「多摩学事始め」を投稿した『多摩学への試み』(多摩大学出版会)が届く

『多摩学への試み』(多摩大学出版会)が届いた。

この中で私は多摩大学名誉教授の資格で「多摩学事始め」を投稿している。「多摩大鳥瞰図絵」を含めた一部を記すことにしたい。

「多摩学の発見ー多摩大鳥瞰図絵」
「多摩」の鳥瞰図絵をつくることになった。関係者が集まって、最初の絵図案をもとにアイデアを出し合ったが、それは笑いの多い、わくわくするような時間だった。

多摩という地域はどこを指すのだろうか。諸説あるが、東西では東の東京世田谷あたりから西は富士山に迫るあたりまで、南北は秩父山系から南は東京湾相模湾までの広大な地域、これを仮に「大多摩」と呼んでみようか。この地域は現在では、東西に中央自動車道東名高速、新東名、中央線、京王線小田急線、東海道新幹線などが通り、南北には多摩川相模川が流れている。歴史的にも興味深い地域でもある。いたるところに散在する万葉集の歌碑群、東国から九州の警護に行かされた防人が通った多摩よこやまの道、「いざ鎌倉」の鎌倉街道、横浜と八王子を結んだ文明開化の「絹の道」、新選組から自由民権運動への流れ、昭和の開発を彩った多摩ニュータウン、、、、、。

大学のある多摩市を中心において、多摩川相模川、東京、横浜、鎌倉、八王子、東京湾相模湾、木更津、JR東海道線、JR横浜線、JR中央線、京王線小田急線、鎌倉街道、九段、湘南、品川、府中、調布、立川、多摩ニュータウン、相模原、町田、丹沢山渓、富士山、ユーラシア大陸、などを上空から鳥の目で眺めた風景を描く。なかなか難しい仕事だったが、「多摩大鳥瞰図絵」が初めて姿を現すことになった。

東京西部地区、23区以外を指す東京都下という「辺境の多摩」ではなく、日本と世界の中心に多摩があると考えると、東京は出稼ぎにいく場所とみえる。空の羽田空港と海の横浜港から世界につながっている。沸騰する日本海の彼方に中国、韓国、北朝鮮、ロシアなどを擁するダイナミズムあふれるユーラシア大陸が視野に入る。

少なく見積もっても人口400万人以上、12万社以上の企業が存在するこの多摩を、地域性(ローカリティ)と世界性(グローバリズム)を具備する地域としてとらえ直す「多摩グローカリティ」という視点がこの鳥瞰図絵から浮かんでくる。

「多摩」という言葉のみを冠した唯一の大学として20年前にこの地に誕生した多摩大学は、「実学志向の大学」を標榜してきたが、「今を生きる時代についての認識を深め、課題解決能力を高めること」を実学と再定義している。その上で大学のアイデンティティの確立のためにも、「多摩学」という実学に地域とともに接近していくことになった。

専任教員が担当するホームゼミ、外部専門家も加わるプロジェクトゼミ、そして寺島実郎学長が直接指導するインターゼミ(社会工学研究会)など、様々な形のゼミが、多摩をフィールドに地域と協力しながら教育活動を活発に行う方向が明確にみえてきている。また教員にも本来の経営と情報に関する専門分野研究で培った視点で多摩をとらえ直す機運があり、教育と研究の一体的な連携へ向けてベクトルが合いつつある。

もともとこの地域には多様な形で存在する歴史と地勢、文化と風俗、産業と社会などに関する研究者・実務家による膨大な研究と活動の蓄積がある。その上に更に地道に実績を積み重ねるならば、まだまだ茫漠としている「多摩学」のイメージも、しだいにその輪郭がみえてくるのではないだろうか。

産業界、自治体、学界等が鳥瞰的な視点をもって連携し、地域活性化を睨んだ実学としての「多摩学」の構築に向けて、力を合わせ相乗効果を高めていきたいものである。

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午前:原稿執筆。

午後:乞田川沿いの桜見物。

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「名言との対話」4月7日。加藤廣「清貧でなく栄達でもない第三の道――意にかなわぬ人生よ、さらば!」

加藤 廣(かとう ひろし、1930年6月27日2018年4月7日)は、日本の作家。

東京都出身。新宿高等学校東京大学法学部卒業。1954年に中小企業金融公庫に入庫した。京都支店長、本店調査部長などを歴任後、山一證券に勤務し、同経済研究所顧問、埼玉大学経済学部講師などを経て、中小企業やベンチャー企業コンサルタントを務める。

文学部に学士入学して比較文学を学びたい。将来は島田謹二のような文芸評論家になりたいとの野心を持って、「小さくてもいいから未知の分野」という考えで中小企業金融公庫に入った。児島直記や伊藤肇のビジネス書を熱中して読んで、「天下国家を動かせるポストならともかく、こんなところで偉くなってもしょうがないやね」と腹をくくって仕事をしていた。

