「望月照彦回顧展」ーー構想博物館2024 愛に生きよ 自在に生きよ

目白台和敬塾本館(旧細川侯爵邸)で開催中の「望月照彦回顧展ーー構想博物館2024 愛に生きよ 自在に生きよ」を訪問。

旧細川侯爵邸という和風の大邸宅での回顧展の開催場所といい、たくさんあるそれぞれの部屋の凝った展示といい、望月照彦という天才の生涯と思想が結実した、そして心のこもった、実によく工夫された回顧展だった。

先日も望月先生の親友でもあった谷口正和回顧展にも感銘を受けた。死後すぐの葬儀よりも、少し時間を置いた、相応の規模の回顧展を企画することの方がずっといいと改めて思った。

望月先生は「構想博物館館長」という肩書を持っていた。この博物館は鎌倉の自宅のことだ。「宇宙を構想し、身の丈で生きる」。構想とは「物事を考え、発送し、組み立て、実践し、そのことが人類社会に役だつこと」と定義し、「構想の質(哲学)が、社会やコミュニティの質をきめる」とし、この博物館で「構想を研究・収集し、それらをデータベース化し、情報をオープン化することで、多くのこれから新たに構想を打ち立てようとする人々の活動に寄与」しようとし、「構想を生み出し提案する」役割を果たそうとしていた。

元々は建築家であったのだが、40代半ばから多摩大学経営情報学部教授になり、研究者、教育者、エッセイスト、童話作家、建築家、都市プロデューサーと名乗るように、実に多彩な活動をされた方だ。

私は30歳で入った「知的生産の技術」研究会のメンバーとして、講師としてお呼びするなど何度も謦咳に接したし、横浜でのある講演会ではまだ30代のころに前座をつとめたこともある。仙台の宮城大時代には、東北電力傘下の研究所のコミュニティビジネス(?)の研究会で望月委員長のもとで副委員長を拝命したこともある。また多摩大では同僚ともなり、「現代の志塾」という教育理念の制定から始まる立て直しの構想を立てたときにヒントをもらった。改めて振り返ると、随分と長い間、お世話になったと思う。

柳生好彦さん、白倉正子さん、望月香菜(奥様)さんにお会いできた。

以下、回顧展の各部屋でのショット。


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和敬塾」は前川製作所創業の前川喜作の社会事業。首都圏の大学・大学院で学ぶ500人の学生の寄宿舎を設け、毎年100人の人材を輩出させている。この人は文部次官だった前川喜平さんの祖父だろう。

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隣の永青文庫(細川コレクション)の「中国陶磁 色彩 2000年のいろどり」展をみた。ここは何度か訪れたことがある。以下を購入。

「美の探求者 細川護立」

「季刊永青文庫 中国陶磁 色彩」

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神保町のシェア書店。

・建築中のパサージュ第3号店の様子を確認。

・「猫の本棚」に新雑誌「イコール」を補充。

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恩地 日出夫

「名言との対話」1月20日恩地日出夫市原悦子さんへ あなたは『どうせ私は不美人』と笑った」

恩地 日出夫(おんち ひでお、1933年1月23日 - 2022年1月20日)は、日本映画・テレビ監督。享年88。

東京出身。慶應義塾大学経済学部卒業後、東宝に入社。助監督を経て27歳の若さで監督になり、1961年に最年少監督として『若き狼』を発表。1963年、『素晴らしい悪女』、1964年には問題作『女体』(団玲子主演)を公開。

1967年『伊豆の踊子』、1968年『めぐりあい』(酒井和歌子の初主演作品などがヒットし、「青春映画の巨匠」と呼ばれた。以後、『生きてみたいもう一度・新宿バス放火事件』、『四万十川』、『蕨野行』(芸術選奨文部大臣賞)などを発表する。

1970年代からテレビに向かう。1971年から『遠くへ行きたい』、1974年から始まった『傷だらけの天使』を担当した。1979年には『戦後最大の誘拐 吉展ちゃん事件』(芸術選奨優秀賞)を発表。学生時代に新聞部に所属し、ジャーナリストを志望していたこともあり、社会派でもあった。

週刊朝日に「市原悦子さんへ あなたは『どうせ私は不美人』と笑った」という記事が載っている。市原が2019年1月に亡くなったときの青山葬儀場の弔辞で語った言葉だ。新人の役者を使うときには必ず相手役は市原だった。泉谷しげるが「吉展ちゃん事件」で初の俳優をやっとときも、「蕨野行」で素人を主役にしたときも、市原が相手役だった。演技が上手で心配りができる役者だたからだ。東宝に入社した頃は原節子など美人女優だらけの東宝撮影所に食傷気味だったこともあり、市原悦子に興味をもった。その話を後になって本人にすると、「どうせ私は不美人ですよ」と笑ったという。

何か、ほのぼのとした恩地の人柄を感じるエピソードだ。3つほど年下の市原悦子も恩地監督の作品に多く起用されたことで、『家政婦は見た』などの達者な女優となって私たちを楽しませてくれた。これも恩地日出夫の功徳かもしれない。恩地は市原没後3年の2022年に亡くなった。二人は同時代を生きたのだ。この弔辞の最後は「こうやって、明るく笑ってる写真を見てると、もう二度と一緒に仕事はできないのかなぁと思いますが、これもやっぱりお互い人生だと思います。長い間、ありがとうございました。」だった。