杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』(講談社学術文庫)。

杉山正明モンゴル帝国と長いその後』(講談社学術文庫)を読了。

 昨日の『世界史の誕生』と同じ思想で、世界史の興亡を描いた力作。

興亡の世界史 モンゴル帝国と長いその後 (講談社学術文庫)

モンゴル帝国はアジア(日いずるところ)、ヨーロッパ(日没するところ)、アフリカの「アフロ・ユーラシア世界」を緩やかにまとめあげた。全体像を持つ世界史が誕生した。旧世界の陸と海の大半がつながった。これ以降、モンゴルの国家システム(暦・暦学・天文学・数学、、)がユーラシアに共通するスタンダードになる。

・スキタイ・匈奴から始まる遊牧国家は、多民族・多文化・多地域をつつみこむハイブリッド国家だ。近代国家のようなナシナリズムや排他性はない。モンゴル帝国の特徴は、人種・民族・文化・言語・宗教などの違いによって人を区別することが希薄だったことだ。支配はゆるやかで、徴税も低率。信教は自由。

・チンギスハン(1206-1267)。オゴディ(1229-1242)。グユク(1246-1248)、モンケ(1251-1259)。クビライ(1260-1294)。チンギス、オゴディ、そしてクビライは30年をかけてモンゴル世界連邦のかたちを整えた。

・1492年のコルンブスによる航海はクビライの巨大帝国への旅だった。

・モンゴル時代の後半期の日本は「日元貿易」で大陸との一大交流が行われた。茶道、能、書院造り、儒教・仏教・道教の知的体系、漢文典籍とそれを模した五山版、、、など日本文化の基層はほとんどこの時期に導入・展開したものに発している。東福寺など有力寺社が商船を仕立てて交易をした。

・ 20世紀の初めの第一次世界大戦の前後に一斉に消えた諸帝国は、いずれも13・14世紀のモンゴル帝国とその時代に、起源・由来を持っている。ロマノフ朝ロシア(1917年消滅)、オスマン帝国(1922年)、大清帝国(1912年)、ムガール帝国(1858年)そして神聖ローマ帝国の流れを汲むドイツ帝国とオーストラリア・ハンガリー帝国(1918年。ハプスブルグ家)である。

 

「副学長日誌・志塾の風」170914

・杉本係長:偏差値

・金先生:多摩学。アクティブラーニング。

・中庭先生・梅澤先生:学生寮

・高野課長:学長講演

 

「名言との対話」9月14日。赤塚不二夫「自分が最低だと思っていればいいのよ。一番劣ると思っていればいいの。そしたらね、みんなの言っていることがちゃんと頭に入ってくる。自分が偉いと思っていると、他人は何も言ってくれない。そしたらダメなんだよ。てめぇが一番バカになればいいの」

赤塚 不二夫(あかつか ふじお、本名:赤塚 藤雄1935年昭和10年)9月14日 - 2008年平成20年)8月2日)は、日本漫画家

天才・赤塚不二夫を記念した赤塚不二夫会館が青梅にある。会館のある住江町は、昭和の懐かしい映画看板を掲げてまち興しに取り組んでおり、その一角に2003年にこの会館がオープンした。青春時代に観た「哀愁」「第三の男」「駅馬車」など、映画黄金期の傑作の看板が並ぶ町並みは懐かしい。

天才バカボン」「おそ松くん」「ニャロメ」などの作品で知られる赤塚の作品と、幅広い交遊ががわかる資料が楽しくみれるように工夫されており、中は案外広い赤塚不二夫は、手塚治虫を先頭とする漫画の勃興期に赤塚はその才能を思う存分に発揮し、世の中に良質の笑いを提供したギャク漫画の王様である。「シェー!」「これでいいのだ」などの言葉は多くの人が覚えているだろう。

