谷川俊太郎『詩人なんて呼ばれて』(尾崎真理子)

先日、初台の東京オペラシティアートギャラリーで開催中の「谷川俊太郎展」をのぞいた。若い男女が多い展覧会だった。『詩人なんて呼ばれて』(新潮社)と『二十億光年の孤独』(集英社文庫)を購入。読了した『詩人なんて呼ばれて』は『ひみつの王国 評伝 石井桃子』を書いた読売新聞編集委員の尾崎真理子が3年越しのロングインタビューで書いた労作。

詩人なんて呼ばれて

詩人なんて呼ばれて

 

 「私の物差しは大きい 二十億光年よりもっと遠く」。

18歳で書いた詩「二十億光年の孤独」以降、87歳の今日まで70年近く谷川俊太郎の詩は、広く長く広がってきた。浸透力には驚かされる。現在の日本に詩を書いて食っている人は谷川俊太郎だけだ。詩の王は、「白秋、朔太郎、俊太郎」ということになる。

父・徹三(法政大学総長)の葬儀で友人の阿川弘之は「先生の生涯の最高傑作、教育者谷川徹三の最大の成果は、令息俊太郎さんの詩であり詩人谷川俊太郎其の人ではあり、ませんか」と弔辞を読んだ。

創作した詩は2500点を超える。詩集は20ヶ国以上70冊を超える海外翻訳。児童書は30冊。「コアは読者は3000人くらいはいるんじゃないかな」。詩集、散文、絵本、童話、翻訳、伽宇本、作詞、写真、ビデオ、、。1983年、52歳『日々の地図』で読売文学賞、1993年、62歳『世間知ラズ』で第一回萩原朔太郎賞、2010年、79歳『トロムソコラージュ』で第一回鮎川信夫賞。

1931年生まれ。18歳、1950年父に渡したノートに書かれた詩を三好達治が認め、20歳で第一詩集『二十億光年の孤独』(創元社)を刊行。3度の結婚:23歳、岸田衿子と結婚。26歳、大久保知子と結婚。59歳、佐野洋子と結婚。

友人たち:武満徹寺山修司石原慎太郎大岡信。、、、、。

「詩というのは俯瞰して、上からいっぺんに「今」を見ようとする。そうすると曼荼羅という意識が出てくる。曼荼羅というのは全世界を一枚の図にしたものだけど、結局、曼荼羅のすみっこみたいな、それが詩じゃないかな、と」。

「瞬間をフリーズさせるという意味で、写真と詩は非常によく似たところがあるんです。、、僕は写真に詩をつけるという仕事に、いまだに飽きないんですけどね」

「でも死をネガティブなものではなくて、肯定的にとらえる気持ちも膨らんできている。たのしみに待ちかまえようと」

「自己紹介」:「私は背の低い禿頭の老人です もう半世紀以上のあいだ 名詞や動詞や助詞や形容詞や疑問符など 言葉どもに揉まれながら暮らしてきましたから どちらかと言うと無言を好みます、、、、私の書く言葉には値段がつくことがあります」

「あかんぼがいる」:いつもの新年とどこかちがうと思ったら 今年はあかんぼうがいる、、、、あかんぼよ お前さんは何になるのか 妖女になるのか貞女になるのか それとも烈女になるのか天女になるのか どれも今ははやらない だがお前さんもいつかは婆さんになるそれは信じられぬほどすばらしいこと  、、、、そのちっちゃなおっぱいがふくらんで まあるくなってぴちぴちになって やがてゆっくりしぼむまで」

1990年代は谷川俊太郎の「沈黙の10年」だった。だが、自作の詩を朗読する催しを全国で行っていた。1997年秋には九州から北海道まで二ヶ月かけて息子賢作のバンドと組んでコンサートツアーを行っている。宮城県図書館の広場で谷川俊太郎の詩の朗読会が催されたことがあった。私は参加できなかったが、その頃のことだったのか。

 

 「名言との対話」2月18日。津島祐子「(喪失)は不運なことだけど、不運に溺れていると不幸になる」

津島 佑子(つしま ゆうこ、1947年3月30日 - 2016年2月18日)は、日本小説家。本名は津島里子(つしま さとこ)。

 作品は英語フランス語ドイツ語イタリア語オランダ語アラビア語中国語などに翻訳されており、国際的に評価が高い作家である。

津島祐子の作品の評価は以下の受賞歴でわかる。1976年 - 『葎の母』 第16回田村俊子賞。1977年 - 『草の臥所』 第5回泉鏡花文学賞。1978年 - 『寵児』 第17回女流文学賞。1979年 - 『光の領分』 第1回野間文芸新人賞。1983年 - 「黙市」 第10回川端康成文学賞。1987年 - 『夜の光に追われて』 第38回読売文学賞。1988年 - 『真昼へ』 第17回平林たい子文学賞。1995年 - 『風よ、空駆ける風よ』 第6回伊藤整文学賞。1998年 - 『火の山―山猿記』 第34回谷崎潤一郎賞、第51回野間文芸賞。2001年 - 『笑いオオカミ』 第28回大佛次郎賞。2005年 - 『ナラ・レポート』 平成16年度芸術選奨文部科学大臣賞、第15回紫式部文学賞。2012年 - 『黄金の夢の歌』 第53回毎日芸術賞。

小説家太宰治津島美知子の次女である。  「父についても、どうか、だれにも聞かれないように、といつも願っていました。父はいませんと言えば、それはなぜ、とひとは聞きます。事故で死んだ、と答えれば、なんの事故、とさらに聞かれます。そうなると返事に困ってしまいます。「自殺」とはどうしても自分の口から言うことはできませんでした。今でも言いたくない言葉ですが。そのうえ、よその女のひとと一緒に死んだなどとは、どうしてもひとには知られたくないヒミツでした」。父・治の名をもらって認知された同じく作家の太田治子(1947年生)は異母妹である。一度、この二人の対談を雑誌で目にしたことがある。二人とも太宰の娘という不運を呪っただろうが、その才能を受け継いで作家になった。津島祐子は父を超えたのではないか。

この「不運と不幸」は津島祐子が長男を亡くしたときに太宰治の妻だった母が語った言葉である。偶然に訪れる幸運に舞い上がることなく、そして不運に埋没せずに、自分の足でしっかり生きよと励まされる。

69年「レクイエム」でデビュー。72年に「狐(きつね)を孕(はら)む」が芥川賞候補となり、同賞を熱望しながら受賞できなかった太宰を引き合いに「亡き父のかたきを取るチャンス」などと世間の話題になった。
69年「レクイエム」でデビュー。72年に「狐(きつね)を孕(はら)む」が芥川賞候補となり、同賞を熱望しながら受賞できなかった太宰を引き合いに「亡き父のかたきを取るチャンス」などと世間の話題になった。

 

 

 作家の太田治子さんは異母妹。
 作家の太田治子さんは異母妹。
 作家の太田治子さんは異母妹。