世田谷文学館で開催中の「小松左京展」。

昼:世田谷文学館で開催中の「小松左京展」。

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小松左京全集50巻」がこの企画展にあわせて発刊されていたのに興味。

POD形式。高品質な書籍。A5版ハードカバー。各巻3600円。発行元イオ。発売デジタル・エスタンプ(株)。第1巻「日本アパッチ族エスパイ」から第50巻「小松左京自伝」まで。

https://www.asahi.com/and_M/pressrelease/pre_5595251/

http://www.iocorp.co.jp/  https://digitalestampe.com/

世田谷文学館小松左京展」。小松左京「SF魂」。小松左京「やぶれかぶれ青春記・大阪万博奮闘記」。以上を購入。

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午後:日本地域社会研究所

柴生田俊一著『子ども地球歳時記ーーハイクが新しい世界をつくる』を事前入手。1964年と2010年の東京五輪をまたぐJALハイク・プロジェクト50年超の軌跡。11月16日発売。1800円。私のJAL時代の上司・柴生田俊一さんのライフワークが完成した。

新しい本の原稿のタイトルを社長と相談。

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朝:大学で:編集作業。

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「名言との対話」10月23日。広島日出国「一念天に通ず」

廣島 日出国ひろしま ひでくに、1937年11月18日 - 2009年10月23日)はマラソン選手、監督。

中学を出て農業青年として働きながら走っていたが、オリンピック選手であった叔父の所属する旭化成にスカウトされる。38回のマラソンを走って3回優勝したが、オリンピックにはあと一歩のところで届かなかった。現役時代は、君原健二、寺沢徹、貞永信義、重松森雄、円谷幸吉、佐々木精一郎らがライバルだった。この人の現役時代は私にも記憶があるが、地味なランナーだった。マラソンでの優勝を祈念して、長女は裕子(ゆうこ)。次女は正子(しょうこ)。あわせて優勝の「ゆうしょう」としたというエピソードもある。

広島日出国の真骨頂は、監督時代だ。選手として頂点に立つことを目標としていたが、指導者としても「トップに立つ」という目標に掲げる。色紙に書いていた「一念天に通ず」の天は頂点という意味がある。

1977年から旭化成のコーチから監督になった。オリンピックのマラソン選手を育て、優勝させよう。一番になりたい。三大駅伝で史上初の三冠王の強豪は落ち込んでいた。1978年から三大駅伝を三つとも6連覇。選手の意見を聞いてそれを練習に反映した。黄金時代は選手に恵まれたと述懐している。ピッチ走法で粘り強い谷口浩美バルセロナ五輪で銀メダルの森下広一ソウル五輪代表の宮原美佐子などを育てたが、宋茂と宋猛の宗兄弟についての多く語っている。政治問題でボイコットすることになったモスクワオリンピックの時の日本マラソンは世界最高の実力だった。瀬古宗兄弟で金・銀・銅も夢ではなかった。

高校時代からの有名選手はとらずに、走りのフォームを見て、強くなれるか判断し、旭化成で指導した。いかに可能性を伸ばしていくことに面白みを感じていた。

50歳で、一番良い時に譲る、ここが引き際だと考え、沖電気宮崎の監督に転身する。ここでは「女子の長距離チームをつくりたい」という目標を掲げた。駅伝で日本一になり、その中からマラソン選手を育て、オリンピック選手を出そう。全日本実業団女子駅伝では、3連覇を達成した。「3年勝てば正真正銘の本物だ。三連覇すれば、それ以降は勝てる。伝統はそうやって生まれる」。アトランタ五輪1万メートルの川上優子を育てた。

・夜も寝ずに作戦を考えるのは楽しいですよ。練習と同じで「勝つ」というはっきりした高い目標を持って、それを達成するための過程だからね。

2002年には沖電気陸上部監督の座を、旭化成時代の愛弟子である谷口浩美に譲り、総監督に就任した。

広島日出国は、常に目標を立てて邁進する人だった。今回読んだ『天に向かって走れ』を刊行した1999年、62歳の時点では、「まだ五輪の金メダリストは育てていない」と次の目標を語っている。まだ一念は天に通じたのではなかったのだ。こういう執念の人でないと優れた業績はあげられない。