伝説のトキワ荘に集った漫画家志望の若者達は、神様・手塚治虫の「一流の音楽、一流の映画、一流の芝居、一流の本」を実行したから、同時代の若者とは何かが違ったから、成功者が多く輩出したのだろう。その何かは「志」だろう。「僕たちみんな貧乏だったけど、志だけは溢れるほどあったのだ。」と本人が語っている。そして赤塚不二夫はこれに加えて、「人」に会い続けている。「毎晩飲みに出てマンガ以外の違う世界ができたのは、本当に面白かった。それがまたマンガに跳ね返り、発想の源になっていく」。

「わたしは文部省がこのシリーズ(「天才バカボン」)をなぜ「道徳」の副読本に採用しないのか、また日教組がそうすることをなぜ文部省に迫らないのか、理解できない」とまで作家の井上ひさしは述べている。
赤塚不二夫120%」(アートン)という自伝を読んだ。この中から赤塚不二夫の創作の秘密を取り出してみたい。「僕はギャグマンガを描く時、多重構造で考える。(テーマは文化人向き、ストーリーを組み立てて、台詞はサラリーマン、大学生向けにはアクションを含めた台詞、高校生にはダジャレ、中学生にはアクション、小学生には動物)、、、だから自慢じゃないけど、読者層がすごく広い。」「とにかく、誰も描いたことにないマンガを描こう、それしか考えなかった。それで描いたのが、「おそ松くん」だった。」「マンガっていうのは、社会と同時進行しているものなのだ。だから自分だけ先走りすぎても受け入れてもらえないし、時代と一緒に生きていないとつまらない」。

赤塚不二夫は、若い頃から晩年まで、自分を最下層に置いて人から教えを請い、接するあらゆる人から学び続けようという姿勢を貫いている。有名になっても謙虚な人柄は変わらなかった。こうした社会、時代、読者、と一緒に生きていこうとする表現者としての仕事への取り組みの結果生まれる作品群が、皆の共感を呼んだのは当然かも知れない。

岡田英弘『世界史の誕生--モンゴルの発展と伝統』(ちくま文庫)

岡田英弘世界史の誕生--モンゴルの発展と伝統』(ちくま文庫)を読了。

 東洋史西洋史、世界史、日本史、万国史、などを統合した、筋道の通った世界史を新たに創り出すことを目的とした、意欲的で問題の書である。

1206年のチンギスハンのモンゴルの台頭が世界史の最大の事件で、世界史の始まりとする。

東は日本海東シナ海から、西は東アジア、北梶アジア、中央アジア西アジア、東ヨーロッパの大陸部の大部分をモンゴル帝国が覆った。

インド人、イラン人、中国人、ロシア人、トルコ人という国民は、モンゴル帝国の産物であり、遺産である。資本主義もモンゴル帝国の遺産である。

大航海時代は、大陸帝国から海洋帝国への世界利権移行の大きな運動であった。

世界史の誕生─モンゴルの発展と伝統 (ちくま文庫)

・歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を越えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述巣津営みのことである。

・歴史は地中海世界では『ヒストリア』を書いたヘロドトスと、中国文明では『史記』を書いた司馬遷、という二人の天才がつくりだした。『ヒストリア』は定めなき運命の変転を記述するのが歴史であり、弱小ギリシャがアジアのペルシャに勝利する物語である。アジアに対するヨーロッパの勝利が歴史の宿命という歴史観。『史記』は皇帝という制度の歴史を描く。権力の起源と由来を語る。天下(世界)。天命(最高神の命令)。地中海世界では変化を主題とする対決の歴史観中国文明では変化を認めない正統の歴史観

・中央ユーラシア世界の草原の民の活動が、中国世界、地中海世界とヨーロッパ世界の歴史を動かした。13世紀のモンゴル帝国がユーラシア帝国の東西の交流を活発にし,、一つの世界史が誕生した。

