第9期インターゼミの最終発表会--サービスエンタメ班・AI班・アジアダイナミズム班・多摩学班

14時半:グランドパレスホテル:杉田学部長と来年度の運営について意見交換。

16時:九段サテライトでインターゼミの最終発表会。以下、学長コメント。

・サービスエンターテイメント班「ショッピングモールからみる消費文化」

日本の貧困化の中で消費がどうなっているのか。ショッピングセンター「ひまつぶしができる」という視点は面白い。デパートの落ち込みにも通じる、デパートはひまつぶしができない。スマホ命。人生が空ろに。SCにはユニクロファンケルニトリ、、。デフレ型ビジネスモデル企業。

・AI班「高齢者の明日へ--AIを活かし共生の道をひらく」

時代の中心テーマ。AIスピーカーは便利だが人間がダメになる。価値観の問題。老人と若者には尊敬と期待のコネクトが重要。共通のテーマ、プロジェクト。ジェロントロジーは異次元高齢化社会社会工学。参画と活用のダイナミズム。3500の公共図書館貸本屋化。文庫の図書館、ゼミ、カフェ機能に注目。生きた図書館。ネットワークと連携。参画のプラットフォーム。藤沢SSTの見守りへの注目。

・アジアダイナミズム班「モンゴル帝国のユーラシア興隆史」

世界観が変わる。重層的歴史観。日本はモンゴル研究が進んでいる。ハンガリー人にも蒙古斑。韃靼・タタール。タルタル(地獄が語源、潰す、ミンチ状)。司馬遼太郎「モンゴル紀行」。岡田、杉山。西洋史からの史観。モンゴル中心史観(中国の相対化)。中華史観(明は元の王子を沖縄に流した。ゆるやか)。日本にとってのモンゴルという視点(満蒙問題。「徳王の研究」内モンゴルの末裔の傀儡化の野望)。

・多摩学班「若者にとって魅力ある多摩地域の創生--若者呼び込みにむけた提案」

多摩は都市郊外型のモデル。サラリーマンのキャリアを持つ高学歴高齢者。スキルのデータベース化。ビッグデータ。語学、、。リニア新幹線で品川と甲府が10分。高齢者対応の若者によるビジネスモデル。多摩型ウーバー。コレクティブハウス多摩。交流の中心軸、思想、リーダーが必要。

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 帰りは新宿まで水盛先生と雑談。その後は、原稿のブラッシュアップ作業で南大沢まで。

 

「名言との対話」。12月23日。森戸辰男「何といっても教育の中心は教師です。いかによい制度ができても、いくらよい指導精神が紙の上ででき上がりましても、いくらよいカリキュラムや教育方法が考案されましても、よい教師がいなければよい教育は行えません」

森戸 辰男(もりと たつお、1888年明治21年12月23日 - 1984年(昭和59年)5月28日)は、日本の学者社会思想家教育者(初代広島大学学長)、政治家文部大臣)。

第一高等学校時代に新渡戸稲造校長の倫理の講義に感銘を受ける。東京帝大法科大学経済学科を卒業後、大学に残った。大内兵衛編集の機関誌「経済学研究」にロシアの無政府主義者クロポトキンの論文の翻訳を発表し、学内から排撃を受け、大審院で有罪とない失職。森戸事件と呼ばれる。大原社会問題研究所に迎えられる。戦後は日本社会党の代議士に当選、片山哲・芦田内閣で文部大臣をつとめた。教育を志し1950年政界を去り、原爆の惨禍の残る広島の広島大学学長として13年間尽力する。

大原社会問題研究所労働科学研究所理事長。全国放送教育研究会連盟理事長。NHK学園高等学校校長、能力開発研究所理事長。日本図書館協会会長。国語審議会会長。松下視聴覚教育研究財団理事長。日本教育会会長。森戸は教育界の役職をほとんど独占した観があるほど、戦後教育改革の手直しで活躍した人物である。

1966年には中教審会長として愛国心や遵法精神を説いた「期待される人間像」を答申している。世間の話題にもなっており、当時高校生の私はこの答申を題材にした作文を書いた記憶がありよく覚えている。また1971年には文部大臣の諮問機関・中央教育審議会会長として明治、戦後に続く「第三の教育改革」を答申(四六答申)している。

その森戸の教育論の中心は「よい教師」を創り出すことだった。制度、カリキュラム、教育方法などのインフラも重要だが、やはり教育は現場の教師の教育力に依るところがもっとも大きい。いかにして「よい教師」になるかは、教育現場にいる者の最大のテーマだ。

