古市憲寿『平成くん さようなら』

古市憲寿『平成くん さようなら』を読了。

 芥川賞候補作。田中康夫『なんとなくクリスタル』を思わせる作品。

安楽死を軸として「平成」を描く青春小説。

平成くん、さようなら

平成くん、さようなら

 

以下が、平成か、、、、。

 ポケモンGO。食べログドリスヴァンノッテン。サカイ。メゾンマルジェラ。ラッドミッシャー。トムブラウン。マノロラニク。クロコマット。UBER。ヴォストークグーグルホーム。グーグルカレンダー。iPhon。Gyalaxy Note。ジョンロブ。ウンバン。オウム真理教結審。YouTubeニコニコ動画。自殺ツーリズム。KARE.マイスリー。ウーマナイザー。テンピュール。殉死。EDM。サンローラン。進次郎。ツイッター。ヨヒンビン。IHerb。ヨヒンビン。ステアマスター。ルイ・ビトン。ブレスケア。アダム徳水。KITSUNE。ペネトレーション。マークジェイコブス。ケイコニシヤマ。TikTok六本木ヒルズクラブ。聞蔵。ヨミダス歴史館。ジョンロブ。エンディングサイト。インスタグラム。アマゾンフレッシュ。ヤマト運輸フェイスブック。Tinder。Lets note。俵万智。アミ。UGG。ジェラードピケ。ブラバンシア。テンペスト。レクサス。Macbookクリスタルガイザー。チームラボボーダレス。アイランドルミナ。VRゴーグル。インバウンド。ソラシドエア。アラン・デュカス。フィオレンティーナ蜷川実花。ミレニアルズ。エクスペリア。星野リゾート。白蓮堂。人狼。セオリー。デンハム。シュプリーム。ユニクロ。TPP。レーシク。OneDrive。サイドスロープ。メゾンキツネ。松尾さん。スカイツリー機械学習。AI。ベルソムラ。ヴァージル。アンリアレイジ。バレンシアガ。安室。UberEats。ポールスミス24karats。スイカ。ステンドラ。

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2月1日。近藤啓太郎「あんまり好き勝手のことばかりしていたものだから、とうとうわたしも罰が当っちゃいました」

近藤 啓太郎(こんどう けいたろう、1920年大正9年)3月25日 - 2002年平成14年)2月1日)は、日本作家

東京美術学校日本画科卒業。戦後近藤は千葉県鴨川で漁師生活をおくる。そして鴨川中学の図画教師として勤務する傍ら、 同郷の丹羽文雄主宰の「文学者」に参加し、小説を書き始める。吉行淳之介、安岡章大郎らと「第三の新人」と呼ばれる。

芥川賞候補の4回目で受賞。その間、選考委員だった師匠の丹羽文雄の評を書いてみよう。

第24回芥川賞候補。30歳時の『飛魚』は「或る部分のデッサンの確かさがうれしかった。作者をよく知っているだけに、うれしかった。女が描かれていないのが欠点だった」。第25回。31歳時の『盛粧』は「前候補作品「飛魚」よりは劣るが精一杯に書いている。原鉱と精選された部分がごちゃごちゃになっている。がその態度には好意が持てた」。第28回。32歳時の『黒南風』。「私は最後に(引用者中略)推した」「「飛魚」の方がよかったという人があったが、今度も漁師の生態が出てくる。(引用者中略)作品としては「黒南風」の方がはるかに秀れている。作者も成長している」「むろん欠点もあるが、自然主義的だというので片付けられる作品ではないのだ」。

そして1956年の第35回についに芥川賞を受賞した「海人舟」は36歳時の作品である。丹羽文雄は「「飛魚」「黒南風」の場合には、海に対する興味が強烈すぎて、小説の安定性を欠いていた。「海人舟」は、海と人間が渾然と一体になっている」「新風というわけにはいかないが、健康な後味のよさである。永年小説を書いていて常に気にかかることは「童心」ということである。初心忘るべからずであるが、この小説の中から私はそれを強く感じた」と評している。

