岡山県自治研修所

岡山県自治研修所(三光荘)で県職員対象の「図解思考向上講座」に出講。2か月前に1日行っている。2回目の講座だ。朝9時から17時まで。

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以下、アンケートから。

県の施策を題材としてもらったので、岡山県としての大きな取組み、仕組みについて学び、考える機会になった。今後の仕事で役に立つ。

「生き活きプラン」の内容が頭によく入った。

県民ニーズマップを使った学びで、安易に定量的なデータを使うだけでなく、リアルな実感に基づいた定性的な分析を行うことで、説得することができると思った。

県全体の目標に対して自分の業務がどのように関わっているかを考えることができた。

普段の業務が県全体のプランの目標実現に関与していることを再認識することができた。

図解のテクニックを学ぶものと考えていたが、実際に受講してみると「思考」を学ぶものだった。脳をフル回転させる経験をした。

説明が具体的な経験、体験に基づく内容だったので非常に興味深かった。・

「箇条書きをみたら疑え」

今まで見えていなかったつながりや関係性がみえてきて新しい発見をした。

最後のお話。まだまだ青年期。生涯にわたって学ぶことのワクワク感を持ち続ける人でありたい。

自分の勤務する学校も多くの季刊や地域に支えられていることを実感した。

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「名言との対話」10月16日。福沢一郎「俺あシュールレアリストなんかじゃねえよ」

福沢 一郎(ふくざわ いちろう、1898年明治31年)1月18日 - 1992年平成4年)10月16日)は、日本の洋画家

戦前はシュールリアリズム(超現代主義)を日本に紹介した。前衛美術運動リーダーであった。戦後は人間群像の大作に挑む。

富岡市出身。仙台の第二高等学校。東大文学部卒。朝倉文夫のもとで彫刻を学ぶ。パリ留学中に絵画に転向。33歳、帰国。38歳、福沢絵画研究所。41歳、美術文化協会を結成。43歳(1941年)、治安維持法で検挙。54歳(1952年)から57歳まで渡欧。ブラジル、メキシコを経由して帰国。55歳、芸術選奨文部大臣賞、「埋葬」が国内大賞。62歳、多摩美客員教授。66歳、女子美大教授を兼任。74歳、東京駅にステンドグラス「天地創造」。80歳、文化功労者。95歳、文化勲章。94歳、死去。

敗戦群像。黒人の公民権運動。ダンテ『神曲』時獄篇。源信『往生要集』に基づく東洋の地獄。現代の世相を地獄に見立てた連作。ギリシア神話旧約聖書魏志倭人伝などの題材を求めた。人間嫌いのヒューマニストであった。人物を裸体として群像的に扱うという方法論を持って、「世相群像」「復興」「敗戦群像」「樹海」、、、などを描いた。

「地獄図は描けても、天界のそれはむずかしい。フィフス・アベニューよりもハーレムに、天衣よりもつづれに、従順よりも反逆に、美は閃光を放つのではないか」。

「現代の世相も地獄じゃないか。往生要集もダンテの『神曲』もそのときの世相の反映だったのだから、広くみて自由勝手に描いた方が、むしろ地獄図としては面白いとおもうのです」。「政治家地獄」、「倭国大いに乱れる」、「倭国内乱」、、。

2019年5月4日の東京新聞では、世田谷区砧にあった福沢一郎の自宅が記念館になっているとの記事が出ていた。長男の妻が現在館長だ。「笑い」をテーマとした企画展を開催中であるとか。出身地の群馬県富岡市にも福沢一郎記念美術館がある。

福沢一郎と言えば「シュールリアリズム」の旗手と皆が思う。世に出た初めの印象はなかなか払拭できない。それが「俺あ、、」という発言になった。題材を歴史と世界に求めて、現代の世相を大作に込めようとした画業であった。記念館と美術館を訪ねてさらに福沢の実相に迫りたい。

 

岡山知研のメンバーたちとの懇親会。

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 明日の県庁での講演研修に備えて夕刻に岡山入り。毎年数回新幹線で岡山往復をしているので、時間が短く感じる。3時間ほど時間があったので、原稿チェックなどを行なった。こういう移動の時間はありがたい。

