吉野彰の言葉

今年のノーベル化学賞は、旭化成名誉フェローの吉野彰さんが受賞した。 携帯電話パソコンなどに用いられるリチウムイオン二次電池の発明者の一だ。

文藝春秋2017年8月号に立花隆によるインタビューが載っている。リチウムイオン電池は、世界で年間10億個以上が生産・使用されている現代社会の基本的エネルギー源だ。それはすでに自動車、航空機にまで入りこんでいる。その基本特許を持っているのは旭化成である。吉野は二人の先達に影響を受けている。フロンティア電子論の提唱者で、1981年のノーベル化学賞受賞者の福井謙一。ポリアセチレンという伝導性高分子の発見者で、2000年のノーベル化学賞受賞の白川英樹。 ポリアセチレンを陰極、そしてコバルト酸リチウムを陽極にしてリチウム電池が生まれた。「自動車に乗せたエネルギー密度の高いリチウムイオン電池を社会全体で共用するクラウド充放電システムを作ればよい」と夢を語っている。

以下、吉野彰の言葉を拾ってみた。

「常にお客さまが、そして世の中がいったい何を求めているのかということを、日常生活から探り出すことと、それを達成する手段としての技術をどうやって繋げるかということです。でもその技術への繋がりは、何か新しい発見はないかと真剣に考えているときより、ヒマでボヤッといろいろなことを考えているときに、自然と浮かんでくるんですよ」。

「1995年のIT変革は情報分野で起こりました。私は、次の大きな変革はエネルギー分野で起こると思っています」。

「実際は、研究・開発のチャンスはたくさんあります。確かな目標と、たゆまぬ努力があれば未来に可能性が生まれます。私自身、これからも、第一線の研究者と同じ目線で、新しい研究分野(目標)に挑戦していきたいと思っています」。

「全英で、しぶこさんが勝たれましたよね。明るい話題で子供の人生が変わるきっかけになるといい」。

「この先10年間に起こる事を正確に洞察することは、この10年間の流れを正確に把握、総括したうえでその延長線上としてこれから先10年を見通すことである」

座右の銘は「みのるほどこうべを垂れる稲穂かな」

「今までと変わらないと思うが、私の言葉は重みを持つようになる。日本の産業が活性化するように発信していきたい」

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翌日10日の日経新聞の記事から。

「無駄なことをいっぱいしないと新しいことは生まれてこない。自分の好奇心に基づいて新しい現象を見つけることを一生懸命やることが必要」

「頭が柔らかくないといけない」「最後まであきらめない」

再生可能エネルギーの世の中をつくるため、リチウムイオン電池が環境問題に対する一つの答えになる。それが受賞対象となったと思う」

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「名言との対話」10月9日。輪島大士 「裸になったので、また裸で出直します  」

輪島 大士(わじま ひろし、1948年(昭和23年)1月11日 - 2018年(平成30年)10月8日)は、石川県七尾市出身で花籠部屋所属の大相撲力士、第54代横綱全日本プロレス所属のプロレスラー、タレント。

輪島はスーパースター、名横綱、天才力士、輪湖時代の主役、大卒初の横綱、黄金の左下手投げ、、と呼ばれたことでわかるように相撲界の至宝だった。通算で14回の優勝を果たしている。最後まで四股名は変えず、輪島で通したには珍しい。

花籠親方の長女である輪島の妻の証言を記した『真・輪島伝  番外の人』は2019年7月8日発刊の衝撃の書だ。以下、その内容。

八百長相撲の清算に使ったのです。相撲界での隠語で「チュウシャ」という。星の買取だけでなく、賞金も全て渡していたとの噂もあった。星の取引は負けて返すか、金で解決する。横綱は買取が常識だいわれている。遊びに忙しく稽古不足の真島は1場所に何番か白星を買っていたようだ。

「裸」発言は、引き継いだ花籠部屋が自身の不祥事などで消滅し裸になって、相撲界からプロレス界に転出した時の言葉である。当時はこの転身を不思議に思っていたが、裸一貫での出直しだったのだ。輪島なりの決意の言葉だが、成功はしなかった。

