山口図書館の企画展示「時代に影響を与えた本」に、拙著『図解・世界の名著がわかる本』(三笠書房)。

山口図書館の企画展示「時代に影響を与えた本」に選ばれている。

「図書館には、時代や国境などを越えてさまざまな知識や情報を得ることができる本が多くあります。いつの時代にも人々に影響を与えた本が存在しました。本は時代を映す鏡といってもいいのかもしれません。今回の展示では、そんな世界や時代に影響を与えた様々な本について知ることのできる資料をご紹介します」。

http://library.pref.yamaguchi.lg.jp/news/20180501/jidainieikyou

『図解世界の名著がわかる本』

 久恒/啓一‖著,三笠書房,2007.6,[当館請求記号:028/N 7]

図解 世界の名著がわかる本―『聖書』『君主論』から『孫子』まで、西洋、東洋の名著が早わかり!図解でわかる! 難解な世界の名著のなかみ (中経の文庫)

 『科学の本一〇〇冊』村上/陽一郎‖著。『図説世界を変えた書物』竺/覚暁‖著。『近代日本の百冊を選ぶ』伊東/光晴‖[ほか]選。『ベストセラーの世界史』フレデリック・ルヴィロワ‖著。『世界を変えた10冊の本』池上/彰‖著。『世界を変えた100冊の本』マーティン・セイモア=スミス‖著。、、、、など18冊の中の1冊。

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 「名言との対話(平成命日編)」5月1日。戸川幸夫「犬にも人間と同じように心があるんだよ」

 戸川 幸夫(とがわ ゆきお、1912年4月15日 - 2004年5月1日)は、日本小説家児童文学作家

旧制山形高校に進むが、中退する。東京日日新聞(いまの毎日新聞)社会部記者となり、サン写真新聞取材部長、東京日日新聞社会部長、毎日新聞社会部副部長、毎日グラフ編集次長となる。この間、長谷川伸に師事して文学を学び、42歳で「高安犬物語」にて直木賞を受賞。43歳で作家生活に入り、動物に関する深い観察と広範な知識を元にして「動物文学」というジャンルを確立し、国民の支持を得た。

年譜を繰ってみると、晩年に到るまでの間断のない膨大な仕事に圧倒される。53歳、西表島を二度訪問し新種を発見し、イリオモテヤマネコと命名される。54歳の時の新聞・雑誌等への寄稿などを並べてみよう。「野生への旅V」、「ゴリラ記」、「乃木と東郷」、「謀議」、「三里番屋」、「象」、日本テレビすばらしい世界旅行」の原作執筆のため東アフリカ取材旅行、「からすの王様」、「世界名犬物語」、写真展「動物のアフリカ」開催。、、、、。著書は200冊に迫る量があり、「戸川幸夫動物文学全集」も冬樹社、主婦と生活社講談社の3つのシリーズがあり、動物文学のニーズが高いことがわかる。

「見る、見られる」ことに敏感であること。、ことに、人に、「見られている」ことを常に意識することです。そういう動物的な緊張を忘れなければ、人間はボケないし、輝きを失わないものなんです

日本犬復活運動を展開した斎藤弘吉日本動物愛護協会初代理事長は、渋谷の秋田犬ハチ公に惚れ込み資料を収集し、朝日の記者が「主人の帰りを待つ老犬ものがたり」として報道した。一番びっくりしたのが渋谷駅の駅長以下駅員だった。このハチ公と戸川は交流があったと戸川の自伝的小説『猛犬 忠犬 ただの犬』にある。この本を読みながら、中野孝次『ハラスのいた日々』という愛犬との日々を書いた傑作を思い出した。犬にも感情、意志、知識、思いやり、情など精神作用としての「心」は確かにある。私も少年時代、そして最近までチョコラという名の犬を飼っていたから、動物文学というカテゴリーがあることに納得する。誰もなし得なかった新世界を切り拓いたのが戸川幸夫だった。

猛犬 忠犬 ただの犬 (講談社文芸文庫)

「ライブ、保管、保存」。

今日は、書斎の書棚の本と書類を整理し、ダンボールに詰める作業を行った。

「ライブ、保管、保存」という方針を貫くことにする。研究室では、机の上はライブ、書棚は保管、引き出しは保存という考え方でやってきたが、自宅でも現在進行中のライブのプロジェクトに関わる書籍やダンボックス中心にし、研究室を「保管と保存」の場所とする方針。