18時半からNPO法人知的生産の技術研究会の岡山の仲間たちと飲み会。会長の伊藤さんの快気祝いを兼ねている。

それぞれ相当の人物たちだ。ふぐの陸上養殖の夢を追う技術者。難病を専門とする医療機関の起業家。障害者雇用のプロフェッショナル。石田梅岩の在野の研究者。

3月の東京での総会。岡山から5人参加予定。日程は3月の最終週に設定して欲しい。

 

16日の山陽新聞朝刊。台風死者12都県73人。決壊52河川73カ所。不明13人、避難5000人超。東日本大震災以来の大災害だ。

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「名言との対話」10月15日。ジョー・スタンカ「円城寺 あれがボールか 秋の空」

 ジョー・ドナルド・スタンカJoe Donald Stanka1931年7月23日 - 2018年10月15日)は、アメリカ合衆国オクラホマ州出身の元プロ野球選手投手)。

 米大リーグ、ホワイトソックスでメジャーに昇格しあげた1勝を含めて、生涯通産で100勝72敗。ピッチングの姿は赤鬼の形相だった。

 1961年の日本シリーズ南海巨人戦第4戦。エラーと長島の内野安打で満塁になる。宮本に投げたストライクとおぼしきフォークボールを「ボール」と円城寺審判は判定し、キャッチャーの野村とスタンカは激高する。スタンカはユニフォームを着ると気性が荒くなる男だった。そして再開し打たれてサヨナラ負を喫する。本塁のカバーに向かったスタンカは円城寺と激しく衝突し、円城寺ははじきとばす。この試合を観戦していたファンの商社マンが、後に実業になっていたスタンカに「円城寺 あれがボールか 秋の空」という川柳を送った。故障した杉浦忠にかわり大車輪の活躍をし、南海ホークスパ・リーグ優勝に貢献した。スタンカは後に「セントラルの審判が巨人にひいきしたとは思いたくない。パリーグなら見つけているからストライクにしたはずだ」と語った。

1964年には26勝を挙げてシーズンMVPに輝き、阪神タイガースとの日本シリーズでは第1・6・7戦で先発し3完封の離れ業をやってのけ、南海の日本一に大きく貢献した。日本シリーズのMVPも受賞した。

プロ野球最強のエースは誰か』でバッテリーを組んでいた野村克也は、大エースの杉浦忠、世界初のカットボールで30勝投手に変身した皆川睦雄に続き、第3位にスタンカをあげて高い評価を与えている。

たった一つのエピソードが、その人の代名詞になるというケースがある。当時の観客の言い伝え、書籍、テレビ解説、、、、。54歳の時点でのヒューューストンにおける映像を見る機会があった。営業を担当する刺繍会社の社長のスタンカ。週末は日本人商社マンとのバーベキュー会で、この大和魂を持った男は、日本での最高のひのき舞台における想い出話に日本人とふける。人生最高の時を語り合うのは幸せだったろう。

『梅棹忠夫著作集 第13巻 地球時代に生きる』を読了。年初から7巻目が終了。

梅棹忠夫著作集 第13巻 地球時代に生きる』を読了。7巻目が終了。

 「地球時代の日本人」。「地球時代の文明論」。「21世紀の人類像ーー民族問題を考える」。「国際交流の理論」。この巻も目の覚めるような理論を堪能した。

梅棹忠夫著作集 (第13巻) 地球時代に生きる
 

 次は「第12巻」の「人生と学問」を読むことにした。「日録 1971年1月」が目に留まった。1月1日から1月7日までの日録だが、酒の話ばかりだ。「酒はたのし、のむほどにブレーキがきかなくなり、盃をかさねる。前後不覚」「相手かわれど主かわらずで、したたかに酔う。そのうちにブレーキきかなくなる。また前後不覚」「夜、ひとりで盃をかさねる」「また二日酔い。われながら愛想がつきる。夢うつつで酒をやめようと決心。、、、しかし、目がさめたらまたのんだ」「のむほどにブレーキがきかなくなる」「昨夜の記憶はある。しかし酒はやめようとおもう。酒は研究生活によくない」「夜は(九州芸工大)小池新二学長にまねかれる。さて酒は?」。梅棹先生にして、こういう一面もあるのか、少し安心。

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「名言との対話」10月14日。石田博英「組織より、つながり」