「番外」とは、拉致外というか、話にならないという角界の隠語である。番付けの外だから、悪い意味で使われる。実績は番付のトップだが、実像は番外だったのである。  

真・輪島伝 番外の人

真・輪島伝 番外の人

 

 

 

 

日田。

母といろいろ話をしながらドライブ。日田まで1時間。豆田町で日田名物のうなぎを食べる。

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いいちこ蒸留所は定休日。
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 「名言との対話」10月8日。高木仁三郎「科学者たちは、まず、市民の不安を共有するところから始めるべきだ」

高木 仁三郎(たかぎ じんざぶろう、1938年7月18日 - 2000年10月8日)は、日本の物理学者、専門は核化学

1961年、日本原子力事業に勤務。1965年東京大学原子核研究所助手。1969年東京都立大学理学部助教授。1972年マックスプランク核物理研究所客員研究員。1973年東京都立大学を退職し、反原発活動を展開していく。

 市民の立場から原発などの原子力の平和利用の危険性を指摘し、人間、科学、自然との共存を提唱するエコロジー運動の草分け的存在となる。生涯をかけて原発問題に取り組んだ。1974年プルトニウム問題を考える自主グループ「プルトニウム研究会」を組織。1975年原子力資料情報室専従世話人となる。(のちに、代表)。1988年、反原発運動全国集会事務局長。2000年、死去。享年62。著作に『わが内なるエコロジー』『プルトニウムの恐怖』『核時代を生きる』『市民の科学を目指して』などがある。

 1995年、『核施設と非常事態 ―― 地震対策の検証を中心に ――』を、「日本物理学会誌」に寄稿し、「地震」とともに「津波」に襲われた際の「原子力災害」を予見した。福島第一原発 は「老朽化原発」であり、「廃炉」に向けた議論が必要な時期に来ていると 指摘した。 加えて、福島浜通りの「集中立地」についても、「大きな地震が直撃した場合など、どう対処したらよいのか、想像を絶する」と 、その危険に警鐘を鳴らしていた。「原発は壊れない」建て前になっていて、そのような事態を想定して原発の安全や防災対策を論じることは避けられてきており、原発が被災した場合の緊急時体制や老朽化原発対策などを真剣に考えるという姿勢もまったくみられないことに警鐘を鳴らした。死去の翌年2011年3月11日に発生した東日本大震災でその警鐘が現実のものになった。

死去した2000年に次の時代の「市民科学者」をめざす個人やグループに資金面での奨励・育成を行ってほしいとの遺志により「高木仁三郎市民科学基金」が設立される。科学者としての専門性を持ちながら、市民の視点にたって諸問題の解決を目指そうとした。NPO・NGO・市民グループ等で活動しながら「市民科学者」を目指す人々を応援するため、日本国内およびアジアの個人・グループによる市民科学をめざす調 査研究・研修への助成を実施している。

「ことさらに安全、安全ということによって安全が身につくのではなくて、技術というものの一部に、人間の生命を大事にするような思想が自然と組み入れられていないといけない」と高木は科学思想を語っている。数年前に日本未来学会で出会った植田昌文さんの名刺には「NPO法人市民科学研究室」と書いてあった。高木の後継者の一人だろう。高木の遺志を受け継いだ「市民科学」の発展を祈る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同級生たちと。

 母と「大地」の須賀瑠美子さんを訪問。

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夜は浄土真宗僧侶の嶋田君夫妻とタットリ屋。

「ぼんぼり」でカラオケ。藤田くん。最期はワインスナック。

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「名言との対話」10月7日。橘家圓蔵「芸は教えられない。盗むものです。泥棒と同じです(笑)」

