大学院「立志人物論」の最終回は、フィールドワークで「渋沢(栄一)史料館」を訪問。

 多摩大大学院で担当する「立志人物論」の最終回は、フィールドワーク。

午後、王子の飛鳥山公園の中にある「渋沢(栄一)史料館」を受講生と一緒に見学した。

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 私にとっては二度目だが、今回も刺激を受けた。渋沢栄一1840年(天保11年)生まれ、1931年(昭和6年)に没。91歳という長寿であった。

晩香廬は、渋沢の喜寿祝いに清水組から贈られた。渋沢は自作の漢詩から命名。賓客の接待の場とした。

青淵文庫は、「論語」普及のための蒐集、保存。徳川慶喜公の伝記資料の保存。青淵は渋沢の雅号。接客の場。

渋沢史料館は182年に開館。渋沢栄一の生涯と事跡に関する資料の展示とイベントを開催。実業家として500社の企業を設立・育成。社会事業家として600の教育、社会福祉、国際交流などの社会公共事業団体の設立・運営に大きな貢献をした。

渋沢が91歳で亡くなったとき、もちろん多くの市民が葬儀を見守った。天皇陛下からの「沙汰書」が目に入った。侍従本多猶一郎が勅使として遣わされ、以下の沙汰書とともに昭和天皇から祭資・幣帛・供物・花を賜った。この沙汰書に渋沢の功績が見事に示されている。

  「高ク志シテ朝ニ立チ、遠ク慮リテ野ニ下リ、経済ニハ規画最モ先ンシ、社会ニハ施設極メテ多ク、教化ノ振興ニ資シ、国際ノ親善ニ努ム、畢生公ニ奉シ、一貫誠ヲ推ス、洵ニ経済界ノ泰斗ニシテ、朝野ノ重望ヲ負ヒ、実ニ社会人ノ儀型ニシテ内外ノ具瞻ニ膺レリ、遽ニ溘去ヲ聞ク、曷ソ軫悼ニ勝ヘン、宜ク使ヲ遣ハシ、賻ヲ賜ヒ、以テ弔慰スヘシ」

 

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以下、フィールドワークを終えてのフェイスブックへの書き込み。

 渋沢栄一は幕末、明治、大正、昭和を生き抜いた人である。まず最初に驚いたのはそのバイタリティーである。現代の普通人の何百倍の仕事をしていた。我々現代に生きる普通人から見ると広大な敷地の屋敷に思われるが、その当時の裕福な著名人の中ではそれほど広大な敷地の屋敷ではなかったそうです。それはその人格にあると考えました。目的は金銭ではなく、尋常でない社会に対する興味がありそれを知り企画、開発、実行という有言実行能力にあります。その結果は、彼の残した名言の<思いどうりにならないことが普通><長所を生かして自分のレールを敷こう><成功や失敗は身に残るカス><現状維持にはリスクが潜む>に現れている。常に失敗を乗り越え前に進む気力。現状を守ることはすでに後退で常に将来を考え前に進む姿勢と生き方がにじみ出ている。結果として現在も社会の基盤となっている組織、学校、会社のほとんどが彼が手がけたものであることが実証している。今の日本を作った人物である。そして90歳過ぎまで現役で仕事をしたことは尊敬され、自分の目標になる偉人であります。

 