師である丹羽によって、近藤啓太郎という一人の作家が誕生し、成長する過程が厳しく、かつ愛情深く描かれていることに感銘を受ける。また近藤にとって1年の漁師生活、そして鴨川での生活が作風に大きな影響を与えていることを感じる。

1960年代から、近藤啓太郎は好色通俗小説を書くようになる。自宅建築の借金返済のためだったそうだ。私は「啓」という名前が同じあったこともあり、なんとなく親しみを感じていたが、この作家は好色ものを書く人だと思っていた。近藤が愛した鴨川では、亀田総合病院で子どもたちが生まれており、鴨川グランドホテルの鈴木政夫とは懇意であった。このホテルは恋の句を多数残した情熱の俳人鈴木真砂女の実家である。近藤は真砂女に短歌を習っていた。ここには「鈴木真砂女ミュージアム」がある。いずれ訪問したい。

1972年に妻がガンを発病し翌年死去。その様子を描いた『微笑』を書く。その後、作風が変化し、エッセイなどを書く。「犬馬鹿物語」「楽に死ぬのがなぜ悪い」、安岡との対談・エッセイ「齢八十いまなお勉強」。東京美術学校で学んだこともあ日本画への造詣も深く、『大観伝』『近代日本画の巨匠たち』『菱田春草』『奥村土牛』(読売文学賞受賞)など美術評論も手がけている。

「罰があたった」という発言は、妻に対して言った言葉であるが、妻からは「冗談じゃないわ。罰の当る方向が違ってますよ。罰は直接あんたに当ればいいのに…」と返されたと自伝小説『微笑』の中で語っている。この人の小説や自伝、画家の伝記などを読んでみたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

近刊予告『新・深・真 知的生産の技術』(NPO法人知的生産の技術研究会編)

午前:荻窪の出版社に、預かっていた書籍と収集した「天皇」関係の本を届ける。

新著『新・深・真 知的生産の技術』(NPO法人知的生産の技術研究会編)が2月中に刊行される。編集作業がようやく終了。

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学部・大学院の成績つけ修了。

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 午後:湘南キャンパス:グローバルスタディーズ学部運営委員会に陪席。

:研究費。離学。ゼミ。卒業。TOEIC。事業計画。入試。就職。実質。

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夕刻から:大和の「鳥清」、スナック「樺」で弟と痛飲。今日はカラオケの歌の調子が良かった。

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 「名言との対話」1月31日。芥川也寸志「音楽というものはね、人間が生きていくうえでなくてはならないものなんです」

 芥川 也寸志(あくたがわ やすし、1925年7月12日 - 1989年1月31日)は、日本作曲家指揮者

作家芥川龍之介の三男。東京音楽学校(現、東京芸術大学)研究科卒業。1950年に「交響管弦楽のための音楽」でNHK創立25周年記念懸賞の管弦楽作品として特賞入賞、これが出世作となる。

1953年に団伊玖磨、黛敏郎とともに〈三人の会〉を結成、前衛的な音楽を発表した。一方、ラジオ劇や映画音楽の作曲、テレビの司会者などとして幅広く活動した。TBSラジオ「100万人の音楽」(サントリー提供)では野際陽子とともに司会をつとめた。

1981年から日本音楽著作権協会JASRAC)理事長を務め、放送局と交渉し著作権擁護などに尽力した。「文化というものは人間ひとりひとりがいかに生きがいを持って素晴らしく生きてゆくかということに尽きるのではないか」「文化政策というものは政治経済を突き抜けた、人間の生き方を問う問題である」と衆院文教委員会で述べている。

 音楽による民衆の連帯を目的とした「うたごえ運動」と、良質の音楽を勤労者の耳に届けることを目的としていた「労音」にも力を入れた。「音楽はみんなのもの」という思いからであった。芥川也寸志が関わった労音の音楽会には子どもの頃に母に連れられて私も参加したことがある。芥川は生涯で100本を超える映画音楽を作曲した。1971年刊行の岩波新書『音楽の基礎』は版を重ねているベストセラーだ。

