『邪馬台』2017年秋号--「読書悠々」は佐藤愛子、宇野千代、高峰秀子、志村ふくみ

中津の同人誌『邪馬台』2017年秋号(通巻204号)が届く。

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 ・巻頭言。評論。詩。旅行記。随筆。随想。研究。短歌。川柳。俳句。創作。

・今号は新しい企業や病院の広告が目についた。

・私の連載「読書悠々」は15回目。母は随想「リービ英雄の『英語でよむ万葉集』。妻は「短歌」。次号からは『「団塊」の自分史』シリーズ(初回は猪俣範一君)、松田君の「ビジネス川柳」が加わり豊かになる。

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今日は、高齢女性の著書を中心に紹介する。

 〇 佐藤愛子「九十歳。何がめでたい」:異次元の高齢社会のミクロの姿とマクロの姿。

 90万部を超えるベストセラー本。

 2017年5月の時点で日本の65歳以上の人口は3400万人、80歳以上の人口は1000万人を超えた。100歳以上は7万人である。異次元の高齢社会に突入したのである。

これからは、90歳が普通になる時代だ。この本の読者はたぶん、高齢者だろう。今後は、先日105歳で亡くなった日野原重明先生や佐藤愛子のような超高齢者がスターになる時代を迎えることになるだろう。佐藤愛子が2015年に「女性セブン」に連載したエッセイの集合体がこの本である。当時は92歳。大正12年生まれだから今年中に94歳になるはずだ。

さて、佐藤愛子は昔は「身の上相談」と言っていた新聞の「人生相談」の愛読者である。時代とそこで生きる人の人生が垣間見えて、回答者の価値観、人生の軌跡がうかがわれて興味深いからという。この本の話題は、高齢者となった自身の経験と新聞の「人生相談」から見える世相への怒りが中心だ。長生きして、居直った、歯に衣着せぬ舌鋒が読者の共感を呼んでいる。

「ああ、長生きすることは、全く面倒くさいことだ。耳だけじゃない。眼も悪い。始終、涙が滲み出て目尻目頭のジクジクが止まらない。膝からは時々力が脱けてよろめく。脳みそも減ってきた。そのうち歯も抜けるだろう。なのに私はまだ生きている」

「本を読めば涙が出てメガネが曇る。テレビをつければよく聞こえない。庭を眺めると雑草が伸びてていて、草取りをしなければと思っても、それをすると腰が痛くなってマッサージの名手に来てもらわなければならなくなるので、ただ眺めては仕方なくムッとしているのです。そうしてだんだん、気が滅入ってきて、ご飯を食べるのも面倒くさくなり、たまに娘や孫が顔を出してもしゃべる気がなくなり、ウツウツとして「老人性ウツ病」というのはこれだな、と思いながら、ムッと坐っているのでした」

このような状況の中で、「女性セブン」での隔週連載が始まってみると、錆びていた脳細胞が働き始め、老人性ウツ病から抜け出たのである。人間は「のんびりしよう」と考えてはダメだというのが佐藤愛子の悟りである。

以下、佐藤愛子語録。

・愛と恋は違う。愛は積み重ねて昇華して行くものだけれど、恋は燃え上がってやがては灰になってしまうものだ。

・もう「進歩」はこの辺で」いい。更に文明を進歩させる必要はない。進歩が必要としたら、それが人間の精神力である。

・「一生意思を曲げない覚悟」ではなく、長い年月の間にやがて来るかもしれない失意の事態に対する「覚悟」である。

ミクロで見るとこの本が述べているのが異次元の高齢化の中身だが、マクロで見ると違った姿が見える。現在医療は40兆円、予防10兆円、介護10兆円で、計60兆円規模だ。将来は、医療60兆円、予防20兆円、介護20兆円、計100兆円になるという予測だ。マクロでもミクロでも大変な時代になる。

  〇 宇野千代「生きていく私」--4回の結婚、13回の自宅建築、、、。人生を肯定した楽天的生き方。

 宇野千代「生きていく私」(角川文庫)を読了。

自由奔放に99年の人生を生きた宇野千代の自伝。85才の時の執筆だ。

4回の結婚、13回の自宅建築、、、。人生を肯定した楽天的生き方に感銘を受ける。

 以下、人生観と仕事観。

  • (失恋)いつのときでも、抗うことなく、自分の方から身を引いた。
  • 泥棒と人殺しのほかは何でもした。
  • 小説は誰にでも書ける。それは、毎日毎日坐ることである。
  • 私はいつでも、自分にとって愉しくないことがあると、大急ぎで、そのことを忘れるようにした。思い出さないようにした。そして全く忘れるようになった。これが私の人生観、、、
  • 私の書くものは、ほんの僅かしかない。とことんまで手を入れるのが癖であるから、それほど、可厭になるものは書いていない。
  • 私は、どんなときでも、どんなことでも、それが辛い、苦しいこととは思わず、愉しい、面白い、と思うことの出来る習慣があった。
  • 私は、辛いと思うことがあると、その辛いと思うことの中に、体ごと飛び込んで行く。
  • 何ごとかに感動すると、すぐに行動しないではおられないのが、私の性癖であった。
  • 何事かをし始めると、狂気のようになるのが、私の性癖であった。
  • 何でも面白がるのが、私の癖であった。
  • 私は12、3年前から、足を丈夫にするために、毎日、1万歩歩くことを始めた。
  • 一かけらの幸福を自分の体のぐるりに張りめぐらして、私は生きていく。幸福のかけらは、幾つでもある。ただ、それを見つけ出すことが上手な人と、下手な人とがある。幸福とは、人が生きて行く力のもとになることだ、と私は思っている。
  • 幸福は伝染して、次の幸福を生む。
  • 人間同士のつき合いは、この心の伝染、心の反射が全部である。、、、幸福は幸福を呼ぶ。
  • 小説を書くこと、きもののデザインをすること、、、どちらの仕事の内容も、それまでには全くなかったものを、新しく発見し、切り開いて行くと言うことでは、少しの違いもない。
  • 若さの秘訣というものがあるのかどうか、、好奇心が旺盛である。、、、素早い行動、、、。男たちへの憧憬、、、
  • 「人の世はあざなえる縄の如し」と昔の人も言ったが、誰の手が、その縄をあざなうのか、知ることも出来ないのである。
  • 私には年齢と言う意識がなかった。
  • 自分の幸福も、人の幸福も同じように念願することの出来る境地にまで、歩いて行くのである。その境地のあるところまで、探し当てて歩いて行く道筋こそ、真の人間の生きて行く道標ではないか、、。

交流があり66才で逝った平林たい子は、「私は生きる」と言ったのだが、99才という長寿の宇野千代は「生きていく私」と言う。宇野千代の66才の時から84才までは、214ページから373ページまでだ。人生のページというものがあるとしたら、213ページの平林たい子と、373ページに加え、さらに15年分は132ページであり、宇野千代の人生は505ページという盛大なものになるという計算になる。実に平林たい子の2.4倍の人生を生きたことになるのだ。まさに「生きていく私」というタイトルそのままである。

「角川文庫版に寄せて」(平成8年新春)には、この正月で数えの百才になったとあり、あと4年ほど生きれば、、、明治、大正、昭和、平成と生きてきて、その上さらに21世紀が見たいとは我ながらなんとも呆れたものではないか」と書いている。宇野千代はこの年1996年(平成8年)に天寿を全うしている。最後まで元気だったということになる。

