本日で全て終了。

本日で、母の四十九日、初盆などに関するて案件を全て終えた。

夜は弟と二人で「兆」で総括をしながら食事。

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「名言との対話」8月7日。アベベ・ビキラ「戦士は負けることを決して考えない。勝利は常に自分のものとして定めて立ち向かう」

アベベ・ビキラ(Abebe Bikila, 1932年8月7日 - 1973年10月25日)は、エチオピア陸上競技長距離走)選手。

アベベビキラ 「はだしの鉄人」の栄光と悲劇の生涯』(草思社)を読んだ。

1960年のローマオリンピックでのマラソンでの無名のランナー・アベベが裸足で優勝する。この優勝はエチオピアは世界でも最近の国とされていたエチオピアだけのものではなかった。それはアフリカにとっても歴史に残る1日だった。オリンピックで初めてアフリカ大陸の人間が金メダルを手にしたのである。

次にアベベは新しいゴールを目標にする。それは1964年開催の東京オリンピックだった。インタビューを受けたアベベは「戦士は負けることを決して考えない。勝利は常に自分のものとして定めて立ち向かう」と答えている。

アベベは1961年の大阪毎日マラソンに参加している。この時、後のアシックスの創業者の1人である鬼塚喜八郎アベベに会っている。その印象は単なるマラソン走者ではなく、一人の哲人だった。鬼塚は「アベベに靴を履かせたい」と考え、シューズをはかせることに成功しアベベは優勝した。鬼塚は生涯でアべべから感謝された時ほど嬉しかったことはないと語っている。

ラソンの走り方では2つの方法がある。第一はアベベローマオリンピックで使った「完走するための双方」だ。ラストスパートの41キロまでは先頭集団について走る。第二の方法はあべべが東京オリンピックで使った「勝つための走法」だ。とにかく前に出ることを優先し他の選手のことは考えないやり方だ。

アベベを語る言葉は多い。「走るメトロノーム」「路上の帝王」。「走る哲人」。「行者」。、、、。

妻には「走ればまた勝つと思われているっていうのは辛いことだな」と語っていたという。

2度目の金メダルは2時間12分11秒2の世界新記録であり、史上はじめてのマラソン2連覇だった。終了後「まだあと10キロは走れた」と語っている。銅ダルは日本の円谷幸吉だった。銀メダルのヒートリーと銅メダルの円谷はオニツカタイガーの靴を履いていた。アベベピューマの靴だった。

そのアベベも やはり人間であった。エチオピアの英雄からアフリカの英雄になっていくに連れて生活が荒れる。酒と女である。自制心を失った姿が見られるようになった。練習量は減っていった。

仲の良い友人でありライバルでもあったマモは1972年のメキシコで金メダルを獲得する。「アベベは調子が悪かった。よければ自分がアベベを抜くことはできなかった」とのコメントを出した。

晩年にアベベは自動車事故で半身不随になる。アベベは「苦闘の連続でマラソンなど足元にも及ばない。観客もおらず、応援もない」と苦境を語っている。

1972年のミュンヘンオリンピックでは貴賓として招かれた。観客は総立ちになって拍手で迎えている。アベベのランニングシューズを初めて作った鬼塚喜八郎はこの大会でアベベと再度会っている。その1年後にアベベ脳内出血でなくなっている。

前にのべたように、ローマオリンピック直後には「戦士は負けることを決して考えない。勝利は常に自分のものとして定めて立ち向かう」と語っている。4年後の東京オリンピックの前には「敵は67人のマラソンランナーではない。私自身だった」とコメントした。そして史上初の2連覇を達成した。 人々はひたむきに走るアベベの姿に人々は努力と克己をみた。少年であった私もその一人だった。今日8月7日は、2021年開催の東京オリンピックの女子マラソンの当日であり、この文章を書いている8日の早朝は、男子マラソンが始まった直後である。因縁を感じている。