新企画、新プロジェクトの準備

大学でひと仕事。:「全集」のための文書作成と発送。「知研50周年企画」の文書作成と発送。 新プロジェクトのための資料作成。、、、、。

細野武男・吉村康『蜷川虎三の生涯』(三省堂)を入浴とテレビを見ながら読了。

ーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」1月29日。久原房之介「「公害問題は常に新しい。それは、人類に背負わされた永遠の十字架にも似ている」

久原 房之助 (くはら ふさのすけ1869年7月12日明治2年6月4日) - 1965年(昭和40年)1月29日)は、日本実業家政治家 

 山口県(長州)で生まれる。慶応義塾大学を出て、森村組を経て、叔父にあたる藤田伝三郎が創業した藤田組に入社する。藤田組の持つ小坂鉱山は鉱脈が尽きたと思われ、閉山を命ぜられたが、強力な技術者集団を率いて再開発し、日本有数の大鉱山として息を吹きかえす。藤田組を去るとき、ともに苦労し、久原に心酔した技術者たちは久原の日立鉱山に移行した。この技術者集団の力で新興の金属鉱山として大をなしていく。久原鉱業所(後の日立銅山)、久原商事などを擁する久原財閥を形成し、「鉱山王」と呼ばれた。また銅の加工部門が必要となり、日立製作所を設立する。

久原財閥第一次世界大戦後の恐慌で経営難に陥る。このとき、義兄で技術者の鮎川義介に経営を譲る。鮎川は自身の戸畑鋳物と合併し、日本産業グループとして再建し、発展させていく。

一方、久原は政界に進出し、同じく長州の政友会の田中義一をたすけていく。田中内閣の逓信相、立憲政友会の幹事長となる。二・二六事件にも関与しいったん影響力を失うが、勢力を回復し立憲政友会総裁に就任する。「一国一党論」を主張し、立憲政友会を解党し、聖戦貫徹議員連盟を結成する。戦後はA級戦犯容疑者となり、公職を追放された。解除後は衆議院議員となり、日中・日ソ国交回復国民会議議長をつとめた。

久原は自身を恃むところがあり、「誰がなんと言おうが、自分の心がへこたれなければ、へこたれたことには、ならない」という気持ちでことにあたった。「日立鉱山大煙突を建てた人」と「政界の黒幕」、久原房之介は一身で実業家と政治家との二世を生きた人である。95歳で逝去。久原の収集した文物を擁する大東急文庫は、2011年に五島慶太五島美術館と合併し、現在の五島美術館となっている。

 「公害問題は常に新しい。それは、人類に背負わされた永遠の十字架にも似ている」、その後に久原は「科学の発達につれて、公害もますます多角化していく。これを食い止めようと、いかに多くの人々が、血のにじむ努力と苦悩を積み重ねてきたことか。しかし、此の努力が人類の進歩をもたらす原動力となっていることを考えると、公害の問題は、むしろ、われわれに対して「克己」ということを教えてくれているとも言えよう。
日立鉱山についても同様のことが言える。煙害問題なしに鉱山の歴史は語れない。大正3年12月、当時、世界最大と言われた煙突を、日立鉱山が独自に完成して、此の問題に終止符を打つことができたのであるが、これは凡そ10年に亙る歳月、地域住民と共に苦しみ、悩み、そして自らの手で解決し得た貴重な経験であった」。そして最後に「富士山が、ただ高いのではないと同様、日立鉱山の煙突も、ただ高いだけではないのである」と「日立鉱山煙害問題昔話」(関右馬允著、1963年)の巻頭言で語っている。

企業の活動による騒音、煤煙、廃液、廃棄物、地盤沈下、有毒物など公害は多岐にわたるが、現在では個々の公害の枠を越えて、「環境問題」として世界共通のテーマとなっている。久原房之介のいう「永遠の十字架」も地球規模に拡大している。それを人類の叡智で解決していかねばならない。

参考:大江志乃夫『戦略経営者列伝』(三一書房

 

 

 

 

鮎川義介研究会(鮎研)

鮎川義介研究会(鮎研)を開催(地研)。私の担当の「人物論」に関わる6冊の書物からピックアップしたもの。一度、仕えてみたいと思わせる大人物だ。

ーーーーーーーーーーーーーー

企画、創造するという点については、実に規模が大きくて到れり尽くせりという点では、天下一品でしょう。、、、金が目的ではなくて仕事そのものを楽しむというのである。、、、困難な誰にでもやれぬ仕事をやるというのである。、、、、どこまでも理論的で、理屈を押し通してゆく。、、、研究と調査の上に立って、一旦きめたらどこまでもやていく、、、、地道にその事業を仕上げて、正当な利益があればいい、という行き方である、、、、。むづかしい仕事をやて喜ぶ、、。帝国石油、、、日本石油開発、、、。中小企業のこと、、、、むづかしい仕事だからワシがやろうというのだ、、、。(有楽町人談)

