「神乃珈琲銀座店」。「しゃぶせん」。東京国立博物館「特別展 ポンペイ」。東京都美術館「フェルメールと17世紀オランダ絵画展」。

銀座で、橘川さんと待ち合わせ。田久保さん、福岡の八木さんが同席。

神乃珈琲銀座店(銀座五丁目)で歓談、

「しゃぶせん」(銀座コアビル)で昼食。

赤坂「ざくろ」の直営店。

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上野へ。

東京国立博物館「特別展 ポンペイ」。

BC2世紀に栄え、ローマ人の別荘地となった人口1万人の都市。79年にヴェスヴィオ山の噴火で一気に絶滅した。18世紀に発掘された。古代ローマ都市の生活、美術、文化のタイムカプセルだ。

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東京都美術館フェルメールと17世紀オランダ絵画展」(ドレスデン国立古典絵画館所蔵)。「窓辺で手紙を読む女」の背景のキューピッドの復元のプロセスが目玉。

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動き回ったので、1万5千歩。

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今日の収穫。

複式簿記の父・パチョーリ(レオナルド・ダ・ヴィンチの同時代人)

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今日のヒント プブリリウス・シュルス「金言集」173(『ギリシャ・ローマ 名言集』(岩波文庫

幸運の女神は、自分が大いにひいきする者を愚かにする。

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「名言との対話」2月22日。三浦環「「日本人は国内だけで威張り、日本のことしか考えないで、世界のこのことを忘れていたから、今度の戦争にも負けたのです」

三浦 環(みうら たまき、1884年明治17年)2月22日 - 1946年昭和21年)5月26日)は、日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手。享年62。

東京都中央区生まれ。1903年東京音楽学校在学中、奏楽堂で、日本人による最初のオペラ公演を行う。卒業後、母校の助教授。1911年、帝国劇場歌劇部の主席歌手として迎えられる。1913年、三浦政太郎と再婚。翌年5月渡欧し、ロンドンで演奏会を開き人気を博した。1915年、ロシアの名歌手ロージンとプッチーニ作曲『蝶々夫人』を歌い大好評を得る。その歌声は、作曲者のプッチーニ自身からに「わが夢」と激賛された。以後、欧米各国で20年間にきっちり2000回にわたり「蝶々さん」を演じた。

1935年帰国。翌年、2001回目の『蝶々夫人』演奏会を歌舞伎座で開催。以後、死去までの10年間は日本で演奏・教育活動を行う。三浦環は、「マダム・バタフライ」と称され、世界で知られたオペラ歌手であった。

三浦環が「蝶々さん」に扮した姿の銅像は、プッチーニ銅像とともに長崎市グラバー園に建っている。 2006年にグラバー邸を訪問した時に私もみている。

三浦環と親しい付き合いだった吉本明光の『三浦環のプロフィール』を読んだ。吉本の見立ては、見栄を飾らない、、直情径行、そして天真爛漫な人だった。

31歳から52歳の20年間、ヨーロッパとアメリカでプリマドンナ生活を送った完全な国際人である。72歳まで歌うと言っていたが、晩年には「生きているうちだけは歌をうたって、皆さんに楽しんで頂きたいと考えています」と語っていた。

死の間際に外国人牧師は「あなたは幸福ですか」と尋ねたところ、三浦は英語で「幸福です。私は天国へ参ります」と答えた。それは最後の成句だった。

三浦環という国際人は、戦時中の空襲なども経験している。そして「日本人は国内だけで威張り、日本のことしか考えないで、世界のこのことを忘れていたから、今度の戦争にも負けたのです」と喝破している。

三浦環が強く感じた日本人の内向きの性癖は、今も変わっていないようにみえる。