箱根でインターゼミ合宿。

箱根湯本の水明荘でインターゼミ合宿。

13時から新人教員3人の自己紹介のミニ講演。5つの班の中間発表。終了は17時前。

18時15分から食事会。二次会。三次会と続く。

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10年目の今年は、人数は史上最高だった。内容も一番良かった。

初見先生「労働に喜びは存在するのか」。後藤先生「協力に基づく幸せな社会のあり方」。加藤先生「生活を豊かに」。

AI班「豊かな人生とは何か」。地域班「人生の満足度」。サービス班「高学歴高齢者の再武装が幸せに繋がる」。多摩学班「人生100年時代を幸せに過ごす社会システム」。アジア班「どういう体制が幸せをもたらすか」。

全体の底流を流れている研究テーマは、人生100年時代の「幸せと豊かさ」だ。寺島学長の8月10日発刊の「ジェロントロジー宣言」(NHKブックス)は、人生100年時代を睨んで社会システムをどう変えるかがテーマであり、私の8月4日発刊の「100年人生の生き方死に方」(さくら舎)は、人生100年時代の個人の生き方のモデルを提示したものだ。

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「名言との対話」8月2日。村上信夫「やはり平和が一番だ。うまい料理こそ平和の象徴。もう一度料理をつくろう」

村上 信夫(むらかみ のぶお、1921年5月27日 - 2005年8月2日)は、日本のフランス料理の料理人。

村上は帝国ホテル料理長という日本最高峰の地位を26年間という長期にわたり務めた名シェフだ。NHK「今日の料理」の名物講師としても活躍した。テレビでふっくらした体型とヒゲの風貌とやさしい語り口を覚えている人も多いだろう。

犬丸徹三・帝国ホテル支配人から北欧の食べ放題料理スタイルを研究するよう指示され、村上は「バイキング」方式を考案する。また1964年の東京オリンピックでは「女子選手村」の総料理長として300人以上のコックのリーダーをつとめた。 包丁類を買い集めているうちに手が出るようになった日本刀の蒐集が趣味。講道館柔道六段。 

  「料理にこれでいいということはない。いくつになっても研究を続ける」

 「私ども料理人は怒ったりしたあとに味付けをすると辛くなってしまう。ですから本当のプロの料理人は泣いたりわめいたりしなくなるものなんです」

短歌の土屋文明は敗戦時に「我にことばあり」と言って、短歌をを縦横に使える時代がきたと力強く宣言した。インパール作戦で生き残った塚本幸一は服飾の分野で新生日本の国造りに命を捧げ英霊を慰めようとした。同様に戦後、シベリアに抑留から日本に戻ってきた村上信夫は「うまい料理こそ平和の象徴」と考え、料理で自分が立ち、その料理で平和に貢献しようと決意したのだ。日本中の様々な分野でこのような決意をした人たちがいて、復興が成功したのであろう。

 

 

 

「あなたはこの授業を受けてどう変わりましたか?」

学部授業「ビジネスコミュニケーション」の最終回のアンケート「あなたはこの授業を受けてどう変わりましたか?」

・世界が変わった。これからの⼤学⽣活でも“図解”を活⽤していきたい。

・⼀回り⼤きく成⻑したように思った。他の⼈たちに負けない1つの⼒だと思う。この講義を受けて良かった。

・図解の本質に触れ、無限⼤の可能性を感じた。⼤きく成⻑できた。「図解」で事業やプロジェクトのビジネスに⽣かしていきたい。「図解」は社会の課題や問題のソリューションとして活躍できると思う。

・新しい特技を⾝につけ読解⼒がついた。物事を図解にして考えるようになれた。

 ・分析⼒が上がった。物事の本質を⾒られる様に成⻑した。

・キーワードの関連性や関係性、俯瞰視点での⾒え⽅が分かるようになった。

・今まで避けていた内容の⽂章にも慣れたので苦⼿意識がなくなった。

・構成⼒を⾝につけることができた。分かりにくい⽂章も分かりやすくまとめる⾃信がついた。⾃分に期待したい。

・今まで避けていた内容の⽂章にも慣れたので苦⼿意識がなくなった。

・まず物事を⾒る⽬が変わった。どんなことをするにも、全体像を⾒渡すことがで
きれば問題解決がかなりし易くなる。

・新しい特技を⾝につけ読解⼒がついた。物事を図解にして考えるようになれた。

・「俯瞰」の⽬を持つ。図解には個性がある。図解には正解がないという⾔葉で描
きやすくなった。⼤きく成⻑できた。

・講義を受けていなければここまでできるようにならなかったので、⾮常にありがたい授業だった。

・「頭の筋⾁を鍛え、考える⼒を強化する」という⾔葉が⼼に響いた。

・最終課題の⽂章を読んでいるときに、⾃然と図解を考えられるようになり、成⻑に繋がったと感じた。

・図解が⼤好きになった。

・⽂章を理解する能⼒が上がった。

・論理的な考えがある程度⾼められた。⽂書やデータの中から中⼼的なことをすぐ探すことが上⼿くなった。まとめる能⼒も⾼められた。

・図で表現することにより、企業の考え、偉⼈が考えている事が図で表現出来る様になった。就活の際には図を利⽤したいと思った。

・多⾓的な視点で物をとらえて⾒ることができるようになった。

・図解を知り、こんなにも⼈に伝えやすく⾒やすいものがあるのかと驚いた

・⾔葉と⾔葉をつなぐポイントが分かった。⽂章を読む⼒がついた。⻑時間作業する⼒がついた。

・図解するんだ、と思って⽂を読むと頭に⼊ってきやすくて、とてもいいことを学んだ。

・図解を学んだ事により難しい⽂章も理解し易くなった。これからも図解を使っていこうと思う。考える事が重要だと感じた。

・⻑⽂の読解⼒が上昇し、「まとめる」→「分かる」というプロセスができあがった。

・他の講義で活かせる機会が多かった。

・普段のノートの取り⽅が変わった。来期も楽しみにしています。

・図で表現することにより、企業の考え、偉⼈が考えている事が図で表現出来る様になった。就活の際には図を利⽤したいと思った。

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市ヶ谷にて。

・N出版社:処女作を出版してもらった出版社。2つの出版企画が浮上。

・M社:楽しみな新たな教育プロジェクトが出発。

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「名言との対話」8月1日。永山則夫「私がなければ事件は無い、事件がある故に私がある」

