久米信行「マンガでわかる 考えすぎて動けない人のための「すぐやる! 」技術」ーー挑戦と失敗の貯金を。

  先週金曜日に客員の久米信行さんからいただいた新著を読了。

マンガでわかる 考えすぎて動けない人のための「すぐやる! 」技術

マンガでわかる 考えすぎて動けない人のための「すぐやる! 」技術

 

マンガで描いた具体的な事例と 、文章による教訓で、ビジネスに立ち向かう知恵を授けるという内容。2008年の『すぐやる!技術』のマンガ版。若いビジネスマン対象。ストーリーを描いたマンガと解説する文章のバランスがいいので気楽に読めるはずだ。久米さんの新たな挑戦だ。

・小さな決断=実行=検証のサイクルを、20代、30代のうちに、どれだけ繰り返せるかが勝負です。

・社会人生活の前半、失敗が許される20代、30代のうちに、どれだけ「挑戦と失敗の貯金」ができるかが勝負です。

 

以下、触発されて「失敗」に関する言葉を書きだしてみた。「失敗論」を書きたくなった。

三浦綾子「失敗を恐れて何もしない人間こそ、全生涯が失敗となる」

盛田昭夫「 失敗は防ぎようがない。大切なのはその原因を突き詰めること」

阿部多摩市長「学生時代の失敗は許される」

三浦朱門「失敗談を語れ」

失敗から学ぶ方が失敗せずに成功するよりも教訓になる

グラッドストーン「幾多の大きな失敗をくぐりぬけてはじめて人間は偉大になるのだ」

山本周五郎「僕の人生は失敗しなかったことが失敗だった」

畑中洋太郎「失敗学」

糸川英夫「人生でもっとも大切なのは失敗の歴史である」

金田一春彦「失敗は恐るるに足らない。大切なのはそのあとの処置である」

スティーブ・ジョブス「ベストを尽くして失敗したら、ベストを尽くしたってことさ」

大隈重信「諸君は必らず失敗をする、随分失敗をする、また成功があるかも知れませぬけれども成功より失敗が多い。失敗に落胆しなさるな、失敗に打勝たなければならぬ、度々失敗するとそれで此大切なる経験を得る、其経験に依って以て成功を期さなければならぬのである。」

アンディ・エルソン「失敗したとは思わない。うまくいかないやり方をもう一つ見つけたのだと思う」

デール・カーネギー「何事かを試みて失敗する者と、何事も試みないで成功するものとの間には、測りしれない相違がある。」

エルバート・ハバード「人生における最大の失敗は、失敗を恐れ続けることである」

マーク・トウェイン「やったことは、たとえ失敗しても、20年後には笑い話にできる。しかし、やらなかったことは、20年後には後悔するだけだ」

岡本太郎「迷ったら、失敗する可能性が高い方、自分がダメになる方を選べ。そうするとエネルギーが湧いてくる」

テッド・ターナー「究極の失敗の原因は、安住してしまうことだ」

ニールス・ボーア「専門家とは、非常に狭い分野で、ありとあらゆる失敗を重ねてきた人間のことである」

本田宗一郎「やってもせんに! とべ! 失敗したからといって、くよくよしている暇はない。 こんなところで遊んでないで、さっさと帰って油まみれになって働け! 」

田中久重「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」

ゴールド・スミス「吾人の最大の光栄は、失敗しないことではなく、倒れる度に起きる所にある」

 佐々木則夫「成功の反対は失敗ではなく、「やらない」ことだ」

失敗しない者は、常に何事もなし得ない。(フェルプス

マーク・ザッカーバーグ「ぼくには成功を保証することはできない。ただ、今これをやらなければいずれわれわれは失敗すると思うだけだ」

 

「失敗する人は成功する!

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書斎の片づけ。ニトリ渋谷。

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1月12日没:梅原猛「独創は勇気なんです」

1月13日没:市原悦子「役のエキスが内に入る「心に突き刺さるような音楽を」

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「名言との対話」1月14日。夏木陽介「パリ・ダカは人生によく似ている。爆発力の問題ではない。持続の問題だ」

夏木 陽介(なつき ようすけ、1936年昭和11年2月27日 - 2018年(平成30年)1月14日)は、日本の俳優、ラリードライバー。

爽やかさと野性味を兼ね備えた二枚目映画俳優として、現代アクション、戦争映画、時代劇、怪獣映画、青春映画、サラリーマン物、文芸映画、コメディと多彩な領域で活躍した。

 1965年に放送開始された日本テレビ日曜20時枠青春ドラマシリーズの第1作となった『青春とはなんだ』の主演教師・野々村健介役があたる。後に様々なバリエーションで作られる学園ドラマの魁となったこの作品は高視聴率を誇り、一気にお茶の間での知名度を上げる。翌年の主演映画『これが青春だ!』も大ヒットした。当時高校生だった私はこのテレビ番組のファンであり、主役の夏木陽介のさっそうとした教師にあこがれたものだ。

しかし夏木陽介は、たまたま縁のあった俳優家業に没頭することはしなかった。50歳を過ぎてサハラ砂漠を疾走するパリ・ダカール・ラリーに魅入られる。1985年1986年にドライバーとしてダカール・ラリーに出場している。その後1987年から1993年までは「チーム三菱シチズン夏木」の監督として篠塚建次郎増岡浩らを出場させた。総合2位にもなっている。

『男がひとりでいる理由』を読むと、生涯独身をとおした理由がわかる。

・自分だけの、生の情報をつかむためには、自分自身でやってみるしかない。

・楽しくなければ仕事も遊びもしたくない。

・一番の楽しみは自分と違う生き方、考え方を持った人達との出会いである。

ノーサイドの笛が鳴るまで一生懸命遊び、一生懸命働き、一生懸命生き続けたい。

パリダカは22日間という長丁場で、自分と闘いながら平常心でいられるかが勝ち負けのカギになる。それまでにどれだけ修羅場を踏んできたかが問われるのだ。技術と体力だけでは勝てない。精神力がキモになる。自分の限界に挑戦した経験の豊富さ、それを乗り越えてきた自信、それが男のプライドになり、完走と勝利を得ることになる。「男の価値は踏んできた修羅場の数に比例する」という夏木陽介は、修羅場を乗り切るためには一時の爆発力ではなく、悪環境に耐えて平常心で前に進む持続力がカギであり、このことは人生と同じだと語っているのだ。

 
 
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
 
 

 

 

男がひとりでいる理由

男がひとりでいる理由

 

 

 

 

 

「後ろ姿探検隊」として新宿周遊。ブログで拙著『図で考えれば文章がうまくなる』が紹介されているのを発見。

後ろ姿探検隊として、新宿周遊。インスタグラムの写真投稿のテーマが決まった。

新宿ゴールデン街

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花園神社

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昼食は、「隠れ房」。

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久保田正志という人のブログで拙著『図で考えれば文章がうまくなる』の内容が詳細に紹介されている。ありがとうございます。

本の書き方 図解で構成を考える – Teatime Talk

文章を書く前に書きたい内容を図を使って整理しておくことは、多くの人が勧めている。
先の記事で取り上げた「ピラミッド・プリンシパル」のバーバラ・ミント女史もそうだし、近年流行中の「マインドマップ」も同じだ。
やり方はどれもほぼ同じで、書きたいと思う内容をキーワードか一行の文にし、それを線で囲んで、次に囲み同士を線で結び、互いの関係性を考えた上で、その書き順、すなわち本の構成を決めるというもの。

誰が一番最初に言い出したのかははっきりしないが、おそらく「図を使って文章を整理する」という基本コンセプトそのものははるか以前からあったのだろう。
筆者が取材したこともある多摩大学久恒啓一さんの『図で考える人の図解表現の技術』の出版が2002年、マインドマップの提唱者のトニー・ブザンの『ザ・マインドマップ』が日本で出版されたのが2005年で、日本ではそのあたりからブームになっていったようだ。
ここでは2005年に出版された『図で考えれば文章がうまくなる』(久恒啓一 PHP研究所)の内容を紹介してみたい。自分が取材したから言うわけではないが、Kindle版で500円と格安なわりに実践的な内容でお勧めできる。

目次

●文章を図解して理解を深める

『図で考えれば文章がうまくなる』では、
・既にある文章を図解してその構成を理解する
・文章を書く際にまず内容を図解し、構成を決めた上で書き始める
という二段階で文章の図解方法を練習するよう勧めている。