主な作品は管弦楽の「交響三章」、映画音楽の「砂の器」「八甲田山」八つ墓村」など多数。 また演奏家にとってホールは楽器のようなものであると考え、1986年のサントリーホールの開場にも尽力している。そういった縁もあり、芥川没後、サントリー音楽財団は日本人作曲家の管弦楽曲が対象の「芥川作曲賞」を設立した。父は小説、息子は音楽で、賞を残した。

「父が死んだ年齢である三十六歳を越えていく時は、もっとやり切れなかった。毎日のように、畜生! 畜生! と心の中で叫んでいた。無論、自分が確立されていないおのれ自身への怒りであった」(『父や母のこと』)とも告白していると。 結婚を3度したが、2度目の妻は女優の草笛光子である。肺癌のため逝去したときの最後の言葉は「ブラームス一番を聴かせてくれないか、、、あの曲の最後の音はどうなったかなあ」だった。

冒頭に掲げた言葉は、NHK「音楽の広場」の中で、子どもが「どうして音楽ってあるんですか?」という問いに答えた名言である。

 

日本の音楽家を知るシリーズ 芥川 也寸志

日本の音楽家を知るシリーズ 芥川 也寸志

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

午前は人事委員会、学部運営委員会。夜は多摩センターで飲み会。

キャンパス

・人事委員会

・学部運営委員会

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研究室と自宅

・AICHIの塩屋・松本さんと書棚の相談。

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京王プラザホテル内の「京王ビズ」。

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多摩センターの酒の専門店「里庵」。4月から多摩大教授に就任する多摩信金の長島さんと松本先生と3人で多摩大と多摩大総研の今後のことを話し合いながら日本酒を楽しむ。トップ、キャンパス、探訪、総研のプロジェクト、、、、、。

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「名言との対話」1月30日。服部良一器用な人はダメ。僕みたいに不器用でなきゃ」

服部 良一(はっとり りょういち、1907年10月1日 - 1993年1月30日)は、日本の作曲家編曲家

大阪市立実践商業に通いながら少年音楽隊に入隊。卒業後,のちの大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団。かたわら、エマヌエル・メッテルの指導を受ける。 1933年上京し,ジャズの編曲で注目され,1936年コロムビアレコードに専属作曲家として入社。

1937年、30歳。淡谷のり子が歌った『別れのブルース』が大ヒットする。感傷的なブルース調の『湖畔の宿』 (高峰三枝子) 、「君がみ胸に抱かれて聞くは」で始まる『蘇州夜曲』 (霧島昇渡辺はま子) などで人気作曲家となる。第2次世界大戦後に音楽活動を再開。 1948年、「東京ブギウギ リズムうきうき」で始まる『東京ブギウギ』 (笠置シヅ子) 、1949年、「若く明るい歌声に」で始まる『青い山脈』 (藤山一郎) とたて続けにヒットをとばし,日本ポップス音楽界の草分けとしての地位を築いた。 1958年には,日本作曲家協会理事長として「日本レコード大賞」を設立。没後、3歳年上のライバル・古賀政男に次いで作曲家として2人目の国民栄誉賞が授与された。

服部良一は「交響的な音楽によって、民族のポエジーを、日本特有の美しい魂の詩を、描きたい」との夢を持続し、「大阪カンタータ」を3年かけて完成させる。この交響曲朝比奈隆指揮の「大阪フィルハーモニックオーケストラ」が演奏した。二人は若いころのメッテル門下である。

絵画、彫刻などの静的芸術は感動して涙ぐむほどの感銘を与えない。動的芸術である音楽は人の心を打つ、と服部は言う。確かにカラオケで歌っているときなど、メロディーに載った歌詞が心に響き涙がでてくることがある。音楽は聴く人に感銘と悦楽を与える。

息子の服部克久は「天真爛漫、無茶苦茶、自由人、天才、寂しがり屋の飲み助、甘い父親でこわい先輩、ルーズで几帳面」と語っていて、服部良一人間性を感じさせる。

激動の20世紀を生きた服部良一は、生涯にわたって時代の変化を敏感に感じ取り、それを曲として発表し続けた。音楽で時代そのものと格闘したが、時代にも翻弄されている。「雨のブルース」は破局に向かう近代日本の悲しき運命を予感させる哀歌である。「山の寂しい湖にひとり来たのも悲しい心」で始まる高峰三枝子「湖畔の宿」は官憲からの批判があった。