永山 則夫(ながやま のりお、1949年6月27日 - 1997年8月1日)は、1968年から1969年にかけて連続ピストル射殺事件警察庁広域重要指定108号事件)を引き起こした刑死者である。1969年の逮捕から1997年の死刑執行までの間、獄中で創作活動を続けた小説家でもあった。1983年、小説『木橋(きはし)』で第19回新日本文学賞を受賞。

 永山則夫は北海道網走市呼人番外地で生まれ、青森の中学卒業後、上京。店員、自動車塗装工、日雇労働者等を経て、1968年に東京、京都、函館、名古屋で4件の連続射殺事件を起こす。1969年に逮捕。1990年死刑確定、1997年47歳で死刑執行。

生前から話題になっていた永山則夫とは同学年であることを知り、興味をそそられながら526ページの『無知の涙』を読了した。「金の卵たる中卒諸君に捧ぐ!」と表紙に記された記されたノートへの詩と断章の書きつけである。ノートは10冊あって、1969年7月2日から、1970年10月30日までの1年3ヶ月の膨大な記録である。この間は、私の大学入学直後から2年生の前半にあたる。

「私は四人の人々を殺して、拘留されている一人の囚人である」。7月2日は「罪人よ ああ罪人よ 罪人よ どこえ行くんだろう この道は どこえ行こうとしているのだろう、、」から始まる。この期間に連続射殺魔・永山則夫は哲学・精神分析学・心理学・小説などあらゆる名著を紐解いている。この独学で自己自身を考える実存主義思想思想で両足で立つことを教えられ、貧困を扱った師マルクスエンゲルスから決定的に覚すいさせられる。そして、マルクスを信奉する左翼という立ち位置を獲得する。その過程が克明にわかる。「頭の中で逃走する」という存在理由を見つけたから、「私は生きますよ死ぬまで、、」と決意表明をしている。

・実存という言葉の意味をつかんだ。実存とは、私がこのように物を書き綴っていることなのである。

・たった一年間で世界という物の根源的状態を知り得たということである。

1971年に手記『無知の涙』、『人民をわすれたカナリアたち』を発表。1983年には小説『木橋(きはし)』で第19回新日本文学賞を受賞。1980年に以前から文通していた在米日本人・和美(フィリピンと日本のハーフ)と獄中結婚。

永山の作品は以下のように多い。手記では、『無知の涙』合同出版(1971年)のち角川文庫、河出文庫。『人民をわすれたカナリアたち』辺境社(1971年)のち角川文庫、河出文庫。『愛か-無か』合同出版(1973年)。『動揺記1』辺境社(1973年)。『反-寺山修司論』JCA(1977年)。永山則夫の獄中読書日記-死刑確定前後 朝日新聞社 1990。日本 遺稿集 冒険社 1997。文章学ノート 佐木隆三監修 朝日新聞社 1998。死刑確定直前獄中日記 河出書房新社 1998。小説としては、『木橋(きはし)』立風書房1984年)のち河出文庫- 第19回新日本文学賞受賞作品。『ソオ連の旅芸人』昭和出版(1986年)。『捨て子ごっこ』河出書房新社(1987年)。『なぜか、海』河出書房新社(1989年)。『異水』河出書房新社(1990年)。『華』1-4、河出書房新社(1997年)。その他:『死刑の涙』(1988年)。

このノートで「私は本を出したいと願望している。、、印税が入ったら、私が殺めし家族の人々にそっくりそのまま渡したいためである」と記している。死後、弁護人たちにより「永山子ども基金」が創設された。著作の印税を国内と世界の貧しい子どもたちに寄付してほしいとの、永山の遺言によるもので、貧しさから犯罪を起こすことのないようにとの願いが込められている。

「このような大事件を犯さなければ、一生涯唯の牛馬で終わったであろう。人間ゆえ、思考可能な人間ゆえ私は知ってしまった」永山は、司法が死刑と無期懲役に揺れる中で、あくまで生きようとして闘い続けた。「動機なき、理由なき殺人」を犯した永山則夫は、その事件を起こした故に牛馬ではなく、「人間」になったという一大パラドックスの考えさせられるドラマである。永山則夫という希有な存在は、死刑の存廃にかかわる論争を呼んだ。 

無知の涙 (1971年)

無知の涙 (1971年)

 

 

 

 

 

 

三菱一号館美術館「ショーメ 時空を超える宝飾芸術の世界」。寺島文庫リレー塾の2018年前期最終回。

三菱一号館美術館「ショーメ 時空を超える宝飾芸術の世界」

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ショーメはジュエリー(宝石)を扱う250年近い歴史を持つ企業である。ナポレオン一世の戴冠式の宝冠、皇后ジョゼフィーヌのブレスレット以外にも、ティアラ、王冠、紋章など王侯貴族のシンボル、麦の穂(繁栄と豊穣のの象徴)、トロフィーなど権力と結びついた装飾を扱う。ショーメの特徴は「自然主義、感情、壮大さ」の3つのテーマだ。上流階級であることを示す、東部を飾るティアラは、成功と財産を体現するものであった。