 

天に向かって走れ―広島日出国聞書

天に向かって走れ―広島日出国聞書

 

 

 

即位礼正殿の儀。

即位礼正殿の儀。

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・10月分の「名言」の筆債終了。

10月15日。 ジョー・スタンカ

   「円城寺 あれがボールか 秋の空」

10月17日。 田島治子

   「打たれ強くなって大きくなる」

・本2冊の原稿チェック。

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「名言との対話」10月22日。春日八郎「歌こそ我が生命」

春日 八郎(かすが はちろう、本名:渡部 実 (わたべ みのる)、1924年10月9日 - 1991年10月22日)は、日本演歌歌手

 福島県河沼郡会津坂下町塔寺出身。浅草で藤山一郎のステージを見て歌手に憧れる。旧制会津中学校を中退し、エンジニアを志して13歳で上京するが、歌手の夢を捨てきれず、音楽活動に励む。1952年、『赤いランプの終列車』は発売され、50万枚の大ヒットとなる。1954年、『お富さん』が発売3か月で30万枚、最終的には125万枚を売り上げる大ヒットを記録。1955年には『別れの一本杉』が60万枚の大ヒットとなり、歌手としての地位を確立する。春日八郎のデビュー直後に、三橋美智也、そして三波春夫村田英雄島倉千代子らが登場し、美空ひばりも演歌を歌い出す。1960年代には北島三郎都はるみ等が台頭し、演歌の全盛期をむかえる。その先駆けが春日だった。春日八郎は昭和の大歌手だった。

春日八郎は故郷の会津坂下町との縁を大事にした。町立八幡小学校にグランドピアノ等を寄贈し校歌を作曲、町立第二中学校の校歌応援歌も作曲した。会津坂下町民歌、会津坂下音頭を作曲し自ら歌いレコーディングしている。故郷の会津坂下町はその思いにこたえ、一本杉と地蔵が実在する船杉地区に「春日八郎記念公園・おもいで館」を建設した。愛用のピアノ、ステージ衣装や写真、楽譜、レコード、ステージ衣装、トロフィー、化粧道具等が展示されている。カラオケコーナーもある。会津坂下駅前の広場には春日の銅像を建立されており、『赤いランプの終列車』の歌碑も建立された。ブロンズ像に近づくと唄が流れてくる。1992年には「全国春日八郎偲ぶ会」が発足している。古賀政男音楽博物館では毎年春日八郎歌謡大会が開かれ、赤羽で月例会・春日艶歌伝承会も開催されている。こういった動きをみると、春日八郎という歌手は、人がらもよかったのだろうと思わずにはいられない。

 北海道夕張の近くの栗山町の坂本九思い出記念館にも「想い出」がついていた。思い出は、ふるさとへの思いにつながる。春日はふるさと歌謡、望郷演歌ともいうべきジャンルの開拓者でもあった。「赤いランプの終列車」「別れの一本杉」「山の吊橋」「故郷は遠い空」「母の便り」などは、春日自身ふるさと頭に描きながら歌ったのだろう。それに田舎から都会に向かった人々が共感したのだろう。こういったジャンルは、長淵剛の「とんぼ」、五木ひろしの「ふるさと」など、今なお健在だ。

晩年には三橋美智也、村田英雄らと共に「三人の会」を結成、三人揃ってのチャリティーコンサートを開催しており、話題になった。生涯で歌った曲は1600曲を越える。シングル300枚以上、LP100枚と膨大な数作品が世に出ている。レコードの総売り上げは7000万枚を超している。まさに「歌こそ我が命」の生涯である。

「日経ビジネス」からインタビューを受ける。

大学:近藤秘書と打ち合わせ。

新宿:社会人大学院生の修士論文指導。「本質、本気、抜本、解決、戦略、気概、、」などの言葉で激励。

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新宿:日経BPの「日経ビジネス」誌の副編集長の飯村さんから「人生100年時代」についてのインタビューを受ける。1時間半。写真も載るそうだ。いただいた10月21号は「さびつく現場力」特集。93Pと薄い。載るのはネット版。11月中に掲載予定。