石田 博英(いしだ ひろひで、1914年大正3年12月12日 - 1993年(平成5年)10月14日)は、日本政治家

衆議院議員(14期)、労働大臣(第141718222339代)、運輸大臣第47代)、内閣官房長官(第1617代)、衆議院議院運営委員長(第6代)。

 今回読んだ河野洋平との共著『自由社会は沈まず!』では、宿望であった石橋湛山内閣を三木武夫(幹事長)と一緒に成立させ、40を越えたばかりの年齢で官房長官として、病気退陣を仕切った時の経緯が書いてあった。政局の静穏円滑を求めるのが自分の仕事だと考えての大仕事だった。

秋田県大館市を訪問したとき、石橋湛山の足跡をみる機会があった。横山児童公園に横山助成先生記念碑があった。横山は大館生まれで帝国大学を卒業し、内務省局長、6府県の知事・警視総監、貴族院議員、東北興業総裁をつとめた人物だ。家族が基金を寄付し公園となった。石田博英がその会の代表だった。

昭和初期の建物である欅づくりの桜櫓館は、町長をつとめた桜場文蔵邸で、桜の名所と三階の展望台の櫓から命名された建物だ。安土城天守閣を模している。大館出身の石田博英が、この近くの狩野家を私邸としていたところが、「石田ロズカーデン」となっていた。ここでも石田の名前が残っていた。

盛岡の原敬記念館で、平成12年4月の「現代」で行った「20世紀最高の内閣」という企画があった。外務大臣幣原喜重郎、大蔵:池田勇人、文部:石橋湛山、通産:岸信介、運輸:後藤新平、郵政:田中角栄、労働:石田博英、建設:福田赳夫内閣官房後藤田正晴総務庁佐藤栄作防衛庁中曽根康弘環境庁大石武一国土庁松下幸之助、金融再生:高橋是清、そして総理大臣は原敬だった。

1957年からの第1次岸改造内閣では労働大臣。1960年からの第1次池田内閣三井三池争議の収拾のため、再び労相に任命。1964年第3次池田改造内閣において三度目の労相。1976年からの福田赳夫内閣では4度目の労相を務める。20世紀最高の内閣の労働大臣に擬せられたのは、20年にわたって何度も労働大臣をつとめた実績からだったのだろう。石田博英労働大臣の印象は私にもある。師の石橋湛山も文部大臣に選ばれている。

石田博英は長い議員生活で離党を1回経験し、除名も2回されている。しかし票数はほとんどかわらなかった。政党の組織などはあてにならない。日々の「つながり」が基礎票だ。浮動票ではなく、足腰の強さ。それが当時の自民党の強みだった。 

 

 

篠遠喜彦「楽園考古学」。大原誠「大河ドラマ、、、、」

人がいなくて書き残していた日をなんとか書き上げる。

10月4日は篠遠喜彦。人類学者。「楽園考古学」

   10月4日。篠遠喜彦「楽園考古学」|久恒 啓一|note

10月6日は大原誠。NHKディレクター「大河ドラマを作るには、時代を読まなくてはならない」

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ジム:スイミング500m

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夜はラグビーワールドカップ予選最終戦スコットランド戦。21-14で勝利。4戦全勝で1位通過。肉弾相打つ迫力満点のラグビーを見ていると、サッカーが物足りなくなる。

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やなせ たかし(本名:柳瀬 嵩、〈読みは同じ〉1919年大正8年〉2月6日 - 2013年平成25年〉10月13日)は、日本漫画家絵本作家詩人。

製薬会社や三越の宣伝部員、雑誌記者、舞台美術、脚本家、演出家、放送作家、編集者などで生計を立てていた。本職は漫画家でありながら、そういう仕事はない中で、ひたすら漫画を描き続けていた。「ぼくの道」という詩がある。「荒れた砂丘を歩く 道は遠い 道に迷ったのかもしれない 不安をおさえてシャニムに歩く 鉛筆の林 ケシゴムの丘 ペン先の森 日はくれかかって空はまっくら それでもふしぎに心は楽しい この道が好きだから ぼくは歩いている 他になんにも方法がない 一足とびにあそこへいけない」。

数日前BSプレミアムの「100年インタビュー」で「やなせ・たかし」を流していた。アンパンマンは6500万部という途方もない作品だ。93歳、矍鑠とした話しぶりで、いいことを言う。どこかで聞いたことがある言葉だと思っていたら、先日読んだ本はこのインタビューを起こしたものだと気がついた。本人の語りを聴いて改めて感心した。「私には現在と未来しかない。楽しく、面白く、、」「気力、気迫」がないと派手な服は着られない」。帽子は200個ある。