・モンゴルによる世界史の誕生。4つの意味。1:世界史の舞台を準備した。2:以前をご破算にしモンゴル帝国から中国、ロシア、アジアと東ヨーロッパ諸国など新しい国々が分かれ、生まれた。3:北シナの資本主義経済が世界へ拡がり現代の幕を開けた。4:モンゴル帝国ユーラシア大陸の利益を独占したため、取り残された西ヨーロッパと日本が海上貿易に乗り出し、歴史の主役が大陸帝国から海洋帝国に変わっていった。

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「副学長日誌・志塾の風」170913

・飯田先生:「学部長日誌」

・杉田学部長:非常勤の先生

・中村その子先生:非常勤の先生

・高野課長:インターゼミのスケジュール

・樋口先生

昼食は樋口先生とイタリアンを食べながら近況交換。

・岩澤さん:ホームページ

・理事長報告:杉田学部長と。1時間半。中高と大学の関係。

 

「名言との対話」9月13日。杉田玄白「一に泰平に生まれたること。二に都下に長じたること。三に貴賎に交わりたること。四に長寿を保ちたること。五に有禄を食んだること。六にいまだ貧を全くせざること。七に四海に名たること。八に子孫の多きこと。九に老いてますます壮なること」

杉田 玄白(すぎた げんぱく、享保18年9月13日1733年10月20日) – 文化14年4月17日1817年6月1日))は、江戸時代蘭学医若狭国小浜藩医。

前野良沢杉田玄白らは、江戸の中津藩中屋敷の良沢の住まいで「ターヘル・ナトミア」の翻訳を行い4年後の1774年に「解体新書」として刊行した。2000年10月23日の朝日新聞で、この1000年で最も傑出した科学者は誰かという面白い企画があり、読者の人気投票を行っている。それによると、野口英世湯川秀樹、平賀源内に続き、堂々の4位であった。それはこの『解体新書』の訳出によっている。

かたくなに主義にこだわる良沢、たくみにプロジェクトを実現させていく10歳下の玄白。良沢は81歳で娘の嫁ぎ先で死を迎え、玄白85歳での長寿での穏やかな死であった。性格タイプのエニアグラムでみると、良沢は観察者、玄白は成功を目指す人だと思う。それぞれの性格にふさわしい人生を送ったのだ。

玄白は外科に優れ、「病客日々月々多く、毎年千人余りも療治」と称され、江戸一番の上手といわれた。晩年には小浜藩から加増を受けて400石という大身に達している。83歳の時には回想録として『蘭学事始』を執筆し、後に福沢諭吉により公刊されている。84歳では「耄耋(ぼうてつ)独語」(老いぼれのひとり言)を冷静な観察で書いている。今でも、進歩的な取り組みや研究面で功績顕著な人や団体を対象としている小浜市主催の杉田玄白賞がある。前野良沢の出身地の中津市川嶌眞人医師も第7回の受賞している。

「己れ上手と思わば、はや下手になるの兆しとしるべし」

「われより古(はじめ)をなす」

冒頭に掲げた「九幸」が玄白の人生観だった。太平の世、天下の中心で成長、広い交友、長寿、安定した俸禄、貧しくない、名を知られた、子や孫が多い、壮健。それらをすべて得た玄白は晩年には自ら九幸翁と号していた。この玄白の幸福論は参考になる。

大学。学会。豊田英二。

「副学長日誌・志塾の風」170912

研究室で近藤秘書と打ち合わせ

ラウンジ。

・高野課長

・杉田学部長

・川手課長

 夜は日本未来学会理事会に出席。目黒の多摩大情報社会学研究所にて。

・地球未来シンポジウム2017「希望の探究」:12月10日。京都。

・ハラリ『Homo Deus』読書会。『科学仏教』『宇宙倫理学入門』『科学VS宗教』

 

「名言との対話」9月12日。豊田英二「「モノの値段はお客様が決める。利益はコストの削減で決まる。コストダウンは、モノづくりを根本のところから追及することによって決まる」