中津の文化総合誌「邪馬台」。「団塊の自分史--中津北高20回生の自分史リレー」が始まった。

中津の文化総合誌「邪馬台」2017年冬号(通巻205号)が届いた。

団塊」の自分史--中津北高校20回生(昭和43年卒)の軌跡、というタイトルで、友人たちの連載が始まった。まず、猪俣範一君の「中国国営企業買収と運営顛末①」という自分史。その前に松田俊秀君がこのシリーズが始まった経緯を書いている。

「編集後記」には、新貝正勝編集委員(前市長)が、「今号から中津北高校20回生(昭和43年卒)有志の「自分史」が始まることとなった。これまでのどちらかと言えば純文学的な編集方針とは大きく変わることとなるが、中津出身者の活躍ぶりを知って頂ければと思います」と期待をかいていただいている。

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以下、 松田俊秀君の「文春」への投稿原稿。

我らが母校は「福沢(諭吉)精神受けつぎて、、」と校歌にある大分県立中津北高校である。中津は最近では「官兵衛」ブームに沸いた。今回集まったのはビートルズと学園紛争の喧噪のまっただ中にあった昭和43年卒業の国立大学受験クラスの仲間だ。

上京組では、文武両道で優等生の清原は京大卒業後、三井物産で長く化学繊維を担当し活躍した。同級生が集まる神田の洞門(同級生の故・小川博世君経営)ではスマートな商社マン姿で現れた。今は我々監査役世代に対し、新しい時代の監査役像を示してくれる。

やや理屈っぽかった久恒は弁護士を目指し九大に入ったが、探検部活動に熱中。卒業後は日本航空に入社し40代半ばで宮城大学教授に転身。現在は多摩大で論客・寺島実郎学長を補佐し大学改革に邁進中だ。図解コミュニケーションというキーワードでベストセラーもあり、著作は100冊を超えている。

人柄のよかった吉森は大分大では寮長として指導力を発揮するなど変身し、入社した日本火災海上では大活躍し、合併した日本興亜火災の副社長執行役員にまでのぼりつめた。現在は同郷の夫人とともに中津に戻り仲間とゴルフ三昧とか。

 地元組では、才色兼備の須賀は東京教育大学を出て中津に戻り数少ない知性派女性市会議員として活躍する傍ら、途上国の加工品や農産物を販売する「フェアトレード・大地」の代表としてネパール・インドなどの生産者の生活改善や而立を支援していて頼もしい。

明るいがアバウトだった内尾は久留米大医学部を出て、現在は内尾整形外科の院長として信頼を集めている。一昨年まで母校の同窓会長として我々と、故郷・母校をつないでくれた。仲間が帰郷すると必ず宴会を開いてくれる同級生交歓のキーマンだ。

 バイクで耶馬溪から遠距離通学だった私は吉森と同じ大分大を卒業後、小野田セメント(現在は太平洋セメント)に入社し、全国8カ所を転勤。東(あずま)海運に転籍しCFOとして東証一部上場を実現したのが貴重な体験。今は病院ボランティアで忙しい。

 地方の名門でもない高校が一瞬の光芒を放った団塊最後列の世代であり、仲がいいのが特徴だ。母校の校歌は「、、ああ、独立自尊のナカーツキタコーコー」と続くが、「終わった人」(内舘牧子)にならないように、郷里の偉人に恥じない生き方をさらに続けていきたいものだ。

 

「副学長日誌・志塾の風」171222

 ・9時半:杉本係長:戦略会議

・10時:久米先生:日下(公人)スクール、、、。

・10時40分: 「立志人物伝」13回目の授業。作業に没頭中。f:id:k-hisatune:20171222225316j:image

 九段サテライト。

・14時:大学戦略会議:テーマ「国際」。国際交流センターの方針、、、。

・15時半:大学運営会議

・17時:JALの栢沼部長来訪。

 新宿三井ビルで懇親会。樋口先生、中村先生、石川先生。f:id:k-hisatune:20171222225924j:image

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「名言との対話」12月22日。神永昭夫「人並みにやっていたら、人並みにしかならない」

神永 昭夫(かみなが あきお、1936年12月22日 - 1993年3月21日)は日本柔道家講道館9段)。

全日本選手権を3度制した神永は、ライバル猪熊功と1960年代初頭に神熊時代を築いた。柔道がはじめて採用された1964年東京オリンピックでは無差別級に出場するも、決勝戦オランダアントン・ヘーシンクに敗れて銀メダルに終わった。母校の明治大学柔道部監督に就任し、上村春樹を育てあげた。1976年のモントリオールオリンピックで、上村が無差別級で金メダルをとる。その上村は、1978年の第1回嘉納治五郎杯の決勝で山下泰裕にやぶれ、引退を決意する。上村は後に第五代講道館館長となり、日本柔道界を牽引している。