鮎川君か、これはえらい。国宝的な存在といってもいいだろう。欲がなくて独創的の事をする。、、、鮎川君なんか一等国宝だろう。、、彼は目のつけどころがいい。そして構想が大きい。、、、日本の南極の捕鯨事業をやったのは、実に鮎川その人であった。(北洋住人談)

鮎川という人は構想企画をする点では、財界であの人の右に出る人はあるまいと思う。それはあの人は頭がいいからでもあるが、同時に金銭欲がないからの結果であると思う。、、、実に冷静で、頭の組織は定規のように、ピチンとしている。どこまでも理屈で行く。 。。。膝をつきあわせて酒を飲むようなことをしない。大変な熱情のあるような言葉使いもしない。、、、一旦関係のついたものは、どこまでも面倒を見るのである。(渋谷山人談)

とにかくあの人は大変な偉いお方だと思っております。(大通商人談)

彼はよく計画をする男である。日本の財界にはなくてはならぬ人物である。(長防海人談)

 昭和日本の怪物の一人。、、、技術者であったことの力が大きい。、、鮎川にいわせれば、「私は元来、技術屋を養成して、職を与えてやる」ことを目的としたのだという。、、、鮎川のボロ会社買いが始まった、、、。子会社は、また、それぞれに技術者の小王国をかあtちづくっていた。、、大衆から資金を得て、「発明を産業化する」ために使おうというのであった。、、、「ボロ買いの日産」と悪口をいわれながら、「公衆」の資金を動員して企業に投入し、その企業を一流にしたてあげるという手腕と技術、、、。経営の奇才。

 財界の風雲児。

鮎川氏は、生きた魚を直ぐ冷凍させることにしたのである。、、、鮎川は最初鉄の事業をやった。、、、その知識を魚の冷凍に応用したのである。、、、正確な知識で判断して、事業の合併でも、新設でも、即座に決めてしまう。、、、昔の三菱の意気である。、、、知能の勇将なのである。

 「私の絵は我流である」「私は皆さん大衆のために事業をしている」

彼は一切の事業を計数的に割切れるやうに考案する。、、軍需工業以外、手を染めない鮎川の主観も亦、賢明である。、、、科学的な適材適所である。、、、

 「俺は絶対に金持ちになるまい。だが大きな仕事はしてやろう。願わくは人のよく行い得ないで、しかも社会公益に役立つ方面をきりひらいて行こう」

「金持ちが決して幸福なもんではない事を知ってからは、むしろ金持ちにならないで、彼ら以上に羽翼を伸ばしてみたい。その方策はあるまいかと考えるようになったのです」

「日産の場合はデモクラシィを基盤とする独裁であったというのが正しい見方であろう」

「民主主義を財界に現す方法として、一番適切なものは公衆株だと思う、、、理想は全株を民主化することによって企業運営の公正化を期すことにある」

「事業は創作であり、自分は一個の創作家である」

「犬喰わずがある。それを私は好む。、、、人のやらないことばかりやってきた。そして悦に入っているわけだ。そういう損ばかりするクセがある。、、」

つづく、、、。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」1月28日。緒方竹虎言論の自由は各新聞の共同戦線なしには守れるものではない」

緒方 竹虎(おがた たけとら、1888年明治21年)1月30日 - 1956年昭和31年)1月28日)は、日本ジャーナリスト政治家

福岡修猶館中学から、京都や九州の帝大に進んだ兄たちと違って、中国相手の実業家を夢見て東京高商に入るが、退学し早稲田大学編入する。そして1年上の親友・中野正剛の誘いに応じて朝日新聞に入社する。ロンドンへの私費留学、ワシントン軍縮会議を経て、腰を据えて新聞事業に取り組むことになった。徳川夢声は緒方を「九州男児がイギリス風のものを身につけている感じ」と記している。整理部長、政治部長、編集局長、主筆、副社長を歴任し、ジャーナリストとして大成する。

二・二六事件で反乱軍の将校が代表者を出せと言ってきたとき、48歳の緒方が出て、体を近接させて応対し、難を回避している。気力においてまさったのである。この様子はNHK大河ドラマ「韋駄天」で田端の上司として緒方竹虎を演じたリリー・フランキーの好演でよくわかった。