時代の変化を受け入れ、人々の心にヒットする歌を作り続け、生涯を通じて 3000曲を超える作品を残した。その服部良一は、不思議なことに、自身を不器用と認めている。落語の桂文楽も「器用じゃ ダメなんです」と言っていることを思い出した。器用であることは成功の条件ではない。不器用であるからこそ真摯に取り組むことができる。不器用こそが武器なのだ、との服部良一の述懐に深い共感を覚える。 

評伝 服部良一: 日本ジャズ&ポップス史

評伝 服部良一: 日本ジャズ&ポップス史

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
   
   
   
   
   

東京オリンピック・パラリンピックに向けた取組みに関する連携協定締結式と記者会見。

東京オリンピックパラリンピックに向けた取組みに関する連携協定締結式と記者会見。多摩市役所にて。多摩市が自動車競技ロードレース会場となるため、多摩市と市内6大学が連携協定を結んだ。30日の東京新聞に載っていた。

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13時半:市長室で懇談

14時:連携協定締結式・記者会見。

阿部多摩市長。桜美林大学の畑山学長。国士館大学佐藤学長。東京医療学院大学佐久間学長。恵泉女学園大学岩村副学長。大妻学院の船戸部長。多摩大学の久恒副学長。東京、日経、朝日などの新聞からの質疑応答があった。

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 多摩大学(久恒)

「ロードレースは多摩大の正門の前を通る。2019年7月21日にテストイベント。多摩大を会場としたイベントを計画中。競技のルール、自転車の魅力を体感するもの。2018年は準備として大会組織委員会の応援プログラムに参加。組織委員会から講師を招いて「多摩学」等の科目でビジョン・参加プログラム・日程などを学んだ。大学としてはビッグプロジェクトに参加することで大きな学びになる。また産・学・官・民との連携が深まるこにも期待。協定締結を機にキャンパスを挙げて大いに盛り上げていきたい。」

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 多摩市長室には、多摩大がプレゼントした「多摩大鳥瞰図絵」が飾ってあった。これが話題になった。

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随行の多摩大スタッフ:杉田学部長、松本センター長、水嶋課長、矢内さん。

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今日の収穫

作詞家・なかにし礼。作詞した曲は3000曲、ヒット曲は300曲、今もカラオケで歌われる曲は100曲。「大ヒットした曲というものはどこかで時代を映している。そうでなければ人の心に届かない」。

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 「名言との対話」1月29日。根津甚八やり遂げたことで、未練を捨てて、終止符を打てた」

根津 甚八(ねづ じんぱち、1947年12月1日 - 2016年12月29日)は、日本俳優演出家脚本家

1967年、大学進学と同時に、演劇研究会に入会。劇作家・唐十郎特権的肉体論」に感銘を受け、学内で唐十郎の作品を上演する。芸名は唐十郎真田十勇士根津甚八に因んで命名

1969年代の末、新宿・花園神社の赤テントから彗星のごとく現れた。独特の存在感が売りだった。1978年のNHK大河ドラマ「黄金の日々」で石川五右衛門役で人気を博し、以降、数多くのテレビドラマや映画に出演。黒澤明「影武者」では、影武者の土屋宗八郎を演じた。1982年の子供を事故で失った男が愛人と覚せい剤に溺れ転落していく「さらば愛しき大地」では主演し、キネマ旬報主演男優賞、日本アカデミー主演男優賞を受賞。黒沢作品「乱」では、次男の一文字二郎正虎役をつとめた。他に「駅 STATIO」「吉原炎上」「金融腐蝕列島4 呪縛」、、。テレビドラマでは、大河ドラマ獅子の時代」の伊藤博文、「太平記」では新田義貞を演じた。NHK連続テレビ小説「ほんまもん」に出演している。この人の個性的な魅力のある演技はよく知っている。

