「葦わけ小船」(あしわけおぶね)から−−本居宣長の文芸論の処女作

「葦わけ小船」(あしわけおぶね)は、本居宣長の20代の作品で、宣長の文芸論の処女作である。「よい歌」とは何か、を論じている。歌はまさに「本」であり、すべてはここから生まれているということだ。宣長の生涯のテーマ「物のあはれ」に通じる所論である。

  • 善悪、吉凶、うれい、かなしみ、よろこび、いかり、そのいずれにも役立つのが歌であり、こころがあふれ、ことばが幽玄のふかみにとどいていれば、鬼神もこれに感動するのである。
  • いったい好色の道ほどふかく人情に根ざしたものはなく、すべてのひとがそれをねがうのだから、恋の歌が多いのは当然である。
  • 歌にはしらべがなくてはならない。
  • 歌の道の根本は風雅なのだから、平生からこころのもちかたはもとより、身のこなし方にいたるまで、温雅をむねとすべきである。
  • 歌の学問のためには「万葉集」第一だが、歌をよむ手引きとしては、「万葉集」は三代集(「古今」「後撰」「拾遺」)におとる。
  • 「新古今」の名歌は、花と実のふたつをそなえて、じつにみごとである。
  • 何万年をへようと、人情という根本にかわりがないかぎり、よみつくされることのないのが、この歌の道である。
  • 志を述べるものが詩であり、その詩をながく声をひいてうたうのが歌である。
  • 春のおとずれをきく朝から、雪にとざされる年の暮れ、ひとつとして歌の趣向にならないものはない。
  • 見るもの、きくもの、あるいは、うつりかわる四季の風物などを、おりにふれ、こころにふれて歌によみ、それに工夫をこらす、という習慣ができていれば、この世の中につまらないものはひとつもない。
  • はじめは風雅をしらなかったひとが歌や詩をまなぶうちに、やがて花鳥風月をたのしむこころをそだてたりするのは、、、
  • 情でも、ことばでも、とにかくなにか手がかりをみつけたら、それを中心に考えをすすめてゆく。そうすれば自然にこころもしずまることを、よくしっておく必要がある。
  • 歌はその人情をよむものなのだから、人情にふさわしく、しどけなく、はかなく、つたないものであるのは当然である。
  • わが国にある連歌俳諧、謡、浄瑠璃、小唄、童謡、俗曲などは、みな歌からでたもので、歌の支流、あるいは音節や形式上の変種である。そこでこういうものと歌を比較するのは見当ちがいである。
  • じっさい、民情をしる手がかりとして、歌ほど役に立つものはない。
  • 「てにをは」は、歌がいちばん大事にすることである。いや、歌にかぎらず、すべてわが国のことばは、「てにをは」のはたらきによってはっきりした意味がきまるのである。
  • 万葉集」は、勅令にもとづいて編纂されたものではなく、またきびしい選択をへたものでもなく、ただ大伴家持などが私人の資格で聞書をすうようにしてあつめたものなので、玉石混淆のきらいがあり、その中にはとるにたりない歌もかなりまじっている。

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