山本五十六とは互いに認め合った仲だった。真珠湾攻撃の後、山本は手紙で敵の寝首をかいたにすぎず、敵は決然たる反撃にでるだろうとし、緒方に「銃後のご指導はよろしく願う」としている。

緒方は「一人一業」を理想としていたが、東條内閣の辞職による小磯内閣の情報局総裁という大臣ポストにつくことになってしまった。太平洋戦争は日華事変の延長であり、まず日華の調整から、和平への道を探ることになる。日本が降伏したとき、整然と武器を捨てたが、緒方は「一人の榎本釜次郎、一個の彰義隊が飛び出す位は、あるべきではないか」と複雑な心境を後に述べている。東久邇内閣では緒方は書記官長に就任した。公職追放となり、「これからあとは、すべて余生だ」として借家に戻った。自分の人生を凝縮した時間を持った。7年間の浪人生活を送る。

戦後、吉田茂内閣の官房長官、すぐに副総理になった。池田勇人佐藤栄作がまだ若く、吉田の後継は緒方が筆頭であった。緒方は吉田茂流の詭弁は認めず、自衛の軍であっても憲法に書き込むべきだという考えだった。保守合同の機運をそがないために、佐藤栄作幹事長逮捕に関し、法務大臣の指揮権発動に力になった。苦境に陥った吉田が解散を考えたのに対し、緒方は憲政の常道に反するとして退陣させている。緒方は自由党総裁に就任した。そして死が訪れる。67歳。

緒方の死は日本の政治史上の一大痛恨事であった。野党党首の鈴木茂三郎も「痛惜の至りにたえません」との心のこもった追悼演説を行った。またイギリスのタイムスも惜しんでいる。風采。弁舌。勇気。経歴。基盤。貫禄。素養。風格。筆力。このどれをとっても、優れていた緒方竹虎は、良質な保守政治家としての資質にあふれていた。緒方竹虎という名前は、頭山満中野正剛や、政治家の事績をたどると、よく目にする。今回、三好徹の警世の書「評伝 緒形竹虎」を読んで、この人の偉さがよくわかった。

言論人としての緒方は、主張のため新聞を発行するなら、広告依存度の高い大新聞よりも、週刊誌のほうがいいとも言っている。確かに現在でも週刊誌の威力は大したものだ。そして軍部による新聞の廃刊の脅しの中で、新聞の轡ぞろえができず、戦争への道を許したことを反省しながら、「言論の自由は各新聞の共同戦線なしには守れるものではない」と述懐している。今もまだ生きている教訓である。 

評伝 緒方竹虎―激動の昭和を生きた保守政治家 (岩波現代文庫)

「前向きな人」「続ける人」「遅咲きの人」「ひとすじの人」「きわめた人」「テーマ追い人」「みがく人」「気概の人」「健やかな人」「つくる人」「天寿の人」「スーパー・センテナリアン」。

2月刊行の著書のゲラのチェックと修正。「前向きな人」「続ける人」「遅咲きの人」「ひとすじの人」「きわめた人」「テーマ追い人」「みがく人」「気概の人」「健やかな人」「つくる人」「天寿の人」「スーパー・センテナリアン」。

目次の人名の後に職業を入れる。数字は最新に。参考文献はどうするか。西暦が基本。誤字。

ーーーー

力丸さんに大学のパソコンのチェックをしてもらう。

昼食を一緒にとって、新プロジェクトについて説明。

ーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」1月27日。三船久蔵「押さば斜めに 引かば回れ」

三船 久蔵(みふね きゅうぞう、1883年明治16年)4月21日 - 1965年昭和40年)1月27日)は、日本柔道家段位講道館柔道十段

仙台二中、早稲田大学予科、そして慶應義塾大学理財科中退し、 1903年講道館入門。159センチの短躯ながら、巨人を倒す妙技の持ち主だった。 1923年講道館指南役、1945年、62歳で最高三位の講道館柔道 10段。 1956年紫綬褒章受章、1961年文化功労者。主著『柔道回顧録』『道と術』など。

「理論の嘉納、実践の三船」といわれるほど、柔道創始者である嘉納治五郎の理論を実践し「柔道の神様」とあがめられた。物理学や力学の研究にも 精力的に携わり、神業とさえ言われた「空気投げ(隅落とし)」を編み出す。相手が動きに移ろうとした瞬間、自分の重心を下げて相手を浮かし、 足も腰も使わずに空気のように投げ飛ばす、空前絶後の技である。国際柔道連盟決まり手66技中、 三船十段しか繰り出すことのできないと言われる幻の技だ。