創業者はマリ=エティエンヌ=ニト。ショーメの着想源は、「歴史と地理」だった。古代、中世、ルネサンス、17世紀などの多様なものを組み合わせる歴史主義。世界、特に中国、インド、そして日本などの東洋文化からの影響が地理の世界だ。歴史と地理がインスピレーションの源である。

ニトはフランス革命の時に、王妃マリー・アントワネットが所有する日本漆器コレクションを助け出した。この関係はジャポニズムという形で続いている。自然現象を神格化した「雷神のブローチ」や、「硯箱」など、自然への魅了、洗練、崇拝などの日本の影響力は大きい。

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・自宅の書斎:「名言との対話」用に8月に読む本を整理。24冊か、修行だ。

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・研究室で仕事。次に向けて書類処理。

東京オペラシティ(初台)の東京アートギャラリーで開催中の「イサム・ノグチ 彫刻から身体・庭へ」展をみる。

丸の内オアゾ丸善を覗く。

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19時から丸の内の日本工業倶楽部で寺島文庫リレー塾。寺島実郎講師。20時30分まで。椅子席で満杯。250名くらいか。

IMF世界経済見通し:世界18年3.9%、19年3.9%、20年3.8%。日本18年1.0%、19年0.9%、20年0.3%(18年は0.2%下方修正)。

・デジタル専制。日本の株価の実力は1万6千円。3割ダウン。時価総額キーエンス7.6兆円(IOT)が6位、ソニーは7位。ユニクロ5.4兆円、オリエンタルランド4.2兆円、日立3.8兆円、新日鉄住金2.1兆円。

マクロンと師のジャック・アタリ(思想家・作家)。国際連帯税などの新しい政策論。トランプの分析書(ニューヨークタイムス。・ワシントンポスト)。1968年、その時何をしていたか?映画「7月4日に生まれて」。

・ジェロントロジー:都市郊外型社会の高齢化が問題。工業生産力モデルと通商国家モデルの優等生が住む国道16号線ふるさと納税の活用。寺じまい・墓じまい。80歳の7割は健常者。ミスマッチ。高齢者を支える側にしていく知恵。天人五衰

・知の再武装。3段階の知。流動性知能。結晶性知能。唯識論性知能。(学習知・経験知・総合知?。暗記・関係・本質?。記憶力・判断力・洞察力?。?・図解・人物。流動性と結晶性はトータルで横バイ。自分史・家族史・回想録がいい。「いくつになっても脳は若返る」(ジーン・D・コーエン))

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「名言との対話」7月31日。鶴見和子「斃(たお)れてのち元(はじ)まる」

鶴見 和子(つるみ かずこ、1918年大正7年)6月10日 - 2006年平成18年)7月31日)は、日本社会学者

父・祐輔は政治家。母・愛子は後藤新平の娘。弟は戦後の進歩的文化人を代表する1人であった鶴見俊輔。南方熊楠柳田國男の研究、地域住民の手による発展を論じた「内発的発展論」などで知られる。1979年(昭和54年)に『南方熊楠』で毎日出版文化賞1995年(平成7年)に南方熊楠賞1999年(平成11年)に朝日賞

社会学者・鶴見和子の遺言は二つある。「憲法九条を守って下さい」。パリ不戦条約(ケロッグ・ブリヤン条約)が源であり、それは人類の理想だ。「曼荼羅の知恵をよく考えて下さい」。曼荼羅の論理は、異なるものはそのまま互いに補い合って共存する道を探究するという論理である。仏教は因縁を説く。因は因果律で必然性、縁は偶然性。科学の方法論としては西洋の因果律よりも優れている。これ鶴見和子が研究対象とした南方熊楠の考えだ。

鶴見和子は15歳で佐々木信綱に入門し、21歳で歌集『虹』を自費出版する。その後、アメリカ留学で学問の道に入って歌と別れる。晩年になって脳出血で斃れた後、半身不随になったが、言語の能力は残った。そして「半世紀死火山となりしを轟きて煙くゆらす歌の火の山」と詠んでいるように歌が次から次へとほとばしる。「斃れてのち、やむ」ではなく、「倒れてのち、はじまる」である。

冒頭の言葉は「斃(たお)れてのち元(はじ)まる宇宙耀いてそこに浮遊す塵泥我は」から取ったものだ。発病後、短歌を杖として生きた過程で、自身の内的発展論の「内発性」の意味を実感する。「萎えたるは萎えたるままに美しく歩み納めむこの花道を」。斃れてのちやむのもよし、斃れてのちはじまるもよし。必然(因)と偶然(縁)の織りなす運命に従て精一杯生きよう。7月31日は、鶴見和子さんを偲ぶ「山百合忌」と命名されている。

遺言―斃れてのち元まる

遺言―斃れてのち元まる

 

 

 

