早朝はヨガ、午後は大学、夕刻は整体。

午後。

・研究室:秘書とスケジュール打ち合わせ。講義、講演の資料確認。

・ウンジ:高野課長とインターゼミの打ち合わせ。班の人数、担当教員の配置、、。

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早朝はヨガ、夕刻は整体。健康の日。

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「名言との対話(平成命日編)」4月24日。小島勝平「鼻は低く、志は高く」

小島 勝平(こじま かつへい。1936年1月28日--2007年4月24日。栃木県生まれ、1954年栃木県立宇都宮商業高校卒業後、実家の雑貨店を手伝う。1963年小島電機(コジマ)設立。「安さに勝るサービスはない」という経営信条を貫く。

家電販売における第一次戦争の勝者はベスト電器だ。次に1994年夏から、北関東を舞台に「YKK戦争」が勃発した。ヤマダ電機社長の山田昇は、群馬でディスカウンターを始めたころ、知人が「栃木にもすごい人がいるから訪ねてみるといい』」といわれ、早速、店に伺っていろいろと勉強させてもらう。その「栃木のすごい人」が小島だった。ヤマダ電機、コジマ、カトーデンキの激安価格での叩き合いは、3社の頭文字をとってYKK戦争と呼ばれた。YKK戦争は、家電業界の流通地図を塗り替え、1997年コジマは売上げ日本一となった。コジマ、ヤマダの価格破壊は全国へ波及する。家電の第2次戦争である。小島勝平は会長に退き長男が社長に就任。トップ交代で業界再編に乗り遅れたコジマはヤマダに首位を譲る。2002年からの第三次戦争の勝者はヤマダ電器である。経営の悪化したコジマは2012年にはビックカメラの子会社となる。そして第四次戦争は都心でのヤマダとヨドバシマカメラで戦われている。

家電量販店ではIT機器などよく買い物をするが、コジマトヤマダの安値競争の恩恵に与ったことがある。今回、小島勝平の人生を追う中で、時代潮流の激しい変化と、その中でストラッグルする企業の栄枯盛衰とそれを担う主役の経営者たちのこのような激闘があったことはよくは知らなかった。

「鼻は低く、志は高く」という人柄の滲み出たユーモアあふれる言葉をよく使っていたように、小島勝平は明るさと熱情をもって「安値日本一」という単純峻烈で強靭な経営理念で生涯を戦い抜き一代で売上げ「日本一」となったのだが、その後ライバルに敗退していく。カリスマ創業者が奮闘し急成長した企業のトップ交代の難しさと、創業経営者の悲哀を感じる人生のストーリーである。社長を退いた60代後半から亡くなるまでのの心境はどのようなものだったのだろうか。

「電力の鬼」「最後の大茶人」松永安左エ門(耳庵)に関する書物5冊。

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多摩モノレールの最前列から。

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松永安左エ門に関する書物を読んできて下記の5冊を読了した。この人物が立体的に見えてきた。

松永安左エ門『電力の鬼』(毎日ワンズ)。新井恵美子『七十歳からの挑戦』(北辰堂出版)。『松永安左エ門 自叙伝』(日本図書センター)。『芸術新潮 最後の大茶人松永耳庵 荒ぶる侘び』。『茶の湯交遊録 小林一三松永安左エ門』(思文閣出版)。

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「名言との対話(平成命日編)」4月23日。木村庄之助「行司も力士も親方衆も、昔からの相撲の型、行司の型を後世に伝えるよう努力し、協会はそれができるような体制をつくるようがん張ってもらいたいものだ」

第22代木村 庄之助(きむら しょうのすけ、1890年3月1日 - 1994年4月23日 )は、大相撲立行司

1898年秋、尋常小学校を二年で中退して大坂相撲竹縄部屋に入門し、1899年6月に木村金八の名で初土俵1907年6月に木村信之助で幕下格、1909年5月十両格、木村錦太夫の名で1912年1月に幕内格となった。1922年5月に、大坂相撲に愛想をつかし1923年5月場所限りで廃業。その後、両國出羽ノ海の誘いで1924年1月に東京大角力協会に移籍し出羽ノ海部屋に所属した。初代木村林之助、初代木村容堂、12代木村玉之助から18代式守伊之助を経て、22代庄之助となった。

人格、識見、土俵態度、うちわ裁きなど、すべてにおいて抜群で、松翁の名誉尊号を許された20代木村庄之助に匹敵する名行司と称えられた。「髭の伊之助」といわれた19代式守伊之助とともに、大相撲人気絶頂である時代の土俵を裁いたが、1959年11月、65歳停年制が導入され伊之助と同時に退職した。退職後、1961年より4場所ほど日本テレビの解説、翌1962年から3年間、NHKテレビの解説を担当した。

