クリスマス・イブは、九州の母、浦安の妹、妻とのコミュニケーションの日。

母親からLINEで送られてきた大分県からの母の表彰式の写真。11月3日の文化の日。付き添いの私が手をがっちり握っているのに感激したとのこと。

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永山、立川と用事を済ます合間に、加藤保男『雪煙をめざして』(中公文庫)を読了した。登山家として著名な加藤保夫とは同じ学年だったことが分かった。エベレスト登頂三度の快挙を果たしながら、下山途中で亡くなったのは33歳のときだった。「僕」という言い方を含め若い登山家の放つ英気を感じる自伝だ。この人については27日の「名言との対話」で迫ることにしよう。

立川では浦安に住む妹夫妻と喫茶で懇談する機会を持った。

夕食は、妻と二人のクリスマスイブを祝う外食。

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「名言との対話」12月24日。美濃部亮吉「そばとウナギ、きれいな若い女性、そして半蔵門付近のお堀端」

美濃部 亮吉(みのべ りょうきち、1904年明治37年〉2月5日 - 1984年昭和59年〉12月24日)は、日本マルクス経済学者政治家東京都知事(第6・7・8代)、参議院議員全国区)も歴任した。

天皇機関説の美濃部達吉と菊地大麓の長女の母との間に生まれた長男である。東京帝大で大内兵衛に師事し助手になるが。河合栄治郎に嫌われ法政大に転出。1960年からの2年間、NHKテレビ『やさしい経済教室』の解説者だった。

1967年、社会党共産党推薦での東京都知事に自民・民社推薦の松下寿立法政大学総長を破り当選。1971年、自民党推薦の秦野章警視総監を破り再選。1975年、自民党推薦の石原慎太郎を破り当選。1979年都知事を退任。1980年、参議院選挙で当選。

美濃部亮吉 都知事の12年』で、東京大空襲について、「一瞬のうちにいのちをうばわれた十万人の悲痛を通して、底知れぬ戦争への憎しみと、おかしたあやまちを頬冠りしようとするものへの憤りにみちた告発は、そのまま、日本戦後の初心そのものである。そしてーこの初心は、私の都政に対する原点である」と語っている。

京都の蜷川虎三知事から始まり、東京の美濃部亮吉都知事、大阪の黒田了一府知事が並列した革新知事の時代があった。美濃部は都知事として、「広場と青空の東京構想」を打ち出す。公共インフラ投資の凍結・廃止・撤去、老人医療の無料化、高齢者の都交通の無料化、公営ギャンブルの胚子、都職員の高い給与と数の増加、などを行った。そして北朝鮮を訪問し金日成首相と会談、自民党幹事長であった保利茂からの書簡(保利書簡)を預かり中華人民共和国を訪問し周恩来首相と面談している。

東京都知事の歴史は、キャッチフレーズの歴史でもある。「東京オリンピック」の東龍太郎、「物価と福祉」の美濃部亮吉、「財政再建」の鈴木俊一の「都市博中止の」青島幸男、「ディーゼル規制」の石原慎太郎、短命の猪瀬直樹舛添要一を経て、豊洲移転」の小池百合子と続いている。

都知事再選に向けての選挙戦で、独特の「ミノベスマイル」とともに、「東京で自慢できるものを3つ挙げてほしい」とのの質問に自民推薦の警視総監経験者の秦野候補は「皇居、地下鉄、高速道路」と答えた。美濃部は「そばとウナギ、きれいな若い女性、そして半蔵門付近のお堀端」と回答して都民の共感を得た。近代施設というハードをあげた文明論と、都民が共感できるソフトの要素を誉めた文化論の戦いとでもいおうか。軍配は文化論の圧勝となった。

作家の童門冬二美濃部都政の幹部として広報室長、企画調整局長、政策室長を歴任し、知事の辞任に付き合って51歳で退職し今も小説を書いている。その童門は広報室長時代に美濃部知事から、やさしい文章を書くことを教えられ、知事に惚れこんで仕事をしていたという。

1973年に東京で就職した私は美濃部都政の後半を知っており、評価は様々であったが、独特のミノベ・スマイル、やさしい語り口、見事なコピー創造力が、長期12年の革新都政を実現させたことは間違いないと思う。「そば、うなぎ、女性、お堀端」と並べる感覚は作家以上の腕前だ。