「邪馬台」2019年春号が届く。第3回「ビジネススクエア多摩」企画運営委員会。

「邪馬台」2019年春号が届く。

・私の連載『読書悠々』は、外国人特集。趙紫陽「人治ではなく、法治」。ソン・ギジョン「これからは二度と日章旗の下では走るまい」。呉清源「勝っても負けても、最善の一手を尽くせば、それで立派な一局なのです」。アルビン・トフラー「将来の文盲とは、読み書きのできない人ではなく、学ぶことも、学んだことを捨てることも、また学び直すこともできない人のことである」。テレサ・テン「私はチャイニーズです。世界のどこで生活していても私はチャイニーズです」。邱永漢「人生とは「お金」という煉瓦を「時間」というセメントで積みあげていく作業工程」。

・「団塊」の自分史ーー中津北高20回生(昭和43年卒)の軌跡。猪俣君に続く二人目は松田俊秀君。小野田セメント時代の新入社員時代からの軌跡と、当時書いた「より良好な人間関係を築くために」という社内論文(参考文献に、久恒啓一「タテの会議 ヨコの会議」が挙げられていた)を執筆。次回は彼のクライマックスの株式上場がテーマ。ウイットの効いたビジネス川柳も続けてほしいな。

・邪馬台歌壇:「腕のなきミロのヴィーナス失ひしその掌に何を掴みてゐしや」(後藤マサエ)。「わが歌を草木染にと誘いくる電話にさぐりず業者の思惑」(磯田温子)。「留守電に残りし君のなつかしきバリトンのこえに胸の高鳴る」(三原養子)。「歩き疲れしベンチに休む吾の前鶺鴒尾を立てつつ走れり」(近藤恭子)。「群青の海をめぐりて国東の安岐へ未だ見ぬ歌友尋ねむ」「生れ変わらば短歌詠みたしと俳句の友七、七が羨し情を盛れて」(選者:久恒啓子)

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第3回「ビジネススクエア多摩」企画運営委員会

メンバー: 多摩市。多摩信金。多摩大。

近況報告。平成30年度事業報告。平成31年度以降の運営。地域未来投資促進法。

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ラウンジ。

・中村その子先生

・公平教務課長

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今日の収穫:人生100年

・「人生100年金融シンポ」:2025年に認知症患者は700-800万人。60歳代の保有資産の約6割が住居・宅地。早い段階で住宅資産を金融資産として流動化する必要がある。(日経190326)

森昌子60歳で引退。「人生の残された時間を、もう少し穏やかな中で充実させたい」(日経・「春秋」。190326)

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「名言との対話」3月26日。エドマンド・マスキー「マスキー法」

エドマンド・シクストゥス・「エド」マスキー英語: Edmund Sixtus "Ed" Muskie, 1914年3月28日 - 1996年3月26日)は、アメリカ合衆国の政治家。

弁護士出身。メイン州選出の上院議員を1959年から1980年までつとめた。1968年、民主副大統領候補。1972年の大統領選挙では惜しくも民主党候補にはなれなかった。1980年にはカーター政権で国務長官に就任している。

マスキーは上院における最初の環境保護論者として有名で、1970年の大気汚染防止法を提出した人物である。1975年までに自動車排出ガス(一酸化炭素炭化水素)の水準を10分の1まで減少しようとし、達成できない自動車を販売禁止とする画期的な法案だった。1973年の石油危機で後退を余儀なくされたが、この法案が契機となって、自動車の排ガス基準が厳しくなり低公害化が進んだ。日本は真剣に低公害車を開発し世界進出に成功する。例えばホンダは1972年にはCVCCエンジンを載せたシビックを発売するなど、日本の公害対策は一気に進んだ。それが強い国際競争力となった。

アメリカでは法案提出者の名前をとって、法案が呼ばれることがある。1935年の連邦労働法は、労働組合運動の発展に寄与した。この法案は提出者の名前をとってワグナー法と呼ばれている。マスキーは国務長官という顕職にも就いているが、大気汚染防止法はマスキー法と呼ばれてこの法律の提案者として歴史に名が残っている。