 〇高峰秀子 「おいしい人間」--大女優は名エッセストだった

 高峰秀子「おいしい人間」(潮出版社)を読了。

神保町の古本屋街をブラブラして、本を買い込む。

その時の問題意識という目があるからだろうか、向こうから本のタイトルが飛び込んできた。一つは「漱石の俳句」、もう一つは女優・高峰秀子のエッセイだ。

昨日の「名言との対話」で高峰秀子を書いたのだが、そこで彼女のエッセイが素晴らしいことを発見した。その目が「おいしい人間」を見つけた。本屋を巡る愉しみはここにある。

エッセイでは筆者の人柄、日常の生活、周囲の人物評などが出てくるので、楽しい。この人は女優であり、夫は映画監督であったので、著名な俳優などが出てくる。

丹下左膳を演じた大河内伝次郎については、次のように書かれている。

「優れた俳優は、物の教えかたも要領を得て上手い」「「が、大河内さんだけは本身を使う」「不器用な人で、おまけにド近眼」「「きびしく名刀のような人だった」、、。

司馬遼太郎「先生は美男である(いささか蒙古風)」。安野光雅「先生も美男である(いささかインディアン風)」。こういう対比や、人間性があらわれるエピソードを書く筆致は実に楽しい。

自分についてはどうか。

「年中無休、自由業」「白黒をハッキリさせたい性質(たち)の私」「女優の仕事は、そと目には華やかでも、私にいわせれば単なる肉体労働者である」「30歳のオバサン女房が夫をつなぎ止めておきには「美味しいエサ」しかない」「なんいごとにつけても、自分自身の眼や舌でシカと見定めない限りは納得ができない、という因果な生まれつきの私」「「食いしんぼう」「春先には蕗のとうの風味を味わい、夏には枝豆の爽やかな緑を楽しみ、秋には茸、冬には鍋ものと、ささやかでも季節そのものをじっくりと楽しめる、、」「私のヒイキは、なんといっても「内田百閒」だった」「私は、自分が下品なせいか、上品なものに弱い」「人づきあいはしない。物事に興味を持たず欲もない。性格きわめてぶっきらぼう」「独断と偏見の固まりのような人間」「どんな知人友人でも死顔だけは見ないことにしている」

400本の映画に出演した大女優は、名エッセイストだったことを納得した。沢村貞子もそうだったが、「目」がいい。

 

〇志村ふくみ「一色一生」(講談社学芸文庫)を読了。

染織家の名匠・志村ふくみは、すぐれた文章家でもある。

それを示したのが、大佛次郎賞を受賞したこの「一色一生」である。

「色と糸と織と」「一色一生」「糸の音色を求めて」「かめのぞき」「天青の実」と題する1章。「織 探訪記」「住まいと影」「今日の造形 織と私」「プレ・インカの染織を見て」「呉須と藍」「ルノアールの言葉」「老陶芸家の話」「蚕」「景色」と題する文章の並ぶ2章。

例えば「色と音」は、「今日は夕刻まで色とたわむれていた。」「話し合うような、たわむれるような、時には鍵盤をたたいて、余韻をたもしむような気持ちがするのである」「その色の一つ一つが純一に自分の色を奏でていることだ。色にも音階(色諧というべきかもしれないが)があって、、、」「四十八茶百鼠」「その卓抜した感覚こそ日本人そのものである」「染めは色の純度を守るためにあるようなものだ」、、というような珠玉の言葉で連なっている。和歌的な感覚と洞察に満ちた哲学が込められている。

読者はこの名匠の染織の着物を味わうように、深い言葉の世界に引き込まれていく。

さて、しかし、この本では3章が心に残った。

それは、志村ふくみがいかに成立したかがわかる壮烈な自伝である。

養父母に育てられた志村は、出生への疑惑にさいなまれながら、18歳で実母のから打ち明けられ、その実母から機織り世界に導かれる。

昭和31年から32年にかけての「日記」が載っている。東京に夫と子供をの残して近江の実家に帰った。織物の修業にはげみ、幼子と暮らせる日を願った。32歳だった。

「死物狂いでこの道を行こう。」「流れに逆らって一人漕いで行かねばならない。まがうことのない破壊を一方で行いながら、孤立の陣をはってゆく。仕事がすべてだ。生きて、夫や子供と別れることが出来たのだから、これ以上辛いことはよもやあるまい。」

「ふっくらとした色の盛り上がり、きりきりっと全体の引き締まる色合、雪や、大地や、石の上の苔や、そのものの肌ざわりまで感じさせる色、落葉の色、葡萄の色、露草の滴の色、物思わしげな色、艶やかな色、がっしりした色、無垢な色、小粋な色、ひと恋しい色、消え入りそうな色、日影の色、思い出の中に生きる色、夢の中でみた色、燃えている色、沈んでいる色、濡れた色、透けた色、何という色自体の多様さだろう。、、、一つ一つをかけがいのない、納得のゆく色でこれからの人生を描いてゆこうと願う。」

木工家・黒田辰秋のアドバイスも圧巻だ。

「自分のように我がままで、怠け者で不器用な人間は、こつこつ仕事をしてゆくしかない。、、、ただあなたがこの道しかないと思うならおやりなさい。まず自分の着たいと思うものを織りなさい。先のことは考えなくていい。ただ精魂こめて仕事をすることです。「運、鈍、根」とはそういうことです。何年も何年も黙々とひとりで仕事をつづけてゆけるか、中みがよっぽど豊かで、ぬきさしならぬことえでなければ続かないものです。」

汽車を下りたら猛烈な吹雪で一寸先もみえなかった。志村はその中を走りながら「仕事をしよう。仕事をしよう」と叫んでいた。

染織の世界で前人未踏の境地を開き、かつ内面世界を詩情豊かに綴っている志村ふくみの仕事は、多くの女性達に勇気を与え、日本の深さに思いを至らせる。志村ふくみの長い仕事に、文化勲章をはじめとする数々の名誉のある賞が与えられていることに深く納得する。

 

「副学長日誌・志塾の風」

・授業準備

・高野課長:インターゼミ

 

17時:地研にて企画会議。談論風発

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 「名言との対話」9月21日。樫山純三「実行力に増して先見性やアイデアが重要なのだ」

樫山 純三(かしやま じゅんぞう、1901年9月21日 - 1986年6月1日)は日本の実業家競走馬馬主

尋常小学校卒業後、三越呉服店に丁稚として入店。その後、大阪貿易学校に学び。26歳、樫山商店を設立。46歳、オンワード樫山の母体になる樫山株式会社とする。59歳、オンワード牧場を創設。76歳、樫山奨学財団設立。84歳で没。

2015年ではオンワード樫山(2635億円)は日本のアパレルメーカー注、ユニクロファーストリテイリング(1兆6817億円)、しまむら(5470億円)、ワールドHD(2635億円)に次ぐ4位で、後には青山商事(2217億円)が続く。

「人間とは便利なものである。いま振り返ると、いい思い出しか浮かんでこない。ちょうど負けた馬券を覚えていないようなものである。三越の店員時代のこと、独学のこと、梶山商店創業当時のこと、しんどかったことや苦しかったことは、年月による浄化作用を受けて、すべてが懐かしいものに変わっている。」

持ち前の馬力、実行力に加えて、時代の流れを読む先見性、独創的なアイデアこそが、樫山の真骨頂だった。その樫山は創業と経営が軌道に乗ると、牧場をつくり競馬馬を育てる事業に熱中する。馬主としてだけでなく、ブリーダーとしても数々の名馬を送り出した。日本人で初めてフランスダービーで勝利している。