世田谷文学館「ビーマイーベイビー』(信藤三雄)--「俳句じゃなく川柳みたいな」「東京」「江戸の洗練」「粋・傾く」「情念に囚わないシャープな形」、、、。

世田谷文学館「ビーマイーベイビー』を先日観てきた。

信藤三雄という人は知らなかったが、CDジャケットデザイナーとしての作品が多い。現在は沖縄在住。1948年生まれ。

信藤三雄「俳句じゃなく川柳みたいな」「東京」「江戸の洗練」「粋・傾く」「情念に囚わないシャープな形」、、、。

・スタイリスト、クリエイティブディレクター、ミュージシャン、作曲家などが語る信藤三雄「東京の価値を変えた男」「セクシーさ、ちょっと悪い感じ」「CDジャケットをポジティブにした人」「時代をつくってきたけれど、時代に翻弄されていない」「クレイジーでセンスがいいパンク」「依頼があったら作るというスタンス」「音楽がわかる」「時間感覚、時代感覚」、、、。

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松任谷由実Mr.ChildrenサザンオールスターズSMAPMISIAなど、手がけたCD/レコードジャケットの数は2007年時点で約900枚にのぼる。1980年代後半から1990年代にかけて、ピチカート・ファイヴフリッパーズ・ギターといった「渋谷系」ミュージシャンのCD/レコード、宣伝材料一式のアートワークに携わり、渋谷系におけるデザインの方向性を決定づけたといわれるグラフィックデザイン以外にも、映像作家としてミュージック・ビデオ映画も手がけ、元々はバンド「スクーターズ」の一員として活動していたミュージシャンでもある。

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予定では今日は岡山で県職員研修を行うことになっていたが、この夏の災害で延期となった。

大学に出勤。

・秘書と打ち合わせ:成績付け。講演準備。スケジュール調整。

・杉田学部長:近況交換

・渡辺さん:戦略会議の宿題。

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「名言との対話」7月30日。山田昭男「私には、社員のアルバイトを禁止する理由がまったく分からない」

山田昭男(やまだ あきお、1931年10月7日 - 2014年7月30日)は、日本の実業家、演出家。未来工業の創業者。

旧制中学卒業後、父の経営する電線メーカーに入社。同社在籍中、劇団「未来座」を旗揚げし、昼はサラリーマン、夜は舞台監督や裏方全般として活躍。劇団に熱を入れ過ぎたため勘当され、劇団の仲間と各種資材の製造販売会社「未来工業」を創業。独自のコスト節約法と、スイッチボックスのようなシェア8割を超える強みを持つ商品をいくつも生み出し、高収益体質の企業をつくった。メセナ活動として演劇への市民の招待や、映画制作なども行っている。

未来工業は、残業禁止、ノルマ無し、タイムカード無し、休日数は年間140日。(盆暮れは2週間休み)、約800人の従業員は全員が正社員、定年は70歳で60歳を過ぎても減給はない。非常にユニークな企業である。社員を幸福にすること、徹底した差別化を図ること、この2つの取り組みにより高い業績をあげてきた会社である。

以下、山田昭男語録から。

・人をルールで縛るからダメになる。縛りを解けばやる気になる。・報連相をやめた結果、自発性のある社員ばかりという理想的な組織になった。それが、大手に負けない商品を次々と打ち出せる原動力になっている。・いまの私の肩書きは相談役だけど、日本の会社で相談したら怒る相談役は私だけやろうね・常に考えろ。世間や業界とは反対のことを常に考えろ。・正社員でない人間が技術を覚えようとするか・人間をコスト扱いするな・鞭(ムチ)が無くとも社員は働く。それを知らないのは“無知”。・もうかってない会社と同じことをしても儲からない。・「不景気だ」と嘆いている奴は、「私は商売がドヘタで儲からない馬鹿者です」と公言しているようなもの。・社員には、まずは“モチベーションという餅”を食べさせなければ、何をやっても無駄だ。・昔の営業マンは売る事を考えれば良かった。今の営業マンは儲かる事を考えなきゃいけない。・大手と同じものを作っていては負けてしまう。考え続けて差別化しろ!・「どうしたら売れるか」?。お客が満足するものを売ればいいのです。

 著書に「毎日4時45分に帰る人がやっているつまらない「常識」59の捨て方」「ホウレンソウ禁止で1日7時間15分しか働かないから仕事が面白くなる」「日本でいちばん社員のやる気がある会社」「稼ぎたければ、働くな。」「日本一社員がしあわせな会社のヘンな“きまり”」「常識をひっくり返せばメシの種はいくらでもある 日本一幸せな会社をつくった男のヘンな発想法」「ドケチ道 会社を元気にする「生きたお金」の使い方」「楽して、儲ける! 未来工業・山田昭男の型破り経営論!」などがある。

山田昭男の数々のしびれる名言の中で私も強く同感するのは、冒頭のアルバイトについての言葉だ。人脈が増え、新しいことを吸収し、金銭的にも豊かになる。会社一筋の忠誠心ばかりの社員は、人と違う発想は出てこない。企業にいた頃、副業を認めようという動きに参加したことがあったが、実現はしなかった。それも25年ほど前の話だった。今頃になって「副業」解禁という流れが出てきたが、いかにも遅すぎる。副業は本業に大きく貢献するのは自明である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1. 定年前こそ人はよく働くんだよ
2. 残業したい?だったらもう一人雇いなさいよ
3. なにせ報連相禁止だからね
4. 正社員でない人間が技術を覚えようとするか
5. 人間をコスト扱いするな
6. 成果主義を採用するつもりはない
7. 泥棒に入られたらいけないという法律はない
8. 自分にできることから真似してみる
9. まとめ

 

 

 

 

 

自分史の日(8月7日)の講演--「遅咲きの偉人に学ぶ人生百年時代の生き方」

今日の収穫

・習慣は格言が肉となり、血となったものである。(アンリ・フレデリックアミエル)