入門から逝去の前年までの62年間、稽古を一度も休んだことはない三船は70歳で 「柔道の歌」を作詞している。作曲は山田耕作である。

不断の稽古に邪念なく 心は虚しく 身も軽しい 中心帰一のことわりを 忘れず励まん ひとすぢに これぞまことの わが柔道 わが柔道。百練千磨の功を積み 七転八起の妙を得ん 解脱の奥義を悟りなば 変応自在の球となる これぞまことの わが柔道 わが柔道。柔の道には国境(さかい)なく 和らぐ心に敵はなし 世界の友らと手を組みて 樹(た)てばや平和の理想郷 これぞまことの わが柔道 わが柔道。

講道館新館の2階を訪れたことがある。「資料室」の中に「殿堂」があり、三船はこの中で顕彰されている。その奥には柔道の父・加納治五郎を記念した「師範室」がある。75歳の時に、故郷の岩手県久慈市に三船十段記念館ができた。

 

73歳のときの、日本と外国人の高段位の猛者を相手とした稽古姿の映像をみた。仕掛けに対して柳に風と受けながし、次々とかわしていく。そして「空気投げ」、「大車」「横分(よこわかれ)」「球車(たまぐるま)」などで、簡単に大男たちを投げ飛ばす姿は圧巻だ。

「業は科学的研究の上に樹てる技術的修練なり」、「倒す、倒されるは、つまるところ力学である」、そして「柔道の根本は球である」という三船理論では「押さば引き、引かば押せ」という前後ではなく、「押さば斜めに 引かば回れ」という球の如き柔道である。この映像をみてそのことを納得した。三船久蔵のように、創造的態度で取り組まなければ、最高位の十段には達しないだろう。

 

帝国デーバンクの創業者・後藤武夫「現地現認」

帝国データバンク史料館を訪問。市ヶ谷の防衛省の向かい側の10階建てのビルが帝国データバンク本社ビルだ。そのビルの9階に帝国データバンク史料室がある。

帝国データバンクは企業情報を扱う企業と漠然とは知っていたが、今回この企業や業界の歴史と現在の姿を、よく整理された情報と最新の動画情報などで知ることができた。

「信用調査業」の始まりは1810年のイギリスのペリー社から始まる。もう200年以上になる業界だ。産業革命で経済取引が盛んになり、当事者による信用調査の限界を補うことが必要となった。

f:id:k-hisatune:20200125173447j:image

日本では19世紀の末に大阪で外山脩造の商業興信所、東京の渋沢栄一らによる東京興信所ができ、そして1900年には後藤武夫が民間で初めて帝国興信所(後の帝国データバンク)を設立した。九州福岡県の久留米出身の後藤は、福岡中学、東京英語学校、同志社などを経て、故郷で代用教員をする。21歳で結婚。1894年の日清戦争での友人の死で目覚め、大阪の関西法律学校に入学しトップクラスで卒業。福岡日日新聞記者を経て1898年、28歳で上京。母校の関西法律学校(後の関西大学)出身者と同郷の九州出身者の支援を得て1900年、30歳で起業した。1920年代の後半には、3大興信所の一角に食い込んだ。

3つの方針:「脱俗」。もっともすぐれたという意味。「至誠努力」。詐欺師から守るためにひたすら努力せよ。「大家族主義」。そして「現地現認」が原則で、現在に赴き自分の目と肌で確認することを徹底した。

 1929年の雑誌「講談倶楽部」で「全国金満家大番附」のデータ調査を請け負っている。8ヶ月、2000名を動員した。それによると、横綱は三井八郎衛門と岩崎久弥、大関以下は住友、安田、大倉らの4大財閥が並んでいる。

大正から昭和にかけて、帝国興信所は北は樺太(サハリン)から中国、韓国、そして南は台湾まで29の海外支所を展開していた。

f:id:k-hisatune:20200125173427j:image

この会社に関係した人々を展示していた。山本周五郎は20代の前半4年間を帝国興信所で過ごしている。頭山満は創業者・後藤武夫の人力車夫時代の贔屓の客だ。桃中軒雲右衛門とは兄弟分の盃を交わした仲だ。徳富蘇峰与謝野晶子直木三十五は機関誌「日本魂」に寄稿している。三島由紀夫は「豊穣の海」の第4部「天人五衰」のために綿密な取材をしている。

f:id:k-hisatune:20200125173406j:image

 周年行事のための印刷物も業務内容の一つ。「広報誌型企業史制作」。A4で36pで150万円、6か月、500部。今年2020年で創立400年は鳴子温泉ホテルと虎屋本舗。130年はクボタとイトーキ、120年はいなげや、日新製粉グループ。110年は日立製作所不二家。100年はマツダスタンレー電気、イトーヨーカ堂リンナイキーコーヒーとなっていた。