2009年、 62歳の根津甚八は「振り返って自分なりに納得できたように思います。まっすぐ前を見て、自分の出来ることを精一杯していきたいと、いまは思っています」と語り、「もう俳優には戻らない。別の生き方、脚本とか演出へ」と述べた。

長く俳優活動から遠ざかっていたが、2015年に石井隆監督の映画「GONIN サーガ」で11年ぶりの復帰を果たす。「天が再び機会を与えてくれるものなら、仕事を続けたかった思いももちろんある。でも、監督や共演者を始め、スタッフ全員の支えがあって、やり遂げたことで、未練を捨てて、終止符を打てたと思う、、」。撮影を終えた後のコメントである。洋酒ヘネシーのCMで、桃井かおりが「根津君がくる」と嬉しそうに語っているのを思い出した。同輩に人気があり、後輩に信奉者が多かった。

根津甚八の渋い演技には魅せられたものだが、ある時期から姿を見かけなくなった。眼病、ヘルニア、うつ病などと闘っていたことを初めて知った。名優・根津甚八は宿命を受け入れ、俳優人生に自ら納得して終止符を打った。人生には幾つかの句読点があり、そして終止符を打つ時がくる。

 

 

 

 

 

 

阿部・多摩市長来訪ーー多摩(聖跡桜ケ丘・多摩センター・永山)の公共施設の見直しと将来像

阿部・多摩市長らが新年のご挨拶に見える。杉田学部長、小林学長室長、松本地域活性化マネジメントセンター長、水嶋教務課長と対応。

パルテノン多摩の改修計画。図書館本館(中央図書館)開設計画。日本医大多摩永山病院の建替、、。オリンピック・パラリンピック、、、。

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研究室

・2月の講演の資料準備。東京都と座間市

・『新・深・真 知的生産の技術』(知研編)の最終チェック。

・渡辺先生、加藤仁一さんと電話。

・「天皇」関係の書籍注文。

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「名言との対話」1月28日。坂崎一彦「坂崎大明神」

坂崎 一彦(さかざき かずひこ、1938年1月5日 - 2014年1月28日)は、大阪府豊中市出身のプロ野球選手。

名門浪速商業の4番打者として1955年春の選抜に出場。決勝戦で2度敬遠された後、第3打席でホームランを打ち、優勝。坂崎の成績は15打数9安打、打率.600、2本塁打、8敬遠。その打棒は新聞に「坂崎大明神」と書かれたほどだった。

巨人軍に入団。3年目の1958年にレギュラーに定着しオールスターゲームに出場する。1959年には打率.284(リーグ4位)、15本塁打、64打点を記録、ベストナインを受賞した。同年の天覧試合にも出場し、5回裏に長嶋茂雄に続く連続本塁打を放っている。1961年から1963年にかけては、巨人は3番・王、4番・長島、5番・坂崎のクリーンアナップだった。この頃の坂崎の活躍は覚えている。

坂崎は代打男でもあった。1963年は3割6分7厘、1964年は4割1分7厘、1965年には名投手・小山対策として水原監督から請われて移籍した東映では4割7分2厘という神がかり的な数字を残している。

1958年の日本シリーズで、西鉄の鉄腕・稲尾は5試合に先発し4完投で優勝し「神様、仏様、稲尾様」と崇められた。坂崎が呼ばれた大明神はもともとは神仏習合の仏教から神を呼ぶ名前である。豊臣秀吉は没後に朝廷から豊国大明神の神号をもらっているのと同様に世間は坂崎を神様扱いをした。坂崎は通算打率は2割5分前後と記録的には高くはないが、甲子園決勝、天覧試合、そしてチャンスの時の代打などで活躍した、記憶に残る選手だった。ここぞという時に、神の仕業としか思えないような活躍をみた人々は「坂崎大明神」と呼んだのだ。気力の人だったのだろう。

 

 

午後はサテライト入試。夜は「いだてん」、「古典芸能への招待」は能「卒塔婆小町」。

サテライト入試二日目。本部詰め。

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・20時からNHK大河ドラマ「いだてん」。役所浩司演ずる加納治五郎に私の母方の祖父は東京高等師範学校で学んだ。あの時代に生きた人だということでこの番組に親しみが湧く。