また晩年には奨学財団をつくり内外の若い人材の育成に力を入れている。この奨学財団の30周年記念事業として、国際的視野に立った社会科学(政治、経済、社会など)の分野の現代アジア研究における独創的で優れた業績を顕彰する樫山純三賞が2006年に設けられた。バングラデシュ、台湾、中国、モンゴル、中東、韓国、インドに関する研究が受賞している。アジア研究に与える賞の創設は先見性の現れだろう。

樫山純三の時代を読む先見性と独創的なアイデア、そしてそれを推進する実行力は、本業で遺憾なく発揮されたが、さらに人生の後半には国際的なホースマン(馬主)、国際的人材の育成という面にも大いに発揮された。先見性とアイデアと実行力が見事な人生を描いたのだ。

人事委員会・学部運営委員会・共同研究成果発表会、、。

「副学長日誌・志塾の風」170920

・人事委員会:9時30分-10時15分

  教員採用関係。非常勤講師公募。

・学部運営委員会:10時40分-12時40分

私からは「グローバルスタディーズ学部:離学率」「大学院:デジタル経営・ルール形成コース」の動き。モンゴル訪問の教訓。

・2016年度の共同研究12件の成果発表会。13時-14時半。司会は下井研究活性化委員長。

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・2018年度「より活発な共同研究を目指して」の説明と意見交換。彩藤先生の司会。14時半-15時半。

 

「名言との対話」9月20日。大野伴睦「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」

大野 伴睦(おおの ばんぼく、本名:大野 伴睦(おおの ともちか)、1890年明治23年9月20日 - 1964年(昭和39年)5月29日)は日本政治家自由民主党副総裁。

党人政治家・大野伴睦は政治利権の権化といわれ批判も多く、新聞や雑誌の記事で名前をよく見聞きしていた記憶がある。

義理人情に厚い性格から「伴睦殺すにゃ刃物はいらぬ、大義大義と云えばよい」という戯れ歌でも知られた。難題であった1955年の自由党民主党保守合同による自由民主党の結成にあたり、宿敵であった三木武吉は性格を知り抜いた上で「救国の偉業だ」と説得し、合意を得ている。

酒豪としても知られ、「酒は飲む以上わけがわからなくなるまで飲むべきだ」という名言がある。また3回の投獄経験を持っており、「牢獄は人生の大学だ」と後に語っている。

佐藤栄作が「栄ちゃんと呼ばれたい」と言ったのは、伴睦が「伴ちゃん」と呼ばれ愛されたことからきている。また力道山を可愛がって日本プロレスコミッショナーをつとめた。読売新聞の渡邊恒雄は小野伴睦の記者であり、当時から政治に関与していた。また、北海道開発庁館時代の秘書官・中川一郎を見初めて、政界入りを勧めている。

「政治は義理と人情だ」が信条だった伴睦は、「私は物ごとを頼まれると、大抵のことは引き受けてしまう。大は天下国家の重要事から、小は記念写真のお付き合いまで、事柄の大小は問わない」というだけあって、心暖まるエピソードには事欠かない人情家だった。

冒頭に掲げた猿と代議士を比較した名言は、今でも選挙が近づくと目にする機会が多い。功罪はあったが、このようなエピソードや名言を眺めると、やはり魅力のある人物だったようだ。

寺島文庫リレー塾秋の第1回は、寺島実郎「2017年秋 世界の構造転換」

第8期 寺島文庫リレー塾2017「後記」が始まる。全5回。

今期のテーマは「激動の世界--直面する変化の本質を考える」。

本日のテーマ。「2017年秋 世界の構造転換」

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 アメリカ西海岸。8月。

東海岸と西海岸の亀裂。ホワイトハウスシリコンバレーの段差。保護主義自由主義。政府援助と自立自尊。

・光:「スティーブ・ジョブスはシリア人だった」。2%台成長のエンジン。トップはインド人、韓国人、中国人、日本人、、。ウーバーに1000億円投資、、、。

・影:シリコンバレーの不動産暴騰。2億円以上となり手が出ない。中間層、若者、学生は生活が苦しい。AIが迫る環境。2045年シンギュラリティ・6割の仕事がなくなる・天才にしか仕事がない世界、中間職種(事務・営業・レジ、、)はなくなる。中間層の没落。この波は日本にも。11月の映画「サークル」は高度SNS社会の問題がくっきり見えてくる。

ウイーン。8月。第42回中東協力会議で基調講演。国連関係組織の集積。IAEAなど。北朝鮮は巨大な大使館を設置。ジョンウンはウイーン留学。

・7月7日の核兵器禁止条約は122ヶ国が加盟。まとめ役はオーストラリア。2014年に核兵器を使用しない、廃絶の先頭に立つと誓う。この条約に日本は不参加。アメリカの核の傘で守られているからという理由。オーストラリアは「核の傘は防衛だ。日本は先頭に立て」と説得したが拒否された。東南アジア(アセアン)は棄権したシンガポール以外の9ヶ国は参加。日本は理念と基軸を語るべき立場だ。アメリカの北へのあらゆる選択しに賛成としているが、この中には核攻撃も入っている。アメリカに対してもここには反対と言うべきだ。原子力の平和利用と核の軍事力は裏表。筋道の立った政策を。

モンゴル。9月

・北東アジアというキーワード。モンゴル国300万、内モンゴル400万。1948年北朝鮮と国交(今年は70周年)、朝鮮戦争孤児を育てた、北朝鮮で2000人のモンゴル人・モンゴルで数万人の北朝鮮人が働く。1990年韓国と国交。1922年ソ連の衛星国、1989年ソ連崩壊で1992年民主化プーチンロシアと周金平中国。モンゴルと北朝鮮の関係(フビライの娘が王妃、元寇は高麗軍、、)。拉致問題

中東協力現地会議のメモ。石油。

・供給:世界一の生産のアメリカと4位のイランが豊富に産出、抑制の気配はない。供給は増える。

・需要:省エネ技術向上でエネルギー弾性値は低下(マイナス0.3。日本はマイナス1.8%)。欧州・中国ではガソリン車無しの流れ。需要は減少。現在47-49ドル。1バレル70ドル以上にはならない。

・波乱要素は余剰資金によるマネーゲームで価格を押し上げた場合。IAEAは78-100ドルと予想。エネ債権中心のハイイールド債スプレッド(10年国債との金利差)。30ドル。

・日本は30ドルから70ドルまでの価格変動なら大丈夫。円安と原油価格上昇が重なると大打撃。

エネルギー地政学カタールサウジアラビアと断交。湾岸諸国が初めて割れた。イラン包囲網で温度差。カタールは、アルジャジーラ・サウジ批判・イランとの結託の疑念、サウジの嫉妬。シーア派イランの台頭とエルドワンのトルコの野心の対立で地域パワーが先祖帰り。アメリカの後退で100年前のサイコス・ピコ協定の前に戻ている。

地殻変動によって主張やニーズが多様化。日本の役割は野心がなく技術があるというスタンスで貢献。

ロンドン。「ユニオンジャックの矢」は立体的に描いた世界観の終結点的作品。ロンドン(企画)。ドバイ(金融)。ベンガロール(IT)。シンガポール(成長)。シドニー(資源)。このネットワークがポイント。英語、英国法、文化の共有。中国はアイデンティティクライシス、中華民族の栄光という新たな統合概念。大英帝国は引き際の魔術師。英国と中国の関係、AIIB80。メイはどこまで持ちこたえられるか。氷の女(サッチャーは鉄の女)。映画「ダンケルク」。チャーチルルーズベルト真珠湾攻撃ら3日後にアメリカ参戦。日本はヒットラーと手を組んだという見方。1600年アダムス、長州ファイブ、日英同盟アングロサクソン同盟が20世紀の75%。