 「敵に勝つには、まず、負けないことだ」

「全力を尽くしてやりました。それで負けたのですから、自分としては悔いはありません」。1964年の東京オリンピックの無差別級で、オランダのヘーシンクに敗れたときの記者会見で神永が語った言葉である。神永は日本柔道の敗北という批判にさらされた。当時中学生だった私もこの敗戦に衝撃を受けたことを思い出す。実は試合直前に左靭帯を断裂していたという。東北高校時代から柔道を始めた遅い出発の神永は猛稽古で精進を重ねた。確かに「人並みにやっていたら、人並みにしかならない」。神永の残した言葉をみると、明治大学柔道部監督として後進を育てたように、教育者的資質にあふれた柔道家であり、「勝負はいつでも負けから始まる。弱さを知ったときから技の工夫が始まるんだ」との言葉どおり、神永、上村、山下、、へとつながる柔道界の道筋をつけた功績には大きいものがある。

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 「名言との対話」12月22日。東郷平八郎「百発百中の一発、よく百発一中の敵砲百門に対抗しうる」

東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日1848年1月27日) - 昭和9年(1934年5月30日)は、日本の幕末から明治時代薩摩藩士、軍人

日露戦争では連合艦隊司令長官として指揮を執り日本海海戦での完勝により英雄となった。「東洋のネルソン」と呼ばれた。各地の東郷神社に名を残している。

日露戦争に勝利し、連合艦隊を解散し、平時編成に戻すことになった。その際に連合艦隊解散の辞として東郷が読み上げた訓示は米国のセオドア・ルーズベルト大統領が感銘を受け、英訳文を全米の海軍将兵に配布した。バルチック艦隊を破った名参謀秋山真之の起草した歴史的名文であり、以下全文を掲げる。

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20数ヶ月にわたった戦争も、今や過去のこととなり、わが連合艦隊は、今やその任務を果して、ここに解散することとなった。しかし艦隊は解散しても、わが海軍軍人の務めや責任が、軽減するということはない。この戦役で収めた成果を、永遠に保ち、さらに一層国運をさかんにするには、平時戦時の別なく、まずもって外からの守りに対し、重要な役割を持つ海軍が、常に万全の海上戦力を保持し、ひとたび事あるときは、ただちに、その危急に対応できる備えが必要である。
ところで、その戦力であるが、戦力なるものはただ艦船兵器等有形の物や数によってだけ、定まるのではなく、これを活用する能力すなわち無形の実力にも実在する。百発百中の砲は、一門よく百発一中、いうなれば百発打っても一発しか当らないような砲なら百門と対抗することができるのであって、この理に気づくなら、われわれ軍人は無形の実力の充実、即ち訓練に主点を置かなければならない。先般わが海軍が勝利を得たのは、もちろん天皇陛下の霊徳によるとはいえ、一面また将兵の平素の練磨によるものであって、それがあのような事例をもって、将来を推測するならば、たとえ戦争は終ったとはいえ、安閑としてはおれないような気がする。
考えるに軍人の一生は戦いの連続であって、その責務は平時であれ、戦時であれ、その時々によって軽くなったり、重くなったりするものではない。事が起これば、戦力を発揮するし、事がないときは、戦力の蓄積につとめ、ひたすらその本分を尽くすことにある。過去一年半かの風波と戦い、寒暑に直面し、しばしば強敵とまみえて生死の間に出入りしたことは、もちろんたいへんなことではあったが、考えてみると、これもまた、長期の一大演習であって、これに参加し、多くの知識を啓発することができたのは、軍人として、この上もない幸せであったというべきで、戦争の苦労も些細なものにしてくれるといえよう。もし軍人が太平に安心して、目前の安楽を追うならば、兵備の外見がいかに立派であっても、それはあたかも、砂上の楼閣のようなものでしかなく、ひとたび暴風にあえば、たちまち崩壊してしまうであろう。まことに心すべきことである。
むかし神功皇后三韓を征服されて後、韓国は400余年間、わが支配の下にあったけれども、ひとたび海軍がすたれると、たちまちこれを失い、また近世に至っては、徳川幕府が太平になれ、兵備をおこたると、数隻の米艦の扱いにも国中が苦しみ、またロシアの軍艦が千島樺太をねらっても、これに立ち向うことができなかった。目を転じて西洋史を見ると、19世紀の初期ナイル及びトラファルガー等に勝った英国海軍は、祖国をゆるぎない安泰なものとしたばかりでなく、それ以後、後進が相次いで、よくその武力を維持し、世運の進歩におくれなかったから、今日に至るまで永く国益を守り、国威を伸張することができた。
考えるに、このような古今東西の教訓は、政治のあり方にもよるけれども、そもそもは軍人が平安な時にあっても、戦いを忘れないで、備えを固くしているか、どうかにかかり、それが自然にこのような結果を生んだのである。
われわれ戦後の軍人は、深くこれらの実例、教訓を省察し、これまでの練磨の上に、戦役の体験を加え、さらに将来の進歩を図って、時勢の発展におくれないように努めなければならない。
そして常に聖諭を泰戴して、ひたすら奮励し、万全の実力を充実して、時節の到来を待つならば、おそらく、永遠に国家を護るという重大な責務を果たすことが出来るであろう。
神は平素ひたすら鍛錬につとめ、戦う前に既に戦勝を約束された者に、勝利の栄冠を授けると共に、一勝に満足し、太平に安閑としている者からは、ただちにその栄冠を取上げてしまうであろう。
昔のことわざにも「勝って兜の緒を締めよ」とある。
        1905年12月21日 連合艦隊司令長官 東郷平八郎