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「名言との対話(平成命日編)」4月30日。竹内宏「「30才代までは議論しなさい。40才代には議論を聞いてあげなさい。50才代になったら議論に負けてあげなさい」

竹内 宏(たけうち ひろし。1930年9月13日 - 2016年4月30日)は、日本経済学者日本経済中東アジア経済)、評論家キャスター

竹内宏は銀行調査部にあるデータと専門家へのヒヤリングと旺盛なフィールドワークによってファクトをつかみ、既知の経済理論では解けない経済現象を解き明かし、高度成長期以降の日本経済を優しい語り口で説明してくれた民間エコノミストである。

趣味のパチンコを題材にした『路地裏の経済学』(1979年)で世間に知られる。そしてスキー場で三浦雄一郎岡本太郎と知り合ったという趣味のスキーをテーマとした『竹内宏のスキー経済学』(1986年)も出版している。実感と数字を組み合わせた独特の論調は人気があった。例えば、スキーに関しては「熟年者スキーヤーが中心になる。親子スキー教室、託児所付きママさんスクール、温泉付き山岳ガイドツアー。経済成長が鈍化すると文化的欲求が深まっていく。若年人口の減少とレジャーの多様化で低迷する。神田はスキーの町。スキー宅配便は救いの女神。蔵王サンモリッツなど海外スキー場との姉妹関係」などの洞察や提言があふれており、ビジネスマンに人気があった。

長期信用銀行の調査部長で専務まで上り詰めた20歳年長の知的実務家の先達としてこの人の本はよく読んだ。私自身は経済書より、『現代サラリーマン作法』(1983年)などの仕事論、生き方論に関心があった。例えば、「書棚は使いこなせるが、書庫をつくっても探さない。毎日3枚書いた。30代、40代は読書らしい読書はできなった。風呂では古典、トイレではドイツ語という生活。予備知識を持たずに現地に行き後で本を読むと理解のスピードが速い」。こういう知的生産の技術は参考にしたものだ。

竹内宏は日銀、山一証券経済研究所で活躍した吉野俊彦のような生き方がしたいと憧れた。竹内より15歳年長の吉野は鷗外の研究家としても有名だった。定職を持っていながら同時に作家である二重生活の苦しみと喜びを味わいながら、人生を生きぬいた先達である。鷗外、吉野、竹内という二足の草鞋の流れが確かにある。私のキャリアもその流れの中にある。

長銀総研理事長退任後の1998年以降は、竹内経済工房主宰、 価値総合研究所特別顧問、 静岡県理事長、静岡県立大学グローバル地域センターセンター長、静岡県公立大学法人理事長など多くの仕事に関わっている。そして80代に入っても『午後6時の経済学』(朝日新聞出版 )、『経済学の忘れもの』(日経プレミアシリーズ )を出版している姿には励まされる。

サラリーマンとしても高い地位に昇った竹内宏は、人事の機微にも通じていたように思う。年配になったら、役職についたら、「議論に負けてあげなさい」というアドバイスは今でも心に残っている。

現代サラリーマン作法 (1983年) (ちくまセミナー〈2〉)

竹内宏のスキー経済学

 

 

 

 

 

 

ゴールデンウイーク:読むべき本。会うべき人。書くべき原稿。見るべきもの。、、

本日からゴールデンウイーク。休養しながらこの一週間になすべきことを確認した。

読むべき本。会うべき人。書くべき原稿。見るべきもの。、、、、。

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「名言との対話(平成命日編)」4月29日。牧伸二「漫談芸は格闘技である」

牧 伸二(まき しんじ、本名:大井 守常〈おおい もりつね〉、1934年9月26日 - 2013年4月29日)は、日本のウクレレ漫談家。色モノ芸人の集まりである東京演芸協会の会長。

牧伸二は芸能界の「色モノ」ウクレレ漫談の創始者だ。色モノとは非正統という意味である。泉ピン子は弟子にあたる。。最初の芸名は漫談の先駆者・徳川夢声一門から出た師匠の牧野周一からつけてもらった「今何度」である。高校卒業後、温度計を製造している東亜計器に勤めていたからだ。

