冬季北京オリンピック日本人選手たちの言葉から。

冬季北京オリンピックの日本代表選手たちの言葉を拾ってみました。

  • 高木美帆「金メダルを取れなくても悔いはないと思えるレースができたことがまずうれしいし、金メダルがとれてうれしさ倍増。形になってよかった」「自分の全てを出し切ることができた」「1000メートルで渾身の滑りができた。やりきったと思える」「悔いがない」
  • 小平奈緒「全身を使って滑ることができた」「不格好な作品となってしまったけど、自分なりの今を乗り越える滑りができたかな」
  • 平野歩夢「選手は命を張って、リスクを背負っている」。
  • 鍵山優真「もっともっとオールラウンダーに近づけていけるような、本当に今回、優勝したネイサン・チェン選手もそうですけど、羽生選手や宇野選手みたいに演技やステップだったりいろんな部分が評価される選手になりたい」「100%を引き出せたことに関して自分をほめたい」
  • 渡部暁斗「山頂にはたどりつけなかったけど、いろんな角度から山を見られていい時間を過ごせたかな」「現状維持は後退と同じ。守りに入ったことはない」「メダルは重たい。かけてきた時間の重みと重なる」
  • 羽生弓弦「9歳の自分と一緒に跳んだ。挑戦、みんなしていること。それが生きることだ」「自分の生き様にふさわしい演技だった」
  • 小林陵脩「メダルはやっぱり特別」
  • 高梨沙羅「皆様を深く失望させる結果となってしまった事、誠に申し訳ありません」
  • 堀島行真「本当の夢は金メダル。またここから、、、先に、、、、」
  • 村瀬ここも「ビタビタにちゃくってやろうという気持ちで跳んだ」
  • 岩淵麗楽「チャレンジできてよかったです」
  • 坂本香織「自分の中で決めたノルマを1個ずつ達成していって、五輪の舞台では最高の演技ができるようにしていきたい」

まだまだ収集途上です。

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近藤さんと打ち合わせ。B出版の原稿。1.1万歩。デメケンミーティング。

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今日の収穫。日経新聞2月21日。「文化」「交遊抄」。

中原誠名誉王座)「七番勝負の理想は4勝1敗」

・本江滋夫(ファーストハワイアンバンク)「リーダーは深刻そうな顔をするな」

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今日のヒント

 

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「名言との対話」2月21日。八田與一「大きな仕事は、30代か40代までに行わなくては駄目だ」

八田 與一(常用漢字: 八田 与一、はった よいち、1886年明治19年〉2月21日 – 1942年〈昭和17年〉5月8日)は、日本の水利技術者。 享年56。

石川県金沢市生まれ。第四高等学校を経得て、東京帝大工学部土木学科を卒業。「お前にとって日本は狭過ぎる。ここは古くて器量の狭い人間ばかりだから、ガイチで腕をふるうほうがいのではないか」とアドバイスされた八田は「人類に貢献できることをやる」という志を立て、台湾総督府に就職した。

古川勝三「台湾を愛した日本人--土木技師・八田與一の生涯」(創風出版)を読んだ。
1894年、日清戦争で勝利した日本は下関条約により台湾とぼうこ諸島を譲り受け、日本初の植民地となる。日本植民地時代の台湾は、当初は土匪との戦いに明け暮れたが、第4代総督・児玉源太郎後藤新平民政長官時代に、大成功をおさめ、以後台湾は急速に近代化する。その台湾近代化の過程での一人の若い人物が、大きな仕事をする。それが東洋一のダムをつくった八田與一である。
このダムによって洪水と干ばつと塩害の三重苦にさいなまれていた不毛の大地嘉南平原は緑の沃地に変わり、台湾最大の穀倉地帯となった。この工事は1920年に開始され、10年の歳月をかけて1930年に完了する。総工費は現在の価値で5000億円以上。計画時32歳だった八田與一は完了時には44歳になっていた。
農民の収入が増え、生活が豊かになり、粗末な家がレンガ造りになるなど衣食住は急速に改善された。人造湖・珊瑚潭を見下ろす丘に八田與一銅像が建っている。物思いにふける座った像である。中華民国が支配することになった台湾では、日本人の銅像の類は撤去されたが、この八田與一だけはかろうじて残った。今残る唯一の日本人の銅像である。中国に「飲水思源」という言葉がある。水を飲む時には井戸を掘った人のことを思い感謝して飲むという意味だ。まさに台湾に人にとって、八田與一は井戸を掘った人となった。