f:id:k-hisatune:20200125173504j:image

 個人の身元や経歴は「日本紳士録」や「人事興信録」がある。企業については「帝国信用録」「帝国銀行会社要録」などをこの会社が発行してきた。

企業活動にとって「倒産情報」は貴重だ。直接の取引先はもちろん、その先の関係企業も破綻する恐れも出てくるからだ。一刻も早い情報が企業の命運を左右する。

 「TDB24時」というビデオがよくできていた。8⑶カ所の拠点。海外はニューヨークとソウル。企業価値の評価モデル。「倒産速報」で社会に貢献。法務経。コンサル。電子化。ネットショッピング時代。個人向け企業情報サービス。データベース事業コスモス。人事調査の廃止。1980年代以降は総合情報サービス業へ。1000人超の調査員。110万件の調査。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」1月26日。佐々木象堂「瑞鳥」

佐々木象堂(1882年3月14日〜1961年1月26日)は、鋳金作家。

佐々木象堂は本名は「佐々木文蔵」。1882年佐渡佐和田町に生まれ、貧しい家庭に育ち、11歳の頃から奉公し高等学校を卒業。画家を志したが、極度の近視のため画家として立っていくことを諦め、佐渡へ帰郷。帰郷した象堂は20歳の初夏、初代鋳金家 宮田藍堂の門に入り、名を『象堂』と名乗って鋳金家への道を志す。ろう型鋳金の修行6年、師の許しを得て独立自営するようになり、数々の素晴らしい作品を残した。晩年、重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受け、1961年80歳で死去した。

 ろう型鋳金は、柔軟な性の高い「ロウ」を材料に使い、自由に造形できるのが特徴だ。工程をなぞると、ロウを竹べらや手先で細工して原型をつくる、鉱物用の真土で包み込む、高温で焼き上げてロウを鋳型から流出させる、その空洞に溶解した金属を流し込む。それで完成だ。

 私は佐渡には旅行したことがない。時折、調べている人物や知り合いが佐渡出身と聞くことがあり、また流人、金山などの歴史にも興味がある。今回、佐渡に関係する人物を少し調べてみた。政治家の有田八郎。思想家の北一輝。医学者の司馬凌海。出雲の阿国。そして知り合いの教育社会学者の竹内洋、、、。この島には旅をして、佐渡歴史伝説館と併設の佐々木象堂記念館にも足を運びたい。

吉事の前兆を示唆するとされる気象品物事象などがある。たとえば、竜、鳳、麒麟鶴、亀、甘露、彩雲、新星、玉など。この中での代表の一つは「鳳凰」だ。中国では、聖徳をそなえた天子の兆しとして現れるとされる。孔雀に似た想像上の瑞鳥である。雄を「鳳)」、雌を「凰)」という。その鳳凰を佐々木がロウでつくった幸運を招く「鳳凰」をデザインしたのが佐々木象堂の「瑞鳥」である。1958年の日本工芸展で最高賞を受賞したこの代表作は、皇居の新宮殿造営にあたり、棟飾りのデザインに採用されている。NHK大河ドラマの「麒麟がくる」の麒麟も瑞兆の一つだ。

私の子どもの頃、九州の実家の客間に2つの額がかかっていた。南には「吐鳳」(とほう)という亀井南冥(陳人)の見事な書があり、北には頭山満の大きな書があった。大学生の頃、父親に「吐鳳」とはどういう意味か、と聞いたことがある。「鳳(おおとり)を吐くという意味だ。中国の偉い文人がなかなか文章が書けなくて困っていたら、明け方に口から鳳が飛び立つ夢を見たという。そうしたら翌朝文章がスラスラ書けた、という故事からきている」との回答だった。文章を書く人に「吐鳳」という文字は縁起がいいというので、いずれ私の号にしようと思ったことがある。
この亀井南冥は江戸時代の儒者筑前福岡藩医、甘とう館総裁。門下に日田の広瀬淡窓がいる。北の果てに数千里ものからだを持つ「こん」という魚がおり、一旦海を飛びたてば、まるで大空をおおう雲のような数千里もの羽をした鳳に姿を変え、南の果ての海まで天を翔ける。「燕雀(ツバメ・スズメ)安んぞ鴻鵠の志を知らんや」という諺の「鴻」(オオトリ)が鳳のことだ。大鵬も同じ意味である。「鵠」はコウノトリで大きな鳥。史記に出てくる。鳳凰は優れた天使が世に現れる兆しを示す空想の高貴な瑞鳥である。帝王の善政を称え天下の泰平をもたらす瑞鳥。鳥の王。蛇、魚、亀、鶏、龍などを組み合わせ。五彩を備えている。