・この人生には、無数の教訓がちりばめられている。しかし、どの一つをとってみても万人にあてはまるものはない。(山本周五郎

・一つの嘘を本当らしくするためには、いつも七つだけ嘘を必要とする。(マルティン・ルター

・自分の過ちを認めることほど難しいものはない。事態を解決に導くには素直に自分の落ち度を認めるのが何よりである。(ディズレイリ)

・もっともよい教師とは、子どもとともに笑う教師である。もっともよくない教師は、子どもを笑う教師である。(アレクサンダー・S・ニール)

・年齢とともに良くなるとか、悪くなるとかいうこではない。だんだんと自分らしくなっていくということなのだ。(ロバート・アンソニー

・一日に少なくとも一つは自分の力にあまる事を成し遂げようとしない限り、どんな人間でも大した成功は期待できない。(エルバート・ハバード)

・仲間に愛されていること、そして自分の存在がみなに安らぎを与えているという実感。これにまさる幸せはない。(シャーロット・ブロンテ

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以下、講演会の案内から。

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一般社団法人自分史活用推進協議会では、2018年8月7日(火)「自分史の日」に、「自分史で人も街も元気に!」をテーマに、連合会館(東京都千代田区神田駿河台)にて「自分史まつり‘18」スペシャセミナー(入場無料)を開催します。

人生百年時代が言われ、あらゆる世代が地域で自立して生きることが問われるなか、人生を100年という長さでとらえ直してみませんか? 協議会では、8月7日(日)「自分史の日」に久恒啓一多摩大学副学長を講師にお迎えし、「遅咲きの先人に学ぶ人生百年時代の生き方」をお話いただきます。

また、「まちなみで人も街も元気に」と精力的に活動している利根川英二・マーチングアカデミー塾長を迎え、「まちなみ」からの地域おこし、マーチング!「全国まちなみ百景」の活動から見えてきた人も街も元気になる方法をお話しいただきます。

10:20 – 11:10 スペシャセミナー1
遅咲きの先人に学ぶ人生百年時代の生き方

講師 久恒啓一多摩大学副学長

高齢社会はリスクではなくチャンスが増える社会です。高齢者のスターが生まれる「遅咲き」時代です。ライフワークの「人物記念館の旅」で見つけた先人の生き方と珠玉の名言から人生百年時代を生きる勇気と智恵をもらいましょう。

プロフィール
日本航空(株)を早期退職し宮城大学教授に。その後、多摩大にて教鞭をとっている。著書は『図で考える人は仕事ができる』(日経)、『遅咲き偉人伝』(PHP)など百冊を超えている。

2018年8月7日(火)「自分史の日」に自分史まつり‘18「スペシャルセミナー」開催! | 協議会のイベント | 一般社団法人自分史活用推進協議会

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「名言との対話」7月29日。松原泰道「人の心に光を灯す説法をしたい。そのために生きている間は学び続けたい」

松原 泰道(まつばら たいどう、1907年11月23日 - 2009年7月29日)は、日本臨済宗僧侶

 東京府生まれ。早稲田大学文学部卒。岐阜県瑞龍寺で修行したのち、臨済宗妙心寺派教学部長を務める。

還暦を過ぎた1972年に出版した『般若心経入門』(祥伝社刊)は記録的ベストセラーとなり、仏教書ブームのきっかけを作った。1976年に発足した宗派を超えた仏教者の集い「南無の会」会長をつとめた。南無の会仏教の基本的な教えを学んでもらう活動を行った。この会は1984年には正力松太郎賞を受賞している。1989年には仏教の普及・伝道に功績あった者に授与する賞である仏教伝道文化賞を受賞。1999年には、禅を基本とした宗門向上の諸活動に功績があった個人・団体に贈られる禅文化賞を受賞。影響力の大きな僧侶である。

100歳で『人生を癒す百歳の禅語』を出版していることに驚いた。この本の中で、心頭滅却、柳緑花紅、眼横鼻直、一期一会などの禅語を解説している。2009年、肺炎で101歳で死去。様々な賞の受賞でわかるように禅僧としての精力的な活動以外にも、100歳での出版という快挙、100冊を超える著書の出版という影響の大きさ、そして101歳という長寿での臨終、この人は敬服すべき百寿者である。

「生涯修行、臨終停年」「人生、還暦からが本当の自分の人生だ」「人生不可解なり。といって華厳の滝を飛び降りた人が居ましたが、人生不可解だから学び続けるのであり、学べば学ぶほど分からないことが出て来るから永遠に学び続けるのです」

自分自身で己の心・精神の働きを観察し続ける内観という方法を用いて、完全な人格者となることを目的とするのが禅の修行である。松原泰道は、内省し、学び、自分を磨き続け、そこで得た真理で説法し、人々の心に光を灯し続け、多くの人を救った。この人は禅の道を生きぬいた名僧である。

 

 

 

 

 

新著『100年人生の生き方死に方--百寿者(センテナリアン)からの伝言』(さくら舎)の見本が届く

 8月4日発刊の新著の見本が10冊届いた。215ページ。1400円。

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 まえがき

 人生100年時代が到来しつつある。日本では「百寿者」というが、欧米では一世紀を生き抜いたという意味で「センテナリアン」と呼んでいる。この時代をリスクととらえる風潮が多いが、私は千載一遇のチャンスとみるべきだと思っている。

人生80年時代といわれた頃から「志学・而立・不惑知命耳順従心」という孔子の人生訓から脱却し、超高齢時代にふさわしい人生の考え方を私は提唱してきた。人生50年時代を1.6倍すると、志学は24歳、而立は48歳、不惑は64歳、知命は80歳、耳順は96歳、従心は112歳となる。24歳から48歳が青年期、48歳から64歳が壮年期、64歳から80歳が実年期、80歳から96歳が熟年期、96歳から112歳が大人期、それ以降125歳まではは仙人期と考えたらいい。人生100時代と言われるようになってようやくこの考え方を納得してもらえるようになったのではないか。20代半ばから80歳まで、青年期と壮年期と実年期とあわせて3つのキャリアを持てる時代になったし、その後も3期あるのだ。

