大学院の受講生達と書いた著書の台湾での翻訳本が届いた。
「馬克思」とは、マルクスのこと。
漢字だから、感じはわかるなあ。
図解は、グローバル言語だ。
「名言との対話」10月21日。志賀直哉。
-「金は食って行けさえすればいい程度に取り、喜びを自分の仕事の中に求めるようにすべきだ。」
--1883年(明治16年)2月20日 - 1971年(昭和46年)10月21日)。明治から昭和にかけて活躍した日本の小説家。白樺派を代表する小説家のひとりで、その後の多くの日本人作家に影響を与えた。代表作に『暗夜行路』『和解』『小僧の神様』『城の崎にて』など。宮城県石巻市生まれ、東京府育ち。
--「必要なことだけを単純化して、美しい所を備えていれば、居心地のよい家になる。」
--写真家の土門拳は人物写真も優れている。志賀直哉、谷崎潤一郎、高見順、会津八一、梅原龍三郎、尾崎行雄などの顔写真を撮っているが、いい顔、立派な顔という意味で、土門は志賀直哉の顔を挙げている。確かに映画俳優のようなといわれたこともある美男子だ。
--安井曾太郎は生涯で30点ほどの肖像画を描いているが、徳富蘇峰の肖像画だけは描かなかった。友人の志賀直哉が「あんな奴を描くのか」と言ったという。戦前のオピノンリーダーだった蘇峰に対する激しい憤りだった。
--「世界人物逸話大辞典」に面白い逸話が載っている。親友の武者小路実篤の晩年の仙川の住まいに、夜ふけて電話があった。妻が出てみると、新聞社からで、志賀直哉が亡くなった、急いで弔文を書いてほしい。これからオートバイで受け取りにいくからとの依頼。実篤は苦痛に耐えながら仕事部屋に行き、机の前に坐った。妻も暗澹として居間でずっと起きていた。真夜中を過ぎても、ほかからは何の連絡もなく、もちろんオートバイは来なかった。明け方近くなって、これは変だと気がついた。朝になって実篤はその原稿を引き裂いた。力をこめて何べんも、細かく引き裂いた。それからまもなく、今活躍中の著名な作家同士のおのおのに、相手の死亡通知の電話が入ったというゴシップが週刊誌に載った。
--さて、志賀直哉は小説の神様との尊称を受けている。無駄のない、淡々とした。乾いた文体には影響された作家も多い。冒頭の仕事への態度、住宅の好み、そして奈良の住居を見た時の感じも含めて、この人は仕事に没頭した、そして情に厚い無欲の人という印象を受ける。その人柄が、志賀直哉の文体に現れている。まさに、文は人なり、である。