ウクレレをひきながら「あーあやんなちゃった、おどろいた」で始まるやんなっちゃった節は一世を風靡した。今でも私の耳にも残っている。「フランク永井は 低音の魅力 神戸一郎も低音の魅力 水原弘も低音の魅力 漫談の牧伸二 邸能の魅力 ああやんなっちゃった ああ おどろいた」は、1300番以上も続く歌詞の最初である。

1963年には日本教育テレビ(NET、現テレビ朝日)の演芸番組『大正テレビ寄席』の司会に起用され、5秒に1回笑わせるテレビ的な番組となった。この人気番組は1978年まで続き15年にわたり司会をつとめた。牧伸二が偉いのはこのままではまとまった芸ができなくなり芸が枯れると考え、この間もキャバレーなどのステージを増やし芸を磨き続けたことだ。

「つかみ」を盗み、「間」を盗み、達人たちのいい部分を盗み、自分のセンスに加え、長い年月をかけて熟成させる。そうしてやっとオリジナルの格闘スタイルが完成させていった。そして「長い休みを取らず芸をやり続ける」ことで芸をさび付かせず、最高のコンディションを維持していく。これが牧伸二の芸の磨き方だった。

牧伸二はビーートたけしを「化け続ける芸人」と呼ぶ。タモリは「緊張感のないお笑いスタイル」でテレビで遊んでいると批評する。ダウンタウンには師匠のいない芸人の欠点の修正法をアドバイスしている。永六輔大橋巨泉はテレビが生んだ「不思議業」と規定する。これが芸の格闘家・牧伸二の確かな目である。

時事ネタを取り入れて漫談を行うには時代の流れに敏感でなければウケナイ。また政治や宗教の風刺、下ネタ、その土地土地に存在するタブーなどはやらない。自分の足で街を歩き、見て、聞いて、観じた「いま」をネタにしなければ、お客さんが笑うような面白いものは出来上がらない。これが牧伸二のポリシーだった。優れた芸人は「時代」を表現し、今を生きる人々の心に共感のさざ波を起こし、笑いをとる。牧伸には油断できない、隙を見せられない、真剣勝負の格闘技の世界を生き抜いた人だったのだ。

牧伸二のウクレレ人生

 

 

 

 

 

 

2018年度インターゼミ(社会工学研究会)の運営体制が決まる。

インターゼミ(社会工学研究会)。

10年目である2018年度の運営体制(班・教授陣・学生)が決定。

全員が第一志望の班に配属となった。上下左右のバランスもいい。楽しみな1年となりそうだ。

 

多摩学班

・経営情報5名。グローバルスタディーズ学部0名。大学院3名。計8名。

・教授陣:責任者:丹下先生。副責任者:初見先生。荻野先生。

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サービス・エンターテイメント班

・経営情報10名。グローバル1名。大学院等2名。計13名。

・教授陣:任者:大場先生。副責任者・バートル先生。杉田先生。安田先生。

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地域班。

・経営情報5名。グローバル1名。大学院等3名。

・教授陣:責任者:野坂先生。副:後藤先生。木村先生。

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AI班。

・経営情報6名。グローバル4名。大学院等2名。

・教授陣:責任者:久保田先生。副:渡邊先生。(久恒)。

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アジアダイナミズム班。

・経営情報2名。グローバル3名。大学院等4名。

・教授陣:責任者:金先生。副:水盛先生。加藤先生。

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「名言との対話(平成命日編)」4月28日。「与えられたテーマに自分なりの『見い出し方』を持ち込むことができたら、デザインはデザインを超えていく」

粟津 潔(あわづ きよし、1929年2月19日 - 2009年4月28日)は日本グラフィックデザイナー

1955年、ポスター作品『海を返せ』で『日本宣伝美術会賞』受賞。戦後日本のグラフィックデザインを牽引し、さらに、デザイン、印刷技術によるイメージの複製と量産自体を表現として拡張していった。1960年、建築運動「メタボリズム」に参加、1977年、『サンパウロビエンナーレ』に『グラフィズム三部作』を出品。1980年代以降は、象形文字やアメリカ先住民の文字調査を実施。イメージ、伝えること、ひいては、生きとし生けるものの総体のなかで人間の存在を問い続けた。その表現活動の先見性と総合性は、現在も大きな影響を与えている。