世界観を踏み固めているい。「中東・エネルギー・地政学」。「ユニオンジャックの矢」、、。君主制と共和制の経験から立憲君主制を採用した英国。

政治と経済の乖離。

・トランプ政治の停滞。経済好調。「デモクラシーは金融資本主義を制御できるのか?」。フィンテック。MAT投資顧問は24h。日本は運用ができない。

・この夏、トランプ政権は変質。金融・軍事複合体へ。ウオールストリートと軍人。ケリー・マティス・マクスターは軍人。ブラックスワン計画。北への先制攻撃はしない。先に相手に手を出させる。近代戦は、電源と情報回路の遮断。独裁国家は動かなくなる。イラクの教訓。島根・鳥取クラスの国力の北朝鮮。冷戦期とは脅威の質が違う。ライオンとハムスター。北は今年間違いなく食糧危機になる(軍人による田植えができなかった)。

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「名言との対話」。9月19日。高橋是清「 その職務は運命によって授かったものと観念し精神をこめ誠心誠意をもってその職務に向かって奮戦激闘しなければならぬ。いやいやながら従事するようでは到底成功するものではない。その職務と同化し一生懸命に真剣になって奮闘努力するので(することで)はじめてそこに輝ける成功を望み得るのである」

高橋 是清(たかはし これきよ、1854年9月19日嘉永7年7月27日〉 - 1936年昭和11年〉2月26日)は、日本幕末武士仙台藩士)、明治、大正、昭和時代初期の官僚政治家立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣。

1854年に芝で生まれ、仙台藩士の高橋家の養子になる。横浜でヘボン夫人から英語を学ぶ。14歳、藩からアメリカ留学。明治維新を知り帰国。森有礼の書生、教員、翻訳業、駅逓寮の役人を経て、39歳で日銀に入り日清戦争で戦費調達に尽力した川田小一郎総裁に鍛えられ頭角を現す。1904年の日露戦争の外債募集を成功させる。1927年の金融恐慌では支払い猶予令(モラトリアム)を3週間敷き沈静化、、、。後に高橋財政と呼ばれるほど評価が高い仕事師だった。

旧高橋是清邸を訪ねた。赤坂にあった政治家の高橋是清邸の主屋部分を移築した建物だ。1902年に完成してから1936年(昭和11年)に2・26事件で暗殺されるまで30年あまりを高橋はこの家で過ごした。総栂普請の和風邸宅。「不忘無」(無であることを忘れるな)という書がかかっていた。2階の部屋で寝間姿で布団に座っていた高橋是清青年将校達は、銃弾を浴びせ、軍刀で切りつけた。即死だった。2・26事件である。

高橋是清「随想録」 では、「仮にある人が待合へ行って、芸者を呼んだり、贅沢な料理を食べたりして二千円を費消したとする。、、料理代となった部分は料理人等の給料の一部分となり、料理に使われた魚類、肉類、野菜類、調味品等の代価およびそれらの運搬費並びに商人の稼ぎ料金として支払われる。、、芸者代として支払われた金は、その一部は芸者の手に渡って、食料、納税、衣服、化粧品、その他の代償として支出せられる。、、、二千円を節約したとすれば、この人個人にとりては二千円の貯蓄が出来、銀行の預金が増えるであろうが、その金の効果は二千円を出ない。しかるに、この人が待合で使ったとすれば、その金は転々して、農、工、商、漁業者等の手に移り、それがまた諸般産業の上に、二十倍にも、三十倍にもなって働く」と経済をわかりやすく語っている。
 「精神を磨いて、一身の品性を高め、引いて、感化を周囲に与え、結局は国民の品性を高め、更に子々孫々の品性を高めむる点に出来るだけの力を注ぐことが、我々のこの世に生存する第一の面目であることに先ず考え至るべきものである。」

高橋是清は若い頃にアメリカに渉っている。学費や渡航費用の着服、ホームステイ先の両親にだまされ、奴隷同然の生活を送っている苦労人である。この間に習得した英語が身を助けた。その高橋是清は、職務は運命として観念して奮戦激闘せよと言う。その心構えが高橋自身を大きくし、日銀副総裁として日露戦争という国難を救い、また金融恐慌、世界恐慌、を沈静化させるなど6度の大蔵大臣を担当し、2・26事件で斃れるまで長く国難にあたった。常に「運命」と観念して奮闘する姿が目に見るようだ。

モンゴル訪問の旅の総括

早朝5時半にゲルキャンプを出発。

チンギスハン国際空港に到着。日本の台風は北海道に去っているが、風が強く出発が遅れている。最終的には4時間遅れでようやく出発。

隣の席になったバートル先生から知識を得ながらの5時間半のフライトとなった。

総括:

モンゴル訪問団は3泊4日で、実質は丸二日間の行程だったが、中身が濃かった。多摩大からは、寺島学長、私、金先生、バートル先生、黒瀬課長(国際交流担当)が参加。

事前のモンゴルに関する書籍の読破もあり、この訪問でモンゴルの1206年からの建国と世界制覇と、末裔まちの複数の大帝国の繁栄、そして第一次世界大戦前後の帝国の崩壊。そしてソ連の誕生とそれにともなう1922年のモンゴル人民共和国の誕生による社会主義化。そしてソ連崩壊に伴う1992年の民主化によるモンゴル国の誕生、それから25年という歴史を学んだ。

ロシア・中国に挟まれたモンゴル国、そして社会主義時代の北朝鮮など友好国との深いコミュニケーションなど、独特の得難い地政学上の位置も理解した。特に「北東アジア」の視点は重要だった。多摩大は国際交流では、大中華圏、アセアン(東南アジア)に焦点を絞るという方針だったが、これに加えてモンゴルを中心に「北東アジア」という概念も加えたい。

モンゴルとの大学連携では、訪問したモンゴル国立大学以外にも、モンゴル金融財政大学(学長と知り合った)との縁ができた。一緒に行った神奈川大学と連携して研究面と教育面でこの大学との連携にも取り組んでいきたい。旅の途中で、多摩大関係者、そして神奈川大関係者との意思疎通ができたのは収穫だった。

また、コバヤシ、オタフクソース、東海理研などの社長たちとの交流も、今後の動きにつながりそうだ。この点も収穫だった。

寺島学長、斉藤先生もともに強調していたが、「知って、何をするか」である。何をするかも見えているので、進めていきたい。

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 以下、出発時に成田で購入した本をざっと読了。

塩野七生『日本人へ--リーダー編』(文春新書)。 

日本人へ リーダー篇 (文春新書)

・危機の打開に妙薬はない。、、「やる」ことよりも「やりつづける」ことのほうが重要である。

・私は原典主義である。、、史実そのものにじかに当るというやり方だ。

・年に一巻づつ刊行して、15年かけてローマ全史を書くときめた。

・重要な問題ほど、単純化して、有権者一人一人が常識に基づいて判断を下す必要がある。

・ユーモアのセンスは臨機応変のセンスとイコールな関係にある。

石井米雄歴史認識は共有できない。しかし「歴史事実」は共有できる。

 

池上彰佐藤優『大世界史』(文春新書) 

大世界史 現代を生きぬく最強の教科書 (文春新書)