 救国の英雄・東郷平八郎は、教訓の省察、技術の錬磨、時勢の知悉で、時節の到来に備えよ、と語っている。百発百中の必殺の大砲一つは、百発一中という精度の悪い大砲百に対抗できるという言葉で、限界のない訓練による技術の錬磨の大切さを述べ、平時においても鍛錬を重ねよと将兵を激励している。そして幸運な勝利に満足してこの鍛錬を怠った者は、すぐに亡ぶと警鐘を鳴らしている。それから40年後の1945年に奢った日本は壊滅してしまう。日本は東郷の戒めの「兜の緒」を締めることができなかったのだ。

出版社社長、発明学会会長、哲学者、元校長、ボイストレーナー、弁護士、作家、編集者、定期借地借家推進機構副理事長、、。

夕刻から、日本地域社会研究所で企画・編集会議という名の飲み会。人が来たり、帰ったりで入れ替わる。発明学会会長、定期借地借家推進機構副理事長、哲学者、元校長、ボイストレーナー、弁護士、作家、出版社社長、編集者、、。

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 知的生産の技術研究会の例会セミナーの予定。メーリングリストで流すこと、HPに書き込むこと。

・1月26日:矢矧精一郎:会場は代々木。

・2月23日:鹿児島の女性。会場は代々木。

・3月16日:中沢(日経新聞)「私の履歴書」の書き方」。会場は荻窪の地研。

 

 「名言との対話」12月21日。松本清張「疑いだね。体制や学問を鵜呑みにしない。上から見ないで底辺から見上げる」

松本 清張(まつもと せいちょう、1909年明治42年)12月21日- 1992年平成4年)8月4日)は、日本小説家

北九州の小倉城脇に立つ地上2階、地下1階の松本清張記念館を訪ねる。床が磨きこまれていて、手入れの行き届いた素晴らしい記念館である。自宅を模した建物が一階と2階から見れるようになっている。放映しているビデオは、縁のあった編集者たちが語る松本清張を流していて興味深い。この作家の作品は映画化されたものが多いが、そのいくつかを上映もしている。読書コーナーも設けてある。作品もたくさん用意されており、好きなものを買うのに困らない。今までみた記念館でも最上の記念館のひとつである。

作家活動40年の間に書いた作品は長編・短編を含め実に1000編に及ぶ。著書は700冊。全著作がステンドグラスのように展示されている趣向にも感心した。42歳という遅い出発だったにもかかわらず、この量と質だから、常に時間との戦いということを意識していたのもうなずける。出来合いの分野の垣根を軽々と越えてあらゆるジャンルに関わりながら書き続けた。分類では、歴史・時代小説、自伝的小説、評伝的小説、推理小説、自伝・エッセイとなっていた。邪馬台国論争などにも関わり、歴史学者の心胆を寒からしめたり、とにかく守備範囲が広い。

清張の文学を「脱領域の文学」という評もある。主題によって小説の形式を決定し、表現方法を考えるという作風で、フィクション、ノンフィクション、評伝、古代史、現代史とあらゆる分野を跨いでいった国民作家である。堅固な構造のストーリー・スピード感のある展開・絶妙に語られる人間や風景の描写・これらの要素が織り成す小説的リアリティ。

松本清張は、昭和55年から日記をつけ始めた。清張71歳の時である。内容は旅の記録、人との交遊、歴史上の事件に対する懐疑、人物批評、などさまざまだが、清張らしい緻密な内容だ。この年齢での行動力に感心する