1998年、台湾の歴史教科書「認識台湾」に八田技師が取り上げられる。2000年、烏山頭ダムに八田技師記念室が開館。2001年、「台湾を愛した日本人」の台湾語版が出版。2004年、金沢市ふるさと偉人館に常設展示コーナー。2011年の3・11東日本大震災の時に、台湾からは200億円を超える義捐金が届いた。この額は世界最大だった。その陰には、八田與一のような素晴らしい日本人の貢献の蓄積の歴史があったのだ。

2014年に台湾へ出張したとき、八田の足跡を追った。2011年に完成した八田與一記念公園、烏山頭水庫を訪ねた。人造湖・珊瑚潭を見下ろす丘に八田與一銅像が建っている。物思いにふける座った像である。当時の東洋一のダムである。雄大な景色、翠色の水、美しい緑の島影。この世のものとは思えない素晴らしい景色を見下ろすことができた。ドライバーはこの近くの人で、「尊敬。感謝。農業用水に困ったことがない。米、野菜などすべて」がもたらされたと語る。
八田技師紀念室では、「永遠的技師」という表現だった。嘉南大州の父。烏山頭水庫の父。台湾水利の父。石川県の谷本正徳知事の書もある。嘉南小学校(前身は日本人技師の子女教育)と金沢市花園小学校は姉妹校になっている。八田故居の近くには、宿舎群、テニスコート、プール、屋外映画館、診療所、学校、売店、公衆浴場、食料品売り場などが存在していた。故居の前には良縁、健康、日台友好などのお願いの札があり、八田は神様になっている。
「人々の思いにこたえ 人々に今もしたわれている八田與一 私もそんな人になりたい」(台北日本人学校6年 石井陽菜)。「ふるさとにみんなで築いたかけはしは心の中でずっとあきずに」(石川)。「人々の感謝の気持ちこめられた唯一の銅像いつも、、 」(千田悠里)、、、、
八田與一は1942年にフィリピンに向かう途中アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け、東シナ海で死亡。享年56歳。その3年後、賢く素直で慎み深く正直、そして勤勉であった妻の外代樹がダムの放水路に投身自殺をしている。
中国に「飲水思源」という言葉がある。水を飲む時には井戸を掘った人のことを思い感謝して飲むという意味だ。まさに台湾に人にとって、八田與一は井戸を掘った人となった。5月8日に派は毎年慰霊祭が行われている。

入手した「台湾国民中学歴史教科書 台湾を知る」の83ページから84ページにかけて八田與一の名前が出ている。台湾を知る―台湾国民中学歴史教科書の農業改革の項で、「水利工事を行い、耕地灌漑面積を大きく増加させた。その中でも有名なのが八田與一が設計、、、、灌漑面積は15万甲に達した。」と讃えている。
「今日の台湾の発展は日本精神のおかげです」。嘘をつかない。不正なお金は受け取らない。失敗しても他人のせいにしない。与えられた仕事に最善を尽くす。それが台湾の人のいう日本精神だ。この精神を失ってはならない。

八田與一は過去の文献や事例を徹底的に調べ上げ、それをもとに現場に合う合理的な方法を組み立てるというやり方だった。「大きな仕事は、30代か40代までに行わなくては駄目だ」と語った八田は人類のためになる仕事をし、後の世の人々に多くの恩恵をもたらすような仕事をした。八田與一は神になった。