「梅棹忠夫著作目録(1934-2008)」−−この大いなる知的生産

k-hisatune2009-07-16

梅棹忠夫著作目録(1934-2008)」が届いた。2008年6月に「梅棹忠夫先生の米寿を祝う会」の出席者に配布しているが、先生の米寿を記念してつくられたものである。さすがに梅棹先生の現在までの全著作が網羅されているだけあって、総ページ603ページの堂々たる大著となっており、感動を覚える。
1979年の最初の著作目録に書いた「著作目録をつくる」(59歳)と、2008年12月に書いた今回の「著作目録の増補・改訂」(88歳)を興味深く読んだ。

著作目録をつくる」

  • 満50歳をむかえて著作目録づくりをおもいたったのは、この機会に、自分の過去をふりかえり、仕事の整理をしてみようという気になったからである。
  • わたしは、ことしの6月には満59歳の誕生日をむかえる。この著作目録づくりは、けっきょく、まる9年がかりの仕事になってしまった。
  • 著作集の刊行はいつ実現するかわからないけれど、そのための準備作業として、とりあえず、しっかりした著作目録をつくりあげておきたいとおもったのであった。
  • 学界あるいは著作家の世界において、自分で自分の著作を管理するという習慣は、どうも確立していないようにおもわれる。
  • 著作のことは、著者自身が記録し、管理するのがいちばんよい。
  • わが生存のあかしともいえるものは、著作をおいてほかは何もないのである。
  • 自分の著作をすべてそろえるという作業は、よほどこまめに、継続的にやらなければ、うまくゆかないものだ。
  • 公表された刊行物で、それが自分の著作物であるといえるために基本的条件は、ふたつある。それは、権利と責任である。その著作の内容を、無断で転載されたり、盗用されたりしたとき、法律にうったえても著作権を主張できるか、ということ。もうひとつは、その著作の内容について、ほかからんあらかの発言があった場合、それに応答する用意があるか、ということである。
  • 自分の著作の全内容を掌握することがこれほどむつかしいとは、まったく予想もしていなかったことである。

著作目録の増補・改訂」(2008年12月)

  • 著作目録をつくるには、かなりわかいときから、そのつもりで材料をととのえておかなければならないのだ。
  • 1986年の春、わたしは突然に両眼の視力をうしなってしまったのである。
  • 著作集ものこさずに世をさらねばならないのかとおもうと、ざんねんでならなかった。
  • 原稿は筆記者の協力を得て、口述ワープロうちでつくり、3年ほどのあいだに編著や対談集をふくめて40冊ほどの単行本を世に送り出した。
  • 1989年春からは、いといよ著作集の編集に本格的にとりくんだ。、、、1993年に22巻目を、94年には別巻の「年譜・総索引」をだすことができた。
  • 著作集の完成によって、わたしはこの世になにものここさずに空に消えてゆくことからまぬがれた。
  • 米寿記念シンポジウムの計画をきかされたとき、これを機会に、わたしは「著作目録」をつくりなおそうと決心した。

結果的に、著作は下記のように整理されている。

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1969072102
「知的生産の技術」
1.(著)梅棹忠夫 2.「岩波書店」722 3.1969.7.21 4.岩波書店 5.新書版 218P 6.著作集11
収録--、抜粋--、教科書に抜粋--、転載--
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「現物をそろえる」「カードをつくる」「「著作」とは何か」「さまざまな「かかわりかた」」「記載の形式」「「記載事項」「原典主義とその問題点」「奥づけと書誌的事項「著作物の単位」「著作物の異同と照合」などの項目を読むと、この「著作目録」をつくるには、作業の繁雑さ、考え方の緻密な整理、そして膨大な労力を要することがよくわかる。
この著作目録は、不世出の「知の巨人」自身による人生の総括にほかならない。これこそ大いなる知的生産である。今後多くの研究者が踏み入れるであろう梅棹忠夫研究には欠かせない書物である。
梅棹忠夫先生は、ここでも独創的な方法の開発と目的の達成に成功しており、後進のモデルになった。
梅棹忠夫著作目録(1934-2008)」は、日本の知的分野の金字塔である。