既にある文章の図解法の手順は、
1 文書を段落ごとに区切る
2 段落を構成している、いくつかの文脈ごとに、その文脈の文意を示すキーワードを(単語あるいは文)書き出す
3 キーワードが揃ったら、意味が似たもの、関係があるものは近くに置く
4 いくつかのキーワードの群れができたら、それらをマルで囲む。孤立したキーワードもマルで囲む
5 マル同士の関係を考える
並列なのか、上位にあるのか、対立しているのか、補い合っているのか
6 関係が決まったら、矢印(→)を使ってマル同士の関係を表現する
7 マルの中にいくつものキーワードが箇条書きになっていたら、それらを構造的に表現できないか考えてみる
8 マルの大きさや位置関係を変えて、実態に近づけてゆく
価値の高い情報は大きくしたり、図の中心に置くなどして重要性を強調。
他のマルを補足しているマルは、小さくして補足相手のマルの下に置く。
強い影響を与えているなら、→は太く大きく。
関係が曖昧なものには?をつける。
9 図の下にはコメントとして「この文書は何が言いたいのか」を書き込む
10 最後に図のタイトルをつけて完成
となっている。
たぶん、誰がやってもほぼ同じやり方になるだろう。
こうした整理をすると、「この文章はここが弱いのでは」という論理的な弱点が見えてくる。

●書き出す前の設計図として図を描く

文章を書く前の準備として、全体の図を作る場合、図は文章全体の構成を決める設計図の役割を果たすことになる。
『図で考えれば文章がうまくなる』では、
1 自分が書きたいメインテーマを決める
2 そのテーマに関連して書きたいと考えている項目のキーワードをどんどん書き出していく
3~10 そのキーワードを囲ったり結んだりして整理していく。そこのやり方は既にある文章を整理していく場合と同じ
11 とりあえず構成が決まったら、ある項目と別な項目がどのような論理でつながっているか(前の文に続いて議論を展開するのか、前の文の理由を説明するのか、前の文とは逆の視点からチェックするのか等)を、接続詞をつけて明らかにする
12 以上で整理は完了。あとは項目ごとに文章を書いていく
としている。

下は筆者が以前にお手伝いした仕事の企画を図解したもの。
さる心理学者の先生に「この不安だらけの時代に自信を持つためにはどうすればいいのか」という話を伺ったのだが、諸般の事情で本にならないで終わってしまった。
実際は鉛筆書きで、もっと細かい点までゴチャゴチャと描き込んである。ここに載せたのはその一部を清書したものだ。
ちなみにアマゾンを見ると『自分に自信をつける方法』という全く同じ内容とおぼしき本が上梓されているが、そちらは筆者ともこの図とも関係ない。

さて図解はできたとして、問題は「どこから書き始めるか」だ。
この点「ピラミッド・プリンシパル」では、「メインテーマから始める」一択で、考えずに済んで楽だったのだが、『図で考えれば文章がうまくなる』では、「どれから手をつけるという決まりはない」としている。
まあ世の中、経営コンサルタントがクライアント向けに出すレポートだけが文章ではないから、いろいろな切り口があるのはむしろ当然だろう。
実際に文章を書いて飯を食っている立場から言うと、書き出しというのはとにかく死活的に重要なもの。
というのもほぼ全ての読者は、最初の数行をパラパラッと読んで、続きを読むかどうかを決めているからだ。
だから世の中の著者、編集者、ライターは最初の数行でいかにして読み手の興味をつなぎ止めるか、必死になってあの手、この手を試している。それでもなかなかうまくいかない。
プロが必死になってもめったに成功しないのに、「こうすれば必ずうまくいく」なんてのたまうやつがいたら、
「ほおー。言ったなてめえ。じゃあ書いてみろ」
となってしまうだろう。

『図で考えれば文章がうまくなる』では、
「どこから始めたらいいか、わからないときは図を声に出して読んでみる」
とりあえず大事そうな部分から音読してみて、「ここだ」と思ったところから書き始める、としている。
まあ、そんなところだろう。
書き出しは書き手のセンスが問われる部分だということだ。

●文章を書くことは家を建てるのと同じ

『図で考えれば文章がうまくなる』では、「文章を書くのは、家を建てるのと同じ」としている。
家を建てるときは、
1 まず「こんな家にしたい」という構想をたてる。その際、「何のために家を建てるのか」という目的を明確にし、そこから家に必要な部屋、設備を導き出す
2 続いて設計図を描く。考えられる問題は極力、この段階でつぶしておく。そうしておかないと、いざ建て始めたときにトラブルが続出する。時間をかけ、人の意見も聞いて問題点を指摘してもらう
3 設計図ができたら、内装や材質、色など細部を詰める
4 工事開始
という段取りになる。
文章を書くときも、それと同じ段取りを踏めばよいということだ。

これから書く文章の大筋が最初から見えていると、余裕を持って文章を書くことができる。
文章を書きなれていない人は、目の前の細かな部分に囚われて全体の方向性を見失ってしまいやすい。ちょうど目前の景色を見ながら歩いているうちに、自分がどこにいるのかわからなくなってしまうようなものだ。
あらかじめ書く内容を図解しておけば、その心配もなくなる。

●どうやってふくらませていくか

図解はひと目で全体の構成を見て取れるように、1枚の紙の上に描くのがコツだ。
しかしそれをベースに書く文章は、簡単なレポートから論文、書籍に至るまで様々で、それぞれの形式により長さが大きく異なる。
文章化の過程で大量の情報をつけくわえる必要がある。図を骨格とすれば、文章化とはそこに肉づけしていく作業ということだ。図という骨格に沿って、粘土を貼り付けていくように情報をつけ加え、層を厚くしていくことで、大量の文章が簡単に書け、かつ読み手にとって論理的でわかりやすいものになる。

実際に囲みを矢印を結んだ図を元に文章を書こうとすると、部分同士のつながりが問題となる。
「この矢印は論理的にどのような意味なのか」を正確にするために、→の横に、接続詞「したがって」「しかし」「なぜなら」「これについて」「その結果」「その原因は」等を書き添えるとよい。
矢印なしでただ並んでいる場合も、キーワードとキーワードの間に「ならびに」「または」などの接続詞を入れてみて、論理的な関係を明白にする。
文章化していく際には、囲みでくくられたキーワードの周囲に、知識、体験、具体例などを、接続詞で関連づけながら、どんどん挿入していく。
また要所要所で、自分の感想や意見、主張をつけ足してゆくことも、それぞれの項目の位置づけをはっきりさせたり、印象づけたりする上で有効だ。

・原稿用紙はよく知られているように、1枚=400字。
・Wordなどで作るA4の文書は、1枚=約1200字(原稿用紙3枚程度)
企業でも簡単な業務レポートはA4で2、3枚というところだろう。それだと3000字前後。
これくらいなら、図解した内容を項目ごとに少し詳しく説明して、写真を2、3枚添えれば完成だ。
・大学で提出する論文は通常、1万2000字(原稿用紙30枚)ほど。
ここまでふくらませるには、各ポイントの論拠となる事実や理論をきちんと書き込む必要が出てくる。
・一般に出版される書籍の場合、短くて1ページ40字×16行、200ページ弱ぐらいから。
これで12万字(原稿用紙300枚)くらいになる。
ここまで長く書くには、具体例やエピソードなどが相当必要になる。それを冗長に感じさせず、逆にエピソードによって主張にリアリティ、説得力を持たせてゆくのが腕の見せどころだ。具体性の高い情報を付け加えることで、読んでおもしろく、役にも立つ文章になってゆく。

●図解しないで文章を書き始めるのは、設計図なしで家を建てようとするようなもの

久恒さんは大学の先生なので、卒論の指導も行っている。
卒論の文字数は2万字程度で、1万2000字ほどの一般のレポートよりは長めだ。
作成の手順は、
1 まずテーマを決める。先生と話し合う
2 本人が全体図1枚および各章ごとに1枚の図を作る(全部で数枚)
3 本人が描いてきた図を、オープンな場で先生と仲間がチェックして意見を述べる
4 2~3を数週間にわたり、何度か続ける。その過程で使う資料なども図に書き込まれる
5 先生のOKが出たら、論文を書き始める
というもの。

大事なのは「全体の論理構造がきちんとしているか」「各章の論理的な位置づけは明快か」「資料の使い方は決まっているか」といったことで、図解の段階の完成度が高ければスムーズに書き進める。
逆に図解の論理に甘さがあると、文章化の過程で論理の矛盾が明らかになってきて、手が止まってしまうという事態に陥る。
行き詰まった場合は、図に問題がある。論理を見直して図を修正したり、これまで気づいていなかった関係性をつけ加える必要が出てくる。
書き出してから得た情報により、いったん作った図に疑問が出てくることもある。その場合も修正を加える。「図解の進化は理解の深化」と考えること。
図を直したら、それをベースにして書いた文章にも修正を加えていく。

文章を家、図解をその設計図と捉えるなら、
「図解しないで文章を書き始めるのは、設計図なしで家を建てようとするようなもの」
ということになる。
まあ、書き慣れてくればそれでも家は建てられるのだが、図解がいい準備になることは間違いない。
とくに文章を書き慣れていない人の場合、まずは「何を書きたいのか」をはっきりさせることが大切で、そのためにも図解することが役に立つだろう。

みなさんにもぜひ一度、図解してから文章を書いてみることをお勧めしたい。

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「名言との対話」1月13日。「自分もワキになったつもり、つまり、舞台の上に立って参加しているようにイメージしながら見てはいかがかと思います。能は、参加型の芸能なのです」