 ・モンゴルはチベット仏教の国。13世紀、モンゴル帝国を築いたときに、チベット仏教に帰依している。、、モンゴル帝国は寛容だった。

・沖縄系のハワイ移民は、日本人ではなく、沖縄人という意識がある。、、アmリカは高等教育機関である琉球大学を創設した沖縄のエリート層は占領期から地場エリートの養成を考えた。だからアメリカに対し、比較的好印象を抱いている。大田昌秀知事はアメリカ留学世代、仲井真知事は沖縄枠で東大に入っている。

・現代のリベラルアーツ。宗教・宇宙・人類の旅路・人間と病気・経済学・歴史・日本と日本人。偏見や束縛から離れて自由な発想や思考を添加できる。

・おとなの教養。私たちはどこから来て、どこへいくのか。自分の立ち位置を知るには教養が必要。現代人必須科目は「日本と日本人」だ。教養とは自分を知ること。日本人、人類、、。

 

伊藤洋一『情報の強者』(新潮新書) 

情報の強者 (新潮新書)

 ・iPhoneでプレゼン。自分で撮影した動画、ユー-チューブ動画。講演はiPadmini。

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以下、機内で考えたこと。

「今後の生活方針。書斎・書庫問題。健康。取り組むべきテーマ。語学。学会。記念館ミュージアム。ブログ本。同窓会。授業の組み立て。、、、」

 

「名言との対話」。9月18日。土屋文明「我にことばあり」

土屋 文明(つちや ぶんめい、1890年明治23年)9月18日戸籍上は1月21日) - 1990年平成2年)12月8日)は、日本歌人国文学者

文明という名前は、日清戦争からナショナリズムへと大きく旋回する曲がり角の時代で、明治の文明開化の落とし物のような命名であった。

土屋文明は、歌人であり、万葉集研究の研究者でもあった。文献研究とフィールドワークがその方法でもあった。ライフワーク「万葉集私注」は万葉集20巻4500余首の注釈。それまでの学説を踏まえた実証的な研究の上に、歌人らしい鋭い創見を随所に見せた画期的な本である。足かけ8年、仕事に取りかかってから13年を費やしている。「この私注の最終巻の後記を記すにあたっって、事が終ったといふよりは、寧ろここから出発が始まるやうな心持で居る。、、」という心境になっている。その後も補正の執筆は生を終えるまで続く。三度改版を重ねている。昭和28年にはこの功績で芸術院賞を受賞している。「鉄ペンも得難き時に書き始め錆びしペンの感覚今に残れり」。また、もう一つのライフワーク「万葉集年表」は36歳で着手し、完成は実に文明90歳の春である。

 アララギの中興は文明の企画力と組織力に負うところが大きかった。文明は頻繁に地方アララギ歌会へ頻繁に出席する。それが人的交流の場を生み組織の拡大につながっていった。このあたりは知研の運営に参考になる。昭和4年には中津にも出かけている。

土屋文明は、生涯の転機に、常にいい人に出会っているという印象がある。昭和61年の96歳では同郷の中曽根総理から文化勲章をもらっている。

「垣山にたなびく冬の霞あり我にことばあり何か嘆かむ」は、敗戦直後に疎開先の自らを励ました歌だ。尊敬する先輩の茂吉は沈黙を余儀なくされた悔恨を詠んでいるのだが、文明は自分には滅びることのない「ことば」、つまり短歌がある。今からはそれを縦横に使える時代がきた。何を嘆くことがあろうか、と確信に満ちた宣言をしている。

「本来の仕事である日本文化向上のための仕事をどんな形で実行していったらよいか」「作歌は我々の全生活の表現であって、短歌の表現はただちにその作者その人となる。」「この新しい事態を諸君がいかに実践して居るか、その生活の真実の表現をこそ吾々は聞かむと欲して居るのである。そこにまだ短歌として開拓されない、ひろい分野が在るやうの私は思ふ」「世の動きに無関心で居るといふ意味ではない。実は運動や討論よりももっと根本的な所に関はろうとするからである」「生活と密着な文学として短歌は滅びない。実際短歌は生活の表現というのではもう足りない。生活そのものというのが短歌の特色。、、その少数者は「選ばれた少数者」の文学。、、」「現実主義(リアリズム)ということに尽きる」など、文明は力強い主張をして同学の人々を励ました。そして、100歳と2ヶ月という長寿をもって、一筋に精進を重ねた。この人は100歳時代のモデルである。

チベット仏教寺院。デパート。ザヘサンの丘。ボブトハーン宮殿。GOBIコーポレーション。ゲルキャンプに宿泊。

朝、ホテルで民主党文教族の斉藤九州男先生と名刺交換。福岡県直方の人。

貧しい人たちのゲル地区は山の方にも広がっている。国民の90%はチベット仏教を信仰している。

最初はカンダン寺を訪問する。この寺は1838年に活仏ボグド・ハーン5世によって建立されたチベット仏教寺院。1937年には破壊されたが、1940年に再建された。民主化以降は民族文化再興運動の中で、文化運動の中心的存在となっている。 仏教大学が併設されている。

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歩道の中では20人程の僧侶たちが今日は出ている。子供もいる。子供たちは僧侶の真似事をしているが、よく見るとスマホをいじっている。

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観音堂では27メートルの高さの大観音像が立っている。盲目となったボクド・ハーン8世の治癒を祈願した開眼観音。初代観音はスターリンによって破壊され持ち去られた。最初は坐像だったが作り直して、1,996年に再建された。この観音像はモンゴル人を見守っているとのこと。若いダライ・ラマの写真もあった。2,000の阿弥陀如来像もある。それぞれ顔が違う。観音像を右回りに回っていく。この中でも料金払うと写真撮影ができるとのこと。現在は昔の時代で、将来は阿弥陀如来の時代が来ると言う世界観だ。

この国では子供たちは仏教の学校に行く。小学校からの小学校からの義務教育は日本と同じ12年。卒業後は、そのまま進むか、普通の学校へ行くか本人に任されている。この学校で宗教教育が行われる。どの国も宗教によって、生き方や道徳を学ぶ。宗教教育がない日本はどこで教えるのか、という問いがある。・

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大型のデパート行く。ここではボールペンを日本買う。2本で1000円は高い。品質はよくない。

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本屋を覗く。ダライ・ラマの伝記を見かけた。モンゴルの人についての伝記も多いようだ。リンカーン、レーニン、毛沢東などの伝記が目についた。

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ベストセラー。世界の政治家の本が6位、7位はリー・クワンユー。

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商品はやはり垢抜けない。

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ザヘサンの丘。市内が一望できる。

ボグド・ハーン宮殿博物館。

最後の仏ボグド・ハーンが最後の20年を過ごした宮殿。

屋根が緑色に吹かれているとても綺麗だ。濃い緑と薄い緑色と。ここは政治と仏教の指導者の舞台となった。寺院の内部には曼荼羅仏教美術を集めた博物館となっている。中央アジアミケランジェロ。趣味はトラやライオンなど動物の剥製の収集であった。

門外には2階建てのロシア式の冬の宮殿があり、ゆかりの品々が多数展示されている。

モンゴル人の平均給与は4万円。物価は上昇中。男女同賃金。遊牧民の子供は都心の寮にはいる。モンゴルでは25歳から40歳が60/-70%。若い人が多い。平均寿命は65-70歳。冬は火力発電なのでスモッグがひどい。ガソリン1リットル70円。ロシアから輸入している。

山の手のマンションは高い。一戸建ちの庭にもゲル、屋上にもゲル。マンション地区は槌音が高い。車は右側通行。5つの火力発電所で、秋から春まではお湯のセントラルヒーティング。地下鉄はない。