8代目橘家 圓蔵(たちばなや えんぞう、1934年昭和9年〉4月3日 - 2015年平成27年〉10月7日)は、日本落語家

落語は、「軽口」と言われその後「落とし噺」と呼ばれた。最初はマクラと呼ばれる。最後は江戸では「落ち」、上方では「下げ」と呼ばれ、落語の生命線だ。

18歳、落語家を目指し月の家円鏡と出会う。24歳、節子さんと結婚。31歳、3代目月の家円鏡生襲名。日本テレビ笑点」のレギュラー。48歳、8代目橘家圓蔵を襲名。

天丼やふぐを食べられるようになりたい思った。食べるために落語家になると言う簡単明瞭な生き方だ。達者なのは立川談志、うまいのは志ん朝。円鏡は面白い落語家を目指すしかなかった。落語界の四天王と言われた落語家の中では、まず志ん朝、円楽、翌年が談志、そして、その翌翌年に昇真打に昇進する。真打への通過点である「2つ目」の時代は、いくも地獄、逃げるも地獄のような、しのぎを削るような道中となる。歩合給であり、客の入りが少なければ少額になるという仕組みだ。真打はお茶やお花の家元と同じ地位である。圓蔵は四天王と呼ばれて10数年、4人の中ではいち早く48歳で大看板の名跡を継ぐすることになった。

「テンポとアドリブは天下一品だが、落語はもう一つ」という評価があった。「1年に700回位講座をやりますが、よくできたなと思うのは5回もありませんよ」と本人が語っている。

「八代目橘家円蔵の泣き笑い人情噺」(小久保晴行)には、落語界の先達の紹介がある。落語の祖安楽庵策伝、職業にした露の五郎兵衛、辻噺の米沢彦八上方落語の松田弥助、芝居噺の桂文治江戸落語の祖の鹿野座左衛門、落語中興の祖の立川馬、寄席の走りを作った岡本万作、寄せ興行の三遊亭可楽、近世落語中興の祖の三遊亭朝、、、、、、、。

噺家はお笑いを売るショウバイ(笑売)です」という。おカミさんの「セツ子さーン」のギャグはよく知られている。兄弟子の林家三平の「ヨシ子さーん」と同じネタだ。この二人のギャグはよく覚えている。円鏡時代のスピード感のある話ぶりは人気があり、テレビ、ラジオで引っ張りだこだった。

新宿末広亭の北村銀太郎から「今から5年間稽古しろ。独演会をやれ。落語だけに走れ」と忠告をうける。1979年から独演会を始め、自分の持ちネタを増やしていった。これが落語家としての転機となっている。

八代目橘家圓蔵の泣き笑い人情噺

八代目橘家圓蔵の泣き笑い人情噺

 

 

 

 

 

 

 

ゴルフと懇親会。

周防灘C Cで同級生のゴルフ。スコアは秘密、、、。
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夜は、女性陣も加わっての打ち上げ会。
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「名言との対話」10月6日。大原誠「大河ドラマを作るには、時代を読まなくてはならない」

大原誠(おおはら まこと、1937年10月24日 - 2018年10月6日)は元NHKディレクターである。

 NHK入局後テレビ文芸部所属となる。大河ドラマ花の生涯〉に演出助手として参加する。「樅の木は残った」「元禄太平記」で演出を担当し、「風と雲と虹と」「草燃える」〈徳川家康〉「八代将軍 吉宗」「元禄繚乱」では演出のチーフを務める。現代ドラマも数多く手がけ、1990年に「不熟につき…」の演出で芸術選奨文部大臣賞を受賞。NHK退職後はフリーの演出家として活動し、「狼女の子守唄」(TBS系)、「疑惑」(テレビ朝日系)、「二十四の瞳」(日本テレビ系)ほかを演出した。

 入局3年目の24歳。社会部から異動してきた芸能局長から「映画に追いつくような、日本一のドラマを作れ」と命じられた。大河ドラマの第一作「花の生涯」の平均視聴率は、20.2パーセント、“桜田門外の変”の放送回は32.3パーセントを記録した大ヒットとなった。井伊直弼役は(二代目)尾上松緑だ。この作品は子ども頃に家族そろってみていたから、井伊直弼については私は悪い印象を持っていない。