40代後半まで代表作がなかった。手塚治虫なら「鉄腕アトム」、さいとう・たかをなら「ゴルゴ13」など、漫画家は代表作がないと認められない。仕事がこなくても、絶えず描いていなくちゃいけない。必ずつづけていて、運がやってきたら「パッ」とつかむ。根気が大事だ。「遅く出てきた人というのは、いきなりダメにはなりません」。

宮城まり子が歌った「手のひらを太陽に」という歌がある。いずみたくが作曲で、作詞はやなせである。「ぼくらはみんな生きている、生きているからかなしいんだ」「生きているからうれしんだ」。

『何のために生まれてきたの?』(PHP)。インタビューで構成された小さな冊子だが、なかなかどうしてやなせの人生哲学は「聞かせる」。

困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場や国に関係なく、「正しいころ」。これは絶対的な「正義」なんです。兵隊にとられ、学んだこと。戦争というのは、絶対にやっちゃいけない。戦争は殺人をしなかえればならない。正義とはひもじい人を助けることなんですよ。ひもじい人を助けるヒーロー、それがアンパンマンを描き始めた動機となった。しょくぱんま、メロンパンちゃん、カレーパンマン、キャラクターは食べ物に限定した。バイキンマンドキンちゃんなども。子どもにとって一番大事なことは食べることだから。アンパンマンは一番弱い。アンパンマンバイキンマンとの戦いは永遠に続く。その戦いの中で健康を維持しているという原則を話に入れてある。正義を行う人は自分が傷つくことを覚悟しなくてはならない。だからアンパンマンは自分の顔をあげるのだ。

アンパンマンのもとになる絵本は54歳、そしてテレビでアニメが放映されたのは69歳と、いうように、やなせたかしは遅咲きだった。朝6時に起きて、1時間の体操。腕立て伏せ、足踏み、スクワット、自転車をこぐ。歌いながら。朝食後は40分寝る。それから仕事にとりかかる。食事は白米を少なくしておかず中心。野菜スープ。旗は恥部よりちょっと上くらいの量。日曜日はウナギの日。

もともとは、大人向けの詩集や本を書く作家だったが、アンパンマンを描いたために、児童書の仕事をするようになった。アンパンマンのテーマソングは「なんのために生まれて なにをしていきるのか」である。子どもの頃から歌っていると、自然に考えるようになるのだろう。東日本大震災の後、一番多く歌われたのが「アンパンマンのマーチ」だった。アンパンマンのキャラクターは2000を超えていて、最もキャラクターが多いアニメシリーズとしてギネスの世界記録に認定されている。

香美市立やなせたかし記念館以外にも、アンパンマンミュージアムは仙台、横浜、名古屋、神戸、福岡と全国に五か所あるのには驚いた。

才能の薄い人間でも、屈せずに続けていれば何とかなる。大量に仕事がきたばあいには、かえってゆっくやる。一日一枚やってく。するといつのまにか片付く。絶望せずに根気よく。一滴の水でも注ぐ、」そういう仕事をやていく。そうすれば同調する人間が出てくる。

この本の最後の「100年後へのメッセージ」は「100年後の世界では、漫画的精神で、みんながなかよく、そして面白く、楽しく暮らせる世界になってほしい」だった。

「僕は先に死んじゃいますが、アンパンマンそのものは、ずっといきていくんじゃないかと思います」。作者のやなせたかしの命は永遠である。 

台風19号一色の日。BSプレミアムの「100年インタビュー」で「やなせ・たかし」。

台風19号一色の日。

 台風のニュースをテレビでみながら過ごす。BSプレミアムの「100年インタビュー」で「やなせ・たかし」を流していた。93歳で矍鑠とした話しぶりで、いいことを言う。どこかで聞いたことがある言葉だと思っていたら、先日読んだ本はこのインタビューを起こしたものだと気がついた。本人の語りを聴いて改めて感心した。

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「名言との対話」10月12日。ミヤコ蝶々「人間は苦労時代が本当の幸せなのです」

ミヤコ蝶々(ミヤコ ちょうちょう、女性、1920年7月6日 - 2000年10月12日)は、日本女優漫才師

 娘を芸人にしたいという父は、朝から三味線、洋舞、日舞、唄、漫才、文字の稽古、夜は芝居という生活を強いた。そして柳枝劇団では床山、お囃子、芝居の台本も書いた。そういう経歴なので何でもできた芸人になる。

