太田黒記念館

荻窪の太田黒公園にある 太田黒記念館を訪問。「旧太田黒家住宅洋館」は、造形の規範となるということで、国の登録有形文化財になっている。立ちの高い瀟洒な外観と特色ある意匠を備えている。

音楽評論家・太田黒元雄(1893-1979年)が住宅の離れとして建てた洋館は氏の仕事部屋であった。

愛用のスタンウェイ社製のピアノ、蓄音機などが残されている。ここで「ピアノの夕べ」を開いていた。「平凡のうちに非凡を発見する事」。

太田黒元雄は1910年生まれ。父・重五郎は芝浦製作所、九州水力発電などの創設にかかわった実業家で二葉亭四迷と親交があった人。19歳でロンドンに留学。2年後に第一次世界大戦のため帰国し、音楽に関する執筆活動に入る。日本に初めてドビュッシイーやストラビンスキーを紹介した。53歳からはNHKの「話の泉」に起用され人気を集めた。80歳、文化功労者

昭和8年に建築された住宅で、47年有余の音楽活動を行った。22歳から48歳まで毎年のように数冊の本を書いている。23歳では雑誌「音楽と文学」を創刊し、28歳までは自分の出版社から出版。28歳、写真芸術社設立。

 

 

「名言との対話」1月7日。小西和人「釣りに国境なし」

 小西 和人(こにし かずひと、1927年1月11日 - 2009年1月7日)は日本の新聞記者、編集者。週刊釣りサンデーを創刊して会長。全日本サーフキャスティング連盟第2代会長。

磯釣りと投げ釣りの双方を創生期からトップリーダーとして関わってきた小西和人が、「これだけはどうしても書き遺しておかねば、、」という思いで書いた自伝であり、釣りの近代史でもある『楽しみを釣る--釣り人のためのニッポン釣り史伝』を読んだ。小西本人だけでなく、近代の釣りの誕生、揺籃、青春、黄金期に関わった人々が生き生きと描かれている。魚病。入浜権運動。釣り竿デモ。釣り界の関東と関西の対立。、、人に歴史あり、そして歴史に人あり。

昭和2年生まれの小西は飛行機会社の設計技師を希望していたが、敗戦で飛行機会社はなかったため、畑違いの新聞記者になる。このあたりは同年生まれの野田一夫先生と同じだ。そういう青年が多かったのだろう。この本を読み進めながら、私は父のことを思い出していた。父も釣りが好きで、小学生の頃に一度だけ「ごすてんのう」に同行した記憶がある。エサを丸めて爆弾のように川に投げ込むというやり方だった。あれは投げ釣りだったのだろうか。

記者29年のうち転勤は4回。「人間いたるところ青山あり」を信条とする小西は、その都度、チャンスととらえ転勤先で釣りに没頭している。休日はすべて釣りの毎日だった。そして記録を残した人である。

対馬が巨ギス天国であることを発見、柳井大島の大ガレイのポイント発見、などの功績がある。小西は記録にこだわっている。日本では珍しいヨコ社会である釣り界を組織し、発展のために多くの貢献をしている。正確な釣魚の記録を残すための大物賞、累積大物賞など、世界一の技術を持つ魚拓という記録方法を用いた生涯記録制度を創設した。

小西和人は満50歳で新聞社を辞め、1976年に「週刊釣りサンデー」を創刊する。前週日曜日の釣況を木曜発売の週刊誌に載せて今週日曜日の釣りの参考にしてもらうという仕掛けである。当初「武士の商法」と危ぶむ人も多かったが釣り人の熱い支持で成功を収めている。この週刊誌は2003年まで1441号まで続いた。連載記事をもとに『魚のすべて』や『釣れ釣れ週記』シリーズなど、さまざまなの出版も行った。『さかな大図鑑』や『新さかな大図鑑』などの釣り人向けの本格的な魚類図鑑をつくり、10万部を超えるようなベストセラーになった。また、この釣り雑誌の協力でサンTV系「ビッグフィッシング」という1時間のフィッシング番組に数多く出演した。

1993年には日本、韓国、台湾、そして後に加わった亜細亜釣魚連盟の初代議長をつとめている。釣り人の心情と行動は万国共通であることもわかり、小西は「釣りに国境なし」をモットーとした。中国語では「釣魚無国界」。

1926年(昭和2年)生まれの釣り界の風雲児、革命児の小西和人は、自宅のソファで眠るように逝去した。享年81。この小西和人の釣り一筋の人生行路とその記録を読むと、歴史を書いた人が歴史をつくるのだ、そういう感慨がある。どのような分野においても歴史を残さねばならない。