本日は思い出に残るフィールドワークをありがとうございました。以外本日の振り返りです。渋沢栄一。これまで名前は知っていたがこれほど偉大な業績を残した人物であるということは知らなかった。今回史料館を見学して印象に残った2つキーワードから感想を述べる。
①「道徳経済合一説」。これはまさに渋沢栄一の哲学を表現した言葉だと感じた。道徳と経済。これは今も相反する言葉だと捉えられているように思う。特に現代の激しい競争社会では、利益のためには手段を選ばない、他者の不利益など顧みない経営が横行してように思う。そして、それが行きすぎた結果不祥事というかたちで表面化しているのだと思う。そんな時代だからこそこの渋沢栄一の哲学は心に響くものがあった。渋沢栄一は数多くの会社を興したが、どの会社の起業についても、それは儲かるのか?という発想は全く感じられなかった。渋沢栄一が興した会社は、それは世のため、人のために役立つのか?という発想が全ての出発点にあると感じた。人には人徳があり会社には社徳がある。その徳について自らの行いや職業人としてのあり方を改めて考える直す機会となった
②「社会事業」。渋沢栄一は経済活動だけでなく社会事業の発展にも注力していた。特に明治5年に生活困窮者や高齢者を対象にした養育院を開設しその初代院長に就任していたことは驚きであった。私の勤務する法人は明治44年の創設であるが、その約40年も前から先駆的な取り組みをしていたことになる。さらに驚いたのはその時の渋沢栄一の年齢である。西暦で計算すると32歳の若さで初代院長に就任していることになる。社会的に成功を収めた方が社会事業に関わりを持つのはよくあることだがそれは晩年になってからが一般的のように思う。このことからも渋沢栄一の徳と人望の厚さを感じた。
最後に今回実際に史料館を訪れたが、やはりただ本を読むだけでは感じられない部分に触れられたように思う。渋沢栄一が生活した空間に身をおいたり、本人が実際に書いた文字に触れることによってその場の雰囲気やぬくもり。そして、その人となりをさらに深く感じることができた。また、史料館スタッフの方との会話も史料館を訪れることで得られる醍醐味の一つだと感じた。
以上になります。久恒先生、受講生の皆様約半年間ありがとうございました。今日は多くの偉人や著名人が訪れるお店でお酒が飲めて楽しかったです。人物記念館訪問では思いがけず家族との楽しい思い出をつくることもできました。これからも偉人たちの言葉を胸に刻み、自分の人生を歩んでいきたいと思います。大学院生活はまだあと一年ありますので今後ともよろしくお願いいたします。

 

久恒先生、本日の最終回、フィールドワークありがとうございました。渋沢栄一について。凄い人だとは知っていましたが、具体的に何をしたかとまでは今まで答えられなかったです。ですが、渋沢栄一は今の日本を作った人だと言っても過言ではないと思います。多くの大企業を手がけてきた渋沢栄一は日本型経営の神様であると思うが、しかしそれだけではなく、病院や学校にも尽力を注いできたエネルギーは凄まじい。特に教育に関しては、女学校や商業学校、現在の教育の礎を作ったと感じられました。また夕方からは、岡本太郎も通った歴史あるお店でお酒を飲み交わす楽しい時間。全ての講義に休まず出席することができたが、MBAコースを学ぶうえで大切な志を偉人から学ぶことができ、何よりとても楽しい全講義でした。改めて、久恒先生、講義でご一緒だった皆さん、ありがとうございました。

 

「偉人達の記念館は追体験の場。」立志人物論の講義では、偉人達の遺した言葉を紐解いて来ました。時に、インタビューの光景を動画で見る事もありました。それはそれで、極めて高い学びを得る事が出来ました。しかし、実体験ではありません。人は経験する事によって、学びを心に刻み込み、後々の糧とします。偉人達の遺した言葉は、素晴らしいものですし、心に響きます。しかし物故者ゆえに、残念ながらそのエネルギーを直にリアルに感じる事は不可能です。素晴らしい絵画を、美術館で実際に観るのと図録で観るのでは受けるインパクトが全く違いますよね。やはり、実体験してみたい。その時に、本日のようなフィールドワークがとても役に立つのだと思います。記念館や〇〇館というものは、その建設に携わった方々の主人公への強烈な「思い」がエネルギーとして込められていると思います。当然、展示物も主人公の「思い」や「志」を的確かつ強く現すものでしょう。テキストベースで学んだ後に、その「強い思い」のエネルギーの中に入り、主人公が生きた時代へタイムスリップする。そして主人公の生き様を追体験する事で、あたかも自分が経験したような学びが得られるのではないかと思います。現代は混沌と行き詰まりの様相を呈してます。こんな時こそ、温故知新。偉人達の遺した言葉が、より生きてくるのではないでしょうか。とても意味のある深い講義だったと思います。久恒先生、ありがとうございました。

 