豊田 英二(とよだ えいじ、1913年9月12日 - 2013年9月17日)は、日本実業家正三位勲等勲一等旭日大綬章豊田佐吉の甥。100歳。

 八高、東京帝大を経て豊田自動織機に入社し、喜一郎宅に下宿し自動車部芝浦研究所に勤務。取締役、常務、専務、副社長を歴任し、1967年社長に就任。その後工・販統合まで14年9ヶ月社長をつとめる。工版合併を機に豊田喜一郎の長男・章一郎に社長を譲り、会長。1992年、名誉会長。1999年最高顧問。
以上の経歴からわかるように、豊田英二は創業期から今日のトヨタの発展を支えた。量産体制を築く一方で、無駄を省くトヨタ式生産方式を確立した。日米自動車摩擦の解決策としてGMとのアメリカ合弁生産を決断するなど、豊田のグローバル展開の基礎を築き、トヨタを世界レベルの自動車メーカーに育てた。トヨタ中興の祖である。

2006年にトヨタ自動車のエンジニアが二人が豊田市から研究室に見えた。彼らの名刺には「愛知県豊田市トヨタ町1番地」と書いてあった。3万人以上の技術者で構成されているトヨタ技術会での講演打ち合わせだ。過去数年の講演者のリストを見ると、「職人学」の岡野雅行、「失敗学」の畑中洋太郎、そして「カミオカンデ」でノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊、という錚々たるメンバーだったので驚いた。受講者は技術者、経営者を中心に7−8百人というから相当大型の講演会である。私ともう一人の講師は日本刀の国選定保存技術保持者・玉鋼製造の木原明さんだった。彼らはきっちりした打ち合わせを行っていったが、トヨタ会館の見学、懇親会などあらかじめ案内者や挨拶するお偉方の名前、そしてスケジュールが分刻みでが決まっていて遺漏がない感じがした。トヨタの仕事振りの一端を覗いたような気がした。

「乾いたタオルでも知恵を出せば水が出る」

「人間も企業も前を向いて歩けなくなったときが終わりだ」

「今がピークと思ったら終わりだ」

モノの値段は顧客が決め、それに見合うコストの削減努力が利益を生む。コスト削減はものづくりの根本から考えなおすことで実現する。トヨタ式生産方式そのものを表現した思想であるが、私は豊田英二の人としての歩みに興味を覚える。豊田織機製作所を創業した叔父である豊田佐吉の長男・喜一郎の薫陶を受けて迷いなく自動車産業の確立に一生を捧げ、「カローラモータリゼーションを起こそうと思い実際に起こしたと思っている」と述懐するように成功に導き、そして自動車事業に先鞭をつけた創業家の喜一郎の長男・章一郎に社長を譲るという出処進退は見事である。この人の100年人生は壮観だ。

日本ビジネス実務学会の関東・東北ブロック研究会で講演。

日本ビジネス実務学会の関東・東北ブロック研究会(大妻女子大千代田キャンパス)で講演。

15年前にこの学会の全国大会で基調講演をしたことがある。今回の窓口は多摩大の同僚の斉藤S先生。13時から16時45分。

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以下、参加者の所属。日本航空出身者が二人いた。

 湘北短期大学。名古屋女子大短気大学部。東京工芸大学東京経営短期大学。大妻女子大短期大学。名古屋女子大学富山短期大学福島学院大学嘉悦大学福島学院大学短期大学部東京国際大学。オフィス・ラポール茨城女子短期大学。神野文子事務所。名古屋経営短期大学高崎経済大学。神明指圧治療院。育英短期大学金沢星稜大学短期大学部東京工芸大学芸術学部。国際ビジネス公務員大学校。名古屋学芸大学駒沢大学南九州短期大学