片山 幽雪(かたやま ゆうせつ、1930年昭和5年)8月26日 - 2015年平成27年)1月13日)はシテ観世流能楽師。京都片山家九世当主(片山家能楽京舞保存財団理事長)。重要無形文化財保持者(人間国宝)。日本芸術院会員。日本能楽会理事長

 能楽は、日本の伝統芸能であり、狂言とを包含する総称。 重要無形文化財に指定され、ユネスコ無形文化遺産に登録されている。奈良時代に中国から伝わった散楽が、猿楽、そして能楽と呼ばれるようになり、室町時代観阿弥があらわれ、曲舞を導入し、芝居や歌舞と一線を画すようになったとしている。

幽雪は八世 片山九郎右衛門京舞井上流四代目井上八千代の長男として生まれる。5歳で初舞台を踏んで以来、父および観世華雪観世雅雪に師事。1985年九世 片山九郎右衛門襲名。以降芸術祭優秀賞(3回)、日本芸術院賞紫綬褒章などを受賞、1995年(平成7年)日本芸術院会員、2001年(平成13年)人間国宝。2009年観世流「老分」となり、また文化功労者に認定。観世宗家より雪号を許され、翌年より片山幽雪を名乗る。観世流では特に功績を挙げたものだけに「雪」の文字を名前につけることができる。「一つは残して冥土でやる」と言われる能の秘曲・三老女すべての舞台を勤め、最高位の秘曲である「関寺小町」を生涯に三度演じた不世出の名人だ。

片山家は、江戸時代の明和期(1764~1772)より、京都における「能の家」。観世流シテ方として、無形の文化財を守ってきただけでなく、能面や能装束といった有形の文化財も明和期以来250年近く保存してきた。母の四世井上八千代が京舞で、そして長女の五世井上八千代も京舞で、人間国宝に認定を受け、三代にわたり人間国宝が出ている。

面を被った主役のシテに対し、ワキは僧侶、神職朝臣、武士などの役柄が多く、かならず男性であり,現実の生きている人間の役であり、面を被っていない。ワキはシテの演技の引き出し役である。観客はこのワキになったつもりで、能を楽しむのがいいのだそうだ。「参加型の芸能」とは、幽雪と長男の片山清司が一緒にインタビューを受けた時の言葉であるが、幽雪も同じ見解とみていいだろう。能の稽古場を一度見たときには敷居が高く感じたのだが、能は参加型の芸能と考えれば親しみが湧く。

 

 

 

インターゼミ最終回。知研の八木会長と昼食。

15時半頃から2018年度インターゼミ最終回。

・教授、大学院OB、大学院生、学部生それぞれから「新年レゾルーション」(2019年に挑戦したいこと。人生において挑戦し実現したいこと)を述べてもらう。

・学長講話:基盤的知と人的ネットワーク。ヒューマンネットワークとアセットマップ。知の再武装の3層構造(18歳。右肩下がりと資産形成のない40代。60代)。インターゼミ10年、300人。常温社会。不満なし・不安あり。希望なし・失望なし。いま、ここ、わたし。切磋琢磨。成功者には「使命感」と「出会い」あり。知の再武装へチューニング。

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調布で知研の八木会長と昼食。

・近況報告

・八木さんのライフワーク小説の原稿をいただく。

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「名言との対話」1月12日。木之下晃「音を撮る」

木之下 晃(きのした あきら、1936年7月16日 - 2015年1月12日)は、日本の写真家

日本福祉大学で学ぶ。中日新聞社博報堂を経てフリー。木之下晃は、1960年代から半世紀にわたり一貫して、「音楽を撮る」をテーマに撮影。写真については「音楽が聴こえる」と、カラヤンをはじめ、バーンスタインなど音楽関係者から高い評価を得ている。

次女の木之下貴子によれば「音楽写真家と呼ばれ、「音を撮る」ことに全精力を注いだ人生でした」とのことだ。写真家として最後までフィルムでの撮影と現像にこだわり、3万本ものフィルムが手元に残った。2010年に、(株)木之下晃アーカイヴスを設立し、写真のデータベース化に取り組んでいる。

 

モーツアルトへの旅』では、30都市以上に及ぶヨーロッパ各国のゆかりの地を豊富な写真で辿り、伝記を読みながら、天才の偉業を振り返った。定評のある新潮社の"とんぼの本"シリーズの中でもよく売れている本だ。また
『ベートーベンへの旅』の旅では、ボン、ウィーン、プラハなど、ゆかりの地を写真で辿りながら振り返り、その偉業を検証している。JAL時代に仕事で海外取材のお手伝をしたことがあり、これらの本を手に取って素晴らしい写真と文章を楽しんだ。

木之下晃は写真集など約45冊以上を刊行、写真展約80回開催以上開催した。そして海外政府からの招聘も、アメリカ・イギリス・スイス・フィンランドチェコスロバキア東ドイツ・カナダなど15回以上を数える世界的な音楽写真家だった。

木之下晃は「音楽を撮る」「音を撮る」がテーマであったが、映画の録音技師・杉本文雄は「映画の録音は「画にあった音を録る」というのが基本なんだ」「生きた音を録れ」と後輩を指導していたことを思いだした。「音を録る」杉本に対し、音楽写真家・木之下晃は「音を撮る」ことに生涯をかけた。

 

大学院「立志人物論」のフィールドワークは「漱石山房記念館」見学。このメンバーでの人物記念館訪問を続けることになった。

参加院生は13名。地下鉄早稲田駅から徒歩10分。新宿区立漱石山房記念館。

夏目漱石像と記念撮影。

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以下、日本人院生の感想から。

最終講義ありがとうございました。本日の漱石山房記念館楽しく見学させていただきました。漱石の人生とその作品またかかわった明治の作家たちの関係が特に興味を引きました。漱石の小説で書かれているフレーズがありましたが、特に掴みの部分がうまく、自然に吸い込まれていきます。"吾輩は猫である、名前はまだない、どこで生れたかとんと見当がつかぬ。”とか”おやゆずりの無鉄砲むてっぽうで小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰こしを抜ぬかした事がある。なぜそんな無闇むやみをしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。”とかついつい引き込まれていくフレーズが秀逸である。本日発見して気に入ったフレーズは虞美人草の"真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。 ... やっつけなくっちゃいこうしゃられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。"これは静かであるが真剣勝負をいつもやっているという熱い想いを持つことの大切さが伝わってきた。一方漱石の創作活動がたった11年しかなかったことには驚いた。短い期間でたくさんの作品を仕上げたその創作力にはすごいものがある。また弟子たちにも恵まれて没後も漱石をほめたたえることで伝説化していったのであろう。明治時代の文学には活き活きとした躍動感とロマンを感じる。記念館を訪問すると作家の人生とその時代の作品の関係が良く分かるので3次元的に理解できて楽しい。時代によって作品の傾向が変わってきたり世相を反映したり、作家の別の側面が理解できる。講座終了後も記念館の訪問や皆さんとの交流を続けたいと思いますので引き続きよろしくお願いします。

・本日、立志人物論の第8講、最後の講義として 漱石山房を訪問させて頂きました。新宿、早稲田界隈の閑静な住宅街の中にあり、瀟洒な佇まいの建物でなんとなく趣きのある記念館でした。夏目漱石といえば日本人では誰でも知っている有名な明治の文豪ですが、遅咲きの作家で教師を辞めたあと、38歳でデビューして、実質の作家活動は 約9年間と短いのですが、心に残る作品を残しています。高浜虚子と俳壇、歌壇での親交の後に、正岡子規のすすめで、「我輩は猫である 」を明治38年に発表してその名声を博しました。短い期間に作家としての創作活動に尽力するとともに、弟子の育成にも務めていました 。漱石の門下生は、木曜会を発足させ、漱石山脈を幅広く作っています。自身は、側転居士と称して漱石山房の館で後人の育成に力を尽くしています。芥川龍之介など、多くの有名作家を輩出しています。また、弟子にも数々の教えを残しています。比喩的には難しい言葉ですが、「牛のように図々しく進む」という言葉は泥臭いですが、的をえているような気がします。人としての教訓を授けています。娘婿だった松岡譲(義理の息子)が、漱石の書籍の管理をしていたようですが、戦争の影響でそのほとんどを消失してしまったようです。弟子の小宮豊隆東北大学漱石の書籍を退避させ、貴重な資料が残されていることは、大変有意義なことです。夏目漱石、その生涯で、創作活動11年を通じて、未だに読み続けられている名作、「坊ちゃん」は私の心の中で正義感の強い教師が思い起こされます。夏目漱石、生誕150年を迎えて未だに幅広いファンを持つ、偉大さに感激させされます。そして、49歳の若さで病死してしまいますが、なんとも残念なことです。繰り返しになりますが、弟子への教えとして、「牛は超然として押して行くのです。人を押すのです。けっして文士を押すのではない。」心に響くいい教えです。愚直に日々努力することを説いています。そして、多くの弟子たちが、夏目漱石を支えています。今回が、最終講義となってしまいましたが、「立志人物論」の講義は大変楽しく、歴史上の人物、偉人を再発見させてもらえたことは、私自身にとって大変有意義なものでした。