粟津の受けた賞をあげてみよう。1955年日本宣伝美術会展、日宣美賞。1958年世界フィルムポスターコンペフランス最優秀賞。1966年毎日産業デザイン賞。1969年映画近松門左衛門の「心中天網島」の美術で伊藤喜朔賞。1970年ワルシャワ・国際ポスター・ビエンナーレ展銀賞及び特別賞。1975年「世界で最も美しい本の展覧会」グランプリ。1980年映画「夜叉ヶ池」日本映画アカデミー最優秀美術賞。1990年紫綬褒章受章など実に多く、かつ多彩である。

粟津潔の肩書きはグラフィックデザイナーだが、その表現の領域は、絵画やポスターから、マンガ、映画美術、さらにパフォーマンスや空間設計まで、一人の人間がここまでできるのかと思うほどと多岐にわたり壮観だ。津山文化センター中庭、「サンパウロビエンナーレ」「大阪万博」「渋谷・天井桟敷館」、「メタボリズム」、出雲大社、高速道路の標識フォント、映画『心中天網島』の美術監督、日本デザイン会議のポスター、世界デザイン博のポスター、、、。「私はすべての表現分野の境界を取り除いて、階級、分類、格差とかも全部取り除いてしまいたい」。粟津は越境する人だった。息子の粟津ケンは「巻き込み / 巻き込まれ上手」だったと述懐している。

粟津潔は法政大学専門部中退で、絵画デザイン技法は独学で学んでいるのには驚いた。「知識がないところからやる辛さと、それで失敗しまくりながらも世界を広げて」いったのである。著書『造型思考ノート』では、フリーランスでどこにも所属せずにやっていく気持ちを「とにかく不安」と認めつつ、でも依頼仕事も相手のご機嫌伺いではなく、むしろ自分が今やりたい作品にしてしまおう」としていたことを述べている。アーチスト(芸術家)ではなくアルチザン(職人)であった。それをデザイナー、現代ではグラフィックデザイナーと呼ぶのである。

自分の舞台を創るところから始める起業家は、いわばアーチストである。相手が用意したテーマを予算や時間の制約の中で解答を出すビジネスマンは、いわばデザイナーである。デザインの過程で自分という個性を表現できるようになったら、デザインはデザインを超えていく。そして分野を自在に越境していけるようになる。粟津潔のようなデザイナーを志したいものである。

 

 

 

 

 

多摩でスポーツフェスティバル。夜は品川で大学院の授業。

新入生全員が参加する スポーツフェスティバル(運動会)を開催。大成功!

私は開会の挨拶。「UNDOKIは最前線。eスポーツは最先端。クールジャパン。ァアジア・アフリカ。運動会屋が繁盛。2020年に世界綱引き大会。ハクスボール。eスポーツの源流は日本。シンポジウム。吉本興業。、、、」

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 屋内。

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夜は大学院の授業。「インサイト・コミュニケーション」の2回目。

・日経から出した『企画・プレゼンに活かす図解表現の技術』(久恒啓一監修)で学ぶ。

・新聞の社説の図解の方法の解説。

・読売・朝日・毎日・産経・日経・東京の新聞のここ1週間の社説を図解する演習

・全体発表

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以下、受講生の感想(翌朝5時までにフェウスブックに書き込まれたもの)。

・図に書くことによって文章の意味が明らかになると共に疑問点や矛盾点が見えてくることを実感しました。まだまだ、どこから書き始めていいか迷ってしまう点や、話の軸がずれてしまう点などがあり、何度も書いて学んで行くことが大事なことだと感じました。

・心得3箇条。 ・図解はキーワードのかたまり。 ・大胆にそして細心に。 ・丸と矢印を使うだけで充分。図を使うことで自動的に考えられる。 ・印が繋がらない:疑問点・ ・矢印が繋がるが自分の考えと合わない:批判点。今回の演習では、まさにこの2点を実感できました。文章を読むだけでは読み流してしまいそうな部分も図解により繋がらない部分や違和感がある部分がわかりました。

・社説を図解にするにあたり、内容の取捨選択で迷いがありました。今後、図解にするにあたってのテキストの読解力を身に着けたいと感じました。

・図解にしていく過程で、キーワードを抜き出し、それぞれの関係性を考えていると、全体の構造が見えてきて、頭が整理されていくのを実感できました。ただ文章のとおり、上から下へと図を起こしてしまったので、本来同じ分類にできるものが、別れてしまいました。分類分けすることで、もっとシンプルで分かりやすく図解化できるなと感じました。また次回頑張ります。