 プレゼンの大島武先生も久しぶり。

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 会場のF棟の1階には、大妻女子大創立者のブロンズ像。

大妻コタカ創立者)大妻良馬(夫であり最大の協力者。校主)。

1908年に大妻コトカが裁縫や手芸の私塾を開いたのが始まり。

2012年開館の大妻女子大博物館には、2016年に大妻コタカ・大妻良馬研究所が併設された。

大妻コタカ「そうだこれが人生だ。人を突きのけるのではなく、自分が勝つには、ただ努力より他にはない。道を歩くことは目に見えるが、人生の歩みは目に見えないだけ、油断は恐ろしい。第一の山を越えれば、第二の山、第三、第四と続く、どこで止まるか、幾山越すか、険しければ険しいほど勇者は進むのだ」

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 美しい花を咲かせると思うな。雑草になれ。そして、強くたくましく生きよ。

強く正しくにこやかに、上見て学び下見て暮らせ

理想は高遠に、実行は足元から

精神的な確信と人格的な陶冶(とうや)こそ最も望ましい

世界一の精神美人になる

人の嫌がる仕事は、まず自分がやり、その中から人間学を学び取るということをモットーとしておりました。

人は大きく 己は小さく 心は丸く 気は長く 腹立てず

今日一日腹を立てぬこと。今日一日不平を言わぬこと。今日一日うそを言わぬこと。今日一日人の悪口を言わぬこと。今日一日何事にも感謝すること

  終了後は懇親会。

名古屋の高橋先生、湘北の飯塚先生、多摩の斉藤先生ら7人。

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「名言との対話」9月11日。神吉拓郎「怒れば怒るほど、それが自分に向かってはね返って来て、無数の破片のように自分を傷つける」

神吉 拓郎(かんき たくろう、1928年昭和3年9月11日 - 1994年(平成6年)6月28日)は、日本の小説家俳人随筆家。『私生活』で直木賞

  神吉先生には、JAL時代に仕事でお会いしたことがある。ハンサムで笑顔の素敵な、そしてものをよく知っている柔らかい人だった。少人数の食事会で、旅行や食べ物の話題を楽しんだ記憶がある。この機会に第1回グルメ文学賞を受賞した『たべもの芳名録』を読もう。

さて、「怒り」である。神吉卓郎の冒頭の言葉を読むと、懐かしい優しい顔が浮かんでくる。その顔は、このような理解の上に成り立っていたことが、今わかった。『友あり駄句あり三十年』も読んで、もう一度会い直したい。

今泉俊光刀匠記念館--「刀を作るほか、ちっとも考えん」

岡山県倉敷の今泉俊光刀匠記念館。

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明治31年(西暦1898年)生まれで、無形文化財人間国宝)。没は1995年。97歳。

今泉俊光は第二回吉川英治文化賞を受賞している。この賞は「日本文化の向上に尽くし、讃えられるべき業績をあげながらも報われることの少ない人」に贈呈される。

受賞理由は「衰亡に瀕した、備前長船に伝わる日本刀の鍛刀技術を再興し錬磨研鑽を重ねて、よく伝統技術を継承、発揚している」。

わが国の国宝、重要文化財、重要美術品に指定された名刀の60%は「備前もの」である。今泉は平野護国から鍛刀技術の口伝を受け、長船に移り住む。終戦後武器禁止令で失業同然となるが、カマ、クワなどの日用雑器を打ちながら研究に専念した。悪い材料を御して良い鋼を作る経験が後に役に立ったそうだ。

今泉は備前伝にのっとり、地金を吟味し、鍛えに鍛えて真の備前ものに迫っている。すこぶる謙虚な人柄で、刀の命をかけ、作刀の後継者育成に尽力している。

同じ岡山財界の林原健は「今泉刀匠の生き様は、現代の人々に、「人間にとって最も大切なものは何か」を教えてくれる」と述べている。

「単に長寿で健康に恵まれているからではなく、仕事とはかくあるべきもの、鉄に魅せられた人生の生きざまはこういうものだと人が、作品が語りかけてくれる」と小笠原信夫が言う。