・フィールドワークの所感をアップします。今日は早稲田の夏目漱石の記念館、漱石山房を訪問しました。漱石山房は2年程前にできた新しい記念館です。元々漱石が住んでいた場所ですが、戦争で焼失しその後は都営住宅になっていたため、記念館を作ることができず都営住宅の周囲のわずかな場所を漱石公園としていたそうです。都営住宅の老朽化建替えと漱石生誕120年のタイミングが重なり、2017年に新宿区が満を持して記念館にしました。新宿区としては相当の力の入れようで、当時の漱石山房内の書斎を精緻に再現し、cafeと図書館まで併設されていました。施設に入ると料金を支払う手前にカフェスペースがあり、無料でVTRと展示の一部を見ることができる作りになっている点も工夫されているなと思いました。早稲田と神楽坂の中間にある立地と相まって、館内に入らずとも楽しめ、一度行った人でも近くに立ち寄ったら休憩がてら度々訪れたくなる場所になっています。800館を超す記念館を訪問した久恒先生によれば、記念館として最上位レベルの施設とのことでした。今回は、ボランティアスタッフと思われるガイドの方(男性・おそらく60代)が文章で書いてある以上に詳しい話をご紹介くださいましたので、それも素晴らしかったです。続いて内容に関する所感です。夏目漱石といえば日本人で知らぬ人はいない超有名人ですが、恥ずかしながら教科書で読む以外ではほとんど調べたことがなかったので、今回の機会に記念館内をかなり細かくみてきました。漱石は1867年大政奉還の年に生まれ、1916年に49歳で亡くなっています。作家として有名ですが、作家として活動したのは38歳からの11年だけで、38歳までは教育の世界にいました。教育者としての経験があるからか、作家として活動する中でも、漱石を慕う弟子が多くいて、弟子たちが非常に活躍したことがいまの漱石の名声に繋がっているという面もあるようです。弟子たちとは毎週木曜日の午後に集まる木曜会という場をもっていました。その木曜会を開いていたのが漱石山房です。
記念館のメイン展示のメインが入ってすぐ1階にあり、漱石の書斎とその隣の木曜会を行っていた部屋も再現されています。漱石の書斎にある家具や蔵書も再現されていました。文章を書いていたデスクは非常に小ぶりで高さも低く驚きました。漱石は身長が158㎝だったそうです。デスクの小ささのわりに部屋のサイズは比較的大きい印象がありました。板張りの床にかなり高い天井のモダンなスタイルの部屋でした。(注 天井の高さも再現していあるのだと思いますが明確に確認したわけではありません。)部屋の中だけでなく窓やベランダ、屋根まで再現されていて100年前に生きた明治の知識人の暮らしが浮かび上がってくるような空間でした。2階には漱石の残した作品の言葉を抜粋した展示、作品群を時代ごとに分けて紹介した展示、そして縁のある人々に関する展示があります。作品の言葉の展示から私は以下の3つを抜粋しました。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」(草枕)「百年待っていて下さい」「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」(夢十夜)「自分に誠実でないものは 決して他人に誠実であり得ない」(行人)どの言葉からも、いつまでも色あせない、日本語の美しさを感じます。人間関係では、師・友/ライバル・後輩・家族を知りたいと思い見てみました。
展示では友や後輩が多く、正岡子規尾崎紅葉芥川龍之介寺田寅彦魯迅など数多くの著名人の名前が挙がっていました。正岡子規とは第一高等中学で出会った同窓だったとのこと。歴史に名を刻む著名人が若いときに出会うという話はこの二人に限らず多いので、お互い刺激しあい高めあう関係の友/ライバルというものが如何に価値あるものかということがよくわかります。師として、ロシアの哲学者であり音楽家だったケーベルの名前が挙がっていました。幼少期は夏目家から養子に出されるなど苦労の多い家族関係があったようですが、1895年に愛媛の中学に赴任したころに結婚したのちは、妻鏡子との間に二男五女の子をもうけて幸せな家族を築いたようです。かの有名な「吾輩は猫である」の猫(福猫)をはじめ、猫・犬・鳥など生き物も多く飼う家族だったということ、人が多く訪ねてくるということと合わせて、温かく賑やかな家庭だったのだろうと想像しました。二時半から四時ころまでたっぷり見学して、最期は併設されたカフェで空也最中セット(ほうじ茶)を頂き、一〇〇年の時を超える穏かな金曜日の午後のひと時を過ごさせて頂きました。終了後の懇親会では、先生と日本人5名(おじさん)留学生5名(おじょうさん)合計11名が参加し、漱石の話を交えつつ、異文化交流を大いに満喫させて頂きました。ご一緒させていただいたみなさま、楽しいひと時を共にできたことに感謝いたします。ありがとうございました。最後に、授業を講義頂いた久恒先生と同授業を共に参加した諸兄にお礼を申し上げます。

・最終講義ありがとうございました。懇親会は途中退出で申し訳ありませんでしたが、またいつの機会か、ご一緒できればと思います。それでは、所感に移ります。今回訪れた漱石山房記念館ですが、外観も新しく、早稲田駅から住宅地を歩く中、突如現れるその雰囲気が素敵でした。夏目漱石の生立ちやその作品、また交流のあった方々との手紙まで展示され、これで入館料300円はかなりのお得感がありました。個人的にまた訪れたいです。展示には、漱石の作品の中から名言を取り上げたものがあり、その中で印象に残った名言を紹介させて頂きます。「知に働けば角が立つ。情に棹れば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」・・・‘草枕’より「人間は好き嫌で働くものだ。論法で働くものじゃない」・・・‘ぼっちゃん’より「自分に誠実でないものは決して他人に誠実であり得ない」・・・‘行人’より。明治〜大正に書かれた作品とは言え、ひとつひとつのフレーズが小説の中だけではなく、実社会でも通じ、また、現代のマネジメントにも通用する言葉だと改めて感じました。先生から、漱石の凄さは文豪としてだけではなく、多くの弟子を持ち、その多くが大成したことにあると伺い、こういった名言から多くの弟子たちが学び、成長したことが伺えます。秋学期全8回の講義を通じ、各種テーマで偉人たちの人生を振り返り、毎回学びの多い講義となりました。また、留学生も多く、ディスカッションを通じて、海外から見た日本の偉人や日本人として偉人について説明する際、普段とは違う視点で物事を考えることができ、とても有意義な場とのりました。ありがとうございました。記念館探訪は継続して参ります!

・今回の講義はフィールドワークで漱石山房記念館へ。20年程前、漱石山房の最寄り大学・
日本文学科に所属していながらも、漱石山房記念館の存在すら知りませんでした。心から反省します。※ちなみに、卒論は宮沢賢治で書きました。1階には漱石の書斎が再現されており、どのような環境で数々の名作が執筆されていたのかがわかるようになっていました。学生時代に「こころ」が好きで何度も読み返し、先生はどのような心理であったのか、先生の告白をきいた学生はどのような心理であったのか、その真意がわからず悶々としていたあの日々が思い出されました。その「こころ」がここで書かれていたのかと思うと感慨深いものがあります。しかし、夏目漱石が作家として活動していたのがわずか11年、その11年という時間であれだけの名作を生みだしていた、ということも
今回初めて知りました。世の中に「たら・れば」はありませんが、夏目漱石がもう少し長く生きることができていたならば、どれほどの作品が生みだされたのであろうかと、思わずにはいられません。夏目漱石自身がすごい才能であったのはもちろんですが、正岡子規高浜虚子といった才能と出会い、木曜会の場で次代の若者たちを育てた、というところにも夏目漱石の偉大さを感じます。自分自身が存命中に活躍することよりも、その人が亡くなった後に何を残すことができるか、それこそがその人の偉大さのあらわれであるのだと考えます。そして、今回一番心に響いたのは「則天去私」。天に則り私を去る。夏目漱石が晩年に文学・人生の理想とした境地。修善寺の大患を経て、死を身近に意識してたどり着いた境地。人生とは何か・死とは何か、をつき詰めて考え、己の人間としてのあり方を言葉にしたものであると考えます。ひるがえって自分はどうであろうか。煩悩だらけ、自己満足を最優先して過ごす日々。夏目漱石は享年49。私は今40歳。それほど年齢は変わらないのにこの大きな差は一体何であろうか。まだまだ自分は修行が足りないと実感。そのことがわかったということだけでも、今回の漱石山房訪問は価値がありました。久恒先生、そして天のお導きに感謝します。立志人物伝の講義は今回で終了。有意義なことを、楽しく学ばせていただきました。このタイミングで立志人物伝を受講したのは運命であり、人生でおこることの1つ1つに意義があるというのを、改めて教えていただきました。そして、無趣味な私でしたが、人物記念館めぐりという趣味を得ることが
できました。今後も人物記念館めぐりを継続、まずは神奈川県内の人物記念館制覇を目指します。久恒先生、共に学んでくださった皆様、ありがとうございました。今後もこのグループを継続していくという話は大変うれしいことです。今後ともよろしくお願い申し上げます。