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銀座:「いらか」で高校時代の友人の松田君と清原君と食事。

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 「名言との対話」10月21日。西澤潤一「不器用の勝利」

西澤 潤一(にしざわ じゅんいち、1926年9月12日 - 2018年10月21日)は、日本の工学者

 専門は電子工学通信工学半導体デバイス半導体プロセス、光通信の開発で独創的な業績を挙げた。半導体関連の特許保有件数は世界最多である。「ミスター半導体」と呼ばれた。  東北大学総長(1990年ー1997年)、岩手県立大学学長(1998年から)首都大学東京学長(2005年から)を歴任。1983年 文化功労者、1989年 文化勲章。2002年 勲一等瑞宝章。

 西澤潤一『独創は闘いにあり』を読んだ。1986年の刊行なので、東北大学総長就任前の東北大学電気通信研究所所長時代の著作である。それまでの半生の自伝だが、「独創」に主眼を置いたものになっている。東北大学には「研究第一主義」の歴史がある。研究第一主義の旗を立てた長岡半太郎、KS鋼の本多光太郎、フェライトの武井武、八木アンテナ八木秀次、無装荷ケーブルの松前重義、、、。工学部の「工」という字は、上が自然現象、下が人間社会。それをつなぐのが工学という意味だそうだ。

研究者としての西澤はいわれなき苦労の連続である。中央ではない、田舎の大学というイメージがまだ東北大学にあった。学界の差別、産業界の無関心、、、。むしろ欧米で発表して認められている。どこかで聞いたような話だなあと思っていたら、西澤が尊敬する東北大学の先達・八木秀次の人生とだぶってみえる。

以下、独創について。

・若いうちは、とにかくどんなことでも目の前のことに一所懸命に取り組む姿勢や態度が大切だ、ということである。それがまわりまわって、いつ、いかなる形で役立つようになるかわからない。

・難しいことを知っていて物事がうまくいったというケースは、ほとんどない。

・私は、多分、そんなに頭がよい人間ではない。そのうえ、非常に不器用である。

・最後に、わずかな、しかし巨大とも思える壁に突き当たるのが常である。カン、まったく違った着想で予感のもてる仮説を立てられるかどうか。

私は仙台で私は二度ほどお会いしている。1997年9月に宮城大学名誉学長にもなっているから、その時だったか、野田一夫学長と西澤潤一総長との会食に陪席したことがある。電気送信のロスが軽微な技術の開発などの有望技術の話が印象に残っている。仙台のライオンズクラブの昼食会で「勉強してはいけない!」という講演をしたとき、目の前に西澤先生が座っておられたので驚いたことがある。西澤先生はノーベル賞の候補だった。

2000年10月23日の朝日新聞で、この1000年で最も傑出した科学者は誰かという面白い企画があり、読者の人気投票を行っている。1.野口英世 2.湯川秀樹 3.平賀源内 4.杉田玄白 5.北里柴三郎6.中谷宇吉郎 7.華岡青洲 8.南方熊楠 9.江崎レオナ10.利根川進 11.鈴木梅太郎11.西澤潤一 13.高峰譲吉 14.寺田寅彦15.志賀潔 16.関考和 。以下、朝永振一郎 長岡半太郎 福井謙一 広中平祐 今西錦司などが並んでいる。西澤は堂々11位だ。

頭がよい、という場合、回転が速いという意味でよく使われる。もう一つ頭が強いという意味がある。西澤は頭をいじめぬいたからこそ、頭が強くなったひとだろう。いわば「頭っぷし」が強いのだ。回転の速さではなく、回転のエネルギーが強いのだろう。

