『週刊朝日』でのインタビュー記事が話題になっている。

週刊朝日」でのインタビュー記事が話題になっている。

・Yahooブログ!「引き際の美学」

 https://blogs.yahoo.co.jp/ajramai/28723460.html

・AERAdot  じっくり味わいたい著名人の「引き際の言葉」

 https://toyokeizai.net/articles/-/238276

あいさつに慣れた人は、多くの“引き出し”をつくる工夫をしている。『偉人の命日366名言集』など、言葉に関する著書が多い多摩大学久恒啓一副学長。スピーチ当日が命日か誕生日の偉人や著名人を見つけ、名言やその人にまつわる話をしている。
「心に響く話をするには、磨き抜かれた真実の言葉じゃないとダメ。名言、格言、箴言、金言など人々に長く影響を与えたものがそれに値します。辞めるときに残す言葉で、その人の印象は後々まで違う。あの人の言葉は良かったなと印象づけると大切に思われますが、そつのない平面的なあいさつでは、惜しまれない人になってしまいます」
スピーチ当日にまつわる人の話題に触れるようになったのは、学部長に就任してあいさつの場が増えてから。入学式、卒業式、保護者会、学生のオリエンテーション……。こうした場で魅力的なスピーチをする人が少なかったため、自分はインパクトのあるスピーチをしようと心がけたという。います」
「聞き手の年齢層も考えます。例えば、付属高校の行事のあいさつならば、本田がこう言っているとかサッカー選手の話を入れると、真剣に聞いてくれます」
久恒さんが、よい言葉の代表例として紹介するのが、井伏鱒二(敬称略、以下同じ)の言葉だ。
「井伏は、『この杯を受けてくれ。どうぞなみなみ注がしておくれ。花に嵐のたとえもあるぞ。さよならだけが人生だ』という言葉を残しました。漢詩の翻訳ですが、オリジナルよりもいいと言われています」
名言の多い政治家としては福田赳夫元首相をあげる。「1972年の自民党総裁選で田中角栄に負けたとき『総理・総裁は推されてなるもので、手練手管の限りを尽くしてかき分けてなるものではない。いずれ近い将来、日本国がこの福田赳夫を必要とするときが必ずやってくる』と言いました。敗戦の弁として潔さと自負心が感じられます」
スピーチの日はまちまちだから、365日分のネタを用意しているという。毎日、誰かしら著名人の命日か誕生日がある。○月×日が誰に関係ある日かを気をつけており、毎日書くブログで、その日が命日や誕生日の人の人生を弔辞のように記している。
旅行や出張時は、その地の人物の記念館を訪れる。東京の「美空ひばり記念館」や、大阪の「司馬遼太郎記念館」など、著名人の記念館は全国1千館以上。著作や直筆の手紙があり、人物像が丸ごとうかがえる。すでに850館近く訪れた。
「時代ごとに広く影響を与えた偉人がいますが、もっと偉いのは長く影響を与え続ける人。さらに偉いのは死後も影響を与える人です。近代では福沢諭吉がその一人で、教育者として影響を与えています。経済人だと渋沢栄一。会社を500社もつくり、社会貢献事業もしました」(久恒さん)
企業や組織のトップが難しいのは、後進に道を譲るタイミング。創業者や実力者として実権を握るほど、やめどきを誤りやすい。「引き際が肝心といわれますが、うまくいく人はなかなかいません。早すぎるか遅すぎるか、どちらかです」と久恒さん。長く居座りすぎると様々なひずみが生まれるのは、相次ぐスポーツ団体の不祥事からも明らかだ。
経営者と違い、従業員は役職定年や定年退職が一足早く訪れる。久恒さんは退職時のあいさつについて、「定年なんて他人が決めたことで、老いたと考えてはダメ。退職のスピーチは『これから○○をやります』と宣言するといい。それが後輩を元気づけることにもなります」と助言する。
三井物産の設立に関わった益田孝は66歳のとき、『老いの身に余る重荷をおろしては、また、若返る心地こそすれ』と言って退職しました。しかし、その後の余生24年間で、茶人としても名を成しています」(久恒さん)

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・9月の学部運営委員会:学部の幹部教員による会議。秋の陣が始まった。

・松本先生:総研

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「名言との対話」9月20日土井たか子「山が動いた」

土井 たか子(どい たかこ、土井 多賀子1928年11月30日 - 2014年9月20日)は、日本の政治家法学者衆議院議員(12期)、日本社会党委員長衆議院議長社会民主党党首などを歴任した。日本における女性初の衆議院議長、政党党首。

土井たか子は、衆議院選挙に出るときは、社会党の成田知己委員長から、「次の総選挙が間近です。ついては、決断してくだい」といきなり言われる。140あった議席が90に激減する。その90番目で当選。

1983年に飛鳥田一雄委員長が辞任するときには、土井たか子を推す声もあったが、「女の人の世話になるほど落ちぶれてはおらん」となった。1986年の衆参同日選挙では110人が85人に減り、石橋政嗣委員長が「ここまでくれば土井さんしかないだろう」と対立候補の上田哲をくだして委員長に就任。1989年(平成元年)の参議院選挙では、社会党は社公民路線で改善議席の倍以上の議席を獲得し、自民党過半数を割った。参院与野党逆転。このとき、土井ブーム、マドンナブームと呼ばれた。1990年総選挙でも「おたかさんブーム」で、139議席と従来より51議席増やすが、公明党民社党が距離を置き、自公民路線に舵を切る。1991年の地方統一選挙で敗北し委員長を辞任。

1993年総選挙で細川護煕首班の非自民・非共産連立政権となり、土井たか子衆議院議長に就任。議員指名には従来慣行の「君付け」に代わり「さん付け」を用いて話題になった1996年、社会党社会民主党に改名。党首に就く。

趣味はパチンコとカラオケ。好きな球団は阪神だった。生涯独身。

中曽根康弘は、「非常に生一本な、理念を重んずる、そして真一文字に進んでいく、立派な社会党の党首だと、そういう風に敬意を表していましたね」と評価している。「ダメなものは、ダメ!!」という土井の言葉にも支持があった。

原理、原則、基本を大事にする人であった土井たか子議員会館の部屋には書家・金子鴎亭に書いてもらった、「山の動く日」という書が掲げてあった。それは与謝野晶子の詩の一部だった。与謝野晶子が雑誌『青踏』創刊号巻頭に寄せた詩の冒頭は次のようであった。

「山の動きく日来(きた)る。かく云へども人われを信ぜじ。山は姑(しばら)く眠りしのみ。その昔に於いて 山は皆火に燃えて動きしものを。人よ、ああ、唯これを信ぜよ。すべての眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる」「一人称にて物書かかばや。われは女(おなご)ぞ」。

毎日「山の動く日」という書を眺めていた土井たか子は、1989年の参院選挙で社会党が躍進したとき、「山が動いた」との名言を吐いた。土井たか子の政治家人生をを眺めると、男性優位社会の中で周囲から勝手に環境をつくられて、その都度反発しながらも、「やるっきゃない!」と清水の舞台から飛び降りている。人生を一言であらわすこういった短いが端的にそのときの状況をあらわす名言は、日本古来の歌や句と同様に、命が長い。 

やるっきゃない!―吉武輝子が聞く土井たか子の人生

やるっきゃない!―吉武輝子が聞く土井たか子の人生