アメリカでは施設や軍艦などにも、英雄などの個人名をつける。例えばジョン・F・ケネディ空港、空母ロナルド・レーガンなど。こういう傾向は他の国にも多い。フランスのドゴール空港、イタリアのダ・ヴィンチ空港、モンゴルのチンギスハン空港など。日本では高知龍馬空港が愛称としてあるくらいしか思い浮かばない。高知県庁で職員研修を担当したときに、育てるべき人物のイメージが湧くという考えで、研修所に「龍馬」という名前をつけたらどうかと提案したことがあることを思い出した。身近な施設にも、貢献度の高い人の名前を冠すると、歴史を意識することになるはずだ。施設もそうだが、法律も議員立法が可能なのだから、議員の名前をつけて呼ぶやり方を採用してはいかがだろうか。

 

 

 

山梨人物探訪。「ハーブ庭園、旅日記」の「ふじさんデッキ」。志村忠良。高山行男。

「ハーブ庭園、旅日記」の「ふじさんデッキ」からの展望。高さ13メートルの展望台で、富士山・河口湖・庭園を一望できる。富士山の裾野がすべてみえる唯一の場所。

中東からの団体が庭園を歩いていた。

ふじさんデッキ | ハーブ庭園 旅日記 富士河口湖庭園


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デッキでは富士山に憑りつかれた高山行男(カメラマン)の動画映像を見ることができる。古来、富士山に憑かれた人は多い。歌、写真、そして動画だ。
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春には桜やツツジ、初夏にはラベンダー、秋には紅葉、冬には大温室で育成中のハーブと花。ハーブ庭園 | ハーブ庭園 旅日記 富士河口湖庭園

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園主・志村忠良。

3歳の孫がアトピー性皮膚炎になる。ローズゼラニウムというハーブの乾燥葉をすすめられて風呂に入れて試すと痒がらなくなる。サトウキビのアルコールで抽出液をつくり孫に持たせる。同じ悩みの一たちに分けてあげると大きな反響があった。化粧品として認められたが、原料の供給が間に合わなくなる。考え抜いた末に「大きい会社でなくていい、信頼される会社にしていこう」「主原料は自分たちの手で栽培していこう」と、決心する。今ではナチュラル倶楽部のマークは、「おじいちゃんの愛情」の姿だ。

この物語には感銘を受けた。この園では、ふじさんデッキの女性スタッフ、温室の青年、ナチュラル化粧品の販売所でハーブティを出してくれた女性店員など、誰もが親切に声をかけてくれる。「いい仕事をしている」という意識を感じる人たちだった。園主の理念が隅々まで浸透していると感じた、気持のいい空間だった。
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株式会社英雅堂(志村忠良社長)。

社訓「人間は死ぬまで未完成である。ゆえに人生の全てにおいて己を磨き命のある限り成長していくことが大切である。」

経営理念「お客様に「驚き」「喜び」「感動」を与えるサービスと製品と施設を常に提供していくこと」


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「名言との対話」3月25日。遠藤幸雄「私はその感動で泣いたのです。私の涙は金メダルの涙ではない。自分に勝てた感動で涙をこぼしたのです」

遠藤 幸雄(えんどう・ゆきお、1937年昭和12年1月18日 - 2009年(平成21年)3月25日)は、日本の体操競技選手である。

東京教育大学(現筑波大学)を卒業。体操選手として、ローマ、東京、メキシコと3大会の出場を果たした。東京では日本人初の個人総合優勝を獲得した。目標としていた郷里秋田の先輩の小野選手が成し遂げられなかった快挙だった。「体操ニッポン」の黄金時代を築く。遠藤は3度のオリンピックで金5個、銀2個をもらった。引退後は2007年まで日本大学教授をつとめる。日本体操協会では副会長、JOC理事。1999年、国際体操殿堂入りを果たす。

遠藤はオリジナルの技「前方開脚浮き腰回転倒立」を考案した。「エンドー」と呼ばれ、技に個人名がついた。東京オリンピックの個人総合で圧倒的優位に立っていた遠藤は、最後のあん馬でミスを連発してしまう。9点台が出れば金メダルだったのだが、長い審議の末に9・10で優勝する。別室で遠藤は死別した母に「ボクに9点台をください」と祈っていたそうである。