「小説も正式に勉強したことがないし、何をやっていいかわからない。ただし人の足跡のついていないところを歩いてみたい。」

「 疑問のところをとらえて、それを深く突っ込む。だから調べていく。探索していく。これがまた、自分の好奇心を満足させるわけです 。」

「歳をとって、よく人間が涸れるなどといい、それが尊いようにいわれるが、私はそういう道はとらない。それは間違っているとさえ思う。あくまで貪欲にして自由に、そして奔放に、この世をむさぼって生きていたい。仕事をする以外に私の涸れようなんてないんだな。」

北九州市小倉の松本清張記念館で「1909年生まれの作家たち」という企画展が行われており再訪。中島敦太宰治大岡昇平埴谷雄高、そして松本清張という並べれた作家たちの生きた時代に興味を持った。1909年という年は、伊藤博文が朝鮮で暗殺された年であり、文学誌スバルが創刊された年でもある。年譜をみると、彼らの少年時代は大正デモクラシーの時代で、自由主義教育、大正教養主義の盛んな時期で、教育の現場では「綴り方」が行われていた。この同年生まれの5人の作家の全集が並べてあった。中島は3巻、太宰は12巻、埴谷は19巻、大岡は23巻、そして清張は実に66巻と圧倒的な仕事量だった。(それそれ別巻がある)5人の年表を並べて掲示してあった。中島は33歳で「山月記」、34歳で没しているが、死後「李陵」が発表された。太宰は、35歳で「津軽」を刊行。大岡は39歳で「俘虜記」。埴谷は39歳で「死霊」。そして松本清張は44歳で「小倉日記伝」で芥川賞を受賞して世に出ている。清張はこの中でも遅咲きである。清張は83歳で亡くなるまで膨大な仕事をしたし、88歳で亡くなった埴谷はその直前まで作品を発表している。全体を眺めてみると、活躍した時代をずいぶんと違う。生年ではなく、没年が重要なのだ。

この松本清張記念館は第56回の菊池寛賞を受賞している。「水準の高い研究誌を刊行しつつ、多彩な企画展を催すなど、健闘しながら開館十年を迎えた」と評価されている。女性館長藤井康栄さんは「作家・松本清張らしく運営することにいたしました」と述べているように、仕事の鬼だった清張にならって年中無休で開いている。

 清張は「好奇心の根源とは?」との問いに、「疑いだね。体制や学問を鵜呑みにしない。上から見ないで底辺から見上げる」とビデオの中で語っている。体制、学問、権威、通説、大家、常識、こういうものに敢然と挑戦するこの作家の神髄を表す言葉だ。幅の広さと奥の深さと圧倒的な仕事量で時代に屹立した大小説家の姿勢に感心した。

多摩:「事業構想論」で講義、教授会。上野:「北斎とジャポニズム」展、「南方熊楠」展。広尾:野田先生を囲む会。

9時:「事業構想論」の授業でゲスト講義:テーマは「大学改革の『多摩大モデル』。問題解決と事業構想。事業構想とは何か。多摩大再生の戦略と現在、そして未来。

 10時:学部運営委員会。教授会前の意思統一。

 10時40分:教授会。580頁のデジタル資料。

 12時20分:パソコン関係会議。

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  夜までの空き時間を使って上野へ。

国立西洋美術館で開催中の「北斎ジャポニズム」展。

国立科学博物館で開催中の「南方熊楠 100年早かった智の人」展。

 17時:赤坂の野田事務所でBMネットワークの高橋茂人さんと待ち合わせ。

18時半:広尾のレストランでで野田先生囲む会に出席。

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以下、名刺交換した方々たち。

NIインテリジェントイニシアティブの西野会長(NPO法人CeFIL理事)と再会。SELTECHの井川さん(総務・人事マネジャー。多摩大で一緒だった)。オーエスグループの奥村代表(岡山で会っている)。浜銀総研の佐伯部長。エムオーテックスの河之口社長。木村税理士。ミキフーズの井沢社長。伊藤忠商事の中井さん。玉川大学の小酒井先生。CylanceJapanの金城社長。かぜの子チェーンの成田さん。仙台の陽季亭の八田美夕店主。アトリエ・マ・ヌー主宰の力丸さん(宮城大久恒ゼミ一期生)。トイレの白倉さん。弁護士の石橋さん(宮城大久恒ゼミ)。

 