さて、2018年6月7日に私が毎日書き続けているブログ「今日も生涯の一日なり」が5000日を迎えた。このブログでその日が命日と誕生日の偉人を対象に、心に響いた言葉と人生の軌跡と私の感慨を記すという修行を2016年、2017年に行った。その中から90歳以上の地平に立った人々を抜き出したのが本書である。

また、2005年から始めた「人物記念館の旅」は、すでに800館を超えてライフワークとなってきたが、「偉い人」の条件が自分なりにわかってきた。それは影響力ということである。深く、広く、そして長く影響を与える人が偉い人だ。彼らの共通項は7つある。「仰ぎ見る師匠の存在」「敵との切磋、友との琢磨」「持続する志」「修養・鍛錬・研鑽」「飛翔する構想力」「日本への回帰」である。その分類ごとに高齢順に並べている。107歳と最高齢の平櫛田中を含め、訪問した記念館やそこで入手した資料や書籍から拾った言葉を使っているから、知られていない名言も多いはずだ。

百寿者は2050年には53万人になるとの予測はあるが、現在ではまだ7万人であり数は多くないので、この本では90歳以上の人を取り上げることにした。「平成」の次の時代が見えている今、超高齢化時代を生きる読者に耳を傾けていただければ幸いだ。

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「名言との対話」水島廣雄「小を大に、大をトップに育てることこそ人生の快事である」

 水島 廣雄(みずしま ひろお、1912年4月15日 - 2014年7月28日)は、日本実業家民法学者。東洋大学名誉教授、法学博士

1936年に中央大学法学部を卒業し日本興業銀行(現みずほ銀行)に入行した水島廣雄は、サラリーマン生活を送りながら「不動担保の研究」で法学博士号を取得。東洋大学法学部教授を兼務し、担保法の権威だった。

入社した当時のそごうは、大阪、神戸、東京の3店しかない中堅百貨店にすぎなかった。それが社長就任時、売上高数百億円の弱小デパートだった。から約30年後の1991年、老舗百貨店を抜いてグループ売上高を1兆2000億円まで伸ばして、「日本一の百貨店」の栄冠をつかんだ。デパート王。それを支えたのが、思い切った多店舗展開だった。都心ではなく都下や千葉市横浜市など東京周辺部駅前一等地に地域一番店を出店、一時は国内外合わせ40店舗を誇った。バブル崩壊後、過剰投資が裏目に出て、過去最大の1兆8700億円の負債を抱えて、民事再生法の適用を申請し、破綻に至った。

「負ければ賊軍。でもね、横浜などにそごうは残せたね」。 確かに、経営破綻はあっても、「法人は死せず」だ。

大都市から一定の距離を置いて虹のように取り囲んで出店するレインボー戦略を、国道16号線を対象に具体化する。高度成長で増加したサラリーマン層を吸収した公団、団地、マンション林立する地域である。横浜、多摩、柏と、16号線上にそごうがあった。川口、大宮、千葉、茂原のそごうもその戦略の一貫だったのだろう。多摩そごうも、鈴木俊一・元東京都知事が「人口30万人になります」と押したが、実際には15万人にとどまった。多摩地域では多摩センター・南大沢・橋本・八王子と、半径10km程度の範囲に4店舗を出店する計画があり、橋本を除き、実際に出店している。

「破綻の責任はある。しかし決して放漫経営ではなかった」。行政に頼まれ、銀行に後押しされて出店した店も多かった。

 水島廣雄は、小を大にし、その大をトップに育てた怪物である。「メーカーの時代は終わった」と言った中内功ダイエー、「安く仕入れたら安く売れ」と言った和田良平の八百半、「愚直さが相手の心を打つのです」と言った堤清二西友など、成功と失敗を経験した彼らも水島と同じく人生の快事を成し遂げた人たちである。水島廣雄は、さらに102歳での大往生という快事をも成し遂げている。「年配者は貴重な体験を明日に活かせ、若者は夢をもて」と励ました続けた人柄を慕う人も多く、100歳のお祝いの会には250人が出席している。水島は波瀾万丈のを生き切った百寿者(センテナラン)である。

 

春学期の学部と大学院の授業が終了--多摩(学部)、九段(大学戦略会議・大学運営会議)、品川(大学院)

多摩キャンパス

・9時:秘書と打ち合わせ。

・10時:橘川先生:ドウハウス。性教育。ロート。無限教師。

・10時40分:学部授業「ビジネスコミュニケーション」の春学期最終回。最終レポート「2018日本の論点」の論考を図解すること。

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九段サテライト

・14時:大学運営委員会:

・・戦略会議の報告は「教務」で、テーマは「ゼミ力の多摩大に向けた実質化を進めること」。大学の実力。、、、。

・・学長「進化と深化。質の向上。「ジェロントロジー宣言」。ふるさと納税を税源としたサービス。お盆渋滞。精神の軸。墓じまい・寺じまい。専門から何か附加を」

・15時30分:大学戦略会議:テーマは「学生」で、離学対策の意見交換。

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品川キャンパス

・18時半:瀧川課長

・19時:大学院授業「インサイトコミュニケーション」の春学期最終回。最終レポートは「私の仕事」。

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以下、受講生の感想から。

・最終回の講義で私の仕事について受講生の仕事について聞きました。それぞれ色々な仕事をしているのだと驚きでした。また留学生は自分の生活について発表されみなさま苦労しているのがわかりました。私は自分の仕事について生活のために収入を得るための仕事、社会的活動をボランテアとして無報酬でしている仕事に分けてお話ししました。この講義は自分の考えを図解として捉えまとめるのに非常に有益な講義でした。ありがとうございました。