この本を書いた1986年時点(60歳)では「地べたを這いずり回りながら、愚直に物事をひとつひとつ積み上げてきて、さて大道がひらけるかどうか」と結んでいる。

「不器用だから逃げずに、それを克服することを考えるところに初めて進歩がある。新しい展開は、難しいことを勉強して出るものではないんです」。「そんなに頭がよくなく、非常に不器用でだ」と自分を評価していた西澤潤一がまれに見る「独創」の人であったことは私たちに勇気を与えてくれる。

 

独創は闘いにあり

独創は闘いにあり

 

 

僕が心から超一流と思う人はどう生きたのか。
みんな、小利口なことなどせず、鈍くさいことをひたむきにやり、バカだといれた時期があった。
バカになるしか成功の道はない。
それが結論だった。

 

独創は闘いにあり

独創は闘いにあり

 

 

敢闘賞! ラグビーワールドカップの日本チーム

日本中がラグビーワールドカップのベスト8戦、日本・南ア戦をみただろう。前半は互角、後半は力の差が出て敗れたが、日本のメンバーはよく戦った。にわかファンではあるが、この期間の選手の健闘を讃えたい。相撲でいえば「敢闘賞」だな。

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「名言との対話」10月20日カダフィ緑の革命

 ムアンマル・アル=カダフィアラビア語: معمر أبو منيار القذافي, muʿammar ʾabū minyār al-qaḏḏāfī, 1942年6月7日[1] - 2011年10月20日)は、リビア軍人革命家政治家で、大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の最高指導者。

 北アフリカリビアは人口は1986年時点でわずか376万人、2017年には637.5万人と増加している。国土はアフリカで4番目に大きい。日本の4.6倍。首都はトリポリ。 カダフィ1969年に王位を廃するリビア革命によって政権を獲得後、2011年に至るまで長期にわたり独裁政権を維持した。

 1990年発刊の平田伊都子『カダフィ正伝』を読んだ。

エジプト革命のナセル大統領を尊敬していた。革命時、ナセルは大佐だった。そのためカダフィも大佐という階級を名乗っている。ナセルの死にあたってカダフィは「アラブ統一は、私にまかせてください!」と秘かに誓った。同一言語を持つ同一民族のアラブの統合という夢である。

 歴史と伝統をふまえたうえでの人民革命は、物質主義万能の資本主義でもなく、無神論共産主義でもない、第3の道だ。 カダフィは「緑の革命」をスローガンとして食糧自給をめざした。国土の90%以上が砂漠。その砂漠の緑化に力を注いだ。石油収入だけに頼らず、産業部門を拡充することを目指した。外国人を頼りにしないで、労働力の自給化をはかる。

カダフィは彼の思想をまとめる努力をしていた。夜の時間は思考と研究にあてていた。それが「緑の書」に結実している。1075年、第一部「民主主義」。1978年、第二部「経済」。1979年、第三部「社会問題」。カダフィはアラブの毛沢東にならんとしたのだろうか。この書を書くため何度か引退を表明しているが許されなかった。

 2003年末には核放棄を宣言し査察団の受け入れを行った。アメリカなどは経済制裁などを解除し、テロ国家指定から外した。2006年5月15日にはリビアアメリカの国交正常化が発表された。2011年リビア内戦によって政権崩壊し、10月20日カダフィは殺害された。2019年現在でもリビアは内戦が続いている。

日本へのメッセージは、「日本政府は嫌いだが、日本人民を尊敬し、大好きだ」「原爆を投下された日本は米国に損害賠償を請求すべきだ」。

リビアを作ったのは私だ、そしてリビアを破壊するのも私だ」「もし私が大統領であれば辞任しただろうが、そもそも辞める役職がないのだ」などの言葉がある。

 

カダフィ正伝―誕生から革命秘話、そして激動の半生を初めて語る

カダフィ正伝―誕生から革命秘話、そして激動の半生を初めて語る

 

 

 

11月の読書予定

11月の「名言との対話」用の読書すべき本がそろった。

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 「名言との対話」10月19日。大石武一「もし失敗したら失敗したで、そのときに、さらに別な対策を考えればよいのである」