今泉俊光は「天命寿楽」と題した文章の中で「刀を造りたいという一念は岩をも通す桑の弓の如し」であり、昭和29年に許可が降りて以来、「ただ自分が思うがままの刀造りの道」を歩いてきたと95歳の時に述懐している。そして「備前伝の特徴である匂出来の鎌倉期のような出来ばえの刀を残したい」と語っている。

95歳、これからどんな仕事をしたいですかという問いに、「まだまだ頑張って鎌倉期のような刀を造ってみたい」と答えている。

「生き様」という言葉で同時代の有力者が語っているように、人生100年時代の生き方の一つのモデルでもある。

倉敷刀剣美術館における紹介文。

「今泉俊光刀匠は明治三十一年佐賀県小城郡に生まれ、大正十三年に岡山県児島郡赤碕に移住し、独自の鍛刀研究に入る。昭和十九年長船町に移り、翌三十年に鍛錬場を開設して鍛刀、昭和三十四年には岡山県重要無形文化財保持者の認定を受ける。その後、新作名刀展において日本美術刀剣保存協会会長賞・毎日新聞社賞など多くの特賞を受賞し、昭和四十五年には無鑑査認定となる。俊光刀匠は作刀期間が極めて長く、平成五年二月年紀・九十六歳添銘の太刀を残すなど、高齢にも拘らず師の作刀に対する研究心は他の追随を許さないところです。」

 

「名言との対話」9月10日。木村政彦「人の二倍努力する者は必ずどこかにいる。三倍努力すれば少しは安心できるというもんだ」

木村 政彦(きむら まさひこ、1917年大正6年)9月10日 - 1993年平成5年)4月18日)は、日本柔道家プロレスラー段位講道館柔道七段。

 全日本選手権13年連続保持、天覧試合優勝も含め、1936年から1950年にプロに転向するまで15年間、一度も敗れないまま引退。途中1942年から1947年までの兵役期間がる。兵役を終えた時から、また不敗を続けた。全日本選手権13年連続保持という驚異的な記録を持っている。

「負けたら腹を切る」とし、試合前夜には短刀で切腹の練習をした。決死の覚悟だった。「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と讃えられ、現在においても史上最強の柔道家と称されることが多い。その荒々しい柔道スタイルから「鬼の木村」「鬼の政彦」の異名を持つ。得意技は大外刈り。

プリ柔道家の時代があり、講道館からは最後まで昇段を許されず7段に留まった。正力松太郎、三船久蔵、西郷四郎広瀬武夫など19人が顕彰されている講道館の柔道殿堂でも木村政彦の名は見かけなかった。木村は歴史から抹殺されているのだ。

元々他の選手達の2倍の6-7時間を練習していたが、「3倍」の努力をしようと考え、拓殖大学時代の練習量は10時間を超えた。乱取り100本、バーベルウェイトとレーニング、巻き藁突きを左右千回ずつ。夜は大木に帯を巻いて一日1000回の打ち込み。また「寝ている間は練習ができない」と睡眠を3時間に減らし、しかも睡眠中にもイメージトレーニングをしていた。まさに鬼であった。殺人的練習量と勝敗に賭ける決死の覚悟が不世出の柔道家木村政彦をつくった。「人の3倍の努力」とは、どのような分野でも遂行は難しいが、それを文字通り実行したのである。

大学院秋季修了式。大学院入学式。

大学院秋季修了式。

式典の前後に寺島学長と懇談。夏の動き、、、。

終了後に田村理事長と懇談。

最後に、徳岡研究科長と相談、、、、。

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 - 寺島学長「シリコンバレー・ウイーン・ロンドン」「大転換期-アメリカ保護主義、中国グローバリズム」「羅針盤」「知の再武装」「シルバーデモクラシー」「100歳人生」「社会人大学院の価値」「どこで生きる力を注入するか」「エンジンの再点火」「AI・人間とは何か」「経営とは時代のニーズの産業的解決」「チャレンジ・再武装をコンスタントにまわす」「気づきと行動」「