大原の手がけた大河ドラマの作品リストを、そしてそれが伝統となったNH大河ドラマの膨大な作品群は、日本人の歴史観に大きな影響を与えている。私も毎年見続けてきたから、大いに影響を受けているという自覚がある。そういった仕事をしたことは男冥利に尽きるだろう。

大原によれば、徳川家康が主人公の大河は「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」という家康の我慢強さが、視界ゼロ経済の1983年という時代に合ったそうだ。キーワードは我慢、辛抱 だという読みである。大河ドラマを作るには、時代そのものを読まなくてはならない。

大河ドラマは現代を映し出す鏡でなければ、視聴者の共感を呼ばない。だからプロデューサーやディレクターは日本の社会や経済、世相に対する「読み」と、それを作品に仕上げていく「戦略」が重要となる。「現代を映し出すことで大河ドラマは共感を呼ぶ」のである。その考えは現代ドラマでも同じだろう。テレビドラマ制作は「時代」との格闘だろう。それはあらゆる分野の表現者のテーマでもある。

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「名言との対話」10月6日。金田正一「丈夫な体でも、使いっぱなしはだめ。養生させることも大切」

本日プロ野球の400勝投手、金田正一の死亡のニュースが飛び込んできた。朝日新聞の一面では86歳プロ野球400勝投手」、9面では「400勝不滅の輝き」、23面では「かねやん 記録と人情と 長島から4打席4三振」と見出しが踊っていた。それほどの投手だったといいうことだ。

 もちろん日本最高の投手であり、ニューヨークヤンキースの強打者マントルからも来日時に3三振を奪っているから、メジャーでも十分に活躍できただろう。

ロッテの監督としても日本一にもなっている。テレビの解説でも歯切れのいい物言いと、自我丸出しの主張など私も金田節を楽しんでいた。実績がダントツでなので、誰も文句をつけられなかった。憎めない人柄でファンも愛していた。

日本一になった時には「今後も日本の歴史を塗り替えるつもりで努力していきたい」と語っていた。また楽天球団の誕生時には、「客が来れば絶対に強くなる。投資を 惜しんではだめだ」とアドバイスをしていた。

金田は400勝という偉大な記録を打ち立てた不世出の投手だ。30勝をあげたこともあり、20年間で平均すると毎年20勝を挙げたことになる。そして毎年200を超える三振を奪取した。一方で298敗と言う記録も残っている。400勝と300敗どちらが早いか当時話題になったものだ。私は国鉄スワローズという弱小チームに永年いたことが300敗に届かんとする大記録につながったものと思う。この記録はこれからも誰にも破られないだろう。この数字には歓喜とともにくやし涙に暮れる日々があったと容易に推察される。それだけに400勝という栄光の記録とともに、298敗という数字のコントラストがあらわす金田正一という男の人生のドラマに思いを馳せたい。

この二つの大記録は、毎日の走りこみや、資本であるカラダのケアに食事も含めた独自の理論をもとに実践を続けた、野球に対する執念にも頭を下げたい。合掌!

 

 

 

 

 

「白髪と 禿頭の秋  同窓会」。中津で北高の同窓生たちとの大パーティ。

中津で北高の同窓生たちとのパーティ。100人を超える人が集まった。
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2次会。ラグビーW杯を観戦しながら。
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サモアにダブルスコアで圧勝。
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「名言との対話」10月5日。スティーブ.ジョブス「何か1つのことが上手くいったら、そこにいつまでも留まらずに、別の素晴らしいことをやるべきだ。次にするべきことを見つけろ。」 

ティーブン・ポール・“スティーブ”・ジョブズ(Steven Paul "Steve" Jobs、1955年2月24日 - 2011年10月5日)は、アメリカ合衆国実業家作家教育者  

1976年、21歳アップルコンピューター社を作る。22歳AppleIIを発表する。29歳Macintosh発売。30歳Apple社を離れネクスト社を作る。31歳ルーカスから映画制作会社のコンピューター部門を買い取る。40歳ピクサー制作の「トイストーリー」公開。42歳Apple社に戻り暫定CEO。43歳iMac発表。46歳iPod発表。52歳iPhone 発表。55歳iPad販売開始。2011年、56歳没。こうやってジョブスの手がけた作品を並べてみると、私のアップル製品好みもジョブスのせい、いや、・ジョブスのおかげだということがわかる。