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・21時から23時まで。NHK教育「古典芸能への招待」。能「卒塔婆小町」を見てしまった。喜多流人間国宝友枝昭世の至芸に魅入った。平安時代恋多き女歌人小野小町が百歳の老女の姿で描かれる大曲だ。2018年11月に国立能楽堂で演じられた。ワキ、ワキツレ、シテ、鼓、、、。

高野山の僧が都へ向かう途中、道ばたの朽ちた卒塔婆に腰を下ろして休んでいる老女に出会う。僧は、仏体そのものである卒塔婆に腰を下ろすとは…と、ほかの場所で休むように話すが、老婆は僧の一言ひとことに反論し、仏も衆生も隔たりはない、と説き砕く。僧は老婆の説法を恐れ敬い、三度の礼をする。そして名を尋ねると、それは百歳になろうとしている小野小町であった。才色兼備で世の男性を魅了した小町も、今は破れ笠に乱れた白髪の憐れな物乞い。しばらく身の憐れを歎いていた小町だが、突然様子が変わり「小町の元に通おう」と叫ぶ。不審に思い僧が問うと、それは小町に憑いた深草四位少将の怨霊であった。昔小町を慕い九十九夜通い詰めながら、ついに思いを遂げずに死んだ少将の怨霊は、生前の百夜通いの様を繰り返すのだった。」

人生100年時代もからみ、問答の言葉の魅力に負けて、2時間見てしまった。

 

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「名言との対話」1月27日。室伏稔「1つの目標 2つの信念 3つの基本姿勢」

室伏 稔(むろふし みのる、1931年9月22日 - 2016年1月27日)は、日本実業家伊藤忠商事社長。日本政策投資銀行社長、日本貿易会会長を務めた。

日本経済新聞室伏稔の「私の履歴書」は、ビジネスマンが共感を覚えたようでよく読まれた。

大本営参謀で上司であった瀬島龍三から日常業務で指導されたのは、「報告書は必ず紙1枚にまとめる」「結論を先に示す」「要点は3点にまとめる」であった。どんな複雑なことでも要点は3つにまとめられる」が瀬島の口癖で、物事の本質を見極め整理する習慣を身につけさせてもらった。そして「用意周到、準備万端、先手必勝」という姿勢で徹底的に準備をしてから事を始める、相手に先んじることが必勝への道という教えを受けた。

「企業は建物でも、決算書でもない。人である。人と人がつくる社風こそ企業を支える無二の資産でありそれが企業を発展させたり、衰退させたりする」という考えの 室伏は社長就任時には、「各人は必ず、Agenda(課題)を持ってほしい。すなわち、自らに課題を与え、Nothing is impossible の精神でやり遂げてほしい」と語り、「1つの目標。2つの信念。3つの基本姿勢」を打ち出した。

1つの目標とは「国際総合企業の実現」。2つの信念とは、「Why not ?」「Noting is impossible」(なせばなる))「More Like CI」(より伊藤忠らしく)。3つの基本姿勢とは「グローバルな視野に立った経営」「総合力を発揮する経営」「やる気の出る経営」である。

室伏稔はトップに立った時に、「1つの目標 2つの信念 3つの基本姿勢」というわかりやすいメッセージを発して現場を鼓舞した。用意周到に考え抜ういた上で、要点を3つにまとめる、というビジネスの修羅場で学んだ姿勢を貫いたのであろう。

後任社長の 丹羽宇一郎の「清く、正しく、美しく」、そして小林栄三の「Challenje,Create,Commit」も奇しくも3つの言葉を並べたものだ。瀬島龍三の影響を受けた人々が織りなす、活性化した伊藤忠商事の社風の継続をみる思いがする。継続は勢力を形成していく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
 
 

 

 

 

 

インターゼミ(社会工学研究会)の打ち上げ懇親会。サテライト入試初日。

午後:サテライト入試初日。本部詰め。

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夕刻から:インターゼミの打ち上げ懇親会。

参画者:学生・院生・学部卒業生・院修了生369名(のべ)。教職員156名(実数35名)。インターゼミ卒業生・修了生総数75名。

本日の参加者: 学生・院生・卒業生・修了生 48名。うち、卒業生17名、教職員17名。

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学長:好奇心。課題解決力は結晶性知能。記憶力は流動性知能。、、。