・・図をいつ出すかが勝負。・図の大きさ、矢印の太さ、色の工夫。・図解したうえで「私の仕事」を一文で表すと?。講義ありがとうございました。皆さんの図解を見ながらいろいろな表現の仕方を学びました。また、日頃の業務等でも図解でイメージしようとすることが多くなりました。

・私の仕事について図にしたときにどうしても同じ業界目線でかいてしまうと思いました。何もわからない人にプレゼンする気持ちで表現すればさらに詳しく繊細なものが出来上がると実感しました。仕事上、図で表現することが多いので本講義で学んだことを存分に発揮して生かして行きます。ありがとうございました!

・初めて見る人に向けてプレゼンする場合、皆さんが疑問に感じる点を図解に記載するという点は、論文発表にも通じるものがあるのかな。と感じ、勉強になりました。今回は情報を整理して削ぎ落とすことを意識しましたが、初めて見る相手の立場に立って考えて図解をする事で、一層分かりやすく作れると感じました。ありがとうございました。

・みなさま約4ヶ月間ありがとうございました。図解は文章を要約し本質を掴むのにとても有効だと改めて確認することができました。頭の整理にもなるので、これからも意識して使いたいです。実務でさらに磨いていきたいと思います。

・久恒先生、皆さま。8回に渡りありがとうございました。本日の最終講義では、図の大きさ、矢印の太さ、配置等の重要性を改めて理解出来ました。今後は、実務に積極的に使用していきたいと考えております。

・ご講義、ありがとうございました。織系のコンサルティングなので、表だって形式張った仕組みはないですが、人事含め、自社内をしっかり固めたいのが、1番の思いです。社内教育、イベント等を、充実させたいと思っています。1番のフォロワーの家族を太く、師匠も太く、でも、私が貰う分が、どうしても太くなるのだとうな、と、感じています。私自身の人脈の範囲だけでなく、お客様のステークホルダー様含めて、円滑な経営を、お手伝いさせて頂きたいと思います。家族との時間はもちろんですが、社内で重要なのは、ホームパーティーです。以上。楽しい講義でした。ありがとうございました。

・皆様お疲れ様でした。最終課題は明日アップします。講義を通しての感想は、原点回帰。テクニックやうまく描こうとする意識は私にとっては邪魔なのだと分かり、「仮説」を立てて「感覚」で描き始めて、「昇華」させて行くことが重要なのだと再認識しました。良質な情報と知識のボリューム、すなわち「良質なインプット」と、「見る側とのコミュニケーション」が極めて重要と思いました。本日感じたのは、「私の仕事」なのに大半の方が組織が中心にある違和感でした。この数年で会社という枠組みが弱くなり、個人に仕事がディペンドしていくと私は思っています。
ありがとうございました。

・久恒先生、最後の講義がありがとうございました。今まで、文章を読むスピードが速くなりました。ポイントを探す能力も高まってきました。他の授業でも、図解をよく使いました。本当にありがとうございました。きょう、日本での生活について、図解しました。2016年から今まで、2年間の自分をきちんと振り返って、多くのことを考え直しました。やる気も湧きました。やはり、たまに振り返ったら、最も自分に合う道が見つけられると思います。今学期、先生も、クラスメートの皆んさんも、大変お世話になっておりました。本当にありがとうございました。

・4ヶ月に渡る講義ありがとうございました。最初は図解という行為に中々慣れることが出来ませんでしたが意識的に仕事の中で取り入れて共通の絵を見ながら議論する、ファシリテートする事で対話の場が深く、広くなってきた事を実感します。今日発表した自分の仕事に関しても、知らない人にわかりやく且つ的確に伝えることを意識して完成させたいと思うし、絵を描くだけでなく実行して、うまくいかない点を更に図解して課題の本質をつかむ事を繰り返していきたいと思います。

・事業のビジネスモデルはパワーポイントで表現した通りですが、むしろ本当に伝えたかった内容は手書きで補足した部分です。ありがとうございました。

・先生、皆さん、授業お疲れ様でした。第8回の授業の感想です。今日の発表内容は、1週間で手直ししてフェイスブックに掲載するようにとのことでしたので、本日は発表内容の添付なしで感想のみを掲載致します。受講生の皆さんの発表を聞いて、表現のバリエーションの多さに感心しました。数字を盛り込む、強弱を付ける、図表のバリエーションを持つ、が大事だと皆さんの発表を聞いて感じました。ビジネススクールでも図解を扱う授業はなかなかないため、毎回楽しく参加させて頂きました。改めて、ありがとうございました。【7月28日0時45分追記】修正版の図表をアップ致します。作業ウェイトや件数などの数値、世の中へどう貢献しているか等を盛り込みました。こちらで課題提出とさせて頂きます。先生、皆さん、8回に渡りありがとうございました。