-田村理事長「11名の修了者」「志ある社会人」「経営実学大学院」「同窓会」「知的ネットワークの拠点」「学園歌」

-徳岡研究科長「成績優秀者3名」「持続的成長」「実践知」「仕事だけでは仕事さえできなくなる」「人生100年、仕事80年」「ライフシフト(リンダグラットン)」「エクスプローラー・インディペンデントプロデューサー・ポートフォリオワーカー」。

-坂西同窓会長「構想博物館主任研究員」「700以上の同窓生」「知の再美装」

-平川英恵(贈る言葉)「3人のレンガ職人」

-星野秀人(修了生のことば)「カフェを用いたまちづくり」「実践こそ知性の源」

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  大学院入学式。19名。

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寺島学長「 考えるヒント」「ロンドン・ウイーン、、新しい時代を吸収」「ジエントロジー」「知の再武装」「「ギアチェンジ」「時代の構造的変化」「生命科学とコンピュターサイエンス」「歴史認識」「異次元の高齢化」「脅威かチャンスか」「安定カードはない」「リ・アーマメント」「タテとヨコのネットワーク」「100年人生」社会人大学院の意味の変化」「インターゼミ」

-田村理事長「19名・41歳」「中国、ロシアから」「一流の教授陣との親密な関係」「志の高い院生」「同窓会ネットワーク」

-徳岡研究科長「レベルの高い19人」「100講座」「限界ヒヨウノゼロ社会(レフキン)」「未来語り」

-坂西同窓会長「母川回帰」

-小板橋宏康(院生代表)「変わったこと:時間の密度が高まった。イノベーターシップの刷り込み」「良かったこと:共に学ぶ仲間」

倉田博樹(新入生代表)「デルタ航空法人部長」「イノベーション」「真の知の武装を」

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「名言との対話」9月9日。小室直樹「 学問とは驚く能力です。はじめに楽しむことを覚えるべきです。」

小室 直樹(こむろ なおき、1932年9月9日 - 2010年9月4日)は、日本社会学者評論家

京都大学理学部数学科を卒業後、大阪大学大学院経済学研究科へ進み、同大学院を中退。その後、ミシガン大学大学院、マサチューセッツ工科大学大学院、ハーバード大学大学院などに留学。帰国後、東京大学大学院法学政治学研究科に入り、法学博士の学位を取得。東京大学非常勤講師を経て、東京工業大学世界文明センター特任教授を務めた。以上の学問修業の経歴から分かるように、小室直樹は知の巨人であった。

30代の始め、「知的生産の技術」研究会に参加した私は作家や学者、エッセイストなどの書斎を仲間と一緒に訪ねて取材し、それを本にしたことがある。小室直樹にお気に入りのテレビ番組を聞いたとき「テレビは見ない。テレビというのは見るものでなく、出るものだ」との回答に驚いたことがある。

「激論!ニッポンの教育」(講談社)という本の編集の手伝いで旧・吉川英二邸を訪れたことがある。ここで有識者の座談会を行い、それを編集して本にするという企画だった。私がその場所に入ると、誰かがソファに寝そべっていた。起き上がるそぶりもないその人に挨拶をするとそれは著名な学者の小室直樹だった。その後、朝日新聞の原田先生と毎日新聞の黒羽先生がみえ、文部次官経験者、そして小田実が現れた。そして『ソビエト帝国の崩壊』など、世間の耳目を驚かす本もよく読んだから、私にとっては親しみのある人物である。

山本七平「勤勉の哲学−−日本を動かす原理」(PHP文庫)で小室直樹は、鈴木正三、石田梅岩の思想を解説している。日本人にとって仕事は修行であり、禅の修行と同じだ。一心不乱に仕事を行えば人は救済(成仏)される。これが勤勉の哲学である。勤勉の哲学は「資本主義の精神」そのものであったから日本は発展した。名解説だった。