ジョブスは人を説得することの天才だった。アップルの社員たちは「現実歪曲空間」と呼んでいた。この空間ではスティーブの言うことが正しいんだ、自分さえ頑張ればいいんだと誰もが思い込んでしまう。時たま、こういう人に出会うことがある。あまりに魅力的な言葉と雰囲気にの飲まれて、思考が停止してしまうのだ。

ジョブスは当然のことながら社員にとってはとても注文の多い上司だった。無理難題を平気で押しつけてくる。「あらゆるルールを破る人でした」という部下の言葉はそのそのことを表している。その助結果、「量より質の方が大事。二塁打2本よりも、ホームラン1本の方が価値はずっと高い」と本人が言うとおりの大ホームランが切れ目なく量産されたのだ。その成果がさらに人々の思考を停止させていく。この循環が彼の真骨頂だった。

 「全てがシンプルで、美しくなくてはならないんだ」。この思想によって世界は魅了された。デザインは思想であった。ここがライバルのビル・ゲイツらとの違いである。

「成功する起業家と失敗する起業家を分ける要素の半分は、純粋に忍耐力であると確信している。」。忍耐、忍耐、忍耐、、、。

「先頭を歩く人(リーダー)と、それについていく人(フォロワー)の違いは、イノベーションを起こすかどうかだ。」 。あるべきリーダーは常にイノベーションを続ける人だ。停滞ではなく発展、過去ではなく未来、真似ではなく創造、、。先頭を歩こう。

「点と点は、先を見ながらは繋げない。過去を振り返ることで繋げるものだ。だからその点と点が将来繋がると、信じなければならない。自分の勇気でも、運命でも、人生でも、カルマでも、何かを信じなければならない。この方法で失敗したことはない。この方法は私の人生を変えてくれた。」。その時点での手がけている仕事に没頭し高いレベルの成果を求めよう。それらがいつか綱がることを信じて。

 もし今日が人生最後の日だったら、今日やることは本当にしたいことなのか?」この問いに「NO」が何日も続くのなら、なにかを変えなくてはならない。 2005年、スタンフォード大学の卒業生を前に行ったスピーチだ。「人生の時間には限りがあります。だから、人の真似をしたりして時間を無駄にしないでください。…、自分の気持ちと直感に従って行動する勇気を持ってください」。すでに病魔に侵されていたジョブスの若者たちへの最後のメッセージだ。

この天才ジョブスにしても、自ら創業したアップルを追い出された時期があった。「アップル社をクビになったことは、人生で起こった最高の出来事だった。成功の重さは、再び初心者になって軽くなった。自由になり、人生で一番クリエイティブな時期を過ごすことができた。」。組織の仕事から離れることは寂しいことではない。自由が手に入り、クリエイティビティが発揮できる時期なのだ。イノベーターの生涯というものは、息つく暇もなく、常に新しい戦いに挑む運命にある。イノベーションの連続が人生である。常に動き続けよう。新しいことに挑もう。

 

 

伝記 スティーブ・ジョブズ (ポプラ社ノンフィクション)

伝記 スティーブ・ジョブズ (ポプラ社ノンフィクション)

 

 

 

 

 

『戦後日本を生きた世代は何を残すべきか』

昨日もらった寺島実郎佐高信の対談本「戦後日本を生きた世代は何を残すべきか」を読了。

以下、抜き出し

自分の蓄積してきたものを埃まみれにしないで、錬磨し、見てきたものを虚構としないで時代の中でさらに鮮明な画像にし、体験を軸にして施策をより体系化して、若い世代にしっかりしたものを残さなくてはいけない。

自分の人生を自分で決めていいと言う時代に生きた。そのことをこの後の時代に覆してはダメです。我々の世代が戦後初めて、強制のない時代を生きた。そのことを、弱さも含めて伝える必要がある。