ねこ塚。

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以下、留学生の感想から。

・今日の第八回立志人物論は、field の授業形式で、先生は皆さんを夏目朔石大文豪の記念館朔石山房に連れて見学していきました。溯石山房とは作家、教育家、画家と身に付く大文豪夏目朔石先生の晚年の住所であり、生まれた朔石坂の遠くない街であり、「三四郎」「こ、ろ」「道草」など名作を世に送り出し、、門下生たちがあつう「木曜会」と言う文学サ口冫である。丸内線早稲田口徒歩10分ほどの道のり.である。初めてfieldworkの授业形式偉人記念館へ見学して行って、先生から指導されて、個人より皆さんと一緒にgroupで深い学習指導の意味を持っている。半日の見学活動をかけて、夏目漱石先生新たな発見いただきまして、彼の生き方を感動された。、名作中の名言や格言に触れ、感銘を受けた経験になった。漱石山房の一階の展示区では、夏目先生が生前読んでいた、膨大な数量の本をもっと展示されています。私が深く感じさせてくれたのは、大人物になると必ずつつましい知識の汲み取りで育ったの必要である生涯展示区,夏目先生生まれたから、最後までの「生きたち」「出会い」「出来事」「性格」「関心 」r能力」など6つ偉で夏目漱石先生49年の人生がを略介されて頂いまして、夏目先生がたい好きの動、植物の紹介していただきまして、漱石山房今のデザインが猫文化を含まれだ理由を承知しまった。それは夏目先生の「世の中に好きな人段ケなくなります、そして、天と地、草と木の美しく見えできます、事にこのの頃の春の光には花は大好きのです。私はそれを頼りに生きています」という名言は夏目漱石の生活態度を表しだと思う。二階の階段の入り口で、この山房に大きな貢献をした人の名前記念碑がそびえ立っている、surprise になるのは久恆啓一先生の名前を見つけた、さすが久恆啓一先生は漱石のfan だ。「吾輩は猫である。まだ名前はない。」という、最も有名な冒頭を記した大正時代に活躍した日本の文豪であり、日本人には親しみのある文豪の夏目漱石さんと出会いの偉人達のvalueに驚いている,私がきになるのは中国で一番有名の文学家,思想家,作家など身に付く鲁迅と言う大名だ、小学時代の私は鲁迅は日本へ医学専門の留学ただが、医者の身分を通して世の中の人の体を治すpower より全民の脳中の思想を治すことの価値があると考えまして、中国へ戻って国民の思想意識を呼び起こす覚悟を生み出した作品を大量生み出した。今日の見学を通じて、魯迅先生も夏目先生の忠実なファンであり、その時代の背景の下で夏目先生の影響を受けて自分の人生の軌跡を変え、手術刀を置いて代わりにpenを持って、当時の中国国民に大きな意味の影響を与えたと承知した。だから夏目漱石先生の短い49年の人生はどのくらい人に影響したかというと、どのくらいの時事が先生の影響で変わったな、それこそ夏目漱石のreally power だと考えました。見学活動を終ると本学期の久恆啓一先生の立志人物論講座を終了されましたが皆さんと一緒に勉強した時間本当に楽しかった、日本の歴史をあまり触れなかった、最初に志の意味全然わからない私なりの人は、この講座通じて、生きているpower を見つけた、lucky より幸福の感じを身につけた、背中隠している翅を生まれた、立志人物論講座で大人物達の志を習いまして、いつでも善いの目的を持って、遠大な目標を決めて、勇気を出して、止めない行動して、折れない心を温めて、check-selfの自覚性を忘れず 、未来は私の人生を飛べると信じになる。久恆啓一先生,日本人先輩方方、留学生の皆様皆さんと一緒出会ってくれて心から感謝しておりますます、16:30から、20:00まで続いた懇親会、皆様お互いに交流をして勉強して、、師匠との隔たリの緊張感がなくて、所々として話して、とても楽しかった。終了しでも皆様と一緒なかった時間を脳中で浮きまして、行きなり悲しい感じを湧いました、本学期の立志人物論で素晴らしい皆様真面目で勉強してる精神を感動されて、柏谷先輩ような真面目精神を尊敬してる、留学生の私は増す増す日本を好きになって、これから、記念館へ訪問することを通して旅行の計画したいと考えたが、このgroup は一番良い交流社区だと思うが解散されしたくないが、先生と皆様に解散しない意見を提出して、皆様から一致同意されてありがとうございます。酒向先輩今日の懇親会誘ってくれてありがとうこざいます、まだ次回皆様と一緒に偉人記念館のfieldworkを楽しみしてる。

・本日の夏目漱石記念館の見学は楽しかった。山房の書斎再現展示はかなりリアルです。10畳のスペースには付箋のある書籍がぎっしり積まれました。また、「移竹楽清陰」の自書が掲げられて、「竹を移植して清らかな陰を楽しむ」と説明いただきました。再現した書斎を見ると、夏目漱石宅で、漱石の教え子や漱石を慕う若手文学者が集まって、さまざまな議論をした木曜会も生々しいです。さらに彼の名言を読んで、原稿を見って、夏目漱石をもっと深くわかるようになりました。この講義を通して、様々な偉人のことを知り始めました。留学生として、特に日本で働くつもりの人にとって、非常に役にたちました。さらに、彼らの思想を学ぶ上で、新しい自分を作ろうにしました。日本人のクラスメートがいつも丁寧にわからないことを説明してくれて、本当にありがとうございました。孫さんが言うように、このグループは永遠に解散しないように。ありがとうございました。

最終回授業で記念館に見学を行ったありがとうございます。今日、風邪をひいたため、懇親会は欠席で申し訳ございませんでした。今回は漱石山房記念館に第2回目で訪れました。
前回より、いろんな細かい所を新たな発見を頂いました。例え;夏目漱石の「木曜会」をおける生徒又は友人との繋がり。記念館後ろ公園では「我輩猫である」主人公猫の墓を設置しました。更に、一番喜ぶ発見は記念館施設整備基金 寄付者御方名リストには、先生の名前を見つけました。夏目山房記念館の見学は本当に良いイベントと思いました。秋学期全8回の講義を通じ、各種テーマで偉人たちの人生を振り返り、毎回学びの多い講義となりました。毎回には、日本人先輩たちいつも優しくて留学生たちに解明をしたり、ディスカッションを行ったり、日本の歴史または偉人について認識をもっと広くて、深くて勉強になりました。本当に心から感謝しました。

今回は夏目漱石の記念館を見学しました。夏目漱石は中国でも非常に有名な人でした。そして、記念館は公園と一緒になって、コーヒーショップもあり、外観見るとオシャレも感じました。授業中も夏目漱石の作品を紹介しましたが、今回は夏目漱石が晩年を過ごした旧居に訪ねって、書斎も再現されたことに感動ました。先生は記念館の設備整備基金寄付者に名前を載せたことが凄いと思います。将来自分もこのようなことを目指してします。日本の歴史文化あまり知っていません私は、この学期8回の講義を通して、沢山の偉い人の事績と思想を勉強になりました。毎回に日本の方とディスカッションして、いろんな立場から、講義の内容を理解できます。しかし、8回の講義はまだ足りないと思います。これからも日本の歴史について続けて勉強します。

・第8回は夏目漱石記念館に行っていだだいて、大変勉強になっていると思います。夏目漱石の生涯を詳しく分かるようになってきました。夏目漱石の名言は沢山見つけました。「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より頭の中の方が広いでしょう。」「世の中にすきなの人は段々なくなります。そして天と地と草と木が美しく見えてきます。ことにこの頃春の光ははなはだ好いのです。私はそれをたよりに生きています。」「記録して下さい。私はこいな風にして生きて来たのです。」「自分がそれだけの個性を尊重し得るように、会社から許されるならば、他人に対してもその個性を認めて、彼らの傾向を尊重するのが理の当然になって来るでしょう。」上記の名言は大体 大正、明治時代に書いていました。また、素晴らしいことは記念館施設整備基金寄付者リストには先生の名前を見つけました。最後の講義は日本人の偉人の夏目漱石記念館に見学に行ったり、先生と皆さんと一緒に懇親会に参加したりするので、自分の知識が広くて、大変嬉しかったと思います。心から本当に感謝したいと思います。先生 ありがとうございました。皆さん お疲れ様でした。これからもよろしくお願い致します。