 1959年九州場所の千秋楽をもって引退した。結びの「栃錦(寄り切り)若乃花」が最後になった。満で69歳8か月だった。子どの時代の私は若乃花が贔屓だったから、今から思うと「同じ立行司でも伊之助から庄之助になるともうひとつ責任が重い」というこの名人の裁きで楽しんでいたのである。行司界の「松翁」号は代々の木村庄之助中の抜群の名人にのみ許される尊称で、長い大相撲史上3人だけである。22代庄之助もこの尊称をもらう話があったのだが、最終的には流れてしまったのは惜しい。

・立ち合いに「ハッキョイ!」というのは「お互いに力いっぱいやれよ」という意味であり、力士が攻め合ったとき「ノコッタノコッタ」というのは「よく残したな、まだ残っているぞ、しっかりやれ」という意味で、ともに励ましの言葉である。

庄之助は104歳の長寿であったが、90歳の庄之助は「昔の相撲取りは、迫力があったな。今はただ『勝て、勝て』だけど、昔は違う。引かば押せ、押さぱ忍べといってね、踏んばる姿こそ力士の本領だった。だから力士っていったんだ……それだから、みんな体がぴかぴか光っていたもんだよ、、」「土俵へ上がった力士たちを見るとね、気力でわたしには、どっちが勝つかわかったもんですよ。勝負は、気力だったんだよ…行司っていうのは、気と気のぶつかり合いをいかに引き立てて見せるかという仕事なんですよ」と語っている。

 「行司は力士に相撲を取らせるのだという心意気、意気込み」を持っていた第22代木村庄之助の目は厳しく、それぞれが「型」を伝えることを期待し、協会はそれを支援せよという。国際化し、問題山積みの現在の相撲界を庄之助はどう見るだろうか。

 

 

 

 

 

『寺島文庫通信』2018春号。vol60。

『寺島文庫通信』2018春号。vol60。

・アナログの書物・文献からの情報とデジタルで刻々と入ってくる情報の相関の中で、執筆に向かう仕組み。

・「脳力」はたえざるフィールドワークと文献研究の相関の中でスパークする。

・知的三角測量。民族と宗教。中華民族ロシア正教。全体知。6万冊。

・『食べる通信』(食のつくり手を特集した情報誌と、彼らが収穫した食べものがセットで定期的に届く“食べもの付き情報誌”。37地域)

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「名言との対話(平成命日編)」4月22日。斎藤英四郎「明るさを求めて暗さを見ず。今日失敗しても明日に明るさを求める。人の欠点より長所を見る。その方が人生楽しいじゃないですか」

斎藤 英四郎(さいとう えいしろう、1911年11月22日 - 2002年4月22日)は、日本の実業家。新日本製鐵新日鉄、現・新日鐵住金)の元社長。経済団体連合会経団連)第6代会長。

主に営業を担当してきた斎藤英四郎は豪放磊落な明るい性格だったが、新日鉄社長時代の第一次石油ショック後、業界全体が構造不況に陥る中で合理化案を提示している。組合にも必死の思いで理解を求め、全社一丸となって再起に挑んだ心中を「「苦しい時の楽こそ本当の楽である」と観念し、これを求め続けることを心に誓った」と語っている。そして「いいときばかりは続かないよ。悪くなることを想定した対策を、良い時にしっかり考えておかねばならない」と経営の指針とした。

JAL広報部時代、「エアライン経営のトレンド情報誌」月刊currentsという航空界識者を読者対象とした雑誌を創刊し編集長をつとめたことがある。この時、論客・日下公人らとともに、新日鉄の斎藤英四郎にも登場してもらったことがある。

2020年の東京オリンピック組織委員会は元総理の森義朗会長であるが、代々財界の大物がつとめてきた。東京五輪は安川第五郎 九州経済連合会会長、札幌五輪植村甲午郎経団連会長、そして長野五輪斎藤栄四郎 経団連会長だった。

斎藤は山﨑豊子の小説『大地の子』のモデルとなった上海宝山鋼鉄誕生に際して新日鉄が支援したのだが、当時の稲山嘉寛社長の理解で取材が行われた。 その折りにの後を継いだ新日鉄の斎藤英四郎会長は、中国進出は「戦中の罪滅ぼし」と考えていたのだが、山﨑は斎藤の失礼な態度と、木で鼻をくくったような答えに激怒し、「私を、そこらの作家と一緒にしないでください! もう結構です!」と憤然と席を立った。そのことを山﨑豊子が書いて、よく知られるようになってしまった。