父が亡くなくなり13回忌になった年に、母に頼んで表装をしてもらった額が届いた。開けてみるとなかなかいいものに仕上がっていた。書斎でこの書を眺めてみると、実家の座敷と父の思い出が甦ってくる。

 

 

 

「企業博物館」の発見

日本は企業博物館が充実している国である。国内の博物館の20%を占める約1000館の企業博物館が活動している。博物館は5000館あるということになる。企業は現在の企業活動だけでなく、歴史遺産という貴重な情報を持っており、それを社内外で活用するための施設が企業博物館だ。企業内では、苦境に陥った時、業態変革を迫られた時には、企業の歴史を振り返るだろう。過去の歴史によって、未来を展望することができるから、企業博物館(企業ミュージアム)は貴重な経営資源であろう。その実態は多種多様だ。

帝国データバンク史料館が発行する「Muse」というPR誌には、シリーズで他の企業博物館の担当者インタビューや起業家(2010年1月号は相馬国光、2019年7月号は大原孫三郎)が紹介されていて読みごたえがある。以下、いくつかを紹介する。この「Muse」は全部みたい。

森永製菓史料室。日本で一番古いお菓子の会社だから「菓子業界」の歴史そのものでもある。社内報は第一級の企業資料だ。創業者は森永太一郎。出身地の佐賀県伊万里市民図書館には森永太一郎コーナーがある。

囲碁殿堂資料館。日本棋院創立者大倉喜七郎と第1回以後殿堂入りした本因坊算哲という人物が注目すべき人物だ。

東京で目についたものを挙げる。タニタ博物館。世界のカバン博物館(エース)。セイコーミュージアム野球殿堂博物館。カメラ博物館。丸美屋ミュージアム。凧の博物館。樫尾俊雄発明記念館(カシオ)。昭和ネオン高村看板ミュージアム。京王レールランド。代田記念館(ヤクルト)。、、、、。心躍る感じがする。

北海道のサッポロビール博物館や雪印メグミルクの酪農と乳の歴史館。秋田県TDK歴史館。静岡県のスズキ博物館。愛知県のノリタケの森、カゴメ記念館、トヨタ博物館三重県の御木本幸吉記念館。岐阜県の内藤記念くすり博物館。大阪府のまほうびん記念館、江崎記念館、イトーキ史料館。京都府の島津創業記念館、月桂冠大倉記念館、グンゼ博物苑。兵庫県竹中大工道具館ユニチカ記念館、揖保の糸資料館。岡山県の倉紡記念館。広島県マツダミュージアムお好み焼き博物館「ウッドエッグ」。福岡県のTOTO歴史資料館。佐賀県の中富記念くすり博物館。長崎県三菱重工業長崎造船所史料館。沖縄の琉球新報新聞博物館。、、、、、。

人物記念館も公的記念館を中心に900館を超えてきたので、今後は企業博物館というジャンルで創業者も追いかけることにしようか。昨日、第一弾として市ヶ谷の帝国データバンク史料館を訪問し、その方針が固まった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」1月25日。牧野伸顕私ならどうするということをなぜ、考えないのか」

牧野 伸顕(まきの のぶあき、1861年11月24日文久元年10月22日) - 1949年昭和24年)1月25日)は、日本政治家

11歳で岩倉遣欧使節団に参加し、そのままフィラデルフィアの中学に入学。帰国後開成学校(東京帝大)に入り、中退し外務省に入省する。ロンドン大使館、太政官などを経て黒田清隆首相秘書官、福井県知事、茨木県知事、文部次官。イタリア公使、オーストリア公使。第一次西園寺内閣の文部大臣。男爵。第二次西園寺内閣の農商務大臣。第一山本権兵衛内閣の外務大臣。官僚政治家、自由主義的政治姿勢、薩摩藩閥の一員という独自の位置を持った。第一大戦後のパリ講和会議の次席全権として采配をふるった。子爵。元老と内大臣の仲介者として後継首班の奏請に関与していく。内大臣。伯爵。2・26事件では英米派の代表として襲撃されるが無事だった。

父は大久保利通(次男)、娘婿は吉田茂、ひ孫は麻生太郎という系譜の中にある人物で、大臣などの要職は多かったが、不思議なことに首相には就任していない。しかし常に政治の中枢にいた。薩摩閥にありながらオールドリベラリストとも呼ばれる自由主義者でもあり、保守と進歩の均衡の中、政治と宮中の間に立つという独特の立ち位置の人である。

