最上徳内(1755−1863年)は、特産品紅花を最上川の舟運で酒田に運び北前船で各地に売った楯岡というまちの貧農の出である。長崎にに住んだシーボルト(1796−1866年)が「18世紀の卓越せる日本の探検家。まれなる学者」と讃えた人物である。年齢差が40歳近くもあるシーボルトと最上徳内は協力して、アイヌ語辞典を共編する。この辞典にはドイツ語訳が併記されている。
最上徳内は湯島の聖堂で医学や算術を学ぶが、それは27歳で遅いスタートだった。後に本多利秋の音羽塾で天文、測量などの自然科学を学び、それが蝦夷探検につながっていく。
1785年(天明5年)から始まった田沼意次の蝦夷調査に参加する。アイヌ人の姿をスケッチで描くなど、その風俗や習慣に馴染んでいる。
単身での探検ではエトロフ島にも渡り、ロシア人と交わりロシア語や地理も学んでいる。徳内は都合9回にわたり、樺太やオホーツクを含む探検を実行している。
樺太では間宮林蔵と出会い、情報を提供した。それは間宮海峡の発見につながっていく。
ランドサットマップという衛星地図が展示してあった。蝦夷地、現在の北海道が示されていたが、緑の大地の中にところどころ赤い部分があった。札幌、旭川、函といった都市だが、エネリギー消費の盛んなところである。
蝦夷地探検に功績のあった人々のリストも興味深い。
工藤平助 1734−1800年 赤蝦夷風説考
林子平 1738−1793年 経世家 海国兵談
大黒屋光太夫 1751−1828年
生涯9回の蝦夷地調査を行った最上徳内の業績は、和算、論語研究、産業政策など多岐にわたっているが、人物の特徴は頑強な体力と際立った精神力にある。
同郷の斉藤茂吉は、この徳内をつぎのように歌っている。
最上川なかるるくににすぐれ人 あまた居れどもこの君われは
クナシリ島トマリで1798年に詠んだ歌は、アイヌ人との交流を心から楽しんだ様子がみえる。
今年こそえぞ人とも月見れば こさふきもせめ心ゆるして
北方領土についての記述が詳しく展示されていたので、勉強する。
1.最上徳内の千島探検が1855年の日露通好条約の締結に導く
国境は、エトロフ島とウルップ島の間
日本領は、エトロフ、クナシリ、シャコタン、ハボマイ群島
2.1875年の樺太・千島交換条約
千島列島18と交換に樺太全島を放棄
北方領土は含まれていない
北緯50度以南の南樺太は日本の領土
4.1951年のサンフランシスコ条約
千島・南樺太の権利、権原及び請求権を放棄
放棄した値域はどこに帰属するかなにも決められていない
千島列島には北方領土は含まれていない
北方領土は最上徳内らの努力によって日本固有の領土であることを説明した展示である。
北方領土に関する数字があった。年平均4.5度 夏は13度 冬は5−6度
最上徳内のおかげで深いつながりとなった北方領土のアッケシ(厚岸町)と村山市は平成3年7月15日に友好都市提携盟約書を結んでいる。
記念館の外の庭に出ると、最上徳内顕彰碑がある。碑文を書いたのは金田一京助博士。
人口衛星によるGPS(汎地球測位システム)の基準点と示されたところがあった。「徳内基準点」となずけられている。
村山ライオンズクラブがつくった徳内の胸像の正面には水のある小さな庭があった。よく見ると池の中に突き出ている土地は北海道の形をしていた。そして南樺太や北方領土とおぼしき部分がみえる。それを探検家・最上徳内が見つめているという構図になっている。説明をなかったが、よく考えられた構図だと感心した。