大石 武一(おおいし ぶいち、1909年6月19日 - 2003年10月19日)は、日本医師医学博士政治家

医業をやりながら趣味として植物学をやることを父に勧められ東北大学医学部で学ぶ。卒業後は東北大学医学部助教授を経て、筋を通した政治家であった父の死を契機に後を継いで1948年に政治家へ転身する。連続10回当選し、河野派(後に中曽根派)に所属する。

1970年前後は、水俣病四日市ゼンソク、イタイイタイ病住民訴訟が起こっていた。大阪国際空港ジェット機騒音訴訟、自動車排気ガスによる大気の鉛汚染、光化学スモッグ、水質汚濁、ヘドロ、、。工業化の進展による悲惨な環境破壊が大問題になっていた。第64回国会は「公害国会」と呼ばれた。その直後に環境庁が発足する。

1971年の第三次佐藤内閣のもとで佐藤総理に自薦して念願の環境庁長官に就任し実質的な初代長官となる。大石武一は、政治の目的は「生命の尊重」「人の生命を守る」と考えた。それを環境行政の基本理念としようとする。それを示すことになったのが、以下の二つの案件だ。

水俣病患者救済問題については「疑わしきは救済する」という行政措置を示し、救済対象を拡大した。これによって環境庁は「人の命を何よりも大事に守る」という役所にしたいと願った。もう一つは観光用道路の建設計画で揺れていた尾瀬という日本の自然の宝を護るため、各界の強い反対を押しきって中止させるという強いリーダーシップをとり、自然保護行政を立て直しことだ。ここでは植物学に進路をとろうとした経歴が生きた。

また、公害の無過失賠償責任制度の立法化も、民法の権威である我妻栄東大名誉教授の力を借りて実現する。疫学的に見て蓋然性が非常に高い場合には法的に企業の責任を認めることになった。

これだけのことをわずか1年という任期で実現させている。自薦しただけのことはある。オープンマインドで住民や、記者とも交流を図る。陳情はなるべく会うようにする。現地に足を運ぶ。そういう行政の情報公開と住民との対話路線が国民にも支持され、力になった。

盛岡の原敬記念館で、2000年の「現代」で行った「20世紀最高の内閣」という企画の結果をみたことがある。環境庁長官大石武一だった。今は環境省となっているが、大石の業績に匹敵する長官、大臣は見当たらない。この評価は今でも同じではないだろうか。

火中の栗を拾う。損得で考えない。解決に向けて渦中に入っていく。そういった姿勢と気力、そして心中の理想が、エネルギーとなって、実績をあげたのだと『尾瀬までの道』を読んで改めて感心した。 

尾瀬までの道―緑と軍縮を求めて (1982年)

尾瀬までの道―緑と軍縮を求めて (1982年)

 

 

 

 

喉をやられた

喉をやられた。

声が出ないので、今日の授業は休講にしてもらった。初めてのことだ。

丸一日、ひたすら寝ることにした。

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「名言との対話」10月18日。長谷川摂子「子どもとの絵本の時間は人生のゴールデンタイム」

長谷川 摂子(はせがわ せつこ、1944年2月8日 - 2011年10月18日)は、日本児童文学者作家

東京外語大フランス科、東大大学院哲学科中退後、6年間の保育士としての活動、結婚、学習塾運営などの経験、4人の子どもを育てた経験、近所の子どもたちを相手に絵本を読む「おはなしくらぶ」、児童書の評論を頼まれ、その延長線上に『めっきらもっきらどおんどん』などの絵本を作ることになる。そして絵本論や昔話の再検証を行う世界に入っていく。1999年、『きつねにょうぼう』(再話)で第4回日本絵本賞大賞、2004年、『人形の旅立ち』で第19回坪田譲治文学賞、第14回椋鳩十児童文学賞、第34回赤い鳥文学賞を受賞した。

「保育園にはいろんな子がいるでしょう。絵本を読むことで、さまざま子がみんなひとつになって、ぎゅーっと集中するわけですから。集中してくると、子どもたちと私の間の空気が、ゼリーみたいに固まってくるんです。それはつまり、子どもと私とが一緒に本の世界にどっぷり入っているということ。その充実感は、集団読みの特色だと思います」。