加藤は1975年の在職中から、金融、経営、経理関係のビジネス書を手がけている。そして、1980年に「みっともない生き方はしたくなかった」「一度の人生であり時間がもったいない」として、独立を決行。執筆、講演、コンサルタントとして生きていく決心だった。

そして独立から25年、 2005年に75歳での高齢での作家デビューが話題となった。 小説『信長の棺』は日本経済新聞に連載されベストセラーとなった。小泉純一郎総理がぶら下がりで紹介した本だ。その後、二人は親しくなった。小泉総理は「75歳から、あれだけの作品を書けるというのは、すごい気力、体力、想像力」と偲んでいる。

当時私も興奮して読んだ。「父の葬儀での蛮行、桶狭間奇蹟の大勝の真実、秀吉の策略、光秀の策謀と朝廷の裏切り、安土城築城の真の目的、本能寺の信長の遺骸未発見の謎解き、、、、。

信長公記」という正規の信長の伝記の作者・太田牛一の目を通して、信長像を縦横に語っている。信長の事跡について、今までの常識に挑戦する、新しい解釈の連続で興味深く読めた。高齢での作家転向、その第一作。中小企業金融公庫や証券会社ででキャリアを磨き、経済書、経営書を多数書く人物。仕事の合間に、信長を長く深く研究した形跡がある。」と私はブログに書いている。

加藤は東京の出身だからだろうか、薩長中心の「司馬史観」にはくみしない。この点は半藤一利と同じだ。山岡鉄舟小栗上野介を尊敬している。もう一つの明治維新があるのだ。

加藤はその後も大活躍している。『秀吉の枷』(2006年、日本経済新聞社 全2巻 / 2009年、文春文庫 全3巻)。『明智左馬助の恋』(2007年、日本経済新聞社 / 2010年、文春文庫 全2巻)。『安土城の幽霊-「信長の棺」異聞録』(2011年、文藝春秋 / 2013年、文春文庫)、外伝で短篇集。『神君家康の密書』(2011年、新潮社 / 2013年、新潮文庫)。『謎手本忠臣蔵』(2008年、新潮社 全2巻) のち新潮文庫 全3巻。『空白の桶狭間』(2009年、新潮社) のち新潮文庫 。『求天記-宮本武蔵正伝』(2010年、新潮社)、のち「宮本武蔵新潮文庫 全2巻 。『水軍遙かなり』(文藝春秋 2014年) のち文春文庫 全2巻。『信長の血脈』(文春文庫 2014年)。『利休の闇』(文藝春秋 2015年) のち文春文庫 。『秘録島原の乱』(新潮社 2018年)。

2016年の『昭和からの伝言』というエッセイを読んだ。「清貧でなく栄達でもない第三の道――意にかなわぬ人生よ、さらば!」では、同じ職場に長居は禁物、仕事は人生の一部と心得よ、老いて死ぬ道はかくあるべしなどが書いてある。

『意にかなう人生--心と懐を豊かにする16講』(新潮社)では、人生観を縦横に語っている。「善意の悪党たち」「学士サマ乱造の果てに」「体験的イジメ論」「必要条件としてのオカネ論」「下流と清貧」「清富の指導」「サムライから薩長まで」「東大、陸大、海大、そしてエリートたちの敗戦」「国民のカネを思うさまに扱う人種」「ダブル・スキルを持て」「野心の実現のためにはカネが要る」「老いには二つの道がある」「美学的死のさらに上をゆく死に方」、、、。

この本は「清貧でもなく栄達でもない第三の道」という実用的なサバイバル術を公開してくれているエッセイ本である。

ところで、この「名言との対話」では、書くに当たって、作品以外に、自伝とエッセイを手に取るようにしている。エッセイには筆者の本音が出るから読むようにしている。そのため尻込みをする作家もいるという。エッセイには、人となり、人柄、人間味、生活の意外な側面がみえる。そして人生観が如実に出る。エッセイには、自伝的エッセイ、人物エッセイ、歴史エッセイ、料理エッセイ、映画エッセイ、、、など多様な世界があるようだ。自らの分野やキャリからみえる世界や人生についての感慨を述べるのがエッセであるということだろうか。

例えば、観世栄夫の編んだ『日本の名随筆87 能』がある。馬場あき子、芥川龍之介三島由紀夫、野上八重子、白洲正子高村光太郎大岡信小林秀雄中西進らが、それぞれの視点で能を語っていて読み応えがある。喜怒哀楽を一つの仮面で示す能は、時間と空間を共有した演者と観客が共有する瞬間芸術である。その舞台を甦らせるために、観世は文化人たちのエッセイを編みながら、能についての思索を深めていったのだろう。随筆は博覧強記の人が透徹した目で視たことを語ってくれるから、貴重なアドバイスになったのだろう。随筆とエッセイはどう違うのかという問いも浮かぶが、それは次の課題としておこう。

加藤廣は、独立を決行した50歳から、87歳で亡くなるまで、37年間を自由に生きた。加藤廣はその後半に大輪の花を咲かせた遅咲きの人である。

遅咲き偉人伝6 加藤廣 (youtube.com)