多摩大T-Studio「名言との対話」第18回は「久恒啓一著「偉人の命日366名言集」。
「偉人の命日366名言集」。日本経済新聞(6月24日・土曜日)の書籍広告。
「副学長日誌・志塾の風」170705
・研究室:スケジュール調整
・金先生:学生案件
・高野課長:OB名簿への追加
「名言との対話」7月5日。円谷英二「特撮っていうのは、貧乏の中から生まれたんだ」
円谷 英二(つぶらや えいじ、本名:円谷 英一(つむらや えいいち)、1901年7月5日 - 1970年1月25日)は、福島県須賀川市生まれの特撮監督、映画監督、撮影技師、発明家、株式会社円谷特技プロダクション(現:円谷プロダクション)の初代社長。
活動大写真と呼ばれた映画の黎明期から、東宝の解体までの日本映画界で、独自につくりだした特殊撮影(特撮)の技術によって活躍したことから、特撮の神様といわれた。
子供のころから、水彩画、模型飛行機、手製の映画などをつくる内向的な少年は、羽田の日本飛行機学校を経て、電機学校に入学し玩具制作会社で考案係嘱託として、自動スケート、玩具電話などを発明する。10代で映画界に入る。様々の撮影用の工夫を重ねるが、「テヘラ亭」、「ズボラヤ」、「スモーク円谷」、「ロー・キートン」などと呼ばれ、なかなか理解されない日々が続く。
1940年、39才で初めて「特殊撮影」のウレジットがつき、日本カメラマン協会特殊技術賞を受賞。太平洋戦争中は、戦争映画を特撮技術で盛り上げて技術の蓄積を行う。戦後の公職追放を経て映画界に復帰。1955年54才で「ゴジラ」でようやく「特技監督」の名称を与えられる。56才、「地球防衛軍」で日本映画技術賞を受賞。62才、円谷特技プロダクションを設立。1966年、65才、「ウルトラQ」が一大怪獣ブームを巻き起こし、円谷英二の名前は全国に知れわたった。
「天から降ってくるのを待つのではなく、 自分の力で作り上げることを喜び幸せとしなさい。」
「他人から「できますか?」と聞かれたらとりあえず「できます」と答えちゃうんだよ、その後で頭が痛くなるくらい考え抜けば大抵のことはできてしまうものなんだ。」
予算がなければ自分で工夫し発明し目的に向かって直線的に猛然と進んで行く。円谷英二の特撮人生を眺めると、その執念に驚く。特撮という言葉は円谷本人の発明でもある。この人は独立独歩の発明家的資質を備えた仕事師であった。