 遊牧民は人口の30%程度であり、だんだん減ってきている。財産である家畜は自然の賜物でありなかなか管理が難しいこと、そして勉強のために海外に出る人が多いことなどが原因だ。親は都会のサラリーマンや、医者にしたい。

GOBIコーポレーションに到着。

ヤギの毛を手で選別するところから始まってすべての工程を見学できた。山羊一頭から最終的には250グラムのカシミヤしか取れないから高いのだ。この工場は

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日本のODA援助によってできた企業。1700人の従業員がいて、売上高は日本円で40億円。

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 工場長月のショップを見学する。輸出は4割、観光客4割、モンゴル人向け2割。エアロビックアジア大会があったようでベトナム、韓国、インド、イラン、日本などの子供たちが多く来ていた。

 ショップ内で行われたファッションショーに見入る人たち。金先生の姿も。

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 庶民用のスーパー。

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 宿泊するゲルキャンプに到着。

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 ゲル内部。

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夕食は大型のレストランゲルで歓談。

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 「名言との対話」9月17日。塚本幸一「リーダーというものは、下に対して俺を信頼しろというのではなく、まず自らが下を信頼すること。すべてはそこからはじまります」

 塚本 幸一(つかもと こういち、1920年9月17日 - 1998年6月10日)は日本実業家ワコール創業者。 

 第二次大戦でインパール作戦などに従軍した。復員後、ワコールの前身 和江(わこう)商事を設立し婦人用アクセサリー卸業を開始する。ワコールに社名変更し婦人用下着を主力商品とし、日本トップクラスの女性アパレルメーカーに育てた。京都商工会議所会頭、日本商工会議所副会頭、財団法人地域活性化センター理事長などを財界の重鎮となった。

塚本幸一の原点は大東亜戦争だった。地獄のインパール作戦。食料も弾薬も尽き、敗走に敗走を重ねる日々。戦死、病死、自殺、ゲリラや土民に殺される。毎日、戦友たちが死んで行く。復員船では「自分は生かされている」と信じるようになった。そして「これからの人生は52名の戦友に代わって、世の中のために生きていく」と決心している。一度死んだ体であり、地獄の白骨街道を生き延びた自分には戦友の魂が宿っていると信じ、商売の決死隊となった。「この世に難関などない。難関というのはあくまでも本人の主観の問題である。難関だと思っている自分があるだけだ」と仕事に邁進した。

甲州商人は大きな名刺を作り、いろいろと肩書きをつけて、『ハッタリ商法』をやるが、江州商人は、コツコツと汗と努力で築いていくと言われている。私も江州商人の血を引いているのだが、甲州商人ばりの逆戦法で、スタートを切った」

 「どうせ打ち上げるなら、目標は大きい方がいい。世界一の下着メーカーを目指そうと10年一筋の、50年計画を立てた。まず最初の10年で国内市場を育て、次の10年で確固たる地位を築く。70年、80年代は海外に進出。90年代は仕上げともいえる世界制覇である」

女性の下着を事業にした塚本は「格好よく言えば、私は女性を美しくすることに生涯をささげてきた。まことに幸せな人生というべきだ。」と述懐している。 その延長線上に文化を守り育てる企業像を創った。「来るべき世紀は、文化というものが、大きく評価される時代になると思います。企業評価といのも、数時の羅列だけで評価するのではなく、企業の倫理・文化性を含んだものにすべきでしょう」

この塚本幸一が住んだ京都の自宅にお邪魔したことがある。息子の能交さんが参加している会のイベントで訪ねたのだ。よく考えられた建物と庭の美意識に感動したことを思い出す。

部下を信頼することから始めよ、という塚本幸一のリーダー論は腑に落ちる。「上、下をみること3年、下、上をみること3日」というリーダーを戒める恐るべき言葉を思い出した。

モンゴル外務省。国立博物館。モンゴル国立大学。北東アジア協会。モンゴル主催の交流パーティ。

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 国会議事堂前のスフバートル広場で多摩大グループの記念撮影。

スフバートルはジンギスカンと並ぶ建国の英雄。1921年のモンゴル革命の指導者で1923年に30歳で夭折。「われが人民がひとつの方向に、ひとつの意志に団結するならば、われわれが獲得できないものはこの世に一つとしてない。われわれが知り得ないものもない。できないことも何ひとつとしてない」というスフバートルの言葉が刻まれている。

 モンゴル外務省を訪問。日本人捕虜が建てた建物。

日本モンゴル協会主催の会議に参加。

この協会は25年ほど前にできたもので、政治経済文化の日本とモンゴルとの関係の強化を応援する組織である。元首相のサドノン先生が名誉会長。この人は1991年に日本を公式訪問した初の首相。副会長は日本への初の留学生で外務省では大使、工業大臣を歴任した人で現在は太陽光による工場の社長をしている。司会のフレルバートル氏は前の日本大使で現在のこの協会の会長。

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 サドノン名誉会長の挨拶。

「1990年の3月に日本を訪問した当時は宇野外相。海部総理大臣からの招待がありモンゴルとしては困難な時代であったけれども、訪問を決断をした。ウランバートルと東京には直行便がなくハバロフスク経由であった。訪問は成功した。モンゴルとしては初の西側への訪問となった。このとき初めて日本と日本人について初めて接したことになる。1949年23歳の私は地方からウランバートルに出てきた。当時は日本人抑留者がインフラの建設に当たっていた。この外務省のビルやオペラ劇場の建設にあたった姿を見たことがある。1990年の記者会見では若者の政府への反対運動の広がりをどう思うかと聞かれた。私は将来世代の代表であり政権を引き渡すことに抵抗は無いと答えた。1990年3月4日に帰国。3月7日ハンガーストライキ。3月8日国営テレビで若者たちと意見交換。3月9日全国民回政権を受け渡すと表明した。社会主義から市場主義への平和的な方法で移行した初のケースだった。この時ソ連からの支援が中止となってモンゴルは苦境に陥った。援助を求めていたこの時期に日本がリーダーシップをとって支援してくれた。このことをモンゴル国民をよく理解している。1994年日本モンゴルの関係を促進するこの協会を設立した。1つだけ現在の課題を述べる。モンゴルは地下資源が豊富であり銅や金をたくさん産出できる。そして家畜は大変多い。しかし課題としては食肉加工の工場の運営がまだできていない。」

 寺島先生の挨拶。

「この8月まで日本大使であったフラルバートル先生に感謝を申し上げる。大使には敬意を表したいと思う。1つは、日本のモンゴル学が大いに発展しているのはバートル大師のおかげでもある。岡田英弘世界史の誕生」など歴史学者が育っているがこれはバートル大師の支援と参画のおかげである。 2つ目は北朝鮮大使の経験をもとに北朝鮮と日本モンゴルをつなぐ役割を果たされたことである。私の親しい経済人であるソフトバンクの孫さん、HISの澤田さんなどがモンゴルに於いて大きなプロジェクトを展開しているのを心強く思う。ソーラー風力、アジアスーパーグリッド構想…...大学連携では、多摩大、神奈川大学とモンゴルの大学との連携を模索したい。そして深みのある関係にしていきたいと思う。

斉藤勁先生の挨拶。「 2011年の民主党政権官房副長官として1月にウランバートルに来たことがある。その時北東アジアの中のモンゴルに対して何ができるかをの思いを巡らしてきた。母校である神奈川大学を通じて若者の交流を進めていきたいと思っている。

