くの作品を作り続けた。「もののけ姫」を完成させた宮崎駿は、一時退職することを選んだ宮崎駿。しばらくの間、宮崎駿は2001年にアニメ『千と千尋の神隠し』を完成させた。今まで『千と千尋の神隠し』は私一番感动して居る大好きな動漫作品です。豊かな宴を楽しむような、味わい深い。「お父さん、お母さん、きっと助けてあげるよ!」と多くの観客が覚えている。「食べられないんだよ!」そうでないと食べられます。親が豚になるのは、ただ物語の始まりで、千尋は決意を決め、一条の驚異的な成長の旅を踏むこれはまさに日本の学ぶ道に踏み込んだ私の苦境に直面して成長したのと同じで、私の感動の原因でもあります「天才は勤勉、賢い源は蓄積している」とコメントし、天才と聡明さは先天的にあるものではなく、主にあさっての勤勉と蓄積によるものである。天才:特殊な知能と才能。出典:所得については、勤勉、聡明さが蓄積されている。堅固な理論の基礎と豊富な実践の経験を持っていて、勤勉に練習する基礎の上で独立の思考と問題を発見する能力を育成します。

 

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 「名言との対話」11月16日。水の江滝子「一生懸命押すのが3人ぐらい、反対が7人ぐらいっていうんが、一番成功するんじゃないかな」

水の江 瀧子(みずのえ たきこ、1915年2月20日 - 2009年11月16日)は、日本女優映画プロデューサータレント

松竹歌劇団第1期生で、ショートカットの髪型で「男装の麗人」と呼ばれた。ライバルの宝塚歌劇のスター・月丘夢路が瀧子の楽屋を訪ねたとき、震えたまま挨拶もできなかったほどの、少女歌劇の象徴的存在だった。

1953年NHK開局と同時に始まったゲーム番組『ジェスチャー』という人気の長寿番組では紅組のキャプテンだった。パントマイムで、説明の時「この話はいったん置いといて」というふるまいは子供時代の私の記憶にある。『NHK紅白歌合戦』の紅組の司会を二度任されていることでわかるように大物だった。

 1955年、日本初の女性映画プロデューサーになる。70本以上の映画の企画を実施し、日活の黄金時代を支えた。岡田真澄フランキー堺浅丘ルリ子山東昭子中原早苗和泉雅子吉永小百合舟木一夫などを発掘した。『太陽の季節』では、石原裕次郎の主演を考えたが、会社の猛反対に会い長門裕之になるのだが、端役を割り当てられた裕次郎をのぞいたカメラマンの伊佐山三郎は「ファインダーの向こうに坂妻(坂東妻三郎)がいる」と感嘆したというエピソードがあり、水の江滝子の眼が正しかったことをうかがわせる。以後、『狂った果実』など裕次郎映画で日活は黄金時代を迎える。若手俳優、若手監督などが集う裕次郎が中心の才能集団をつくりあげた功績は大きい。こういう姿は知らなかったが、ゴルフの安田幸吉が引退後にゴルフ場設計の名人となったのに通じるものがある。

晩年の1993年2月19日には森繁久彌が葬儀委員長の生前葬を78歳の誕生日の前夜に華やかに行って話題になった。“故人”となった水の江は冒頭、「自分の遺影や花で飾られた祭壇を生きているうちに見られるのはとても幸せ」と挨拶。ショパングレゴリオ聖歌、ロシアの宗教歌などが流れた。読経は浄土宗、曹洞宗日蓮宗コーランなど。それが終わると、78歳の誕生日を祝う「復活祭」に移り、賑やかなバンド演奏が始まった。

感性、触覚がすぐれ、独特の眼力が備わっていた才能豊かな人だった。その資質が大スターとなり、そして大プロデューサーとして花開いた。冒頭の「3割賛成、7人反対」説は、若手を発掘しスターに育て上げる名人だった水の江滝子の新人発掘にあたっての知恵がある。全員が賛成するような、小さくまとまった企画や人物には、爆発力はない。