日本近代史の教訓。誰かによって強制されたり抑圧されたりすることが肯定されてはならないし、努力して自分の人生を切り開こうとするものに公平なチャンスと可能性を与える仕組みについて、もっと強くこだわらなくてはいけない。それが損なわれつつあることに、もっと憤らなくてはいけない。戦後民主主義は今まさに試練の中にいます。

 

問題意識の中で世界史のつながりと展開を把握するというのが、私が今向き合っている、創造に対する1つの態度です。どう生きていったらいいのかと言う、ロールモデルがない。ときめくような本の出会い。過去をアウフヘーベンしながら、新しいビジョンに繋げられるかが時代のテーマだ。活字の本の重要性。

 

アメリカとアジアの二次方程式を解く。日米同盟は不平等、トランプが言うのとは逆。アメリカにとって日中同盟は悪夢のシナリオ。今、ここ、私の価値観。まっとうな知性。全体知に立った構想力。アジアから孤立した日本のシンボルマークとしての安倍首相はアメリカにとって都合が良い。責任を取らない構図、国の正当性に関わる重大問題、日本社会の倫理の軸を崩してしまっている。安倍首相は親米を装った反米論者ではないのかと言うアメリカの危惧。日本の本当の株価は15,000円位。アジアへの目線。近代中国に対する敬愛と怯えにも近い関心。宗教の怖さと偉大さは現世の権力を相対化してしまうこと。

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授業:立志人物伝のテーマは「仰ぎ見る師匠の存在」。吉田松陰福沢諭吉を取り上げた。

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ラウンジで樋口先生と久米先生と懇談。

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 「名言との対話」10月4日。篠遠喜彦「楽園考古学」

篠遠 喜彦(しのとお よしひこ、Yosihiko H. Sinoto、1924年9月3日 - 2017年10月4日)は、ハワイ州ホノルルバーニス・P・ビショップ博物館に所属する、日本人類学者。 

ハワイビショップ博物館に籍を置き、50年以上にもわたり、ポリネシアを中心とする人類史の謎に挑んだ日本人考古学者である。

高橋和也自由学園学園長)は追悼特集で「自由学園男子部時代に学園内の縄文遺跡の発掘に取り組んだことから考古学研究に目覚めます。中学3年生の頃には、鉄の棒を地面に差し込んで土器や石器を探す荒業をあみだし、実際いくつかの土器を掘り出したとのこと。卒業研究では校内出土の黒曜石と他の遺跡のものとを顕微鏡観察によって比較。研究雑誌にも取り上げられます。卒業後は華北農事試験所、日本考古学研究所を経て、ハワイ大学で人類学、考古学を学び、のち北海道大学で理学博士号を取得。ビショップ博物館を拠点にハワイ諸島ニュージーランドイースター島を結ぶ太平洋の三角地帯=ポリネシアの島々の調査研究に力を注ぎ、太平洋・ポリネシア考古学を切り拓かれました。」と篠遠喜彦を紹介している。

また、国立民族学博物館友の会機関紙『季刊 民族学』169号(2019年)では、オセアニア考古学の挑戦―篠遠喜彦の足跡から―」と題した特集が組まれている。ハワイ諸島フランス領ポリネシアをはじめ、太平洋全域に及んだ人類学的探検調査によって知られている。 1962年には、「ハワイ諸島における釣針の編年及びこれとポリネシアにおける釣針の発達との関係」により、北海道大学から理学博士を授与されている。1995年日本勲五等双光旭日章を受章しており、2000年にはタヒチ・ヌイ勲章英語版シュヴァリエ章を授与されている。1996年には、ポリネシア古代文化研究の業績によって、吉川英治文化賞を受賞した。