最終講義ありがとうございました。高校時は教科書の中で魯迅から夏目漱石のことを知りましたが、今回ようやく夏目漱石の記念館を行きました。西早稲田駅から降りた後、5分ほど歩いて、すぐに漱石山房記念館を見えました。この間の道も漱石吾輩は猫である>中の猫の飾りがあり。記念館の外観は現代的な建物だと思いますが、300円のチケットを買って、中に入ると「漱石山房」の一部、書斎・客間・ベランダ式回廊を再現するミニチュアが見えます。ここで漱石を創作時の場面と若手文学者が集まりの「木曜日」の場面も完璧に再現していました。中は外観と全然違うデザインで、昔の日本の部屋と現代的なものを併せて、とっても素晴らしいと思いました。案内係の者から聞くと、この山房作るも結構悩んでいました。山房の広さについて、漱石の息子と「木曜日」の文学者の意見が違っていたからです。幸い、安井曾太郎の「麓の町」の絵で当時部屋の広さ、大きさを推測出来ました。壁の書道「移竹楽清閻陰」(竹を移植して清らかな陰を楽しむ)の自書が掲げられて。書斎を出で前に進むと記念館施設整備基金寄付者御方名の看板があります。そこで先生の名が見つかりました。2階を進むと「吾輩は猫である」の草稿、「坊ちゃん」冒頭の草稿、「文鳥」、「夢十夜」も見えます。ここで最も目を引いたのは、部屋着としていた長襦袢です。外に出ると夏目漱石の記念像と猫の墓があります。2時間くらいの参観はとっても面白かったです。夜帰りの途中、夏目漱石誕生の地の石碑が発見しました。今学期は沢山の偉人のことを勉強しました。心から先生と優しい日本人のクラスメイトたちに感謝します。

本日の見学は漱石山房記念館に行ってきました。東西線早稲田駅」1番出口で口より歩いて10分間で到着しました。新宿区に夏目漱石の生誕150周年を記念として開設した記念館です。夏目漱石『道草』草稿、夏目漱石「ケーベル先生の告別」原稿、夏目金之助漱石夏目鏡子宛書簡、津田青楓 画讃「漱石先生像」、「漱石山房書斎再現」が展示されています。一番印象に残ったのは漱石が晩年9年間を過ごした漱石山房書斎の再現です。夏目漱石はこの小さい部屋で「三四郎」、「道草」など数々の名作を作り出しました。客間では週1回木曜日に「木曜日会」と呼ばれる文学サロンが開催されます。漱石を慕う若い文学者たち(安倍能成小宮豊隆鈴木三重吉森田草平など)は漱石と自由な雰囲気で作品を論議します。日本人が夏目漱石を尊敬する理由、夏目漱石は世界にも影響を与える理由の一つは多くの門下生に助言をしまして、多くの作者志望者を育てたことだと思います。
夏目漱石の名言「月が綺麗ですね」は中国にも響いています。ロマンチックな愛の言葉として非常に有名です。「I LOVE YOU」を「あなたを愛しています」と訳さずに「月が綺麗ですね」と表現することは夏目漱石の感性や人間性を感じています。夏目漱石の作品といえば『坊ちゃん』、『こころ』、『吾輩は猫である』などが有名です。『吾輩は猫である』は人間ではなく、猫の目線で物語が描かれているところにユーモラスを感じました。最後の懇親会で皆さんと喋りながらものすごく楽しい時間を過ぎました。「立志人物論」の講義で、偉人のエピソードや名言などを学ばせて頂き大変勉強になりました。ありがとうございました。

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漱石の長女の娘の半藤末利子は漱石山房記念館の館長。半藤一利は夫で作家。私も寄付者として名前が刻まれている。

漱石の書斎の再現。書斎10畳。サロン10畳。机など本物は神奈川近代文学館に寄付。和漢洋の書物3068冊は小宮隆太郎の世話で東北大学漱石文庫(書き入れや傍線3割)。「陰清楽竹移」。40歳から9年間住む。生誕150年記念として再建。以前住んでいた家は愛知県犬山市の「明治村」に移築。その家は森鴎外も以前住んでいた。

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 終了後、神楽坂で懇親会。楽しい会。このメンバーは解散せずに、人物記念館訪問と懇親会を続けたいとの留学生の提案があり、皆さん賛成された。幹事も決定。次はどこにしようか?

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以下、私の所感と新情報。2年たって漱石山房はずいぶんと充実している。

 ・木曜会:午後3時から・10年間。文学サロンに発展。死後は「九日会」(月命日9になる。

・「漱石山房」に関する弟子たちの書物を読もう!。「漱石山房の秋」「山房の秋」(内田)「ああ漱石山房」、、、。先生の在り方。寺田寅彦安部能成鈴木三重吉森田草平、松根東洋城、野上豊一郎、岩波茂雄、安部次郎、内田百閒、小宮豊隆芥川龍之介久米正雄、松岡譲、。森田草平「啓発される。理解してもらえた」

漱石158センチ。1967年生まれなので、明治38年に書いた「吾輩は猫である」は38歳の作品。38歳から11年間の作家生活。

 ・「通常展-人と人を結びつけることば展」。「ケーベル先生の告別」(東京朝日新聞1914.8.12)の中で漱石は「先生に一番大事なものは、人と人を結びつける愛と情である」と先生の在り方の神髄を述べている。漱石は弟子たちに宛てた書簡には、人と人を結びつける言葉にあふれている。ケーベル先生(①848-1923)は帝大の中で一番人格の高い教授との問いには百人のうち九十人がケーベル先生と答えるであろうと。21年間日本で生活。ドイツ系ロシア人、ベルリン大学1893年45歳の時に東京帝大の外国人教師になる。東京音楽学校でもピアノと音楽史を教えた。滝廉太郎山田耕作が学んだ。第一大戦の勃発でドイツに帰れずに横浜のロシア総領事館で亡くなるまで暮らした。

漱石は俳句がいい。子規より好きだ。「菫ほど小さき人に生まれたし」「ちらちらと陽炎立ちぬ猫の家」「菜の花の中に小川かな」「草山の馬放ちけり」。

・新聞の連載小説「一回一回で筆を止めて、後は明日まで頭を休めて置いた方が、よく出来そうに思う」。

・9時から10時に起床。朝食後昼食まで執筆。午後は漢詩、謡の稽古、散歩。朝食はパンと紅茶。パンは火鉢で焼いてt砂糖をつける。夕食は一汁2、3菜、香の物、メインは肉と野菜が交互。牛鍋が好き。酒はあまり飲めない。赤くなる。甘いものが好き。ジャムが鉱物。二男五女。

・四谷の古道具屋に里子に出される。すぐに町方名主であった生家に戻される。四谷太宗寺門前名主・塩原の養子になる。「俺は六人の末子で両親から余計者、要らぬ子と扱われた」。「ひとつ間違えると大泥棒になる、ただし名前に金か金偏の字をつければ難を逃れる」と言われ、金之助と命名された。

・留学2年。心理学、社会学から文学を論じようとした。

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午前は、「立志人物伝」能力14回目の授業。

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久米先生の私の授業の実況中継。

【多摩大 久恒啓一副学長講義「立志人物伝」
 宮尾登美子 葉室麟 斉藤十一 松平康隆
 宇野精一 小森和子 芦田伸介]

古今東西の名言探究者、久恒先生曰く「人は出会った人の言葉で成り立っている」。立志人物伝を受講して偉人たちの名言と生きざまに触れた学生の感想が興味深いのです。

「本を読みたい」「計画を立てたい」「なぜ偉人は名言を言えるのか」「意外に偉人は人間くさい」等々

私は、大学時代になすべき最も大切なことの一つは「生涯の師」に数多く出会うことだと考えます。この講義を半年聴講した私の素直な感想は「私も大学入学時に受けたかった」。今でこそありがたいことに「生涯の師」に恵まれて学びの日々を送っている私ですが、もう少し遠回りをせずに済んだことでしょう。

本日、私の心に刺さった久恒先生の言葉は「ある仕事をした人は自分自身になっていく」です。

先生のブログで紹介された、歴史作家が作品の中で登場人物に語らせている言葉の数々が好いのです。

清麿正行という刀工は「刀は、、わたしそのものでございます。これが俺だ。古今どこにもないおれの刀だ」
山本兼一「おれは清麿」より)

葛飾北斎の娘お栄は、「わたしはわたしになりたいんだ。そのわたしに、まだ手が届かない」
朝井まかて「眩」より)

こうした自分自身でしか評価できない「永遠未完のライフワーク」を完遂することこそ人生のゴール。そのために、芸術家たちは、命をすり減らし、いくら時間があっても足りないと感じるのでしょう。

12月30日。宮尾登美子「書きたいことはいっぱいあり、全部書くには二百歳まで生きなくてはなりません」
https://note.mu/hisatune/n/nc832b98966d4

12月23日。葉室麟「体調管理を万全にして、なすべき仕事をなしとげなければならない」
https://note.mu/hisatune/n/n78e354ad45d1

12月28日。斎藤十一「芸能人には引退はあるが、芸術家にはない。書きながら柩に入るのが作家だ。、、時に私の死期も近いから、私への香典原稿を一作頂きたい」
https://note.mu/hisatune/n/nec46d28ba502