「名言との対話」12月20日。藤本定義「おい哲(川上哲治監督)!うちの豊(江夏豊投手)を乱暴に使いやがって!この馬鹿野郎!」

藤本 定義(ふじもと さだよし、1904年12月20日 - 1981年2月18日)は、愛媛県松山市生まれのプロ野球監督東京巨人軍初代監督。

9シーズンで7度の優勝という巨人軍第一次黄金期を築き1942年シーズン終了後に辞任。1946年パシフィックの監督として球界に復帰。選手の待遇改善のために日本野球選手会〔現:日本プロ野球選手会〕を発足させ初代会長に就任した。1948年から1956年まで金星スターズ(1949年からは大映スターズに球団名変更)の監督。1957年から1959年阪急ブレーブス監督。1960年阪神のヘッド兼投手コーチ、1961年途中から阪神監督に就任。1962年には「打倒巨人」を掲げて1962年1964年にリーグ優勝。1968年勇退。監督としての実働期間29年は歴代最長である。「先発ローテーション」を本格的に導入。エースの連続起用を指して「30勝投手を出すのは監督の恥」と批判した。通算成績は3200試合で1657勝1450敗93分。勝率.533。リーグ優勝9回。

「(自分は監督として)誠実、愛情、根気、この三つで選手に対峙してきた」

「敵を知り、味方を知って勝つのは「一流」。敵を知り、味方を知らず勝つのは「二流」。敵も知らず、味方もしらずに勝つのは「三流」。全部しらずに負ける奴は「四流」だなあ」

オールスターで川上監督が阪神の江夏を3連投させたため、阪神巨人戦の試合前において、阪神の藤本は巨人の川上を阪神ベンチに呼び出しものすごい剣幕で叱った。ライバル球団の監督を叱るという出来事に名監督川上は直立不動で藤本の話を聞いていたという。江夏の回想である。この事件は、2017年12月現在、江夏が連載中の日経新聞私の履歴書」にでてくるだろうか。

文藝春秋95周年記念号(完全保存版)

文藝春秋95周年記念号。完全保存版。

文藝春秋 2018年 01 月号 [雑誌]

 -塩野七生「精神のインフラとしての読書」。小泉純一郎「2018年は明治維新150年」「簡素な税制」「ハイパーインフレ」。

-高倉健「出演総数205本」。美智子皇后「かの時に我がとらざりし分去れの片への道はいずこ行きけむ」。山崎豊子「進行表。あらすじと備考と疑問点」「トップに会う。録音。書き起こし。書き込み」。本田宗一郎「寝食を忘れ、親兄弟を忘れ、金銭を忘れ、名誉を忘れ、世俗の野心を忘れ、好きなことに思いっきり打ち込む」。井上ひさし「読んだ本の種類と数量で言えば断トツ」。宮崎駿「幼児性」。森繁久彌「ピンとキリだけ知っておけばいい」。城山三郎「読者こそ、僕の勲章」。渡辺淳一「人間をきちんと書け」。土光敏夫「日本人が、世界の中で冷や飯を食うような時代が来ないようにするためだ」。白洲正子「子どもたちには無関心」。福田恒存「保守とは人間の平衡感覚」。中曽根康弘「大学ノート13冊」。川端康成「中学時代、ノーベル賞作家になる夢」「葬式と弔辞の名人」。ヘミングウェイ「タイプライターで原稿を立って書いた」。菊池寛「200の落語。菊池寛落語」。堀江謙一コロンブスもパスポートは省略した」。山本夏彦日本橋の浜町河岸、あい鴨の鳥安、うなぎの前川、神田川。てんぷらの中清。」中華街。三渓園の古い料理屋」。山田風太郎「敵が寛大に日本を遇し、平和的に腐敗させかかて来る政策を何よりも恐れる」。篠沢秀夫「毎夕3時間。8年間で6冊の本」「宮城谷昌光「小説をかきはじめるまえに年表を作る」。鴨下信一「昭和芸能史。昭和のことば」。野村克也「筋書きを書いて演出までやるのがキャッチャー」。林真理子私の履歴書同級生交歓」。

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午後:大手町の日本経済新聞社を訪問。中沢編集員と面談。中沢さんは「私の履歴書」の執筆者。オリエンタルランドの加賀美俊夫。オムロン立石義雄月桂冠の大倉敬一。セキスイハウスの和田勇。作家の小松左京。作家の倉本聡。帝国ホテルの村上信夫。漫画家の水木しげる。コメディアンの萩本欽一。画家の小泉淳作人形遣いの吉田蓑助。島津製作所の矢島英敏。「場面で描く」「動き」「スケルトン」「失敗談をユーモアで」、、。2月に地研。3月に講演。

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夕刻:有楽町の交通会館のスカイラウンジで橘川さんらとミーティング:目黒高校でのセミナー。教育システム。日本未来学会のゲーム研究会。アジアの300の学校とマーケッティングと留学生。ドレミングギークハウスのシェアハウス運動。ビットコイン。いびき外来。

 