この個人総合優勝の金メダルをもらった時に泣いたうれし涙は、小学校3年生の時に母親を亡くし、父とも生き別れになり、中学1年の冬から養護施設で育ち、体操と出会って努力を重ね、自分に勝てたという感動だったのだ。村田英雄の名曲「姿三四郎」の歌詞「人に勝つより自分に勝てといわれた言葉が胸にしむ」がる。誰に言われたか。加納治五郎だろう。まさに遠藤幸雄は「人に勝つより自分に勝った」のである。遠藤は自分を育ててくれた養護施設への寄付を生涯続けていた。

 

山梨人物探訪:ぶどうの丘美術館(田中秀次郎)。ワインの先覚者記念室(高野正誠)。山梨県立文学館。山梨県立美術館。

山梨の旅。

ぶどうの丘。

ぶどうの丘美術館は田中秀次郎寄贈展。田中秀次郎とはだれか?

1階は「日本画家が描く美しき日本女性像」展。

牧野邦夫(1925年生)。高坂卓至(1931年生)。松沢英雄(1929年生)。高塚省吾(1930生)。魚谷洋(1955年生)。

地下は「ブルガリアの画家による『東欧の魅力展』」。

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ワイン先覚者記念室。

行基:718年。法薬のぶどうの作り方を教えた。

・雨宮勘解由:1186年。ぶどうの変性種。

・1877年、大日本山梨ぶどう酒会社が発足。25歳の高野正誠と19歳の土屋を「フランスへ派遣。1年後の1879年に帰国。

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山梨県立文学館。「手書きのリズム」展。芥川龍之介。中村星湖。与謝野寛。与謝野晶子高浜虚子。柏木柚雨。武田泰淳武田百合子樋口一葉
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山梨県立美術館のロビーコンサート。
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宿泊しta

湖楽おんやど富士吟景からの富士山の絶景。

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 「名言との対話」3月24日。尾上梅幸「名前は自分のものでなく、あくまで代々お預かりしたものである。その名をよくするも悪くするも、その役者の心掛けいかんなのである」

七代目 尾上 梅幸(しちだいめ おのえ ばいこう、1915年大正4年)8月31日 - 1995年平成7年)3月24日)は、歌舞伎役者。

歌舞伎俳優。、、、5世までは代々の尾上菊五郎俳名であった。屋号音羽(おとわ)屋。6世〔1870-1934〕は5世菊五郎の養子。近世の名女方で,1911年から約20年間帝国劇場の座頭(ざがしら)として活躍。世話物を得意とし,また《四谷怪談》《土蜘(つちぐも)》など妖怪変化(ようかいへんげ)の役にもすぐれていた。7世〔1915-1995〕は6世菊五郎の養子。1947年襲名。女方・若衆役にすぐれ,父の没後は尾上菊五郎劇団を統率。1968年人間国宝に指定。

以上は平凡社の百科事典マイペディアの記述である。「尾上梅幸」という名跡は代々受け継がれてきた。本日取り上げる尾上梅幸は7代目である。尾上梅幸『拍手は幕が下りてから』の女形を演じる極意を興味深く読んだ。

女形の基本は踊りにある。女形の演技は、歩き方・階段の昇り方など年齢、職業で違う。女形の役者には、お茶、お花、針仕事、料理は欠かせない。かつらの鬢、襟の抜きなど後ろ姿が大切。仕草、お茶碗の持ち方、草履の脱ぎ方、、、、。

歌舞伎役者一般についても語っている。息をつめることと間のとり方が難しい。常に代役ができる準備をしておく。一芸に秀でる。体で覚える。腹式呼吸

6歳で初舞台を踏んだ尾上梅幸は養子だった。実子と同じように育てられ、そのことを知ったのは15歳だった。この本では、「表を歩くときもぼんやり歩くな」「人間骨惜しみしちゃあならねえ」など何度も父からの教えについて語っており、後継者としての意識は高かった。梅幸は人生には浮き沈みがあり、下に下がったら勉強する。そうすれば次の波の頂点はもっと高くなる。そういう考えで、70年の歌舞伎役者人生を全うした。