外務省のサンドラアジア局長。この方は女性である。「モンゴルの外交政策の1番目は多元的でオープンな外交政策だ。2番目はバランスという哲学である。3番目は中国とロシア以外の第3の隣国との交流である。価値を共有している弟3隣国としては、アメリカ、日本、韓国、トルコ、インドなどがある。国連を大切にしているし、社会主義時代の友好国であったラオスベトナム北朝鮮などとも友好関係を深めていく。そして発展途上国との連携も図りたいと思う。来年は北朝鮮との外交関係樹立70周年だ。モンゴルが北朝鮮の子供を育てて帰国させたりしたこともあり金日成出席も2度モンゴルを訪問している。国連の安保理事会の決議を実行する。一方で韓国、北朝鮮にもモンゴル人が住んでいる戦争はだめだ。対話のパイプを残したい。モンゴルには野心は無い。対話のイニシアチブをとっていきたい。北朝鮮の核ミサイル許さないし、安保理の決議を支持している。そして国際社会との協力を進めていきたいと思っているが、北朝鮮とアメリカとの対話のチャンスを残したいと思う。」

寺島先生。「この夏アメリカ欧州を回ってきた。その中で北朝鮮問題を議論してきた。まず指摘しておかなければいけない事はトランプ政権の性格が変わってきたことだ。ケリー、マティスなど軍事専門家が中心になってきて戦争計画が具体的になってきている。第二次大戦では日本に対するオレンジ計画があったが、現在北朝鮮に対してはブラックスワン(黒鳥)計画がある。アメリカは先制攻撃は避ける。韓国は融和的であり、ロシア中国が反対するからだ。もし軍事衝突があれば徹底的に叩くシナリオがある。カーボーイメンタリティー。海上封鎖があれば衝突が誘発される。この時アメリカは北朝鮮の電力、ネットワークを完全に遮断することになるだろう。イラクフセインとの戦争と同じだ。ここで1つのためらいがある。中国、ロシアそしてモンゴルも統一朝鮮は望んではいないのではないか。北は反撃能力があり、もし戦争やれば体制の転覆まで行かざるを得ない。日本政府の公式スタンスは、アメリカのすべてのオプションを全面支持するとしている。しかし私はこれは問題があると思う、核攻撃も含まれていると思われるからだ。  この7月7日ウィーンで122カ国による核兵器禁止条約に日本は反対した。オーストリアは日本こそ先頭に立つべきだと言っていた。北東アジアの非核化については日本の見識を示すべき時である。今日共通の方向感が必要であり、北東アジア全体の非核化をなんとしても行わなければならない。」

 斉藤先生。「緊張緩和に知恵を出さなければいけない。対話の場。2018年はモンゴルと北朝鮮の国交樹立70周年とも聞いた。朝鮮半島の混乱については日本にも責任がある。ぜひウランバートルで対話の機会を持つことを北朝鮮に電話してもらいたい。」

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モンゴル国立民族溺死博物館を訪問。

この日はモンゴルにおいては文化の日で休館であったが触れるバートル大師のおかげで見学ができた。

  モンゴル国立大学を訪問。副学長が対応してくれた。単位の認定等の問題もあり複数の教員による作業部会でやり取りをすることとなった。

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滞在ホテルのベスとウェスタン・プレミアム・トゥーシンで、 モンゴル北東アジア協会とのミーティング。財務大臣経験者など高いレベルの方々。

「日本と北朝鮮の問題については二国間ではなく、モンゴルで協議するのが良い。独裁政権は独裁者がいなくなると体制が一気に変わる。北朝鮮は  15,000,000人のソウル市民を人質に取っている形だ。日本とアメリカは戦争はできない。日本はこのことを知っていルはずだ。北朝鮮の1948年の建国以来モンゴルと北朝鮮は常に往来をしている関係にある。北朝鮮を2番目に認めた国がモンゴルだ。モンゴルは解決まではできないができることもある。協議をウランバートルで二回したことがあるし、拉致被害者に関わる孫との面談面談もウランバートルで実行した。モンゴルの立ち位置はノルウェーと似ている。控えめに。脱北者を7,000人から8,000人ほどモンゴル経由で韓国に逃しているが北からの批判は無い。国民やメディアもこのところ北朝鮮にはやや批判的になっている。国民同士の交流が大事だこのことが対立をなくなくすことになる。労働者の受け入れと交流は国民の視野を広げることになっている。北朝鮮はモンゴルの経験に関心を持っている。制度と実行には距離がある。じっくりとやらないばならない時間がかかる」

斉藤先生。「今後モンゴルの役割はますます重要となっている理解し合うと言うことが大事だ。国民同士の交流についてあらゆるチャンネルを覗く必要がある。その鍵はモンゴルではないか。」

「アメリカのプレッシャーに寄ってきたとの交流は減ってきていることを少し心配している。日本最初の無償援助であるゴビ砂漠のカシミヤ工場についても60名の女性を北に送還。この点については日本ももっと気を使う必要があると思う。北からのプレッシャーもある。国民の交流によって不都合なことが知られてくる。だから慎重になっている面もある。日本はアメリカにやり過ぎだと言うべきである。」

斉藤先生。「政権が変わっても対話の方針を維持しているのは素晴らしいことだ。民主化前後のご苦労は察して余りある。北東アジア協会並びにモンゴル政府の主導によって対話の場を設定しただけるとありがたい。学界の会議も行っていくべきである。」

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 フレルバートル前駐日大使主催のパーティー。

斉藤先生。「若者に未来を託したい。この訪問団はまだ8時間しか経っていないが何日間も経過した感じがあるのではないか。一つ一つの積み重ねが大事だ。発信しそして行動に繋げたい。学び合うことが大事だ。自分たちが何をするか何ができるかを一緒に語り会おう。」

外務省アジア局長。「日本とモンゴルの国交樹立45周年の年である。7月には大島議長が訪問された。この夏は6ー7割が日本との仕事であった。」

寺島先生。「この夏のウイーンにおける中東協力会議ではOPECや石油の問題を議論した。まさにユーラシアのパラダイムチェンジが起こっている。ロシアのプーチン習近平毛沢東化を進める中国。北朝鮮。モンゴル。戦略的意思で向き合おう。小さいが重要な一歩だ。それぞれがどう動くのか。」

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モンゴル財政金融大学の学長と提携について相談する機会があった。

 終了後、ホテルのバーで東海理研の社長夫妻と金先生と一緒に歓談。

 

「名言との対話」9月17日。ケンペル「日本人ほど丁重に礼儀正しく振舞う国民は世界中どこにも無い。世界中のいかなる国民でも、礼儀と言う点で、日本人に勝るものは無い。彼らの行状は百姓から大名に至るまで大変礼儀正しいので、我々は国全体を礼儀作法を教える高等学校と呼んでもよかろう」

エンゲルベルト・ケンペルEngelbert Kaempfer, 現代ドイツ語読みではエンゲルベアト・ケンプファー1651年9月16日 - 1716年11月2日)は、ドイツ北部レムゴー出身の医師博物学者ヨーロッパにおいて日本を初めて体系的に記述した『日本誌』の原著者として知られる。

ケンペルはスエーデン国王がロシアとペルシャへ送る使節団に医師兼秘書として随行。モスクワ、アゼルバイジャンペルシャを巡り、オランダ船の船医としてインド、シャムを経由して日本に到着。オランダ商館付き医師として2年間出島に滞在。2年連続して江戸参府し将軍徳川綱吉に謁見し、綱吉の所望で自作の歌と踊りを披露している。またケンペルは江戸で朝鮮通使の一行への熱狂ぶりを見物し「わが一行のことは、彼らの好奇心をそそるには、あまりに微々たる存在であったためだろう」と記している。