・前回講義では自分の仕事すら全く描けなかったですが、今回は講義の初めで見せて頂いたVTRで述べられていた、3つのルールと7つのテクニックを意識することで、少しだけ前回より進歩したと感じました。また、社説の文書をKey Wordと矢印だけで表現できることが体感出来、業務への応用するイメージもよりクリアになってきました。

・考えているようで考えていない普段の自分。図解は熟考させる。図解とは関係図。→「やじるし」がとても重要。今日の気づきはプレゼン力の重要性。図解+プレゼンor文章で納得させる。腹落ちさせる。図解がゴールではない。1全部を話してはいけない。要点。2前提条件を伝えるべき。3で、なんなの?結論。4おまえはどう考えている。第1、2講とても価値ある講義でした。

・マルと矢印だけで充分、図解はシンプルにと教わっても、頭で理解できてもなかなか表現できないもどかしさを感じました。そして、文字に逃げてしまうという悪い癖を直さなくては。皆さんの発表も大変勉強になりました。普段の講義のメモ書きからも意識していこうと思います。

・人にモノを伝えることが、楽しくなるなと、感じ、また、練習が大事だとも、学びました。私は、個人として、次の3点を意識しました。①つ目は、線の太さ、②つ目は、矢印は基本の「左から右」、最後③は、箇条書きを作らず丸で囲えるよう言葉を選ぶこと、の3点です。最後まとめてみたら、先生のまとめ方と同じになっていたので、安心しました。

・今日はとても疲れましたが、図解をしているとあっという間に時間が過ぎていきました。今日の講義では以下の3点が重要だと感じました。①まずは文章の大枠の構造をつかむこと②キーワードはシンプルに書くこと③数をこなすこと。ビデオの企画書の例でもあったように文章の塊を見つけ、シンプルなキーワードを抽出することが分かりやすさのポイントだと感じました。そしてやはり数をこなさないとなかなか洗練された図解には辿りつかないなと思いました。次回も楽しみにしています。

・社説を図示化すると、各新聞社が説を発信することに責任感を感じていないように伝わりました。いつも社説を読み始めて、嫌になって読むのを止めてしまう理由もここだったのかと。これでは、最近のトピックをまとめただけのように思います。「文章は誤魔化せる」と言われていた先生のお話そのままです。例え炎上したとしても、きちんと責任が明確になる文章(あるいは図)で社説を展開した方が、新聞という情報媒体に価値が発生し、差別化になり、購読者も増えるように思いました。でも新聞社だけの問題ではありませんね。私自身も仕事上で気をつけようと思います。

・文章に線を引いて丸を描いてもう一度眺めると確かにポイントとなる部分が浮き出てくる感覚を実体験出来ました。しかしキーワードを文章順に追ってるだけになってしまい、その本質的な関係性を掴むまでには至っていません。演繹的、帰納的繋がりを意識して構造化出来るようになりたいと考えます。

・図解を実際にやってみて気づいたのは、図解思考は、MECE(漏れなく、重複なく)そのものだなということでした。文章を図で構造化する作業はMECEの実践で、論理展開の整理に役立つと思いました。私が扱ったケースでは、経営環境、打開策、本来取り組むべき課題の3つの文章構成に整理できたのですが、筆者の主張が強過ぎて、説明を繋げるためのロジックが不十分(打開策と本来取り組むべき課題の繋がりが浅い)だと思いました。また、ケースでは事例が2件載っていましたが、2件とも同じ企業が出ていて、並列関係が構築できていないと思いました。社説の論理飛躍はよく目にしますが、図解にすると、どこがおかしいのかを特定できて便利だと思いました。

以下、外国人留学生。

・図解の作成方法、キーを習得しました。一番言いたいことを図の中心に置く、タイレルとコメントを追加する。この二つは自分の中では一番トクした勉強成果です。でも、外国人なので、長くて複雑な文章の内容を理解にくい、特に専門性が高い文章など。今後は頑張りましょう

・授業を通して、新聞記事を図表に変えるのは決して簡単なことではないだと気付かされました。今後、論文を書くために、良いパワーポイントを作るためにも、しっかり練習して上達するように頑張ります。初回の授業が個人的な理由で出席できなかったが、次からの授業て一生懸命勉強します。よろしくお願いします。