斎藤英四郎は生来のネアカな性格に加えて、明るさを持ち続けようと意識して人格を創りあげたのである。仕事が人をつくり、地位が人をつくる。

 

 

 

 

インターゼミ(社会工学研究会):多摩学班。アジアユーラシア班。AI班。サービスエンターテイメント班。地域班。

インターゼミ(社会工学研究会)の2回目は15時半からスタート。

学長

・多摩学班:グローカリティの思想。地域史が世界史へつながる。知性はつながり。

・アジア班:モンゴルでインスパイヤーされた【世界」の3部作。北朝鮮問題。中国とどう向き合うか。チェジュ島、台湾、インドネシアなどアジア経験者が増えている。

AI班:人間とは何か。動物との違いは何か。デジタルエコノミーの光と影。

・サービスエンタメ班:ディズニー。ショッピングセンター。コンビニ。流通エンジニアリング。ネット。銀行、ロフト、デパート、SOGO,赤ちゃん本舗、、、。みんなが行く所に行くという流れ。なぜか。

・地域班:「2045年の日本」の衝撃。東京のみ人口増。秋田県は4割減少。産業。過疎化の研究。500万から370万人に減る北海道。札幌に3分の2が集中。動物天国へ。酒田と奈良。

 

アジア・ユーラシア班。

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多摩学班

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AI班

 

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サービス・エンターテイメント班

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 地域班

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「名言との対話(平成命日編)」4月21日。多田富雄「君と一緒にこれから経験する世界は、二人にとって好奇心に満ちた冒険の世界なのだ」

多田 富雄(ただ とみお、1934年3月31日 - 2010年4月21日)は、日本免疫学者、文筆家。

千葉大教授、東大教授として、免疫学に貢献。野口英世記念医学賞、朝日賞を受賞。文化功労者。

1993年の『免疫の意味論』で大佛次郎賞、『独酌余滴』で日本エッセイストクラブ賞を受賞するなどして世に知られた。また「能」の作者としても優れた作品を残している。その縁で白洲正子とも親しかった。「『西国巡礼』(白洲正子)を読む喜びは、白洲さんとともに己を発見する「道行」を重ねることだと思う」。白洲正子の「西国巡礼」で同行した多田富雄が、巡礼とは自己発見の旅であると喝破しており、私は目からウロコの思いをしたことがある。

2007年9月に多田富雄『寡黙なる巨人』を読んだ。その時のブログにはこう書いている。「世界的な免疫学者による平成版「病状六尺」。脳梗塞による半身不随と失語症との戦いの中で、自らの再起ではなく、自らの中で生まれつつある巨人の再生を感じる著者。以前にまさる活発な著作活動と介護制度改悪に抗議する社会運動を行いながら生き続ける意欲と姿に感動する。父が右半身不随と失語症に長い間悩まされたので、多田先生の記述によって父の感覚や絶望やリハビリの効果、生きる意欲などを垣間見ているような気になって読み進んだ」。

さて、このたび再度小林秀雄賞を受賞したこの名著を読んだ。2001年5月2日に67歳で倒れ、それから6年間の生活をつづった作品である。謡の「飢えては鉄丸をのみ、渇しては銅汁を飲むとこや」という文句を思い出して嗚咽する。「はじめに」では半身不随で沈黙の世界にいる多田富雄は「昔より生きていることに実感を持って、確かな手ごたえをもって生きている」、「その中で私は生きる理由を見出そうとしている。もっとよく生きることを考えている」と心境を述べている。

脳梗塞になって生まれ変わったと確信した多田富雄は、リハビリによって歩ける日が来ることと、初めてのパソコン操作による文章を書いて社会に参加できるという「希望」を持った。その苦難の道行きは、新たな冒険と探検の世界だった。冒険を試み、未知の世界を感じ、調べ、報告する。再生した多田富雄は探検者として、その後数年を生き切り、健常者にも病者にも、大いなる勇気と優れた啓示を与えたのである。

寡黙なる巨人 (集英社文庫)

 

 

午前は授業。午後は3つの連続会議。

10時:橘川先生:無限教師。音の図書館。大いなる多摩学会。

10時40分:ビジネスコミュニケーションの授業3回目。「私はこんな人です」というテーマで図解演習。

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13時30分:教学マネジメント会議「カリキュラムの現状と課題」「教務・教育上の問題点」「教学マネジメント会議の組織化」。