「名言との対話」12月19日。井上成美「日露戦争で勝った発想で、現在の軍備を考えているとは、時代錯誤そのものである」

井上 成美いのうえ しげよしせいび1889年明治22年12月19日- 1975年(昭和50年)12月15日)は、日本海軍軍人。海軍大将となった最後の軍人。

井上成美は、明治22(1889)年、宮城県仙台市生まれ。仙台の、仙台二中を卒業し、江田島海軍兵学校に学ぶ。海軍兵学校の入学時の成績は180名中8番、卒業時は2番だった。

当時の井上軍務局長は、米内光政海軍大臣山本五十六海軍次官と共に1937年の日独伊三国軍事同盟に「集団防衛というけれど、日本にドイツからどれだけの援助があるのか。またできるのか。強い国と仲良くしていかなけりゃならんのに、アメリカとも仲が悪くなるし、イギリスとも悪くなる。一方で、ドイツからは何等の恩恵もこうむらない。日本にとって何のメリットもなく、得するのはドイツだけです」と最後まで反対し、日米開戦にも強硬に反対した。

「敗戦は亡国とはちがう。古来いくさに勝って国が滅亡した例は少なくない。逆に戦いに破れて興隆した国がたくさんある。無謀の戦争に此の上本土決戦の如き無謀をかさねるなら、日本は本当に亡国になってしまう」は、早期講和を主張して米内大臣と対立した時に、井上成美が言った言葉である。

東郷元帥については「人間を神様にしてはいけません」と言い、また山本五十六神社建立の動きに対しては「軍人を神格化するなどもっての外の沙汰だ」と戦後の阿川弘之のインタビューに答えている。阿川は『井上成美』を書いた。敗戦直後から住んだ三浦半島長井の旧井上邸が記念館になっていたが、東日本大震災で被災し閉館になっているようだ。

海軍では自らをラジカル・リベラリストと称していた井上成美、そして米内、山本などの軍人が枢要な地位にいたのだが、歩兵中心で精神力を基盤とする陸軍と、合理主義の技術者集団である海軍とは相容れなかったようである。世界は日々進歩を重ねており、科学と技術の分野は目覚ましいものがあるが、しかし日本だけが戦略と戦術に関しては進歩というものがないとして、日露戦争勝利の成功体験から抜け出せない時代錯誤の体質を井上は危惧していた。そして、その危惧は現実のものになった。

トレンドウオッチャー第10回「AIスピーカーが暮らしを変える」。ラウンジで「ちょい飲み会」。

本日の夕方は、大学のラウンジで飯田先生が発起人のちょい飲み会。

入れ替わりで10数人の先生たちが集合。ちょくちょくやりましょう!f:id:k-hisatune:20171218212514j:image

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16時:杉田学部長:来年度人事についての相談。

 

第10回のトレンドウオッチャー「AIスピーカーが暮らしを変える」

www.youtube.comwww.tama.ac.jp

「名言との対話」。12月18日。志賀潔「なにごともまじめに しんぼう強く 元気よく やりとおせば きっと りっぱなしごとを なしとげることが できます」

 志賀 潔(しが きよし、1871年2月7日明治3年12月18日) - 1957年昭和32年)1月25日)は、日本の医学者細菌学者である。

志賀潔帝国大学医科大学を卒業し、大日本私立衛生会伝染病研究所に入所、北里柴三郎に師事する。27歳で赤痢菌を発見する。赤痢菌の属名は志賀に因んでShigellaとされた。再度のドイツに留学後には、恩師・北里柴三郎の伝染病研究所退職に伴い自身も退職し、新たに創設された北里研究所に入所する。慶応義塾大学教授を経て、朝鮮総督府医院長・京城医学専門学校長、新設の京城帝国大学医学部長、そして58歳で総長に就任した。1944年文化勲章仙台市名誉市民。

「人が病気にならない研究をしよう」

「先人の跡を師とせず、先人の心を師とすべし」

「自ら信ずる所篤ければ、成果自ら到る」

宮城県亘理町の海岸で東日本大震災で被災した中浜小学校を2016年10月に訪問したことがある。わずか20分の間に津波が4波襲来した。1メートルの地盤かさ上げ、適切な誘導、屋根裏部屋の存在が小学生全員の命を救った。この津波で斃れたままになっている碑には、明治9年には6尺、昭和8年には7尺5寸の津波が襲ったとの記述がある。今回の3・11は10メートルという高さだった。

この亘理は志賀潔が晩年の1949年以来過ごした温暖な地である。高台にあった志賀潔の別荘(貴洋翠荘)は最近の火事で燃えてしまったのだが、中浜小学校にある倒れた碑には志賀潔の素晴らしい言葉が刻まれていた。それが昭和33年5月5日のこどもの日の日付の冒頭の言葉である。どのような仕事も「まじめに、しんぼう強く 元気よく やりとおせば」、成果はあがる。世界的細菌学者・志賀潔は、そういう当たり前だが、深い真実の言葉を故郷の小学生たちに贈ったのである。