・授業で,最初 長い日本語の新聞記事を見ると、迷ってしまいました。しかし、先生の教えのおかげで、図解でキーワードを抽出することで文章を理解しやすいと思います。また次回頑張ります。よろしくお願いします。

・今日から久恒先生の授業ゼミに参加しました。中国から参りました。先生の授業ゼミに追加したことは新入生としてよかった選択だと実感しています。先生の授業は素晴らしいです!先生はユーモアがあります。先辈達は熱心です。3時間の受講は楽しかった。先生の講義の内容のテーマは、日本の基本的な政治経済、文化、など国民生活などどで、留学生としてはこの授業通してlogicの 知識を積む同時に日本の政経文化知識も積み重ねることができます。皆さんの発表も大変勉強になりました。 初めて多摩大学院で正式に発表したので凄く緊張しました。インサイトコミュ二ケションの授業を通してlogic思考能力開発とコミュ二ケション力の鍛錬がてきると思います。そして、留学生の私は毎日、新闻読むことにします。日本語力の上達が必要と思います。

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「名言との対話(平成命日編)4月27日。大社義規「ツキが落ちても悲観するな」

大社 義規(おおこそ よしのり、1915年2月1日 - 2005年4月27日)は、日本実業家日本ハム創業社長。

1963年日本ハムに商号を変更、ハム・ソーセージを中心とした食肉加工のトップメーカーに成長させた。2002年狂牛病対策による農林水産省の制度を悪用した牛肉偽装事件の影響で経営の第一線から身を引く。

大社は「不況は新しい種まきをする絶好の機会である」と言う。「新工場建設などの大型投資は、景気の悪い時にやるのが一番だ。景気の悪い時は、社員は心配して非常に堅実な計画をたてる。それが狙いだ。景気のいい時の計画は、どうしても大雑把になり、あとでとんだ後悔をすることになる」からだ。
業界紙「日本加工食品新聞」の小菅留治編集長と知り合い、その後長きに渡って交流する。小菅編集長は後の藤沢周平となった。大社は藤沢の小説は全て読破する熱烈なファンとなり、交流は晩年まで続いた。

1973年に先輩である三原脩の勧めにより日拓ホームフライヤーズを買収し、「日本ハムファイターズ」としてプロ野球に参戦、オーナーに就任。1981年には大沢啓二監督の指揮で19年ぶり、日本ハムとしては初めてのパシフィック・リーグ優勝を果たす。このときに着ていたユニフォームの背番号100は永久欠番となった。日本ハムは2006年に大社の夢であった日本シリーズを制覇する。この時、大社の養子である大社啓二が、遺影を持ってグラウンドに現れ遺影は選手によって胴上げされた。野球狂の大社は生前「やろうと思えば何でもできる」、「できると思えば必ずできる」という言葉を選手たちに言い聞かせていたそうである。

三原監督、藤沢周平などとの交流の軌跡をみると、この人は「縁」を大事にした人だと感じる。この文章を書いているうちに、私の郷里・中津で食肉業を営んでいる友人が、この大社を尊敬していたことを思い出した。

ツキが落ちても悲観する必要はない。なぜなら、そうした局面で何をしたか、どう対応したかによって、その後の展開が大きく変わるからだ。「じっと辛抱して持ちこたえていれば、不思議と運は開けてくるものなんです」と大社義規は語っている。不況、不遇、不運は、次の展開のへむけての準備期間と考えよう。

 

 

 

 

リレー講座:元特命全権大使・天江喜七郎「ロシアの中東外交と同地域の将来」

9時: 東京医療保健大学の田村副理事、利光事務部長、佐藤先生が来訪。杉田学部長と対応。

10時:杉田学部長と意見交換。

10時40分:事業構想論で講義。1時間。「大学改革の多摩大モデル」。

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 13時半:知研の高橋副理事長が来訪。仙台、岡山、沖縄、宮島、北海道、、。

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14時:今泉先生(大学院教務部会長):大学院の留学生対応を協議。

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14時50分:リレー講座:元特命全権大使・天江喜七郎「ロシアの中東外交と同地域の将来」。