7代目は、「名前」についてどう考えていたか。ある期間、預かっているだけだであるとの考えだった。この本が出た1989年には息子(藤純子と結婚)が「菊五郎」を継げるかは、本人の才能次第だと考えていたが、幸い息子は菊五郎を継いだのは幸せだっただろう。

拍手は幕が下りてから (人間トークシリーズ)

拍手は幕が下りてから (人間トークシリーズ)

 

 

 

 

 

 

 

イチロー語録から(22日、23日の新聞)。日経広告「新・深・真 知的生産の技術」。

22日の新聞と23日の新聞をたくさん買ってイチローの言葉を拾ってみた。

・800回の口惜しい思いがある。誇れるとすれば、常にそれと自分なりに向き合ってきた事実だと思う。(2013年、日米通算4000本安打達成時)スポーツ報知。

・僕は野球の研究者でいたい。それ(翌年の復帰)も研究材料の一つ」(2018年5月に会長付特別補佐就任が決まった会見)スポーツ報知。

・野球の魅力「団体競技なんですけど、個人競技なんですよ。それが面白い」日刊スポーツ。

・表現することは目標に近づく一つの方法

・自分の限界をちょっと超えていく。そうするといつの日にかこんな自分になっているんだ。少しずつの積み重ねでしか、自分を越えていけない。日刊スポーツ。

・僕の野球人生の中で、最高に熱かった。怖さを知り、それを乗り越え、技術を確立した上で残した数字(2014年、シーズン安打のメジャー記録を打ち立て)スポーツ報知。

・僕はほかの選手のように特別な才能がないから、バランスがよくなければいけない。朝日新聞

・40歳を超えて現役でいることは大事なこと。現役でないと、わからないことがたくさんある。産経新聞

・3000という数字よりも、僕が何かをすることで僕以外の人たちが喜んでくれることが、今の僕にとって何より大事だと再認識した。(2016年)毎日新聞

・(自身への)大変大きなギフト。どの一瞬も大切にしれ、一瞬、一瞬を刻みたい(2019年3月16日)毎日新聞

・準備とは言い訳の材料となり得るものを排除していくこと。そのために考えられるすべてのことをこなしていく。東京新聞.

イチローが帽子を脱いだ写真で、白髪がだいぶ出ているのをみて、求道者の長い年月を想う。

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タグ付けをやっと使えるようになった。久米さんの講演のおかげ。

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本日の日経新聞

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スイミング:300m

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「名言との対話」3月23日。庄司昭夫「鳥がわたしに話しかける あなたの夢の続きが知りたいと わたしは鳥に答える なりたい自分のなること なれそうにない自分になること」

庄司 昭夫(1943年2月4日ーー2011年3月23日)は、日本の実業家。

ジャズ・ドラマーを経て、1968年に盛岡市ハンバーガーとサラダの店「べる」を開業。1976年、カウベルカンパニー株式会社(現、株式会社アレフ)を設立。1981年、ハンバーガーレストラン「びっくりドンキー」を札幌市にオープンし、全国展開をスタートする。

その後、企業活動の領域を外食産業から環境共生型の持続可能な事業へと広げ、「自然を大切にする事業展開」の礎を築く。2019年2月現在で、レストラン「びっくりドンキー」、イタリアン「ペペサーレ」など。339店舗(直営136店、FC203店)。売り上げ高376億円。社員692名、パート2856名。

庄司はプライベートでは、自然を愛し、世界各国の鳥の撮影をはじめ、カヌー、登山、またドラム演奏など多趣味な活動を展開した人である。

『鳥は夢を見る』(写真・庄司昭夫。詩・庄司トモ子。世界文化社)を手にした。

コクチョウ、キビタキツツドリコルリ、キョクアジサシ、ルリミッドリ、ヒクイドリ、エゾフクロウ、ヒバリ、スミレザキ、クビワヤマセミ、」カルガモインドクジャクオジロワシアマサギ、タンチョウ、ろいやるペンギン、ウミネコオオルリ、コシグロペンギン、、、。