『絵本が目をさますとき』の中での「アンパンマン」に関する考察が面白い。アンパンマンは物語の登場人物ではなく、キャラクターだ。こちら側に飛び込んでくる。自分に親しく笑いかけてくれる。感情移入できる。アンパンマンの膨大なキャラクターは、ウルトラマンと同じく一種の曼荼羅だ。多神教の宇宙図。まるまるなアンパンマンの顔。アンパンマンは、母音の繰り返しの中に、パパのパとママのマが入っているから気持ちがいいはず。しかし、物語絵本として見た場合「アンパンマン」は物語世界を全体として表現できていないとの批判をしている。

絵本を媒介に母親は愛情ある日常的な語りかけを子どもにする。歌も含め子どもも声を発する親密なコミュニケーションタイムだ。私の記憶でも物語絵本を母親に読んでもらうことが楽しみだった。同じ物語を何度も聴いた。音楽と同じく、何度も何度も聴くのは心地よいからだろう。

「今まさに子育て真っ最中という方は、そのゴールデンタイムを我が子とともに存分に味わえるんですから、うらやましいですよ。子育ては大変なこともありますが、絵本を楽しみながら、子どもとの毎日を大切に過ごしてくださいね」とインタビューで母親たちに励ましのメッセージを発している。長谷川摂子は、絵本という世界の開拓者だ。

絵本が目をさますとき (福音館の単行本)

絵本が目をさますとき (福音館の単行本)

 

 

 

 

中国長春の吉林大学東北アジア研究院の訪問団。「ビジネスに活かす偉人の名言」11月分の収録。

中国長春吉林大学東北アジア研究院の訪問団が来日。

旧知の沈先生と、王彦軍先生。それから博士課程と修士課程の院生7名。国際交流センター長のバートル先生と対応。宮城大時代に私はこの大学の客員教授であり、何度も訪れている。

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「こえラボ」の岡田社長のインタビューを受ける。「ビジネスに活かす偉人の名言」11月分、石坂洋次郎三浦綾子渡辺崋山新渡戸稲造

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 「名言との対話」10月17日、田島治子「打たれ強くなって大きくなる」

田島 治子(たじま はるこ、1941年10月29日 - 2013年10月17日)は、日本実業家サカイ引越センター創業者。

泉北ニュータウン開発に伴う引越需要にのってすき間産業である引っ越し業として発展する。1979年、引越専門の「アーイ引越センター」を設立し社長。1981年、世話になった堺市への感謝を込めて、堺引っ越しセンターと改名。1990年にはサカイ引越センターと改名。1996年引越専業初の大証二部上場、現在は東証1部上場。

学生が就職する企業でもあり、関心を持っていたが、今回内容を理解した。企業のモットーは「まごころこめておつきあい」。社長の田島治子は「和46年に創業した当社は、引越一筋39年。車両の充実配備をはじめ各種専門技術の開拓、さらに人材教育や経営の合理化などに積極的に取り組み、独自のノウハウを開発してきました。これからもさらなる実績を重ね、業界のトップクラスであることが「まごころこめておつきあい」の実践であると確信しております。業界トップクラスを常に目指す、向上心の強いあなたをお待ちしています」と挨拶している。

2010年には売上高は483億円、経常利益は42億円。従業員は3103名。その後、創業40周年を期して2011年に譲った後任の息子の田島哲康社長の努力によって経営は順調に伸びている。2018年には売上高は8838億円、経常利益は106億円にまで成長しており、経常利益率は12.4%と過去10年で最も高い利益率だ。ネットワーク網は全国154拠点、188支社。法人引越しが中心だが、インターネットというチャンネルは個人引越しを大きく上回っており、法人の72%もの売り上げがある。

ライバル企業であるアートコーポレーション寺田千代乃と並び、引っ越し専業者の二大女性社長といわれた。現在では業績はサカイがアートを大きくしのいでいる。

成長の過程でいくつかの困難に直面しているるが、それを糧にして大きくなっていったのだろう。