母と「大地」の須賀瑠美子さんを訪問。
夜は浄土真宗僧侶の嶋田君夫妻とタットリ屋。
「ぼんぼり」でカラオケ。藤田くん。最期はワインスナック。
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「名言との対話」10月7日。橘家圓蔵「芸は教えられない。盗むものです。泥棒と同じです(笑)」
8代目橘家 圓蔵(たちばなや えんぞう、1934年〈昭和9年〉4月3日 - 2015年〈平成27年〉10月7日)は、日本の落語家。
落語は、「軽口」と言われその後「落とし噺」と呼ばれた。最初はマクラと呼ばれる。最後は江戸では「落ち」、上方では「下げ」と呼ばれ、落語の生命線だ。
18歳、落語家を目指し月の家円鏡と出会う。24歳、節子さんと結婚。31歳、3代目月の家円鏡生襲名。日本テレビ「笑点」のレギュラー。48歳、8代目橘家圓蔵を襲名。
天丼やふぐを食べられるようになりたい思った。食べるために落語家になると言う簡単明瞭な生き方だ。達者なのは立川談志、うまいのは志ん朝。円鏡は面白い落語家を目指すしかなかった。落語界の四天王と言われた落語家の中では、まず志ん朝、円楽、翌年が談志、そして、その翌翌年に昇真打に昇進する。真打への通過点である「2つ目」の時代は、いくも地獄、逃げるも地獄のような、しのぎを削るような道中となる。歩合給であり、客の入りが少なければ少額になるという仕組みだ。真打はお茶やお花の家元と同じ地位である。圓蔵は四天王と呼ばれて10数年、4人の中ではいち早く48歳で大看板の名跡を継ぐすることになった。
「テンポとアドリブは天下一品だが、落語はもう一つ」という評価があった。「1年に700回位講座をやりますが、よくできたなと思うのは5回もありませんよ」と本人が語っている。
「八代目橘家円蔵の泣き笑い人情噺」(小久保晴行)には、落語界の先達の紹介がある。落語の祖安楽庵策伝、職業にした露の五郎兵衛、辻噺の米沢彦八、上方落語の松田弥助、芝居噺の桂文治、江戸落語の祖の鹿野座左衛門、落語中興の祖の立川馬、寄席の走りを作った岡本万作、寄せ興行の三遊亭可楽、近世落語中興の祖の三遊亭圓朝、、、、、、、。
「噺家はお笑いを売るショウバイ(笑売)です」という。おカミさんの「セツ子さーン」のギャグはよく知られている。兄弟子の林家三平の「ヨシ子さーん」と同じネタだ。この二人のギャグはよく覚えている。円鏡時代のスピード感のある話ぶりは人気があり、テレビ、ラジオで引っ張りだこだった。
新宿末広亭の北村銀太郎から「今から5年間稽古しろ。独演会をやれ。落語だけに走れ」と忠告をうける。1979年から独演会を始め、自分の持ちネタを増やしていった。これが落語家としての転機となっている。