その他の名言も味わい深いものばかり。

これから始まる新元号、予測不能で不連続な世の中の幕開けにふさわしいので、ぜひご一読くださいませ。

12月31日。 松平康隆「金メダルを狙うには、非常識を積み重ねていくしかないんだよ」
https://note.mu/hisatune/n/nec46d28ba502

1月7日。宇野精一「『平成』は平和な時代だけれども、その平和は実は武器のおかげで、そしてこれまで国のために命を捨てた人々のおかげで保たれているのです」
https://note.mu/hisatune/n/n81d8a48865fb

1月8日。小森和子「ダメならダメでしようがない。まずは思った通りにやってみよう。そんな度胸のよさが人生を切り開いてくれることもあるのね」
http://k-hisatune.hatenablog.com/archive/2019/01/08

1月9日。芦田伸介「次々と私の人生という名の『舞台』に登場してくる『名優』たちのおかげで、私の『人生劇場』が波乱万丈になった」http://k-hisatune.hatenablog.com/archive/2019/01/09

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彩藤T先生から「Looking Glass」を見せてもらう。

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「名言との対話」1月11日。福田繁雄「『あなたの代表作は?』『今制作中の作品です』」

 
   
   
   

福田 繁雄(ふくだ しげお、1932年2月4日 - 2009年1月11日[1])は、日本グラフィックデザイナー。単純化された形態とトリックアートを融合させたシニカルなデザインが特徴。「日本のエッシャー」。

岩手県立福岡高等学校を経て東京芸術大学図案科卒業。大学在学中に日本童画会展アンデルセン生誕150年記念賞などを受賞。卒業後、味の素デザイン室を経て、1958年フリーとなる。1966年、日本宣伝美術会会員[6]1967年日本万国博覧会の公式ポスターに入選して脚光を浴びる。また、万国博覧会会場の迷子標識などの絵文字(ピクトグラム)も手がけた。1969年よりカゴメアートディレクション担当。1972年ワルシャワ国際ポスタービエンナーレ金賞を受ける。1975年ワルシャワ戦勝30周年記念国際ポスターコンクールのグランプリ作品『VICTORY』で世界的名声を得る。1976年芸術選奨新人賞受賞。1978年、東京芸術大学美術学部デザイン科講師[10]1981年-1986年、東京芸術大学助教授。のち、客員教授。1985年つくば科学博でも「子供広場・さがし絵の森」「UCC館」などを担当。1997年紫綬褒章受章。2000年、日本グラフィックデザイナー協会会長。1966年、毎日デザイン賞から、2007年の勝美賞まで、内外の多くの賞を受賞している。

疎開して高校までを過ごした母の実家のある岩手県二戸市福田繁雄デザイン館があり、ポスター、グラフィックアート、版画、イラスト、立体オブジェなど、企画展ごとに展示されている。ここも田中館愛橘記念館とともに訪問したことがある。 2007年、台湾の東方技術学院に福田繁雄設計芸術館がオープンしている。

以下、『デザイン快想録・福田繁雄』にみるデザイン観を追う。

・情報を受ける人間の視知覚を(見るという感覚、知るという感覚)考えることから新しいビジュアル・コミュニケーション(視覚伝達)がスタートする。

・インテリア・デザイン、インダストリアル・デザイン、グラフィックデザインと進んできて、今後は総合的な知恵の結晶されたアート・デザインになっていく。

・デザイン、時代の感性という領域の壁を読み、現実のテーマをキャッチする、ビジュアルなレーダーをもったクリエーターが、アート・ディレクター。

・デザイン、  ごく平凡で、なにげなく、見過ごしてから一瞬ギクリと硬直して立ち止まり、小膝をたたいて生き甲斐を感じる、、、そんなデザインを創りたい。

・ヴィジュアル・ショック。

・デザインは、世界共通の視覚言語です。

 

「これほど、多忙な国際人で、第一線で活躍を続けるデザイナーでありながら、福田には、事務所とよぶ場所、そして下仕事をしてもらうアシスタントや営業のためのスタッフはいないのである。様々な、仕事の電話のやりとり、デザイン原稿の作成、スケジュール管理まで、すべて福田一人の手元で行われているのである」と福田は紹介されている。人を雇わずに一人で仕事をしたのである。「こんな面白いコトをどうして他人に任せられますか。もったいないよ。自分が楽しまなくっちゃ」。

モノ書きではなく、モノ描きであることを自称する福田繁雄は、「造形こそが私の魂なのだ」とデザインの道を迷いなく歩き続けた。「あなたの代表作は?」と聞かれて、いつも「今制作中の作品です」と答えていた。「あなたの最高の傑作は?」という問いにチャプリンは「次の作品です」と答えていた。福田繁雄も同じように、常に次の仕事を自身の最高の作品にしようとしていたのだ。代表作、最高傑作を追い続ける勇気をもらった。

デザイン快想録
 

デザイン快想録

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

岩手県二戸市

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

東京都人材センター。秋のリレー講座最終回。

10時:水谷IR室長:分析と提言

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11時:岩澤さん:パンフ作成の打ち合わせ

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13時:東京都人材育成センターの担当者来訪:2月の都庁での技術職員に向けての講演の打ち合わせ。テーマは「合意術」。

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14時:長島部長:相談。

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14時半:知研の高橋副理事長来訪:近況報告。

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14時50分:秋学期リレー講座最終回:寺島学長。

累計受講者14.1万人。皆勤賞は106名(多摩87、湘南10、九段9)。

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・すべては時代認識。経営も個人も。情報感受性。

・2019年「経済の変調とリスクの顕在化」(ロンドンエコノミスト)。世界経済は3%台前半に減速。欧州減速(伊・仏・独・英国)。株価乱高下。トランプ当選からの根拠なき熱狂から24%ダウン。FRB長期金利を確実に上げてきた。日本は1%台と低迷。時価総額でパナ・東芝・日立の合10兆円未満、アップル100兆円の10分の1。IT7社(米中)。蛙飛び経済・夢に金がつく時代・データリズム。

・日本経済:勤労者可処分所得はピークの1997年49.7万円、2018年は42.4万円(1997年以降最低は2011年の42.0万円)。月7.4万円減・年間88.8万円。中間層の没落。家計消費支出(全国全世帯)は2000年から2018年対比で月335821円減、年40.3万減少。 衣料は37.7%減少。増加は通信・諸雑費・自動車関連、、。減少はこづかい・交際費で計2万2千円減(月)・年24万円の減。仕送り金・教養・書籍なども減少。日本人は学ばなくなった、学べなくなった。内向・内向きの保守化。自画自賛番組の横行。海外渡航はずっと1700万人台、人数は600万人か。高齢者と若い女性中心で近場。壮年者は出張のみ。  

・20世紀の日本。人口4300万人から2008年に1.28億人と3倍。21世紀は2050年1億人、世紀末6000万人で半減する。世界人口は2倍になる。国道16号線沿いの団地。食と農との関わり。魂の基軸としての宗教がない。                    (データから:教育支出は軒並み減少:仕送り金・教養娯楽用耐久財・書籍・授業料・教養娯楽サービス・教養娯楽用品・補習教育・教科書・学習参考教材)。一人当たりGDP(2018年予):シンガ6.1。香港4.8。日本4.0、2013水準世界25位。韓国3.2。台湾2.6。中国1.0。タイ0.7。世界GDPシェア:1820年日本3%、1988年16%、2018年6%。世界人口:2000年61億・2008年68億・2018年76億・2050年98億・2100年112億。

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17時半:立川

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「名言との対話」1月10日。田中一光「デザインは異種交配していかないと次に発展しない。常に何と結びついたらいいのかを考えることが大切だ。異種交配の装置をつくることでデザインの領域が拡大していく」

田中 一光(たなか いっこう、本名:たなか かずあき、1930年1月13日 - 2002年1月10日)は、日本のグラフィックデザイナー。

いくつかの企業でグラフィックデザインを手がけ、1963年に独立。日本の伝統を現代化したデザインで国際的に高い評価を受けた。毎日産業デザイン賞 (1966) 、芸術選奨文部大臣新人賞 (1980) 、ニューヨークADC金賞 (1986) 、毎日芸術賞 (1988) ほか受賞多数。作品集『田中一光デザインの世界』 (1987) がある。2000年文化功労者

田中一光自伝 われらデザインの時代』を読んだ。自分にとっての大学院でもあった鐘紡、産経新聞社、ライトパブリシティ、日本デザインセンターで仕事をし、独立する。若い時代の田中一光は条件反射力が高く仕事が早かったから多くの注文がくる。その忙しさが才能を引き出してくれた。図案家・版下屋から、グラフィックデザイナー、そしてアートディレクターへと時代とともに進化していく姿が、同時代の優れた人々と織りなす舞台の中で活写されている。この本はグラフィックデザイン史にもなっている。