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私の退任の挨拶。

多摩大11年「再建のステージ終了。潮時。退任する」。

インターゼミ10年「量・質とも今年が最高」。

10年「1万時間の法則。スペシャリスト、一流。3h・10年で1万時間。30歳で知研に入り40歳で出版。牧野富太郎は10年かけて78歳で日本植物図鑑。寺島学長の17世紀オランダ論は2010年からで2020年に完結。」。

26年かかったのは滝沢馬琴南総里見八犬伝。34年「本居宣長古事記伝徳富蘇峰の近世日本国民史100巻は89歳で完了(世界最大の著作とギネスに)」。継続は勢力なり。

多摩大の30年「躍進の10年、凋落の10年、再建の10年。飛躍の10年に向けての推進力はインターゼミ」。

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二次会は久保田先生率いるAI班とワインバーで歓談。

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「名言との対話」。1月26日。真藤恒「習って覚えて真似して捨てる」

 真藤 恒(しんとう ひさし、1910年7月2日 - 2003年1月26日)は、日本の実業家

九州大学工学部造船学科卒。播磨造船に入社。戦後アメリカ系のNBC造船所で真藤船型を生む。石川島播磨誕生に際して土光社長に呼び戻され、後に社長。1981年電電公社総裁。1985年民営化にともない新生NTT社長、1988年会長。

真藤の人生は偶然の連続で構成されている。大学の学科選択も、教授の意向での播磨造船への入社も、そして結婚も。真藤は退職金を7回もらっているが、上司であった土光敏夫さんに「行け」と言われるままに仕事を引き受けた。その結果が、進藤のキャリアになった。

論語」は人間の自主性を認めていないから嫌いで『伝習録』を読むなど「知行合一」を説く陽明学に学び、「ドクター合理化」と呼ばれた希代の仕事師は、電電公社・NTTでは「シントーイズム」を浸透させた。真藤は実学の人である。

『習って覚えて真似して捨てる』と言う自伝を読むと、経験の裏づけのある魅力的な言葉が満載だ。以下、真藤語録。

・能力ある人は必ず引っ張りダコになる。人にも組織にもいえる。それが競争力である。

・ヘリコプターに乗れば尾根の道、つまり道筋はすぐわかる。

・仕事を楽しんでやれる境地になって初めて仕事師といえる。

・トップの発言内容を部下に伝えるときは、自分の立場で十分に消化し、自分が責任を持って組織を動かすという態度をとることだ。

・俺も一緒にやる。自分の代わりにやってもらう。

・人間はいつもリスクを賭け、それを乗り越えるところに楽しみがある。こわいのは肉体て老化ではなく頭の老化だ。

・経営とは現状を変えることであり、現状を守るのは経営ではない。

・自分の仕事は自分で作っていくしかない。

・メモリー機能よりデータ処理機能。他の事柄との関連を考えよ。

・現象より根元。

・足らざるところを学ぶという姿勢がいい。

・科学技術をベースにした生産技術が、人間社会を根本からゆさぶる。情報は上部構造であり、社会構造を根底からひっくり返す力はない。

真藤は最後はリクルート事件で非公開株1万株の譲渡を受け、1990年に有罪判決を受ける。一切弁明せず、公職や経営の一線から身を引いている。出処進退も潔い。真藤の例を引くまでもなく、キャリアを全うすることはなかなか難しいものである。

 真藤は「脚下照顧」という禅の言葉を意識していた。生活面では日々新たに取り組む。仕事面では自分で悪い点を改良していく。それは日々自己批判の連続で過ごすことである。「習って覚えて真似して捨てる」の「捨てる」とは、「習って覚えて真似して」仕事に真正面から取り組んでいると、結果的に習ったことを捨てていたという意味である。その連続がキャリアを磨くことである。この精神を学ぼう。

習って覚えて真似して捨てる

習って覚えて真似して捨てる