城山三郎『人生の流儀』--現場。人間関係。心掛け。背伸び。上役。継続。勝負。自由。マイペース。幸福。

城山三郎『人生の流儀』(新潮文庫)を読了。

経済人、政治家、文化人などを対象とした優れた人物列伝を書いていた城山三郎の著書は今まで、随分と読んできた。

伝記では『男子の本懐』『落日燃ゆ』『官僚たちの夏』『小説日本銀行』『部長の大晩年』『わしの眼には十年先が見える』『粗にして野だが卑ではない―石田礼助の生涯』ビッグボーイの生涯 五島昇その人』など。

そしてエッセイも多く読んできた。『人間的魅力について』少しだけ、無理をして生きる』『無所属の時間で生きる』、、、、。『毎日が日曜日』も城山三郎の作品だった。

いずれも「組織と人間」がテーマであり、組織の中で生きる人間の葛藤と、生き方を問う作品が、私の関心と重なり、ファンとなった。

今回の『人生の流儀』(新潮文庫)は、それらの作品の中から選んだ名言集だ。エッセイや対談からの言葉が多い。人生の糧となるアフォリズム集だ。以下、心に響く言葉、共感する言葉を拾った。

  • 現場にはあらゆる人生の材料がころがっている。その中から、自分で問題をつかみ、その問題をひろげ、深めて行くことである。
  • やれたかも知れぬことと、やり抜いたこととの間には、実は決定的な開きがある。
  • 鮮度のいい、いい情報と言うのは、インフォーマルな人間関係から生まれてくるものだ。
  • 新入社員は、人が見ていようがいまいが、全精力を傾けて、フルに生きなきゃいかんということを言いたい。フルに生きていると、見ていないはずの人が見ていてくれているということがある。
  • 背伸びして視野をひろげているうち、背が伸びてしまうということもあり得る。それが人生のおもしろさである。
  • 人間としてこの人に殉じてよいという上役にでも出会った場合は、人生意気に感じて生きることだ。その結果、出世しようが、左遷されようが、よき一人の知己を得たという大きな人生の満足が残るからである。
  • 何かを続けるということは、心の安定にも役立つはずである。
  • 己を知る人のために死ぬ、というのが、美徳であり、美学である。この美学があれば、不条理に対抗できる、逆に、その必死の美学を持たぬ限りは、不条理を甘受する他はない。
  • 一にも二にも心掛け、心のありようひとつ。それが積もれば、すさまじいほどの戦力になる。
  • ほんとうに猛烈な力となるのは、静かに言あげせず、しかも持続する知的な努力だと思う。ヒステリックではなく、秩序があり、じわじわとにじみ出てくるようなものである。
  • 有名になり、人気者になって、注目を浴びることは、決して幸福ではない。知る人ぞ知るという形で、ひっそりとマイペースで暮らすことこそ、何よりの幸せである。
  • 老後には自由が満ちている。、、、自由溢れる生き方をし、そこに一旗揚げる。一花咲かせる。もちろん、その旗や花は他人に見せるためではないし、他人に見えなくてもいい。ただ自分の目に、その旗、その花が見えさえすればいい。
  • 人生とは、いかに深く生きたかということです。深く生きた時間をどれだけもてたかということが、人生でいちばん大事なことですね。ただ軽く流すように人生をいきても、なんにもならない。それだけ深く生きた時間、記憶をもったかでしょう。
  • 一作つくるときは、その一作で勝負すること。
  • 自分自身のベースキャンプをまずしっかりとつくって、そして第一キャンプ、第二キャンプと一つずつ積み上げていけば、いくら風雨が強くても、いつかは高い山の上に登っていけるでしょう。その積みあげをマイペースでやっていきたいと思います。
  • 情熱に年齢はなく、情熱の前に年齢は消える。
  • この日 この空 この私

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本日

・明日の図解塾の準備「カント」「ヘーゲル」「クラゼヴィッツ」「マルクス」「ミル」「ダーウイン」、「ミル」「マルクス」「ニーチェ」。

・野田一夫先生の資料の読み込み

・1万2千歩

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「名言との対話」5月9日。石井絹治郎「薬は大衆のために」

石井 絹治郎(いしい きぬじろう、明治21年(1888年2月14日 - 昭和18年(1943年5月9日)は、化学者薬剤師実業家大正製薬の創業者・初代社長。享年55。

香川県三豊市出身。子ども時代の夢は「大臣か代議士」だった。13歳で上京し、1904年に神田薬学校(後の明治薬科大学)に入学し首席で卒業。18歳で薬剤師国家試験に合格。1908年、泰山堂薬局を開設。1910年に結婚。

1912年、大正製薬所を設立。「売薬調剤権を薬剤師に限る」という売薬法改正運動に参加し成立させ、薬剤師の地位の向上に貢献した。

1916年、19歳の上原正吉を住み込みで採用。関東大震災で、大阪支店からの迅速かつ果敢な処置で、薬剤師会の会員に無料配布を行った。羅災を免れた大正製薬所は大きな利益をあげた。1928年、大正製薬株式会社に改組。32歳の上原正吉を大阪支店長に抜擢した。

石井は順調に発展した本業以外にも、多くの公職を引きうけている。また製薬以外の事業にも多く関係している。大日本化学工業会会長。日本微生物研究所を設立。東京府国防科学協会会長。日本鉱業開発社長。日生工業社長。興亜炭素社長。石井精機社長。

1940年には「皇道文化研究所」の設立に関与した。大東亜共栄圏建設の基礎である日本的世界観の樹立が目的だった。日本的であり、かつ世界に通ずる世界観を築こうとした。1943年に腸チフスで死去。

大正製薬は、住み込み社員だった3代目社長の上原正吉の時代に大発展する。今でも、「早めのパブロン」、「ファイト!一発!リポビタンD」などのヒット商品で身近な会社だ。

その上原正吉は「部下に対する肝要と愛情、積極、進取の気象、度胸と勇断を学んだ」と述べている。

葬儀委員長をつとめた藤山愛一郎は「石井さんが戦後まで生きておられたら、戦後混乱期の日本の先導役として戦後経済復興のために大きな貢献をされたであろう」と惜しんでいる。

石井絹治郎は31歳のときに腸チフス九死に一生を得ている。そのことで自信を持ち、予防接種をしないで東京商工会議所満鮮北支経済使節団長として活動し、帰国後に発病したのである。

人物を研究していると、戦争で亡くなった人物が生きていたらと思うことがよくある。多くの有為な人物が活躍の機会を与えらえなかったのだ。そして、この石井絹治郎の場合も、非常に活動的で健康な人であったが故に、自信過剰になって予防接種を怠ったことで命を落としているのは残念な気がする。天寿を全うできる社会こそ、理想だ。