14時30分:戦略会議「入試」。経営情報学部。グローバルスタディーズ学部。大学院。テーマは質の向上。来年度の数。

15時30分:大学運営会議

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【名言との対話」(平成命日編)」4月20日竹内均「前進あるのみ」

竹内 均(たけうち ひとし、1920年7月2日 - 2004年4月20日)は、日本地球物理学者

竹内均はあこがれの寺田寅彦の孫弟子を自認していた。独特のふちの厚いメガネがトレードマークでテレビでもユーモアあふれる語り口で親しまれた。東大定退官後は科学雑誌「Newton」の初代編集長をつとめ科学知識の普及にも功績があった。

専門の地球物理学のみならず、一般科学から「修身」など人の生き方についてまで生涯で450冊の著書を刊行している。量産の秘密は書くことの5倍のスピードになる口述筆記だった。通勤で新書1冊を読み、読書メモもテープレコーダを活用、内容を要約して保存する。1時間で新書1冊は10枚のまとめになって蓄積をしていく。

執筆のノルマは毎月300枚以上を自身に課していた。あるテーマに関して3-4枚の断片を積み上げていく。100集まれば著作となる。売れる売れないに関係なく、自分の勉強のために原稿の形でストックしていくのである。

・独創というのは、すべての要素や知識、情報を収集し、可能なかぎり組み合わせて、その中からベストなものだけを選び、誰も考えつかなかった考えやイメージをつくり出すこと。

・仕事を遊びにする一つの方法は、その仕事を遊びと感じられるまで、その仕事に打ち込んでみること。

私もビジネスマン時代には竹内均の書いた「修身」型の著作愛読者だった。。過去に読んだ本のエキスを縦横に用いていることがわかる。ひたすら前進し、ひたすら蓄積していく、そしてそれを様々なメディアを通じて発表し、世の中に影響を与え続けていく。「前進と蓄積」がこの人のライフスタイルであった。知的鍛錬の継続によって人生を最高に生きることができるのだ。

人生を最高に生きる私の方法―挑戦を続けよ!そして最良の人生を築け!

私の知的鍛錬法―きれっぱしからの発想 (トクマブックス 279)

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年春学期リレー講座「世界と日本の構造変化に変わらざる視座を求めて--知の再武装への試み」。第1回は寺島「世界の構造変化をどう見抜くか」。

・学長室渡辺さん:明日の戦略会議の説明を受ける

・事務局との定例ミーティング:タイプ5.

・学長:ライフワーク

・2018年春学期リレー講座「世界と日本の構造変化に変わらざる視座を求めて--知の再武装への試み」。第1回は寺島「世界の構造変化をどう見抜くか」。

リレー講座11年目。240回。12万1774名が受講。2018年春は一般433名、学生220名の計653名。湘南キャンパスでのライブビューイングは一般・学生計72名。合計で725名。

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・ジェロントロジー=高齢化社会工学(高齢者を生かしきる社会システム)。第一次産業高齢者の参画。知の再武装、何を武装するのか。

・知性とはつながりを理解する力。知はつながり。

・デジタルエコノミー:デジタル専制(Digital Dictatorship)。米中の2局構造。米国はFAGA+M(ITビッグ5)で株式時価総額3.4兆ドル(364兆円)。中国はテンセントとアリババで1兆ドル(107兆円)。日本のトップ5(トヨタ22.5兆円。NTT10.7兆円。ドコモ10.3兆円。三菱UFJ9.8兆円。ソフトバンク8.8兆円)。ニューセブンシスターズ第四次産業革命=ITxFT(金融工学)。ウーバー、テスラなど「夢にお金がつく時代」。データリズムの時代。データを支配するものがすべてを支配する。

・技能オリンピク:日本は9位に転落。1位中国、2位韓国、3位スイス。51種目。最近の日本メーカーの不祥事。現場力の劣化。中間管理職の劣化。ものづくり国家・日本危うし。

IMF経済見通し:2017年世界3.8%成長。世界同時好況(マイナスゾーンなし)。米国2.3%。ユーロ圏2.3%。日本1.7%。アジア6.5%。中国6.9%。インド6.7%。ASEAN5・5.3%。ブラジル1.0%。ロシア1.5%。

・日本:2017年1.7%。2018年1.2%。2019年0.9%。2020年0.3%。デジタルエコノミーに乗り遅れ。ものづくりの基盤の劣化。株価に注目するマネーゲームへ。

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知研の高橋副理事長と懇談し、一緒に荻窪の日本地域社会研究所へ。