浜口雄幸『随感録』--「偉人は凡人の修養の結晶物であり、大業は其の偉人の努力の結晶物である。」

 浜口雄幸『随感録』(講談社学術文庫)を読了。

 城山三郎『男子の本懐』で知られるライオン宰相浜口は土佐高知生まれ。1929年に総理就任後、金解禁、中国関税自主権の承認、ロンドン海軍軍縮条約の締結など困難な課題に取り組んだ。大蔵省に入るが、上司への直言のため、山形、松山、熊本など地方勤務を余儀なくされている。昭和恐慌のさなか、浜口は東京駅で銃弾に倒れる。その時、苦しい呼吸の下から「男子の本懐だ!」と言っている。それが城山三郎の小説のタイトルとなった。

また、浜口は後藤新平から目をかけられ、満鉄理事の就任を望まれるが固辞し、次に後藤が逓信大臣になった時には次官に就任する。そして浪人生活中に、後藤の感ゆうで立憲同志会に入党し政党政治家への道を歩んでいる。浜口は熟慮した上で、自己の意志を貫いており、出処進退に悔いることはないと断言している。

幣原外交と井上財政と呼ばれる政策を首相として断交した。この本の「自序」では、「建艦競争の危険防止と、国民負担の軽減とを、二つながら成功せしめたことは、聊か余の満足するところである」と触れている。その浜口は修養上の参考を目的として著したのが本書だ。

随感録 (講談社学術文庫)

以下、本文から。

・議会の弁論に於いて、、、攻撃は難く防御は易い、、攻撃演説の場合に於いては、、、政府軍の金的に命中せしめなければ成功とは言えない、否、少なくとも五分以上の相撲を取らねば攻撃軍の敗戦、、。

・第一に余は生来極めて平凡な人間である。唯幸いにして余は余自身の誠に平凡な人間であることをよく承知して居った。平凡な人間が平凡なことをして居ったのではこの世において平凡以下の事しか為し得ぬこと極めて名涼である。

・政治の目的は、国民の物質的生活を充実せしむると共に、更に進んで其の精神的生活を充実せしむるにあらねばならぬ。

・緊張せる心の力と、緊張せる肉体の力との共働的活動に依って、人間というっものは摩訶不思議なる大きな事業が出来るものである。

・多読濫読よりは、斯道の権威者の力作一又は二を、徹頭徹尾精読数回に渉って十分に之を頭脳に消化するに如かずと思う。

・問題は最後の五分間だ。そこが最も大切な処だ、うんと踏ん張るべし、、、。公人が公事に臨むや、終始一貫、純一無雑にして、一点の私心を交えないことである。

・偉人は凡人の修養の結晶物であり、大業は其の偉人の努力の結晶物である。

・『碧巌録』

・一発の銃声と共に61歳の浜口雄幸は死んだのである。之と同時に第二の浜口雄幸なるあらたな生命が生まれたのである。

 

「名言との対話」12月17日。勅使河原蒼風「花は、いけたら、花でなくなるのだ。いけたら、花は、人になるのだ。」

勅使河原 蒼風(てしがはら そうふう、1900年12月17日 - 1979年9月5日)は、日本の芸術家いけばな草月流創始者1927年草月流を創流。「草月」は、勅使河原家の家紋「根笹に三日月」に由来する。

1927年に独立して草月流(1953年財団法人草月会発足し理事長に就任)を創始し、いけ花の近代化につとめる。観客側を正面として、観客に向かい作品の背後から手探りでいけていく「後ろいけ」など斬新な手法を多く提供した。1955年のパリ個展が盛況で、フランスのフィガロ、米タイム誌等で「花のピカソ」と賞賛された。創作はいけばなに留まらず、彫刻、絵画、書にも亘る。映画『切腹』や『怪談』では題字をてがけている。

1960年、フランスの芸術文化勲章1961年にはレジオンドヌール勲章1962年には芸術選奨を受賞。

「若しこの世の中に、植物が一つもなかったとしたらどうだろう。どっちを見ても花はない。そういうとき私たちは、一体何をいけるだろう。私は、そこに石があったら石、若しくは土があったら、土をいけるだろう」

「いけばなは生きている彫刻である」と喝破する勅使河原蒼風は、「花」突きつめていく。「求めていなければ授からない。だから、いつでも求めていなければならない。自分だけが授かるものがどこかにある。それを授かるのはいつなのか。ついに授からないかもしれないが、求めていなければ授からないのだ」。そして、いけた花は花ではない、いけた花は人になる。そういう境地にまで達している。