 日本図書センター人間の記録シリーズはずいぶんと読んだが、『ミヤコ蝶々』は違う。男性の自叙伝は仕事中心であるが、蝶々さんの場合は本人が2回半という結婚をめぐる物語になっている。立派な職業を持ち成功した女性でも、過去を見つめるときには男と女の関係が最重要なテーマとなるのだろうか。

22歳で三遊亭柳枝と同棲、27歳で離婚。27歳で弟子で5歳ほど年下の南都雄二と結婚、42歳で離婚。学校に行っていない蝶々が「なんという字?」とたびたび聞くことからついた芸名だ。6年間の柳枝と12年間の雄二。二人の共通点は女癖の悪い所で、苦労を重ねる。そしてAさんとの8年の恋愛で結婚しそこねたこと、それが「半」という表現になっている。

35歳、ラジオ放送で「夫婦善哉」を始める。本職の漫才をやめて夫婦善哉に専念する。南都雄二との離婚後もコンビは継続。46歳、自伝「女ひとり」を出版。52歳、南都雄二死去。53歳、「女ひとり」を上演。55歳、20年続いた「夫婦善哉」終了。57歳、蝶々新芸スクールを開校し校長。2000年、80歳で没。2008年には生前の自宅の一部を改装した「ミヤコ蝶々記念館」がオープンしている。

 「あんたは立派すぎるぐらい、いい女房やと思う。しかし、ある意味で立派すぎて僕はしんどい」「あんたは男を甘えさせ過ぎる。、、、自分が居らんでもこの女は生きていける、しっかりしている、そんなら別れるか、、、となる」と語った南都雄二も、そしてAさんも同じ考えだった。できすぎた女の悲劇だろう。

私も「夫婦善哉」もよく見たが、「スチャラカ社員」の女社長役の蝶々の演技も覚えている。半生をかけた代表作「夫婦善哉」は20年続けた長寿番組だ。笑いの中で、「夫婦とは一つの道を歩くことが何でもないようで、一歩一歩踏みしめて味のある、でも一歩間違えば、難しいものだなァと、見る人の胸に何となく残す」のが、趣旨だった。この番組は蝶々が高く評価していた上沼恵美子が後任となった。

お金で愛は買えない。貧しかったからこそ愛が生まれた。地位と名誉と財産は、愛を引き裂くものだ。それがミヤコ蝶々の述懐だ。男と女、夫婦、そして人生とは難しいものだなあ。 

ミヤコ蝶々―おもろうて、やがて哀し。 (人間の記録)

ミヤコ蝶々―おもろうて、やがて哀し。 (人間の記録)

 

 

 

勁草塾文庫カフェの会で講演。テーマは「図で考えれば世界が見えるーー日本と中台韓朝の歴史教科書比較を中心に」。

勁草塾文庫カフェの会(主宰は斎藤勁先生:民主党政権官房副長官)で講演。台風19号の関係で当日キャンセルもかなりあったようだ。なんとかできてよかった。

テーマは「図で考えれば世界が見えるーー日本と中台韓朝の歴史教科書比較を中心に」。1時間の講演と30分の質疑応答。

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以下、終了後のアンケート。

・日中台韓朝の問題は図解で解決せよという後半の発言は確かにそうだと大変腑に落ちました。特に日本人(私も含めて)は」近代史の知識が欠落していると寺島会長も言っていますが、ワークシートとしてこのような図解がテーブルにあれば議論ができる余地があると感じました。非常に新鮮な講義をありがとうごあいました。

・図解でまとめる能力の醸成が公務員に必要と痛感。

・新鮮な感動を得られたうれしさ。すごい学びになりました。ありがとうございました。

・久々の「久恒節」を聞きました。ありがとうございました。一度研修の企画を考えて提案させていただきます。

・「図解はOS(基本ソフト)である」。もっと多くのアプリを開発できる。

・目が覚めました。なるほど、こういうことでしたか。

・まず「自分の仕事」から始めたい。

・新たな視点で考え直してみたい。

・「図解は世界の共通語」は、目からウロコ。話が面白く引き込まれました。

・今までいかに考えずに聴いていたかわかりました。

・大学で留学生に教えているが反応が悪い。図解で状況を打開できる気がしてきました。

・ものを考えるには、図解、鳥瞰が必要なことがわかりました。

・今日のお話でスッキリしました。

・図解のプラットフォームを使って立場、意見の違いを各自に書き込んでもらってはどうか。

・論理図をつくることがいかに重要かわかった。全体を把握することの重要性を改めて認識した。
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終了後、玉川大学の小酒井先生、力丸先生、多摩大の久米先生とビールで乾杯。
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午前は、学部の「立志人物伝」の授業。岡本太郎三島由紀夫