庄司が撮った、生命(いのち)の尊さを感じさせる写真を大画面で見ることができる。相当な準備と大型の機材と気の遠くなるような時間を使って撮ったであろう、それぞれの鳥の姿がまことに愛らしい。生命(いのち)の尊さを感じる写真だ。鳥の姿がまことに愛らしい。撮影者の鳥への深い愛情を感じさせる写真集だ。

「君のうたう声で 今 誰かが目を覚ました 君のうたう声で 今 誰かが微笑んだ 鳥たちよ 時折ぼくの夢に現れて 語りかけてくれないか 世界はもっと美しくなれると」

「鳥がわたしに話しかける あなたの夢の続きが知りたいと わたしは鳥に答える なりたい自分のなること なれそうにない自分になること」

「まえがき」には、庄司トモ子が昭夫を語っている。45歳から鳥の写真を撮り始め、国内、海外にも出かけるようになった。ある日「いつか写真集を出したい! そのときおまえが詩を書くのだよ」と言う。1万枚を超えるポジを整理し、「鳥がわたしに語りかける、、」などの詩も書いた妻は、夫が「この詩のような人物であったことは、私の誇りです」と妻が語っている。素敵な夫婦の物語だ。 

鳥は夢を見る

鳥は夢を見る

 

 

 

 

 

 

NPO法人知的生産の技術研究会の総会と久米信行さんセミナー。

10時半:立川で4月出版の単行本の最終読み合わせ。

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15時:代々木、力丸君と打ち合わせ。今後やるべきことの全体像がみえてきた。JAPANプロジェクト。

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代々木:NPO法人知的生産の技術研究会

16時半:高橋副理事長、福島事務局長と打ち合わせ。

17時半:幹事会

18時:2018年度総会

・私からの理事長挨拶。

-再建:2020年10月17日。生誕100年、50周年。民博、梅棹サロン。記念シンポジウム。日経。毎年地方で大会。交流。
-地域知研:関西、岡山。沖縄、九州、宮島、東北。6月北海道、東海。ヨコのネットワーク。
-新深真は毎年刊行。東京セミナーは人生100年sns。出版とリンク。
-図解とマネジメントゲーム。テキスト完成。4月に東北で図解演習。
-寺島顧問::全国の映画館でセミナーのライブビューイング。アミューズと地方新聞。寺島と一流講師陣。柳井、似鳥、安藤、池森、細川、、。11回8万、6万。知研価格。個人、会社の研修。
-久恒:特任教授。雑用から解放。自由。月1冊を目標。4月に「名経営者の言葉」を出版。
-人生100年時代のモデルの。コストとリスクではない、ライフワークが完成するチャンス。知研の時代!

・2018年度決算・2019年度予算の審議。

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 18時半から1時間強:例会セミナー:ゲストスピーカーは久米信行さん。テーマは「SNSで知的生産」。実に興味深い講義だった。皆、大満足。

アマゾンミュージック。アマゾンプライムビデオ(名画)1000円。キンドルアンリミッテド(読み放題)。ぐるっとパス(2か月2200円。東京の美術館・博物館の半分はタダ)。東京はコンサートも格安、映画・音楽もほぼタダ、ランチは世界一おいしい、無料講座、JMOOCオンライン講座、MOOC。精神的貴族になれる!タグ付け。ネットとリアル。無心で投稿。ネトウヨとネトサヨしかいない。モバイルシフト。サイマルヴューイング。笹川良一ブログ。公開執筆でベストセラーに。SNSで不得手に帆をあげよ。ホットスポットは22年前インターネット、17年前地球環境、11年前社会起業家、9年前観光地域づくり、今は教育X文化X芸術。リアルの20人・同志の200人・緩い関係2000人。インスタグラムにフィルターをつける。インスタ格差が経済格差に。即発信し即忘れる、後で検索。『梅棹忠夫のことば』。事前準備で営業。ググってウィキして、、。渋谷哲一。地縁・血縁・学縁・社縁、そして網縁。一番目前で必ず一つ質問・講師と名刺交換・お礼のメッセージ・ブログ登録メルマガを読む・コメント・イベント参加。狂信力X継続力。縁・運・勘。ことりっぷ。脳のパラボラ力。心のズーム力。旅の探検力。地元紙・タウン誌。SNS発信・キーワードのみ・一か所10枚の構図写真。インフルエンサーとつながる・地元通NO1・観光協会のHP。アニメの聖地(諏訪湖江ノ電大洗海岸・竹原・飯能)。前泊と後泊。レンタサイクル・レンタカー。近隣温泉で朝食のみで宿泊。一人ゴルフ。道の駅。古民家カフェ。21世紀の主役は日本女子。