牧野の娘婿である吉田茂は、ワシントン大使館に赴任した。若き吉田は東京から届く電信を受け取り、すぐに大使に渡すという単調で意味のない仕事に嫌気がさし、自分のように有能な人間を大事な仕事に使わないのは日本の損失だととして、 外交官を辞めると岳父の牧野に手紙を書く。

「お前はなんという大馬鹿ものだ。我以外みな師なりという言葉を、お前は忘れたのかと叱責し、「大使よりも先にその電文を読むことができる立場にある。その廊下の間の何秒間で電文を見て、私ならどうするということをなぜ、考えないのか」と諭す。続けて「後で大使の行動を見て、自分の思ったことと違ったら、それがなぜかと考えてみる。そうやって勉強すればいいじゃないか。思ったとおりだったら、自分は大使並みだと喜べばいいじゃないか。こういう勉強ができる恵まれた立場にいるにもかかわらず、それを絶望したとは何事であるか」と返事をしている。

あまりできがよいとは言えなかった若い頃の私も、折にふれて上司たちから同じような教訓をもらってきた記憶がよみがえる。たとえば、役職者の重要会議に出す書類のコピーとりは、上司が読まさせて教育しようと考えてのことだ。たとえば、担当者として書類を書く時、どうせ上が直すだろうという安易な考えで気合を入れていないのを見破られれる。どうせ、上が考え、決めることだと安易に情報をあげるだけで済ませてしまっていて、「君なら、どう考えるか」と訊かれて返答に窮してしまう、、、。仕事というものは、上司というものは、ありがたいものだと思う。企業などの組織は実は学校だったのだとつくづく思う。

牧野伸顕は明治政府の立役者・大久保利通という父と、戦後日本を立ち上げた娘婿・吉田茂をつなぐ、重要人物であることは論を俟たない。明治新以降の人物や書物をみていると、この人の影を常に感じることになる。明確な像として結ばない、影の薄い印象の人だった。私が感心したのは、牧野伸顕という人物の仕事への取り組み方だ。

吉田茂とのエピソードでは、「自分ならどうするか」、常に回答を用意しようとする心構えの大事さを教えてくれる。そこで吉田が外務省を辞めていたら、戦後日本はどうなっただろうかと考える。池田勇人佐藤栄作へと続く吉田学校の人脈もなかったかもしれない。人は人によって育てられ、そして人を育てる。そういった人の流れが歴史を形づくっていくのだ。

 

 

 

 

 

 

多摩でひと仕事。市ヶ谷の帝国データバンク史料館。代々木で知研東京セミナー。

午前:大学にてひと仕事。

午後:思い立って市ヶ谷の帝国データバンク史料館を訪問。防衛相の向かい側の10階建ての本社ビルの9階にある素敵な企業博物館だ。後藤武夫という創業者の思想と生涯、信用調査という分野の成り立ち、そして現在の事業内容とその社会的意義を探った。

f:id:k-hisatune:20200125053119j:image

f:id:k-hisatune:20200125053134j:image    

 夕刻:代々木でNPO法人知的生産の技術研究会東京セミナー。

17時半:幹事会。50周年企画、総会、引継ぎ、フォーラム編集、、、

2020年最初のセミナー:15名ほどのメンバーが参集。女性2人、多摩大の佐保君も含む現役大学生2人、と若いメンバーも。ゲストスピーカーはトヨタ関係の人で、モビリティ社会についての話で、とても興味深かった。詳細はここには書けないのが残念だ。1時間ほどの講義の後、パーティ。22時まで皆さんと話し込んだ。

 f:id:k-hisatune:20200125053151j:image

「名言との対話」1月24日。矢部良策「文化の香り高い出版」

矢部良策(1893年11月14日ー1973年1月24日)は、大正・昭和期の出版人 。創元社創立者

父・外次郎は書籍販売、福音社経営、取次などの事業を行い、大阪の四大取次の一つになった。その次男の良策は福音社に入社するが、出版にも意欲を持つ。ある新進気鋭の文芸評論家から「出版をもやりたいんです」というと、「大阪に出版社があるんですか?」と皮肉な笑顔で問い返された。この時、この人も認める出版社をつくることを決意する。

1923年の関東大震災で東京の出版社が壊滅して、入荷がなく売る本がなくなったので、いよいよ出版に踏み切ることになった。その第一作が1925年の『文芸辞典』で、「文化の香り高い出版」という志を持つ創元社の基礎ができた。東京支店では小林秀雄を編集顧問に迎えている。新鮮かつ滋味にあふれた青山二郎の装丁も評判が高かった。

谷崎潤一郎春琴抄」、川端康成「雪国」、横光利一「機械」などが話題になった。また、「茶道全集」全15巻、そして柳田国男『昔話と文学』から始まり三木清『人生論ノート』もおさめられた「創元選書」、『創元科学叢書』、『京大史学叢書』などにも取り組んでいる。カーネギー『人を動かす』などカーネギーのシリーズもある。