 ハワイ・ビショップ博物館を基地に、40年間ポリネシアの熱帯考古学にたずさわってきたドクター・シノト。タヒチ、マルケサスなど知られざる熱帯の島々をめぐる彼の探検について、博物学者・荒俣宏が訊いた『楽園考古学』という本がある。巻末には「タオテ・シノトからの手紙」として「自分のすすむ道を目標をもって実行に移す」上での2つのヒントが紹介されている。1つは「求めれば与えられる」ということ。もう1つは「人生には自分が予期せぬことから思わぬ方向に道がひらけることもあるということ」だ。アメリカへ留学する途上、ハワイのビショップ博物館によるハワイ島の遺跡発掘に参加し、そのまま同博物館で研究生活にはいることなどは、その事例だろう。楽園考古学者ドクター・シノトは、生涯をかけて求めた楽園を発見したのだろうか。

 

 

 

2019年秋のリレー講座、初回は寺島学長の講義。

 昼:多摩大総研ミーティング

寺島学長と懇談:総研の未来プロジェクト。出版計画。仏教。梅棹忠夫著作集。小説。共通の知人たち。新刊『戦後日本に生きた世代は何を残すべきか』(寺島実郎佐高信)をいただく。多摩大出版会のバートル先生の新著、、、。

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 2019年秋のリレー講座。

 ・危機感:このままでは日本は大変なことになる。「考える力」をとり戻そう。新聞購読者数この1年で230万部減。スマホ人生。「滅びる色は明るい」。

・日本の埋没:日本の世界におけるGDP比。1950年3%、1988年16%(アジア6%)、2000年14%、2018年6%(アジア23%)、2030-40年代3%(アジア30%超)か。戦後は3%から16%へ(工業による奇跡の復興)、平成は16%から6%へ(アジアダイナミズム)。令和は6%から3%「へ。この10年、なかんずくこの5-6年にDGP比率は急速にダウン。

・技能オリンピック:2019年は7位。2006・2007年は1位だった。現場力オリンピック。日本の産業力の基盤の劣化。経団連研修:経営企画部長・人事部長らはアジア駐在にシフト。経営は頭から腐る。関電事件。日本は経営力・現場力との劣化が著しい。

・なぜこうなったのか? デジタルエコノミーの時代に劣後した。株価時価総額はGAFA+M(4.3兆ドル468兆円)とBAT(0.9兆ドル・101兆円)で計52兆ドル。日本はトヨタ22.9兆円、ソフトバンクG11.8兆円、NTTドコモ8.7兆円、ソニー7.8兆円、キーエンス7.7兆円で計58.9兆円。工業生産力モデルの優等生日本はIT革命を、回線業、eビジネス、電子部品と理解して、「ビッグデータの時代」の乗り遅れた。アマゾン・フェイスブックらは「金融」を狙っている。

・日本企業の株価時価総額:2019年:トヨタ22.9兆円、ソフトバンクG11.8兆円、NTTドコモ8.7兆円、ソニー7.8兆円、キーエンス7.7兆円、三菱UFJ銀7.2兆円、ソフトバンク7.0兆円、ファーストリテイリング7.0兆円、KDDI6.7兆円、リクルート6.3兆円。オリエンタルランド5.3兆円、日立3.8兆円、日鉄1.8兆円、東レ1.2兆円。

・日本の株価は膨らました数字だ。日銀の異次元の金融緩和は犯罪的。麻薬を打ち続け正常化できない。マネタリーベース(資金供給)は5倍。貸出残高は+18%のみ。財政出動による借金は1000兆円を超えた(1108兆円)。株価だけ高くなっている。2010年の2.1倍。GPIF(年金資金)の投入、日銀のETF買い(日銀が直接株を買う)。年内に日銀が日本株式会社の第1位の株主になる。そして消費税10%によって可処分所得は月5000円ダウンする。

アメリカは景気好調時に12回の段階的利上げを行った。景気に配慮し少し下げて調整。日本の景気は劣化するがマイナス金利のためもう打つ手がない。ユニクロの柳井CEO「マイナズ金利が一番の問題。経済倫理を打ち壊す」という。