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 東京以外は、岡山、名古屋、福岡からも理事・会員が見えて盛況だった。伊藤さん(8月5日の岡山講演)、池淵(鮎川儀介研究)、阿部さん、、、。次回のテーマは井上貴美子さんの「平穏死」。

幹事の根岸さんと話しながら帰る。

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「名言との対話」3月22日。大関早苗「美しくなるということは幸せになること」

大関早苗(1925年6月28日ーー1989年3月22日)は昭和時代後期の美容家。

 20歳で軍人と結婚。2児をもうけたが、4年後の24歳で夫と死別。昼は洋裁学校、夜は山野愛子高等美容学校で学ぶ生活の中、二者択一を迫られ、「髪結いの亭主」という言葉があるように、亭主を養えるなら子供二人も大丈夫だと考え、美容の世界を選ぶ。すぐさま美容の本場のニューヨークで新しい美容師を目指すこととし、子どもたちは母と兄嫁に預けブラジル、アメリカ、フランスで3年の修行をする。

帰国後、1959年東京・市ケ谷大関早苗美容室を設立し、その後、化粧・髪型・動作から一般教養まで総合的に指導するカリキュラムを設定した東京チャームスクールを開校。1962年には海藻の美容効果に着目し、エステティックブームの先がけとなる1963年には西銀座に大関早苗美容室を開業。再婚し、1974年から6年間ロンドンに滞在した。

職業人としては成功するが、3年間の海外武者修行の間の負の遺産は大きかった。帰国後に子どもを抱きしめようとすると、手を払いのけられる。じっと白い眼で見つめられる。日本での多忙な生活でも、母の部分は欠落する。娘はなつかないまま学生結婚をして家を出ていく。47歳で再婚した相手にしたがって、仕事を周囲に任せてロンドンで生活をする。再婚にも問題があり、子どもたちの言葉で傷つく日々であった。ロンドンで娘に家庭のことを頼むことにし、孫のアニーとの生活を送る。しだいにわだかまりが解けていく。その日常生活を描いたのが『アニー物語 ロンドンの寺子屋から』だ。

6年間のロンドン生活を経て、帰国。かつらの導入、メンズサロンの解説、美容体操の考案など、新分野を開拓していく。大関早苗美容室は今なお健在であり、大関早苗の「美しくなるということは幸せになること」という言葉も生き続けている。その裏には、女として、母としてのこのような苦悩もあったのである。母子家庭での、職業婦人としての顔と家庭の母の顔の葛藤をこの本で垣間見たが、大関早苗は長い時間をかけてなんとか両立できたのではないだろうか。

アニー物語―ロンドンの寺子屋から (1980年)

アニー物語―ロンドンの寺子屋から (1980年)

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平成30年度多摩大学「卒業のつどい」。私もイチローと一緒に卒業です。

平成30年度多摩大学卒業式。245名が卒業。

学長:多摩大は平成と並走。学部・大学院OBは9201人。一期生は50代に差し掛かっている。平成の期間に何が変わったのか。冷戦後の30年。一つはインターネット。軍事技術のアーパネット(1962年)の民生転換。開放系・分散系。それがビッグデータ、AIへ。ネットワーク情報革命の30年。二つ目はアジアダイナミズム。平成の始まりは日本はアジアで断トツ、中・印・アジアのトータルの3倍。現在は日本を除くアジアは日本の4倍、中国は3倍。これからは? 工業生産力モデルの行き詰まり。終身雇用・年功序列の崩壊。ジェロントロジー人生100年時代。人生に対する考え方が重要。学び続ける。自分の頭で考える習慣。課題解決力。人的ネットワークが半分以上。使命感。