・本日は途中退席になってしまい申し訳ありませんでした。私の仕事を一言で言うと「病院と地域をつなぎ地域の幸福に貢献すること」だと思っています。この講座を受講して図の書き方がものすごく上達したかと言うとまだまだだと感じています。ただ、今回の課題をいただいて何となくアウトラインを作成した後に、初回に作成した図を見た時にひどい図だなと思いました。そう思えたことが、わずかですが成長できた証かなと思いました。今回私の仕事について図解をし、そして貴重な質問をいただいたことで私自身の頭と心の整理がついたような気がします。本当にありがとうございました。図解はこれからも仕事でずっと使っていくと思います。一枚一枚描くたびに少しでも分かりやすく美しい図解にしていきたいと思います。これまでの講義ありがとうございました。

・久恒先生、皆さま 全8講ありがとうございました。仕事の関係で最終講義早上がりします。<最終課題>プレゼン資料に皆様の質問項目を追加して最終課題とします。利益構成比とデザイナー写真を追加。自分の事業は誰もやっていない事業モデルなので説明が難しく伝わらないことを改めて実感しました。

 

以下、留学生。

・皆様 お疲れ様でした。第8回の講義でありがとうございました。今日は皆様の発表を聞いて、仕事について図解で伝えて貰って、分かりやすいと思います。先生の授業のおかげで、本当に大変勉強になります。ありがとうございました。

・久恒先生,授業、ありがとうこざいます。皆さんお疲れ様でした。インサイトコミュニケーションの授業を終了して、たくさんの美しい思い出だ記憶が残りました、先生から丁寧に教えてくれて、積極的に発表する意識をかきたてられました。私が図解が上手になる同時に、logic の分析する能力も上達しました。日本の方方の仕的知識を得ました。仕事をしていない私が自分の将来のビジネスに関する内容、モバイル時代にo2o の技術を活用する観光事業戦略の発想を描きました。伝統的な観光業は、従来の店舗展業から,ネットワークでhart事業に変わって、データの利用をして、競合と多角化産業の発展について図解しております。30分の電車🚃に乗った時間を利用して出来ました、先生から色々な教えていただき、ちょっと進歩しました。

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「名言との対話」7月27日。若泉敬「惰眠をむさぼるような人生を送るな、、、寸暇を惜しんで己を磨き、励め」

若泉 敬(わかいずみ けい[1]1930年昭和5年)3月29日1996年平成8年)7月27日)は、日本の国際政治学者

1969年の佐藤総理とニクソン大統領の共同声明で3年後沖縄返還が決まった。いわゆる核抜き本土並み返還である。日本政府は沖縄返還交渉にあたってアメリカと密約を結んだとされる。縄(核の密約)と糸(アメリカの繊維産業保護)の交換密約である。若泉は沖縄返還に並々ならぬ熱意を持つ佐藤総理の密使として働いた人物である。米軍は緊急時には事前協議で合意すれば持ち込めるという密約と繊維問題の交換密約である日米秘密合意議事録に佐藤・ニクソン両首脳はサインした。これは佐藤の遺品の中から発見された。若泉は「縄と糸」との取引に関わったことを生涯悔やんでいた。

若泉敬の研究テーマは「核戦略研究と中国研究」が二本柱であり、その実践で成り立っていた。吉田茂など歴代自民党政権は、若泉の同世代のライバル・高坂正堯の言う「狡猾な従属国家」でアメリカに依存してきた。 日米安保条約は中ソ友好同盟条約に対抗するためにできた。勢力均衡による平和維持路線である。若泉敬は、国家目標が不明確なままでは漂流するから、自主独立の精神で日本の理念と国家利益を提示しよう、そして日本を指針ある航海にこぎ出させようと考えていた。能力はあるが、持たないという意思を持った潜在的保有国グループの結集し非核クラブをつくり、核軍縮平和外交を展開する。それは国論がまとまり、超党派で推進できる唯一の外交テーマである。具体的には査察・確証の分野で責任を果たす。このような雄大なビジョンを持っていた。核の傘に依存しながら通常戦力では自前でできるためにGNP比2%、アジアへの援助学は1.5%、憲法前文と九条に合致した国連PKO活動(国連平和維持活動)、太平洋諸国との関係強化、、、。

京都産業大学退職時に退職金を同大学世界問題研究所に寄付、若泉敬記念基金が設立された。 「沖縄を取り戻したというのに、アメリカへの依存はなぜ終わらないのか、日本人はなぜ「愚者の楽園」でのうのうと暮らしているのか」という義憤を持つ若泉は、1994年、明治の外相・陸奥宗光の言葉を引用した渾身の著書『他策ナカリヲ信ゼムト欲す』(文藝春秋社)を上梓した後、沖縄県知事・太田昌秀に「自裁します」との遺書を送ったが、国立戦没者墓苑に喪服姿で参拝したが自殺は思いとどまり、英訳版(2002年に刊行)を完成した1996年に死去する。青酸カリによる服毒自殺といわれている。 「一人の人間が、死についての心境と覚悟を固めておくことは、その後の人生にきわめて大きな影響を与える、と私は考えます」、これが若泉の死生観だった。

享年66。「志」の文字が刻まれた鯖江にある墓石は正面が太平洋を向いている。大磯の吉田茂の像、高知の坂本龍馬の像も同じく、太平洋を眺めている。

若泉敬はコツコツ型ではあったが、昭和の橋本左内とも呼ばれた国士であった。父が平民宰相・原敬を尊敬していたことから「敬」の文字をついた。女性弁護士として敬を助けた生涯の伴侶・ひなとともに、志に生きた人である。郷里の「若き泉 志」という銘の純米吟醸も、若泉敬の志を伝えている。

「惰眠をむさぼるような人生を送るな」は、若泉が常に同僚に語っていたことばであるが、この言葉は、戦後の日本と日本人に向けた言葉でもある。 

評伝 若泉敬 (文春新書)

評伝 若泉敬 (文春新書)