たゆまざる人・平野友輔--「明治人その青春群像」(色川大吉)

色川大吉「明治人 その青春群像」(筑摩書房)を読んだ。

明治人―その青春群像 (1978年)

明治人―その青春群像 (1978年)

平野友輔というあまり有名でもない藤沢出身の一人の人物の伝記的作品であるが、平野を中心に置きながら恋敵・北村透谷、東大医学部の同級生・森鴎外、地方豪農で自由民権運動を担った石坂昌孝、年下ながらその思想に私淑していた内村鑑三らとのとつながりも紹介しながら、明治人の精神を明らかにしようとした研究である。

平野友輔は安政4年(1857) 藤沢宿坂戸の町人の長男に生まれる。小笠原東陽の 耕余塾 に学び,医学を志し,明治12年東京大学医学部にすすむ。このころは自由民権運動中であり,卒業後に八王子に医院を開業した時も,多摩の民権グループ に加わって自由党員として積極的に行動していた。明治17年10月の自由党解党には,神奈川県(当時三多摩地区は神奈川県 )党員総代表として参加した。明治19年,藤沢の長後の羽根沢屋(博物館がある)で医院を開業した。明治22年には,故郷の自宅に医院を開業し, 明治35年には衆議院議員に当選している。昭和3年4月3日永眠。

相模と多摩を中心に活躍した人物が数多くこの書には登場する。こういったよき常民だった平野のような人物が無数に埋もれていると想像する色川は、文化的蓄積と魅力を持った地方人が幕末において分厚い層を形成しており、この層の存在が日本の近代化を推進した推力であったと考えている。

以下、明治人の本質が典型的に表れていると色川がいう平野友輔という人物について記しながら明治人を考えていく。

  • 「借りる人となるなかれ、貸す人となるなかれ」
  • ひとに負けぬ正義感をもち、迫害にさらされているものへの同情心に厚かった平野
  • 友輔の真価は、これ(男女の対等な人格の関係)を恋愛中の一時的な気まぐれの関係とせず生涯孜々としてつとめて、その立場を貫きとおしたというところにある。
  • 「朝はパン、夜は肉、いちばん好きだったのはシチューのようなもので、、、」
  • 一般民衆、特に青年や婦人の意識の度合いが文明の進歩の評価の基準だった。
  • 身を起こし生涯の奮闘によって大政治家になるというパターンの英雄像を持っていた。クロムウェル、リンカーン、ジスレリー、、)
  • 石門心学二宮尊徳の教えなど東洋的、伝統的な教養があった。「品行、倹約、勤勉」
  • 「真摯なる人物の著書は大学以上の大学校なり」
  • 「父の理想は健康美と平等な人生の享受と労働の尊重にあったのだと思います」
  • たゆまざる人であったらしい。
  • 明治的健康の凡人型が、平野友輔のような人にあらわれている
  • 三多摩の豪農民権家たちの精神の強靭さ、その痛烈さにあらためて脱帽したい。
  • 「父も母も子供たちのまえで愚痴というものをいったことのない明治人でした」
  • 一生を自己抑制と人格鍛錬に努力し続けてきた人
  • 「東洋的な美しい国民性に、西洋文化の良い所を充分とり入れたいという理想家であったと思います」
  • 「世人が君を以て湘南地方人格第一人者となす、まことに以てなり。」(親友・金子角之助藤沢市長)

あらゆる分野、あらゆる地方に、平野友輔を典型とする人物が無数にいたのではないか、それが明治という時代をつくったという色川大吉の説に深く共感する。
全国の人物を訪ねる旅の中でも、対象となっている偉人も、そして彼を育んだ両親たちにも「明治の人」といえるような人格を感ずることが多い。

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今日はわけあって、江東区豊洲、東雲を一日歩いた。タワーマンションが林立する海沿いの場所は若い家族がいっぱいだった。銀座から5キロ圏内という立地は若い働き手には魅力があるだろう。
出光美術館長谷川等伯展をみる。「蒐集家・出光佐三のこころ」も購入。

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今日の一枚

我が家より でっかい夢が 咲いている
秋空に 皇帝ダリヤ 君臨す