理事長:現代の志塾。志の実現へ。少子化は若者に期待がかかる。チャンスが増える。「夢なきものに計画なし、計画なきものに実行なし、実行なきものに成功なし、ゆえに夢なきものに成功なし」(吉田松陰)。、

杉田学部長:精神的成長。環境との適合と自分の軸。

総代の二人の挨拶がよかった。多摩大の提供するプログラムに乗っかれば大丈夫ということを改めて確信した。

・首席。小3から不登校通信制高校。多摩大入学後1-2年は成績は良かったが人間的成長はなかった。それから大学が用意したアクティブラーニングを中心に参加。地域、特産品、、、という体験、経験を消化できた。今後は「志」を軸に選択しながら人生を歩んでいく。

・学生会部長、多摩蔡実行委員長。人とのつながりが原動力となった。友人、両親、先生に感謝。(感極まって涙も)。

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本年度の公式行事は本日で終了。私も卒業です。以下、壇上で式を見ながらの感想。

「以下、同文」的人生を送るな。「10年一昔」、教授陣も白髪と後退が増えたなあ。

以下、水盛先生が撮った写真。

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イチローも45歳で引退。メジャー通算3089安打。日米通算4367安打。

イチローの影響力は、日本だけでなく、世界に及んでいる。イチローの「言葉」については、明日記すことにしたい。

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「名言との対話」3月21日。鄭 周永チョン・ジュヨン)「早く頂上を征服したかではなく、無事に降りたか」

 鄭 周永チョン・ジュヨン1915年11月25日2001年3月21日)は、韓国の経済人、現代財閥創業者。

韓国の現代(ヒュンダイ)グループの創業者。貧しい農民の子として生まれ,自動車修理工場を始め、その工場の利益を投じて次々に事業を広げ、1947年に現代建設を設立。1960年代にはパク・チョンヒ(朴正煕)大統領から大量の公共事業を受注して莫大な利益を上げる。自動車(→ヒュンダイ・モーター),エレクトロニクスなどの分野にも進出する。1981年、オリンピック誘致民間委員長となり、猛烈なロビー活動で優勢だった名古屋をひっくいかえし、ソウルオリンピックを成功に導いている。1992年に大統領選挙に出馬し金泳三民主自由党に敗れる。

現代グループは 1990年代に絶頂期を迎えたが、1997年の韓国金融危機で経営難に陥り、事業の規模縮小・再編を迫られたまたキム・デジュン(金大中)大統領に協力し北朝鮮との対話路線の推進役を買って出た。1998年に北朝鮮に牛500頭とトウモロコシを送る板門店を越える映像は世界を驚かせた。この映像は私もよく覚えている。クムガン(金剛)山にはトップ会談で観光ツアーを送り出した。1999年には、平壌北朝鮮金正日キム・ジョンイル)総書記と北朝鮮事業について協議している。

「なせば成る」という信条で一代の事業家となった。あらゆる手段を用いて成功を収める姿勢、そして政治にも深く関わったこともあり、毀誉褒貶も多い人であるが、現代車グループ、現代重工業グループ、ハルラグループ、現代グループなどがあり、親族で経営している現代財閥は韓国10大財閥のひとつとなっている。

この成功した事業家の言葉を拾ってみよう。

「事業は滅んでも構わないが、信用を無くしたらお仕舞いだ」「固定概念が馬鹿を造る」試練はあっても失敗はない」「自分の名前でやれば、責任転嫁出来なくなる」「不可能だと?やって見た?」

信用、固定概念からの脱却、試練、責任、実行など、うなずく言葉が多いが、「早く頂上を征服したかではなく、無事に降りたか」が成功の要件と考えており、着陸や下山の時に注意を払うべきだとしたのだが、財閥の解体・分離と、後継を巡っての争いが世間をにぎわせた。その後、長男は交通事故死、次男は逮捕、四男は自殺、五男も自殺だった。下山はうまくいったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ポッドキャスト『ビジネスに活かす 偉人の名言』の4月分を収録。城山三郎、村野四郎、内村鑑三、リー・クアンユー。

 

