近藤康男「七十歳からの人生」。享年106。

近藤康男「七十歳からの人生」を読了。農山漁村文化協会発行。

 

近藤康男「ミスひとつしない日もあり白寿翁」

近藤 康男(こんどう やすお、1899年1月1日 - 2005年11月25日)は、日本農業経済学者東京大学名誉教授で、一時は農林省統計調査局長を兼任し、後には武蔵大学教授などを歴任した。享年106。3世紀を生きた人だ。

七十歳からの人生

七十歳からの人生

 

マルクス経済学の立場で独自の追究により農業問題を社会科学にまで高めた。農政学徒。1889年1月1日生まれ。お祝いごとはその前にが慣例。

70歳以前は35点、直後も年一冊のペースで執筆。青年期、壮年期とほぼなじ。
・70歳以上は、農家が夏のあいだに精を出しtれ栽培した作物を秋に収穫しているようなもの。人生最後の20年、30年がここから始まるのです。
・これまで手がけてきた日本の農業問題をウオッチすること、それを仲間とともに続け、私のできることを続けるのが良いだろう。
中国の作家・巴金「過去を忘れさえしなければ未来の主人になることができる」
「私は自分自身を教育者に非ず、学者に非ず、調査マンだと思っている」。現役。
「私の健康法は睡眠時間を長く、毎日9時間寝ること、これが私の長寿の秘訣だと思っています」9時に寝て7時まで床の中。
10分間の全身指圧。朝と夜。寝付きと排便に有効。

 ミスひとつしない日もあり白寿翁

拡大読書器.。午前1時間半。午後2時間半。以上が、100歳の日課

農文協図書館には、80年間に集めた本やデータがある近藤文庫があり、著作70余点がある近藤コーナーもある。

60歳、東大を定年。武蔵大学に移り、特任教授を76歳で定年。

近藤は100歳の時点で「百歳を迎えるにあたって、つくづく考えると、七十歳前後は大きな転換期だった。健康に注意するようになった。仕事の転換をする時期。体調の変化と職業上の変化の重なりで大きな節目」と述べている。

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昼は、千葉雄くん、吉森くん、内尾くんと食事会。

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「名言との対話」8月13日.。ミッキー・マントル「もしこんなに長く生きると知っていたら、もっと自分を大事にしていただろう」と

ミッキー・チャールズ・マントルMickey Charles Mantle, 1931年10月20日 - 1995年8月13日)は、アメリカ合衆国プロ野球選手

大リーグを代表するスター選手・ジョー・ディマジオの後継者としてニューヨーク・ヤンキースに入団した。1951年から1968年までの17年間ヤンキースで主軸を打ち、MVP3回、ホームラン王4回、首位打者打点王は1回ずつで、通算打率2割9分8厘であった。1953年には171.8mの超特大ホームランを放った。1960年には195mのホームランを記録し、ギネスブックに「史上最長本塁打」として掲載された。

1956年には、いずれもリーグトップの打率.353・52本塁打・130打点・132得点・376塁打・長打率.705・OPS1.169を記録し、当時史上9人目(11度目)の三冠王を獲得。スイッチヒッターとして初の三冠王であった。

1960年に移籍加入したマリスとの破壊力のあるMM砲という呼び方は少年時代の私の記憶にもある。マリスはベーブ・ルースを抜く61本、マントルは54本のホームランを打つ年もあった。スーパースターだったことで、「私は、しみったれたヒットを打ってはいけなんです」というように、厳しい宿命を意識していた大打者だ。

早世の家系だと思い込んだマントルは、その恐怖を紛らわせるために飲酒に走り、体を壊す。癌に犯され、63歳で生涯を閉じる。晩年に開いた記者会見でマントルは「私はいい手本だ。どうか私のようにはならないでほしい」と人生を大事にすべきだと語っている。人生100年時代が身近に迫ってきた今日、「もしこんなに長く生きると知っていたら、もっと自分を大事にしていただろう」というマントルの悔悟の言葉は、現在の私たちにも大事な教訓だ。