「資本主義における覚悟は、破産と失業である」

「国家の指導者を志すものは、常住坐臥、常在戦場、錠剤国難の気持ちでいるとき、危機管理能力は脅威的に伸展する。これは、世界史の鉄則である」

小室直樹の社会、世界、歴史に関する名言はいくつもあるが、教育や学問への洞察もいい。たとえば、「自分よりずっと悪い状況下でも、そんなことを気にも止めないで、平然として最善を尽くした人、その例が頭に浮かんだ人は助かる。どんな精神療法よりも効果がある。教育の目的は、そのような人の例を教えることではないか」なども納得感がある。有名無名に関わらず立派な人物を紹介することは教育の重要な役目である。

そして、学問を極め尽くした小室直樹は、楽しんで驚くことが学問の精髄であると喝破する。知らないことを知ることは無上の喜びである。疑問が解けたときの驚きは快感である。そのサイクルの中に身を浸しながら驚く能力を磨いていきたいものだ。

全国経営学部長会議(日本橋)。グローバルスタディーズ学部運営委員会(湘南台)。

第42回全国経営学部長会議を開催。

昨年は幹事校で、三菱の丸ビルで開催した。今年は三井の日本橋コレド日本橋で開催。杉田学部長と一緒に出席。

今年の第一部のテーマは「経営学教育を通して学生にどのような知識や能力を身につけさせるか---チューニングの取り組みを参考に考える」。 

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 質保証。学位プログラムと科目単位での学習成果。それぞれのDCA.具体性。

学科単位の履修系統図。

「あなたはこの授業で何を身につけましたか?」

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 第二部は「日本橋の街づくり」とういテーマで三井不動産の新原上席主幹の講義。

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第三部は「渋沢栄一に学ぶ資本主義のあり方」で渋沢健さんの講演。

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昼食は。渡辺客員教授三越の中華料理「紫苑」で食事を摂りながらじっくりと話をする。

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 帰りの地下鉄のコンコースで見かけた掲示には、先ほどの講演で話題になった情報があった。

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 16時半からは、湘南台のグローバルスタディーズ学部での学部運営委員会に出席。

19時半までの長丁場。「離学率」について発言。

 

「名言との対話」9月8日。木下尚江「人は実に事業の糸によってのみ、自己を永く世界に織り込むことが出来る」

木下 尚江(きのした なおえ、1869年10月12日明治2年9月8日)- 1937年昭和12年)11月5日)は、日本社会運動家、作家。男性。

松本中学の万国史の授業で、英国王を倒したピューリタン革命の中心人物 クロムウェルのことを知り、「我心は寝ても醒めても一謎語に注中されている『革命!』」と感慨を覚え、以後、木下は学校で「クロムウェルの木下」と呼ばれるようになる。

木下はキリスト教に出合い、廃娼運動、禁酒運動などに専念するが、その後「信府日報」の主筆を経て、三国干渉に対する遼東還付反対運動で共闘した石川半山の後を継ぎ、「信濃日報」の主筆を務めている。

木下は選挙疑獄事件の容疑で警察につかまるが、「一年半の鉄窓生活は、僕の生涯にとって、実に再生の天寵であった」と述べている。人生の学問をしたのだ。

後に入社した毎日新聞では「世界平和に対する日本国民の責任」と題する論説を執筆し、以後、平和と反国体を唱える。田中正造足尾銅山鉱毒事件問題や普通選挙運動に積極的に取り組み、日露戦争では 「人の国を亡ぼすものは、又た人の為に亡ぼさる。是れ因果の必然なり」と主張し、非戦運動を展開した。また 反戦小説『火の柱』を毎日新聞に連載し、ペンを武器に戦った。ジャーナリスト木下尚江は、生涯一貫して社会改革を唱えた熱血漢だった。

何かの事業で何かの役割を果すことは、その事業の中に自分を織り込むことだ。その事業を糸として世界に織り込むことができたなら、自己を世界に織り込んだことになる。自らが関与する事業に、広く、深く、自己を上手に織り込むことができたなら、永遠の命を授かったことになるということだという木下尚江の主張には共鳴する。