・政治:改革幻想。政治疲れ。小選挙区制。しかし議員定数は減らず参院選では増えた。行革では省庁再編でも人数は減らなかった。小泉郵政改革で地方は疲弊した。「働き方改革」は、働かない改革になっている。日米自由貿易協定でも農業が痛めつけられ、自動車は継続協議というていたらく。食糧自給率38%。せめてイギリス並みの70%に。エネルギーと食糧の外部依存が大問題。円安は有利ではなく、円の価値を高めていくべきなのだ。

・これからのキーワード:「アジアダイナミズム」「デジタルトランスフォーメーション」「ジェロントロジー」。アジアが日本の10倍になっていく。東アジアでは中国の強大化と強権化。香港の暴動が長引いているのはなぜか。そのキーワードは大中華圏だ。台湾、シンガポール、そしてアセアンに3000万人、世界に7000万人いり華僑・華人のネットワークが支えている。香港は中国から6000万人が訪問していたが、4割減少している。最後のあだ花になる。

日本は近隣の悪口を言うのではなく、一次元高い思考が求められている。

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終了後。

高橋さんと懇談。知研宮島。広島。京都。岡山。50周年イベント。、、、

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夜は杉田副学長らとの懇親会。

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 「名言との対話」10月3日。犬養孝「万葉旅行」

犬養 孝(いぬかい たかし.1907年4月1日 - 1998年10月3日)は日本文学者万葉学者)。

大阪大学甲南女子大学名誉教授文学博士文化功労者高岡市万葉歴史館名誉館長。

 4500首の7割が恋の歌であり、歌の博物館である万葉集、その万葉研究の第一人者である。。万葉ゆかりの土地1200か所をすべて実際に歩いて調査するという大事業を成し遂げ「万葉風土学」を確立した。そして万葉の風土景観を守る運動を生涯の仕事とした。また、テレビ・ラジオ番組や公演などで多数の人に万葉集をひろめた。万葉歌に旋律をつけて朗々と歌う「犬養節」でおおくの万葉ファンに親しまれた。ユーチューブで今回聴いてみた。 日本全国の万葉故地に所縁の万葉歌を揮毫した「万葉歌碑」を建立、故地をまもる活動に奔走した。犬養揮毫の万葉歌碑は131基におよぶ。 

勤務先の大阪大学万葉旅行の会は、20年間で112回に及び、18514名の学生が参加した。1回平均は170名、80名から450名という参加者数だ。その後も、続けていた。

2000年には奈良県明日香村に犬養を顕彰し関係資料を展示する「犬養万葉記念館」が完成した。私は2014年に、飛鳥寺、岡寺を訪問したとき、寄ろうとしたがあいにく休みだった。2010年に日高市大字高麗本郷巾着田に歌碑を訪ねた。入間地の おほやが原の いはいずら 引かばぬるぬる 吾に絶えぞ?)。(武蔵国府中から上野国邑楽郡に至る官道である入間道のおおやが原のいわい葛を引けば、ぬるぬる寄ってくるようにあなたと私の仲を絶やさないでください)は犬養孝の揮毫だった。2017年。山梨県の万力公園を訪ねた。万葉の動植物の公園だ。こkでは犬養孝の解説が本人の声で聴くことができた。

万葉集には4500余首あり、遣新羅使の歌が145首ある。当時日本と朝鮮の間はうまくいってなかったから空しく思う人たちの歌は、望郷や妻を想う歌が多い。この使節の歌は、私の母も研究していたので馴染みがある。また、「多摩川に さらす手づくり さらさらに 何ぞこの子の ここだ愛しき」は、多摩川で手作りの布をさらす、そのさらすではないが、さらにさらにどうしてこの子が滅茶苦茶にかわいいのか、という犬養孝の現代語訳だ。

 犬養孝は学生たちとの万葉旅行も含め、万葉ゆかりの1200か所をすべて訪ねるという快挙を成し遂げている。テーマを持った旅は素晴らしい。私の母も万葉歌碑の旅を続けていたので親しみがある。犬養孝の仕事に励まされて、私も「人物記念館の旅」を続けよう。 

万葉のいぶき (1975年)

万葉のいぶき (1975年)