午前:学部運営員会。

午後

・できあがった「多摩大時代の総決算」を教員全員に配布。

・「こえラボ」の岡田さんと「ビジネスに活かす 偉人の名言」4月分収録。2時間半。

城山三郎「静かに行くものは健やかに行く。健やかに行くものは遠くまで行く」。村野四郎「私は、はじめから、文学というものは実業による経済的な防波堤の内側で」なすべきものと決めていた」。内村鑑三「何人にも遺すことのできる本当の最大遺物は何であるか、それは勇ましい高尚なる生涯である」。リー・クアンユー「資源が何もないことが、ここまできた秘密なんです」。

夜:会議のため荻窪

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今日の収穫:100年時代を生きるヒント。

・還暦60.古稀70.喜寿77.傘寿。米寿80.卒寿90.国寿92.櫛寿94.白寿99.百寿100.茶寿108.王寿111.天寿120.(フェイスブックへの投稿から)。

・『百歳を生きる処方箋』(石川恭三・河出書房新社)。83歳の現役内科医が著者。高齢者の認知症予防と体力維持のため、5つの習慣を提唱している。「一読、十笑、百吸、千字、万歩」。一日1回はまとまった文章を読む、10回は声を出して笑う、100回は深呼吸(1度10回)、1000文字を書く、1万歩歩く」。(日刊ゲンダイ190320)。

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「名言との対話」3月20日。草森伸一「「本にはね、人間の霊魂が、ぎっしりつまっているんだよ」

草森 紳一(くさもり しんいち、1938年2月23日 - 2008年3月20日)は、日本の評論家

慶應義塾大学中国文学科卒業。3年間の「婦人画報」の編集者を経て、恩師の紹介で慶應の斯道文庫に勤める。そして文筆家となる。写真、マンガ、広告、デザイン、建築、美術、そして幕末、李賀(詩人)など多岐にわたるジャンルで博覧強記の書き手として知られた人物である。

1973年、『江戸のデザイン』で毎日出版文化賞。『ナンセンスの練習』『円の冒険』『絶対の宣伝 ナチスプロパガンダ』『歳三の写真』『荷風永代橋』など多数の著書がある。

2008年に大量の蔵書を残して死去。亡くなってから10日後に3万2千冊の書物の山塊のかなたから遺体が発見された。未完の原稿も多くあり、没後の著作の刊行が続き、2018年11月発刊の『本が崩れる』で19冊目となる。

この本は、本があふれて崩れ、風呂場に閉じ込められた時の脱出記から始まる。「本はなぜ増えるのか。買うからである」という項では、趣味の読書ならこうは増えない、「物書き」という仕事だから増えると語る。伝記に手を出すと破産しますよ、との忠告を副島種臣の孫から脅かされてもいる。

この人は20代は布団の中で書いた。30代、40代は喫茶店、50代は、資料もの中心となったので自宅の座卓のマージャンテーブルで仕事をするようになる。古本屋巡りよりも確実な通信販売書目で本を買うようになる。

谷崎潤一郎と同じく、本棚を人に見らえるのはいやな気分だと書いているが、家賃収入14万2千円の永代橋の2LDKのマンションの部屋は狭いので、しかたなく居直っている。訪ねてくる人は「また本が増えましたね」と必ずいう。また北海道の実家の庭には高さ9mの白い書庫が建っている。1階が書斎、最上階近くに寝室という造りである。

「本にはね、人間の霊魂が、ぎっしりつまっているんだよ」という精霊説は、誰もが納得するという。無数の人間の精気が吸いとられた書庫や図書館はエネルギーの巣である。積ん読の効用は、安らぎの獲得である。最近私も自宅の書斎に自分の気に入った、自分を創ってきたと思われる本を見えるように並べてみたが、その本たちが語りかけているような気持になり、ふと心が安らぐ感じがある。本は読まなくていいのだ。「積ん読」でいい。本に囲まれているだけで安らぎを感じるだけでいい。草森の蔵書は帯広大谷短大に寄贈されて、故郷で優雅に老後を送っているそうだ。 

随筆-本が崩れる (中公文庫)

随筆-本が崩れる (中公文庫)