原田マハ『板上に咲く』(audible ORIGINAL)を聴く

原田マハ『板上に咲く』(audible ORIGINAL)を聴き終わった。

原田マハの3年ぶりの長編大作だ。

「わだば、ゴッホになる」との目標を持ち、西洋画から日本の伝統の木版画にたどり着き、「板画」に到達した棟方志功を妻・チヤの目から描いた作品。板画の発想は、チヤが毎日使う、まな板だった。

「神様、仏様、ゴッホ様」とゴッホをあがめる棟方志功は、ゴッホにはならずに、あるいはゴッホを超えて、世界の棟方になった。

棟方志功は苦節の後に、展覧会場でもめているところを3人に問われ、持ち込んだ作品をみてもらう。その偶然の出会いが棟方を世に押し出した。民芸運動を指導する柳宗悦浜田庄司河井寛次郎だった。

「大和し美し」「華厳譜」「東北鬼門譜」「二菩薩釈迦十大弟子」という、人が度肝を抜く大型の版画を彫り続けた。棟方にはひとつの主題を数点から数十点に及ぶ画面で展開した組作品が多い。

棟方は妻とともに、フランスのゴッホの墓にまいったとき、チヤから和紙を受け取り、墓の拓本をとったエピソードにはうなった。

私は棟方の自伝『板極道』を読んでいるし、作品は、府中市美術館の「連作と大作」の企画展などでもみている。棟方は「柵」という言葉を使う。四国巡礼が首に下げる廻札の意味だ。ひとツひとツ、自分の願いと信念を寺に納める。「わたくしの願所にひとツひとツ願かけの印札を納めていくということ、それがこの柵の本心なのです」。棟方は製作する板画を生涯を通じてつくり続ける連続体と考えていたのであろう。

柵とは四国巡礼者が寺々に納めるお札のこと。願いをこめて、お札を納めるように、一柵づつの作品に祈りをこめて棟方は彫っていった。棟方の祈りとはなんだったのだろうか。自分自身ではないか。著書の執筆も、この柵のようなものかもしれないな。

原田マハのアート小説もいくつか読んできたが、今回は「世界の棟方」という」日本人を取り上げている。3年ぶりというが、ファンとしてさらなる健筆を祈りたい。

原田マハについては、ユーチューブ「遅咲き人伝」で取り上げている。遅咲き偉人伝39 原田 マハ (youtube.com)

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本日

  • ヨガ教室で1時間
  • 図解塾の準備
  • 幸福塾の準備。
  • 「イコール」の編集作業

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「名言との対話」3月12日。大西巨人「問題を書くべき。問題の解決ならなお良いけれど問題の提起を。問題点を追求するというものが欲しい。今ですよ。今こそと言うても良い」

 大西 巨人(おおにし きょじん、1916年大正5年)8月20日 - 2014年平成26年)3月12日)は、日本小説家評論家。享年97。

福岡市出身。幼い時から群を抜いた記憶力で周囲を驚かせた。旧制福岡高校をを経て、九州帝国大学に入学した年に日中戦争が勃発し仲間と共に反戦運動に加わり大学を除籍処分になる。その後新聞社に勤める。1942年対馬要塞重砲兵聯隊入隊。1946年綜合雑誌『文化展望』を創刊。『近代文学』同人となる。「おなじ亡ぶにしても東京で亡ぶことを選ぶべきだ」(巨人から妻への手紙)と決心し上京。

対馬で階級による圧力・差別、体罰・言葉による暴力を経験し、『陸軍内務令』に代表される無数の規則を記憶し抵抗した。「召集された兵士達が人生を国家に翻弄される不条理を心に刻む。戦後、兵士達の死を美化する戦後社会に強い危機感を持ち、再び戦争へと傾斜してゆく可能性について、警鐘を鳴らし続けた。

妻の美智子が巨人の没後に書いた『大西巨人と六十五年』は、巨人の実像がよくわかる。「就職はしない。執筆によって生活する。おれにしか書けない小説を必ず書く」が信条だった。完璧主義の人。考えを決めたら全力をつくす、保証はないが必ず何とかなる。そういう主義で、妻も「私も信じた」生活だった。強い意志を持った人だ。

39歳から64歳という働き盛りを費やした渾身のライフワーク『神聖喜劇』は、1955年から1980年の完結まで25年かかった、4700枚の大長編小説である。1968年『神聖喜劇』の第1巻上第1部「絶海の章」と下第2部「混沌の章」が同時発売。執筆開始から13年だった。25年の歳月、赤ん坊が25歳になる期間を一つの作品に全力を注いだ。谷崎潤一郎賞の候補になったが、巨人はあらかじめ持っていた方針どおり辞退している。蔵書は7千冊。

原爆ができてからの後の世界、つまり現代を考える作品である。武力は自衛でも認めない、それが『神聖喜劇』の思想である。この作品は現代日本文学の金字塔と評価されている。上の者の責任にならぬよう下の者へ責任を転嫁する日本社会の体質を『累々たる無責任の体系』と考察するなど、今も続く日本社会に対する明確な問題提起を行った。軍隊は日本社会の濃度を濃くした縮図であると考えていた巨人は日本軍を描いたのだが、実はそれは「日本人」であり、「日本」であった。2006年に漫画版(全6巻・手塚治虫文学賞受賞)も出版され、世代を超えて読み継がれている。

NHKアーカイブス「人X物X録」を見た。「軍隊の本当の姿を書くべきだ。今こそ。時代と社会を描きたい。権力の正体」と語っていたのが印象的だった。本名は「巨人」と書いて、「のりと」と読む。人は名前のとおりの人になる。「おれは105歳まで生きて仕事をする」が口ぐせだった巨人は97歳で人生の幕を引いた。大西巨人は終生、問題を鋭く提起し、闘い続けた人である。 

大西巨人と六十五年

大西巨人と六十五年