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「名言との対話」10月11日。仙谷由人「より正しいことを言っている方が、選挙で負ける」

仙谷 由人(せんごく よしと、1946年昭和21年)1月15日 - 2018年平成30年)10月11日)は、日本政治家弁護士

仙谷は東大時代は軟式テニス部に所属し、フロント(社会主義同盟)のシンパだった。在学中に司法試験に合格し中退。自治労の組織内候補として1990年に出馬し社会党の議員になる。1993年落選。1996年民主党から当選する。2009年8月に民主党が政権を獲得すると、鳩山内閣で行政刷新相として初入閣し、次に内閣府特命担当大臣(「新しい公共」担当)に任命された。次いで菅内閣官房長官を務め、優れた能力と多彩な人脈を駆使し的確な判断と指示を行い、高飛車な姿勢とも相まって「影の総理」の異名を取った。その後、法務大臣民主党代表代行などを歴任した。2012年落選。2年後に引退。小沢一郎を敵として活動する政治姿勢が私の記憶にある。

官房長官時代の「自衛隊暴力装置」発言が物議をかもした。また2000年に起きた中国との領土問題のある尖閣列島中国漁船衝突事件では、衝突シーンが映っているビデオ映像の公表が遅れ、那覇地検は仙谷の意に沿って処分保留のまま釈放するという決着を図ったことには批判も多い。行政刷新相として事業仕分けも推進している。

 2018年の自民党総裁選で善戦し敗れたばかりの石破茂衆院議員と対談し、今の時代は「より正しいことを言っている方が、選挙で負ける」として、石破の方が政策的に正しかったからこそ負けたとの持論を展開した。この言葉は民主党の代表選びや、自身の選挙での落選も踏まえての感慨だろう。

陰の総理・仙谷由人vs.小沢一郎 (徳間文庫)

陰の総理・仙谷由人vs.小沢一郎 (徳間文庫)

 

 

 

 

リレー講座:柯隆先生(東京財団主席研究員)「米中貿易戦争の政治経済学とチャイナリスクの制度分析」。

リレー講座。柯 隆先生(東京財団主席研究員)「米中貿易戦争の政治経済学とチャイナリスクの制度分析」。

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・中国建国70周年式典の軍事パレード:兵器は使えないおもちゃ。指導者たちは暗い顔。

・香港のトラブル:中国からの逃亡犯の引き渡し条例への講義。恣意的な運用拡大を恐れている。自由と法の秩序を守るために立ち上がった。1984年の中英の共同声明「50年間は一国二制度」。これは守られるはずがない。憲法すら守らない国だ。スコットランドのような連邦制にすべきだった・香港の中国化は進む。5番目の直轄地に。いずれ沈静化する。移民となって英連邦にいくだろう。国際金融センターはシンガポールに移る。英語、法の秩序、自由なマーケット、金融エリートの存在が条件。

アメリカとの同盟と経済の結びつきが深い中国。日本は悩ましい。米中貿易不均衡は産業構造の問題であり解決しない。貿易戦争の本質はハイテク戦争であり、覇権争いで長期化する。第五世代「5G」を巡る戦い。4G時代はスーパーコンピュータが情報処理していた。5G時代は、データ集のスピードが速くなる。その情報を処理するのは量子コンピュータ。日独米印中が先行しているが中国は国家プロジェクトであり完成形に近い。5Gと量子コンピュータの結合でアメリカの軍事情報のセキュリティが解読される恐怖。

・中国はどうなる?:物価と失業率が同時に上昇中。食品価格は8%上昇、とくに穀物。25%の関税。豚の飼料代、トンコレラによる殺処分、豚肉は半減。工場の海外移転で数千万人が失業。失業率は10%以上だ。自動車2018年マイナス2.8%、2019年1-8月マイナス13%。実態はゼロ成長かマイナス成長! 金融政策はとれない、財政政策も税収はマイナス30%で財源がなく公共工事もできなお。有効な手がない。

・アリババのジャック・マーやレノボのトップが引退。共産党による統制の強化の進行。中国指導部の「強制ひながら発展させる」という「チャンレンジ」はどうなるか?