プーチン大統領の世界観・中東観:プーチンソ連崩壊は20世紀最大の悲劇と考えている。偉大なロシアの復活、大国ロシアの威信の回復が主題。ソ連崩壊時2年で3000人の将校が自殺。アフガンではソ連軍の撤退。イラクでは米国支配に。シリアでは米国はアサド排除を企図する。ウクライナまでEUにという流れに反発した。プーチンは力、悪さ、外交など全方位でハイブリッド外交を展開中。

プーチンの次なる一手:米国トランプ政権の分裂で外交的足かせになり中東離れを。欧州も中東離れ。シリアでは和平工作を主導しロシアの地位を確立。トルコではイランを味方につけて影響力を拡大。イスラルではロシア系比率は20%台、ネタニヤフ政権と太いパイプ。サウジではエネルギーで接近しサルマン国王がロシアを初訪問。イランとサウジ・イスラエルの仲裁でロシアに地位向上を図る。

・日本の役割:中東へ関与を深めるべし。イスラムは15億人:米国一辺倒からの脱却(ロシアとの協調。中国・印度と連携)。シリア内戦(話し合い解決を主張。在シリア日本大使館の再開。トルコとの共同。難民は人道支援を強化。)。イランと米国の核合意を支援(米国への合意遵守を働きかける)。トルコ、イスラエル、サウジを軸に新たな中東外交を図れ。

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○多摩キャンパス

  ■一般受講申込者数:433名。出席者数:316名 出席率:72.9%

  ■学生出席者数:187名(履修外聴講生の数を含む)

○湘南キャンパスライブビューイング

 ■一般受講申込者数:47名。出席者数:39名 出席率:82.9%

  ■学生出席者数:21名

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18時半:九段サテライトにて多摩大「志塾会」(学部OB会・大学院OB会)。講師は経済アナリストの池田健三郎先生。冒頭、私から「多摩大の戦略、現在、方向」を説明。

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「名言との対話(平成命日編)」4月26日。大山倍達「この地上において、自分より強い人間が存在することを絶対に許さない」

大山 倍達(おおやま ますたつ、1923年7月27日大正12年6月4日) - 1994年平成6年)4月26日)は、朝鮮半島出身の武道家極真空手)。国際空手道連盟総裁・極真会館館長。段位は十段。

1947年、戦後初の全日本空手道選手権に出場して優勝。1950年11月、千葉・館山で猛牛と対決し47頭の牛を倒す。うち4頭は一撃で即死。1962年、日本に帰化1964年(昭和39年)国際空手道連盟極真会館を設立し、以後数々の名だたる弟子・名選手を輩出。国際空手道連盟極真会館の会長に佐藤栄作が就任1970年代週刊少年マガジンに連載された梶原一騎原作の劇画空手バカ一代』で、主人公として取り上げられた。1975年には通称『カラテオリンピック』と呼ばれる第1回全世界空手道選手権大会を開催して、全世界に極真空手ブームを巻き起こす。1988年、すべての都道府県に極真会館組織が確立した。世界120ヵ国に公認道場を持ち、1200万人の門弟がいたというから、事業家としての才能の高さも並大抵ではなかったようだ。

私の大学生時代でも『空手バカ一代』の影響で、大山倍達の存在は大きかった。今でも出勤途中に「極真会」の看板を見かけることがあり、大山を思い出すことがある。

・切り花でなく根のある花であれ!

・若いうちに1つ泉を掘っておけ!そこから無数の興味が湧いてくる

・貯金した努力には実力の利息がつく。浪費した才能には挫折の債務がつく

・頭は低く、目は高く、口慎んで、心広く、孝を原点として他を益する。

・出る杭は打たれるものさ。それが嫌なら何もしないことだ

大山の座右の銘11ヵ条の中には「武の道において真の極意は体験にあり」がある。ここから極真会の名をつけたのだろう。また「武の道においては点を起とし、円を終とす 線はこれに付随するものなり」も面白い。また同じ武闘家として大山は宮本武蔵を尊敬していた。「武の道においては千日を初心とし 万日の稽古をもって極となす」は武蔵の『五輪書』の名言「千日の稽古をもって鍛となし、万日の稽古をもって錬となす」をなぞったものだ。大山倍達は「格闘技の中では空手が一番強く、空手の中では極真が一番強い」と、極真最強論を公言していた。自分より強い人間の存在は許さないという気迫は鍛え抜かれたこの自信からきていることがわかる。