久恒先生,最終回もありがとうございました。渋沢栄一は授業で勉強した人ですけど、そんな偉い人と思わなかった。しかし、今回は渋沢記念館に訪問して、印象が全く違うです。この人は人類ですかなと疑問が心から生み出します。渋沢栄一作った、または創設に参加した企業はほとんど残っています、さらに半分以上は今の大手です。日本全ての業界、五百以上の企業に仕事していた。そんなに多くの仕事量は天才までできないと思うが、渋沢さんが90歳までやっていました。一人で日本経済を救った、神様のような何でもできる人間と思っています。仕事量だけではなく、頭の中の思想と知識も僕を感心させます。日本の伝統教育、或いは社会暗黙知と違う、始めて女子大学を開創しました。道徳と商学の学問、博物館の推進、特別な発想など、全部が社会の先頭に立って、人々を感心させる。亡くなった時、天皇陛下が自ら書類を作って弔問しました。その全部、今まで渋沢栄一しかいないと思っていまる。今度は渋沢栄一さんにもっと深い印象が残ります。そんな偉い人になるのは無理だと思いますけど、少しだけ接近したい、自分が努力しなければならない。

 

【第15限: フィールドワーク@渋沢史料館+岡本太郎が通った居酒屋】。My Heroの1人として,「人物記念館訪問レポート」で彼をとりあげるため, 所感で人物については触れず。フィールドワークは民間外資時代に国内外で時折実施した調査技法である。テーマに即した場所を実際に訪れ, その対象を直接観察し, 現地で史料・資料の採取, 関係者に聞き取り調査などを行う。昨日はクラスメンバーで同じ空間に同時間滞在し, 一人の生涯について学んだ。学生や統率の久恒先生の関心は異れど, 晩香盧や職人技に脱帽の青淵文庫を見て, 史料館内では感想・意見を共有し合い, 渋沢氏への理解が深まった最終講であった。放課後のワイガヤ打上げと近隣に鎮座する烏森神社の礼拝も楽しい思い出になりました。社会人大学院のためデイタイムにメンバーでフィールドワークは難しいですが, 週末を利用するなど今後も有意義な課外学習の機会を増やしてほしいと思う。今期お世話になりました皆さん, ありがとうございました。

 

以下、続く。

 

 

 夕刻からは、岡本太郎が通った新橋の「蛇の新」で打ち上げの懇親会。

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 「名言との対話」(平成命日編)1月12日。深作欣二「いや、オレは過去を振り返るんではなく、若いヤツとやりたいんだ」

深作 欣二 (ふかさく きんじ、1930年昭和5年7月3日 - 2003年〈平成15年〉1月12日) は、日本映画監督脚本家

千葉真一を使ったアクション映画や、菅原文太を使ったヤクザ映画などが中心ではあったが、時代劇、文芸、SF、ホラーⅡも取り組むなど、作品の幅が実に広い。

作監督はヒットを連発したが、特に1973年から始まった『仁義なき戦い』シリーズは日本映画史上に残るヒット作品となった。『トラ・トラ・トラ』、『復活の日』、『鎌田行進曲』、『火宅の人』、『バトルロワイヤル』などが記憶に残る作品が多い。

「深夜作業組」と言われるほどの徹底したリアリズムの追求。出演者を大事にした一体感の醸成。そして暴力を描くことで暴力を否定しようとする考えが根底にあった。

  最後の作品『バトル・ロワイヤルⅡ 鎮魂歌』の企画発表会では「最後の映画として満身創痍で臨む。今回は戦争がテーマ。戦争撮ったことがないので、最後に撮りたい」と覚悟を淡々と語った。「たとえこの闘いで生涯を終えようとも、私には一片の悔いもない」と会場で配った「深作欣二、死後の闘い」というタイトルで、このメッセージがつづられている。その深作が今まで一緒に映画をつくってきた大物俳優たちとやるべきだという息子の監督・健太に言った言葉が冒頭の言葉である。過去の集大成の作品を作るのではなく、未来に向けて新しいテーマで作品を撮ろうという気迫あふれた言葉であり、感銘を受ける。

参考:山平重樹『戦後アウトローの死に様』(双葉新書