・日本は?難しい立ち位置。日本には国際戦略がない。シンクタンクもない。人材を育てる教育機関に問題がある。教区改革をやらなければだめだ。日本の学生は動物園の動物、米中の学生はサファリパークの猛獣。

旭硝子(AGC)の例。4Gのアンテナは200m。5Gは200m。ビルや車のガラスに1枚のガラスをつけて間にアンテナを設置するという高付加価値戦略。人材育成!

・中国とどう向き合うか? 日本は理、中国は情。かみ合わない。日本人はものづくりに情熱。中国人は販売に熱心。

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多摩大総研ミーティング:道の駅、財団、城南信金、ブルー・グリーン賞、企業訪問、

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「名言との対話」10月10日。佐々淳行「危機管理のノウハウ」

佐々 淳行(さっさ あつゆき、1930年12月11日 - 2018年10月10日)は、日本の警察防衛官僚危機管理評論家

警視庁入庁。1969年の東大安田講堂事件、1972年のあさま山荘事件、1975年のひめゆりの塔事件等で主要な役割を果たす。1977年防衛庁に出向。1986年防衛施設庁長官。同年初代内閣安全保障室長になり、中曽根・竹下・宇野の3代の総理に仕えた。退官後は政界進出を勧められたが、危機管理をライフワークとしてフリーで活動した。

年譜をたどってみると、日本を震撼させたあらゆる事件と危機に立ち会っていることがわかる。佐々には「事件を呼ぶ男」「さすらいのガンマン」「ダーティー・ハリー」「縦社会を横に生きた男」などの異名がある。その仕事ぶりが見えるような異名だ。

生涯の師であった後藤田正晴には「後藤田五訓」というは官僚に対する訓示がある。どの仕事にも当てはまるものだ。1.出身がどの省庁であれ、省益を忘れ、国益を想え 2.悪い、本当の事実を報告せよ 3.勇気を以って意見具申せよ 4.自分の仕事でないと言うなかれ 5.決定が下ったら従い、命令は実行せよ。こういった訓示を実行したのが佐々である。その後藤田は佐々を「血刀下げて裸馬に乗って単身敵陣に斬り込んでいく奴」と評価してている。

佐々の代表作『危機管理のノウハウ』三部作(PHP)は、危機管理のバイブルだ。1979年のPart1「信頼されるリーダーの条件」。1980年のPart2「80年代・闘うリーダーの条件」。1981年のPart3「危機に強いリーダーの条件」。事故やハイジャックなど危機にあう可能性がある航空会社にいた私ももちろん読んでいる。そして佐々の講演会にもでかけて具体的で急所を突いた話に感銘を受けたことを思い出す。仙台時代には東北新幹線でおみかけし、挨拶し相手をしてもらったことがある。同じ成蹊高校出身の先輩として野田一夫先生のことが話題になった。

 佐々淳行は「危機管理」という日本語の創造者だ。湾岸危機の際にマスコミが常用し日本語になった。改めて『新・危機管理のノウハウ』という本を読んでみた。

 湾岸戦争では、本来「危急存亡」の問題を「損得勘定」ではかり「危機管理」ならぬ「管理危機」におちいったのではないかと述べている。危機管理(クライシス・マネジメント)における管理危機(マネジメント・クライシス)だ。自己管理できない組織は危機管理はできない。油断、驕り、沈黙、本末転倒、、によって危機が一層深まる。

 自己管理できないリーダーは組織管理ができない。よく管理された組織なしでは危機管理はできない。自己管理とは、まず日常の体の健康管理、そして平時は意図的悲観論者としてふるまい、非常時には意図的楽観者であろうとする自己統制できる心の健康管理のことだ。私たちも健全な肉体と健全な精神を維持する努力を続けたいものである。

 この本の中に「異常なし」という定期報告についての記述がある。自動的に報告が定点観測のようにあがってくる態勢が重要ということだ。部下や現場からの定期的な報告に接する中で危機の接近を感じ取りながら、危機管理が管理危機にならないように早め早めに手を打っていくこともリーダーの役割だ。この点は組織運営のキモでもある。