1995年にヨーロッパに帰国するまでの12年間の地球半周の大旅行であった。後に『日本の歴史及び紀事』を著し日本の風土や人物を紹介した。ケンペルは日本には聖職的皇帝と世俗的皇帝の二人の支配者がいると紹介している。『日本誌』のオランダ語第二版の付録論文訳出した都筑忠雄が1801年に「鎖国論」と名付け、日本語における「鎖国」という言葉が誕生した。

日本を西欧に紹介した医師では、ケンペル(1651ー1716)、シーボルト(1796ー1866)、そしてベルツ1849ー1937)がいる。いずれもドイツ人である。シーボルトはその著書で、この同国の先人を顕彰している。

江戸時代の日本人の礼儀正しさは世界一であっただろう。その後、江戸から明治にかけて多くの外国人が日本国内を旅行し、同じ感想を述べている。渡辺京二『逝きし世の面影』は、江戸時代から明治中期までの期間に確かにあった美しい一つの文明の姿を、日本を訪れた外国人の観察を紹介した名著だが、ケンペルはそういう人々の先駈けであった。元箱根にはケンペルの碑がある。

モンゴル訪問団ーーウランバートルのチンギスハン空港に到着。

 久しぶりの成田空港からモンゴルのウランバートルに出発。寺島実郎学長を代表とする訪問団。

大きくは多摩大グループ、神奈川大学グループ、戦略経営塾の経営者グループ、勁草塾のグループからなっている。合計で23名。まず、結団式。寺島学長からこの訪問団ができた背景と実りある成果をと言う話があった。その後自己紹介と名刺交換。

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この訪問団は15日から18日までの四日間になる。15日の早朝の北朝鮮のミサイル発射から18日の大型台風の関東通過までになると思うが、さてどうなるだろうか。

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 機内の地図サービスが面白い。成田からウランバートルまでのフライト時間は5時間30分。東京から韓国のソウル、黄海、中国の大連、天津、北京の上空を通り、ゴビ砂漠を超えて標高1,500メートルのモンゴル高原ウランバートルまで進む。当然のことだが、北朝鮮の上空は通らない。

 昔の隣が同僚のバートル先生。バートル先生は中国の内モンゴル出身のモンゴル族だ。15年前のモンゴル訪問の経験も交えていろいろ情報を伺う。

モンゴルは旧ソ連との蜜月時代はモンゴル人民共和国と称していた。この時代は中国の内モンゴルは経済的に苦境になり、外モンゴルつまり現在のモンゴルはソ連の援助もあり豊かだった。ソ連崩壊でモンゴルが苦境に陥ったとき、つまり民主化直後は日本がかなりの現場している。この事は国民皆が知っている。

モンゴルの政体は共和制で、大統領制と議院内閣制の併用だ。1917年のソ連誕生を契機に、1924年にはモンゴル人民共和国を建国している。 1989年のソ連崩壊後の1990年に社会主義を放棄し、 1992年に民主化。この国の統計を見ると、2011年にすべての項目が最高を記録している。それ以降は停滞気味だ。現在では輸出入とも中国が最大の貿易国であり、日本は自動車関連の輸入等でロシアに次いで第3位。日本はODAでモンゴルのインフラの充実に大きく貢献している。 1990年には航空協定が締結された。 2016年6月6日より日本とモンゴルのEPAが発行されている。親日国。戦争直後にソ連から配給された日本人捕虜たちがいた。彼らは政府庁舎、国立オペラ劇場、中央図書館、外務省、首相官邸、国立大学などを建設をしている。国内総生産は120億ドルと世界で133番目だが、石炭などを中心とする資源が豊富だ。

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 ウランバートルのチンギスハン国際空港に到着。

気温は10度ということだが外に出るとかなり冷える。

バスの内部は相当派手な作りになっている。日本に12名ほどいたというガイドのチングンさんからモンゴルに関する情報をもらう。

水は硬水なのでミネラルウォーターを飲むこと。トヨタプリウスが中心の日本車が多いが乱暴な運転なので気をつけること。乾燥しているので喉痛める人が多いので水を飲むこと。

モンゴルの国土は日本の4倍。北はロシア、南は中国と接している。人口は3,000,000人ほど。人のウランバートルには1,400,000人と人口の半分近くが住んでいる。そのうちの3割は都心のマンションに住み7割はゲル集落に住んでいる。社会主義時代には40万人として計画された年であるが、民主化されて一気に住民が増えて問題も多い。

モンゴルのエネルギーは火力発電がほとんど100%である。冬はマイナス30度から40度。

白鵬経営のトヨタショップ店、火力発電所の煙、ケンタッキーフライドチキン、カラオケ屋などを車窓に見ながら走る。

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 ホテル到着。早速チェックインした後は食事会。

高岡正人在モンゴル日本特命全権大使から挨拶があった。

「日本とモンゴルの国交が自立してから今年は45周年。いろいろな行事があり盛り上がっている。大島衆議院議長もモンゴルに来ている。7月の大統領選挙では予想に反して矢 野党の大統領が誕生した。現在は新しい首相の使命を待っているところだ。」

  夕食の席の向かい側は寺島学長、一般社団法人勁草塾を率いる元内閣官房副長官の斉藤勁先生、右が株式会社コバヤシの小林社長。経営者同士の情報交換が興味深い。このツアーから新しい企画が生まれそうだ。

左は多摩大の金先生を中心に北朝鮮の実情について盛り上がった話をしている。金先生は平壌の大学で数年間教えていたので、話はとてもリアルだ。

 

「名言との対話」9月15日。石田梅岩「自ら徳に至る道を実行せず、ただ文字の瑣末にのみ拘泥しているのは「文字芸者という者なり」」

石田 梅岩(いしだ ばいがん、貞享2年9月15日1685年10月12日) - 延享元年9月24日1744年10月29日))は江戸時代思想家倫理学者石門心学の開祖。

石田梅岩は、江戸初期の僧侶・鈴木正三(1579-1655)が説いた職分仏業説を発展させ、商業の本質は交換の仲介という役割を担っているとし、商売の利得を肯定し、倹約と富の蓄積を人間の天命であると考えた。

「売って利益を得ることは商人の道である。その利益は武士の給料と同じである」

「お客さんを粗末にせずに正直に努めれば、八割方はお客さんの満足を得ることができる。そのうえで商売に精を出せば、生活の心配などないのだ」

このような、どのような仕事も修行と考え一心不乱に励めという梅岩の思想は、町人にも歓迎された。後にこの勤勉の思想と名付けられた考え方は、日本の資本主義を準備したと評価されている。

字句の解釈よりも、心のあり方を重視し、これは朱子を批判した王陽明の心学と区別するために、創始者の名前を冠して石門心学という。それは庶民によく理解できる生活道徳であり、多くの心酔者を生んだ。

弟子には18歳で入門し石門心学の普及に功績をあげた手島堵庵がいる。また明治以降では講談社を創業した雑誌王・野間清治がいる。野間はビジネスにおける倫理の大切さを主張し、絵画を収集し野間記念館で展覧する礎を築くなど、実業以外にも社会貢献にも熱心だった。現在でも、心学敬明舎などで、梅岩の思想の研究が行われている。

在野の学者にすぎないと梅岩を批判する者も多かったが、「文字がなかった昔に、はなく、聖人はいなかったとでもいうのか。聖人の学問は行いを本とし、文字は枝葉なることを知るべし」といい、その後に、冒頭の学者に対する痛烈な批判を行っている。

本は行いで、文字は枝葉である。文字芸者になるな、この梅岩の言葉を心に刻みたい。