戦後は山本有三『不惜身命』を第1作目として『百花文庫』がスタート。貴乃花横綱昇進の伝達式で「力士として不惜身命(ふしゃくしんみょう)を貫く所存でございます」という口上で有名になった言葉だ。小林秀雄『無常といふ事』、大岡昇平『俘虜記』、、、。1954年には東京創元社を設立している。

私もこの創元社から本を出している。2010年刊行の『30歳からの人生リセット術』だ。装丁に定評のある創元社らしく、いい本をつくってもらった。この本の「まえがき」では「何者でもない自分」「自分探しではなく、自分づくりを」と書いている。最近読んで感心したのは孫崎亨『戦後史の正体』だ。

「文化の香り高い出版」という矢部良策の高い志は、長い年月をかけて独特の個性を持つ出版社をつくりあげた。1973年に良策が亡くなり、後を継いだ長男の文治は「歴史と伝統を尊重しながらも、常に新鮮でクリエイテイブな精神を忘れず、新しいテーマを探求して行く。人文書を中心とする教養書を柱に、ベストセラーよりもロングセラーを心がけて、堅実経営に徹する」と宣言している。最初に高く掲げた志によって、進むべき道と企業の性格が決まるのだと改めて思った。

 

 

 

南大沢(期日前投票)。荻窪(ゲラ)。市ヶ谷(出版)。新宿(総研)。四谷(酒仲間)。

南大沢:八王子市長選挙期日前投票を済ます。

荻窪日本地域社会研究所:「遅咲き」のゲラ。2月下旬に見本。

市ヶ谷:N出版社。「大全」の打ち合わせ。進んだ。

新宿:「らんぶる」で多摩大総研ミーティング:松本先生と橘川さん。「未来研究会」の進め方。環境と教育。地域編集長、コア・コンピタンス、最前線と最先端、SDGs、熱中小学校

四谷:「たく庵」にて神田和泉屋のアル高校5期生の仲間との久しぶりの懇親会。加藤さん(日産OB)と難波さん(弁護士)。「グラナダ」「翁」「谷中筆や」。難波先生の著書『裁判例から考える システム開発紛争の法律実務』をいただく。帰宅は午前様、、、。

f:id:k-hisatune:20200124001144j:imagef:id:k-hisatune:20200124001147j:imagef:id:k-hisatune:20200124001153j:imagef:id:k-hisatune:20200124001156j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」1月23日。太田黒元雄「平凡のうちに非凡を発見する事」。

大田黒 元雄(おおたぐろ もとお、1893年1月11日 - 1979年1月23日)は、日本の音楽評論家である。

父・重五郎は芝浦製作所、九州水力発電などの創設にかかわった実業家で二葉亭四迷と親交があった人である。その財力で19歳でロンドンに留学。2年後に第一次世界大戦のため帰国し、楽譜や音楽関係の資料類、ヨーロッパの演奏会事情や芸術の動向などの最新情報を得て、音楽に関する執筆活動に入る。日本に初めてドビュッシィーやストラビンスキーを紹介した。23歳では雑誌「音楽と文学」を創刊し、28歳までは自分の出版社から出版していた。28歳、写真芸術社設立。53歳からはNHKの「話の泉」に起用され人気を集めた。この番組はよく見ていたから私も顔は覚えている。

2018年に荻窪の太田黒公園内にある 太田黒記念館を訪問した。大規模な庭園を擁する2700坪に及ぶ自宅跡地は、今は公園として開放されている。旧太田黒家住宅洋館は、造形の規範となるということで、国の登録有形文化財になっている。立ちの高い瀟洒な外観と特色ある意匠を備えている。音楽評論家・太田黒元雄が住宅の離れとして建てた洋館は氏の仕事部屋であった。愛用のスタンウェイ社製のピアノ、蓄音機などが残されている。ここで「ピアノの夕べ」を開いていた太田黒は47年有余の音楽活動を行った。吉田秀和は随筆集の中で、太田黒を「日本で最初の音楽評論家」と紹介している。

太田黒は22歳から48歳まで毎年のように本を書いており、生涯で76冊の本と32冊の訳書で計100冊を超える執筆量だった。1977年に文化功労者に選ばれたとき、「自分の道楽のためにやったことが表彰されるようになった」と述べている。

太田黒記念館で「平凡のうちに非凡を発見する事」という言葉を見つけた。好きな分野を一直線に歩んだ自由人であったこの人の言葉としては意外な気がした。