 

 

 


 


 

 

教授会。T-Studioで「名言との対話」収録。

・学部運営委員会

・教授会。冒頭、交換留学生の紹介。フランス、中国天津財経大、中国広東財経大から21名。賑やかになりそうだ。

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・学長室の渡辺さん:戦略会議(入試)の「方向と具体策」。

・小西先生

・バートル先生

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・T-Studioで「名言との対話」の31回目の収録。ゲストは小林先生。小林先生の座右の銘「精一杯やってだめならしかたがない」を材料に18分の対談。

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大分県別府から入学してきた佐保君来訪。

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 図書館に「多摩大生が選んだ! おもしろかった本!」コーナー。私の『団塊坊ちゃん青春記』も並んでいるのを発見。

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 「名言との対話」4月25日。尾崎豊「僕はお金のためにロックンロールをやっているんじゃない。僕は僕の歌を聴いてくれて希望を持ってもらえるために歌うんです。僕は傷ついた人たちのために歌いたい」

尾崎 豊(おざき ゆたか、1965年11月29日- 1992年4月25日)は、日本歌手作詞家作曲家編曲家詩人実業家

10代の三部作『17歳の地図』『回帰線』『壊れた扉から』はティーンエイジャーから絶賛された。

デビューアルバム『17歳の地図』の中の「15の夜」には「覚えたての煙草をふかし星空を見つめながら自由を求め続けた15の夜」という歌詞。最後の曲は「僕が僕であるために」だ。『回帰線』の中の 「卒業」では、「あと何度自分自身卒業すれば、本当の自分にたどりつけるだろう 仕組まれた自由に誰も気づかずにあがいた日々も終る この支配からの卒業 闘いからの卒業」という歌詞が印象的だ。この歌は、当時の全国の中高生の間を稲妻のように駆け巡った。私も妻が尾崎を好きでアルバムを聞かされ続け、尾崎豊の歌の歌詞と熱情に打たれてしまった。

13歳年上の音楽プロデューサー須藤晃は『尾崎豊 覚え書き』(小学館文庫)の中で、今まで世の中に出ていた音楽、歌とは明らかに違った言葉の表現、リズム、メロディーが存在していて、すごい才能だ、不世出のアーチストだ記している。

わずか26年間の人生を疾走した尾崎豊の死因は覚醒剤中毒 (メタンフェタミン中毒) による肺水腫である。雨の中の護国寺での告別式には4万人以上のファンが集まった。その規模は、戦後唯一の国葬吉田茂、歌謡界の女王・美空ひばりの葬儀に匹敵する人数だった。

尾崎の死後、アルバムが急激に売れる現象が起こり、1992年5月25日付けのオリコンアルバムチャートでは、TOP10中6作を尾崎が占める現象が起こった(1位『放熱への証』、4位『回帰線』、5位『十七歳の地図』、6位『LAST TEENAGE APPEARANCE』、7位『壊れた扉から』、9位『誕生』。

1992年の死後、カリスマ的人気のある尾崎の思想や活動のため、中学・高校などの教育現場で長らくタブー視されて来たが評価も変わり、高校教科書に顔写真や「15の夜」の歌詞が掲載される(『高等学校 新倫理 - 人間とは何か 思索の糧に - 』 清水書院2002年)ようになっている。

・ロックンロールは人間と人間のきずなの意味を模索する一つの表現方法なんだ。

・自分の好きな言葉を、好きな詩を、好きな表現を時間をかけて創るためには、自分でやるしかないんだ。

・自分の中のアマチュアリズムが許せないんだ。もっともっとプロフェッショナルになていかなければならない。

・体験させること、体験してもらうことが、ティーンエイジャーの成長にとって必要不可欠だと思うんです。

「どんな困難にも負けないで いつまでも夢を捨てないで 君たちへ僕からの精一杯の愛情をこめていつまでも歌い続けることを約束します」という尾崎豊の歌は、傷つきやすい若者へ向けての「夢と希望」を捨てるなという応援メッセージだった。「自由っていったいなんだい 自由になりたくないかい みんなは思う様にいきてるかい」、、、。この人の歌は時代を越えて若者たちに共感の小波を起こし、その心に深く響き続けるだろう。

 

尾崎豊 覚え書き (小学館文庫)

  尾崎豊 約束の日