今やナショナルブランドと匹敵する「無印商品」は西武の堤清二との会話「視点を少しずらして考えると、発見がある」という気づきから生まれた。田中一光によればグラフィックデザインとは一言でいうと「ヴィジュアル・コミュニケーション」である。この言葉には視覚的な方法論だけでなく、開放的な知性や人間性の在り方も含んでいる。そして、東京オリンピックや数々のイベントに関わって成長した田中一光自身は、デザイナーは明日の光を全身で信じながら、どこまでも生き生きと行動すべき職業だと考えていた。

田中一光の名前は、亀倉雄作や横尾忠則などの本などでよく出てくるから知っているが、今回初めてその生涯と仕事を垣間見た。なんとなく選んだ美術学校の図案科から始まる、先の見えない旅は、偶然と必然の出会いによってしだいに確かなものになっていくのだが、行動力が「運」を引き寄せたという感じも持った。

「ぼくは一人暮らしだから、最後は誰にも迷惑をかけずにスッと消えたいね」と語っていたように、突然何の前触れもなく旅立っている。同業者の一人は田中一光を現代の「利休」という。

日本文化は、視覚的視点からは、世阿弥、利休、琳派、浮世絵、歌舞伎の5つに集約されると考え、歴史を学び、デザインに取り入れていく。その日本のアイデンティを確保したうえで、異国との仕事にも取り組んでいる。田中一光は「企業とデザイナー、社会とデザイナーという双方向のチャンネルを常に確保しておく」「デザインは色と形ばかりではない。社会との連動が必要だ」というように、常に新しい分野と人と時代の最先端・最前線の仕事をこないし続けた。世界と時代と社会の変化と並走しながらデザイン分野もデザイナー自身も進化していく。それを田中一光は「異種交配」というキーワードで示したのである。 

田中一光自伝 われらデザインの時代 (白水uブックス)

田中一光自伝 われらデザインの時代 (白水uブックス)

 

 

多摩。荻窪。赤坂。信濃町。四谷。

午前:大学

・事務処理

・酒井さん

・学科長会議:小林先生、趙先生。

午後:都心

荻窪日本地域社会研究所:「新・進・真」の打ち合わせ。「平成命日編」の打ち合わせ。「歴代天皇」。知研の仲間の小野さんが企画した『前立腺がん患者が放射線治療法を選択した理由』をいただく。

・赤坂の野田一夫事務所:近況報告。

信濃町千疋屋で橘川先生と待ち合わせ。近況交換。新書。寄付。2025年万博へ。

・四谷:引き続き、香港麺「新記」で懇親。

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 「名言との対話」1月9日。芦田伸介「次々と私の人生という名の『舞台』に登場してくる『名優』たちのおかげで、私の『人生劇場』が波乱万丈になった」

芦田 伸介(あしだ しんすけ、1917年3月14日 - 1999年1月9日)は、日本俳優

1937年、学校を中退して満州に渡り、大連で『ワーニャ伯父』の舞台を観て新劇の世界を志す。森繁久彌らと知り合う。敗戦後の安東ー奉天260キロの脱出行で、修羅場をくぐり同志となり、本当の夫婦になったという。

1958年、タクシー事故に遭遇。後部座席からフロントガラスを顔面から突き破り、顔面の裂傷や右眼球破裂など重傷を負う。顔の傷と共に失明の危機や、失語症となり、役者生命が危ぶまれるが、翌年には再起を果たす。「自分の役への異常な執念、この役者独特の「業」こそ、役者の「命」ではないのだろうか」。

1961年TBSのドラマ『七人の刑事』に沢野部長刑事役でレギュラー主演。「社会の不条理と、この裂け目に転落した人間の上に、社会の歪みの典型のひとつがより具象的に投影される」番組であり、主人公は非常な殺人を犯させた「社会」である。これは本人の解説だ。この人気番組は9年間382回で終わるのだが、その後、「新」「新新」と続き、6人の刑事は変わったが、芦田だけは残った。1966年(昭和41年)のNETのドラマ『氷点』で深い葛藤を内に秘めた中年男を演じ、この2作で爆発的な人気を得た。芦田伸介は渋い演技に定評があり、私の父がこの俳優に似ていたので、親近感を持って「七人の刑事」をみていたこともあり、久しぶりに亡き父を思い出した。

1996年、80歳をまじかに控えたころに書いた自伝『歩いて走ってとまるとき』の中で、深いシワを眺めながら、「まるで芝居のような一生だった、、」と述懐している。出会った人たちは、その時の「舞台」でふさわしい大事なことを教えるために登場した「名優」だった。彼らのおかげで波乱万丈の「人生劇場」は波乱万丈になった。もっと生きたかった人たちの「思い残し」というタスキをかけて、自分は人生を走り続けている。彼らの「夢の続き」を生きている。走り続けよう、と芦田伸介は「あとがき」で書いている。舞台、名優、人生劇場、そして人生は「たすき」をかけて走る駅伝だ、というたとえはよくわかる。演技と同じく渋い、深い人生論である。

歩いて走ってとまるとき

歩いて走ってとまるとき

 

 

 

早朝ヨガ。書類作成。湘南キャンパス。読書。弟と痛飲。

早朝ヨガ教室

・新年最初のレッスン。年末年始でなまった体をほぐすためのストレッチ中心。

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湘南キャンパス

・学部長と懇談

・学部運営会議にオブザーバー参加

・高橋先生

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湘南台で弟と痛飲。母のこと。日産とゴーンのこと。兄弟会のこと、、、。

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辰巳渚『捨てる!技術』をを読了。 

 ・捨てようという目。本と洋服。とりあえずは禁句。ここに置いていいの?3年使わないものはいらないもの。あなたが死ねばみんなゴミ。使わないものは持たない。モノは収納スペースいっぱいまで増える。秩序は不要。目についた時が捨て時。捨てて困るものはほとんどない。一定量・一定期間・新品と置き換え。

新装・増補版 「捨てる!」技術 (宝島社新書)

新装・増補版 「捨てる!」技術 (宝島社新書)

 

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成毛眞『俺たちの定年後』を「読了。

・昭和一桁世代。焼け跡世代。戦中生まれ世代。団塊の世代しらけ世代。新人類世代。バブル世代。団塊ジュニア世代。ロスジェネ世代。ゆとり世代。さとり世代。ミレニア世代。

・日経電子版。NewsPicks。・スマホ:PeakFinder(山の名前)。ウオーターログ(水彩画風)。Everfilter(広告風)。カラースプラッシュ(広告風)。・100万円。ネット証券。インデックスファンド。・企業博物館。はとバス。旅の発見。ゲーム「プレステーションVR」。・「DIGA DMRーUBX7050」(10チャンネル全録、おうちクラウド対応、7テラバイト、スマホでテレビ)。モバイルハバッテリーAnkerのpowercore Ⅱ10000。195g」。ネットフリックス(海外ドラマ)ユーチューブ。

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「名言との対話」1月8日。小森和子ダメならダメでしようがない。まずは思った通りにやってみよう。そんな度胸のよさが人生を切り開いてくれることもあるのね」

小森 和子(こもり かずこ、1909年明治42年11月11日 - 2005年(平成17年)1月8日)は映画評論家タレント

婦人公論』編集部を経て、菊池寛の『映画時代』編集部で仕事をし愛人となった。京都では川口松太郎の愛人となる。32歳、神戸でOLをしていた頃知り合った小森一郎NHK会長の息子)と結婚。1947年、淀川長治編集長の『映画の友』で仕事をする。48歳、離婚。1958年、単身渡米し大ファンであったジェイムス・ディーンの墓参。滞在中に檀一雄と恋愛関係になる。六本木でムービー・サロン「ココ」を20年にわたり主宰。1992年には、映画資料1万点を熊本の映画サークルに寄贈。人材育成費として松竹に3,000万円を寄贈。

話を切り出す際の一人称として「おばちゃまはねぇ…」を使うことが多かったことから、テレビなどでは小森のおばちゃまと親しまれた。たまねぎのようなユニークな髪型と率直な言動で独特の雰囲気があるタレントだった。若き日の片岡鶴太郎がマネをして人気が出た。映画に詳しい女性としか知らなかったが、今回調べてみて相当なタマであることがわかった。

「『小森和子自叙伝 流れるままに、愛』は読み出すととまらない。小森のおばちゃまが、世界中の男は自分を愛してくれると自己愛満載で、思わず噴き出したり、うんざりしたり」(泉悦子)。

1983年に「テレフォンショッキング」に出演し、翌日ゲストのイルカに電話する際、相手の電話番号を口に出してしまう放送事故が発生し、翌日、登場したイルカは「おばちゃまのせいでイタズラ電話が殺到した」と苦笑していた。

小森和子には男女関係を巡る武勇伝が多い。不羈奔放な女性だった。そのエネルギーは「度胸」だ。自分を実像以上に見せようとして緊張するからあがるのであり、ダメならダメでしょうがない。思いきってぶつかって知り合った有名人との関係をこやしにして、人生を切り開いていった人だ。 

流れるままに、愛 (集英社文庫)

流れるままに、愛 (集英社文庫)