知的生産の技術研究会のセミナーの講師ラインアップ。

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 【名言との対話」4月19日。高橋節郎「?」未完。

髙橋 節郎(たかはし せつろう、新字体高橋 節郎旧字体高橋 節郞1914年大正3年)9月14日 - 2007年平成19年)4月19日)は、日本の芸家。

長野県安曇野出身。1976年東京芸大教授。1961年日本芸術院会員。1992年文化功労者。1997年文化勲章

磁器をchaina。漆器をjapan。

 

 

『邪馬台』を巡って--新貝正勝編集委員(前中津市長)を中津北高の同級生が囲む

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市ヶ谷のホテル・グランドヒルで上京中の中津北高の新貝正勝先輩と松田君、猪俣君と一緒に会う。新貝さんは2年前まで中津市長。同人誌「邪馬台」振興についてのアイデをもらいたいという。

シリーズを始めたばかりの「中津北高20回生の軌跡」の次の人選。私からは学校を定年退職した校長先生などに総括的に書いてもらい、その縁で教え子たちに参加してもらうというアイデア。関東、大阪、福岡などで飲み屋、料亭などの飲食店をやっている中津出身者(如水。洞門。、、)から広告をもらうアイデア。執筆ができない人にはインタビューでハードルを低くする。、、、1時間半ほど語り合った。その後、3人で居酒屋で歓談。

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「副学長日誌・志塾の風」180417

・人事委員会:採用。昇格。3年審査。

・学部運営委員会:2017年度の両学部の成果に関する見方を述べておいた。

 ・下井先生・中村その子先生:【問題解決学」のまとめについて相談。

・飯田先生:本の保管

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 「名言との対話(平成命日編)」4月18日。来栖継「重訳が必ずしも直接訳に劣らない」

栗栖 継(くりす けい、男性、1910年7月18日 - 2009年4月18日)は、翻訳家、チェコ文学者、共産主義者エスペランティスト日本エスペラント学会顧問、世界エスペラント協会名誉会員、日中友好文通の会会長。

父が自殺したため母子家庭で育つ。中学時代にエスペラント語を知り、雑誌「戦旗」に掲載された「プロレタリアエスペラント語」という論文を読み、エスペラントにより革命運動に参加できると考え、エスペラントを学習する。戦前は治安維持法により特別高等警察によって数回逮捕・投獄された。出獄した栗栖は小林多喜二蟹工船』のエスペラント語訳に取り組み、作家の貴司山治の助けで、大量にあった伏せ字を全部復元した翻訳を完成させた。その時点では出版できなかったが、スロバキアのジャーナリストが、栗栖のエスペラント語訳からスロバキア語に翻訳し、1951年に発行された。戦前・戦後を通じて日本のプロレタリア文学などのエスペラント翻訳などを多数行った。1949年、エスペラント運動に関する功績により「小坂賞」(日本エスペラント運動に対する小坂狷二の功績を記念した賞)を受賞した

少年期からチェコ文学に興味があり、「本物のチェコ文学者」となろうと、40歳を過ぎてから、独学でチェコ語を学習する。1995年7月、ルイジ・ミナヤ賞(世界エスペラント協会主催文芸コンクール、エッセイ部門第1位)受賞。2007年には、横浜みなとみらい21で開催された第92回世界エスペラント大会では、開会式でエスペラントであいさつを行った。

世界語・エスペラント語は、宮澤賢治も使っていた。また2011年に開催された「ウメサオタダオ展」でもエスペランチスト梅棹忠夫エスペラント語のサインの入った本が展示されていた。訪問したいくつかの人物記念館でもエスペランチストは数人いた。世界語への関心が高い時代があったのだ。

小林多喜二の代表作『蟹工船』のスロバキア語訳の陰には、来栖継という日本人によるエスペラント訳があったことが後にわかった。「スロバキア語とよく似たチェコ語訳の『蟹工船』は、伏せ字だらけの本が底本です。重訳が必ずしも直接訳に劣らない一つの例証です」と91歳の来栖継は語っている。原作を超えるという評価のある翻訳では、森鴎外の『即興詩人』が有名だが、日本語からエスペラント語への翻訳、そのエスペラント語訳からスロバキア語への再翻訳という「重訳」が成ったわけだ。原本の良さがだんだん薄れるだろうと思うのだが、語学の才能に加えて、志の高い翻訳者を得れば、直接翻訳を上回る出来になることもある。小林多喜二から来栖継、そしてスロバキアのジャーナリストというように松明が引き継がれたのである。来栖継の第一次翻訳が優れていて、スロバキアのジャーナリストの転訳もさらにすばらしかった。軌跡の物語がここにある。