上野の国立西洋美術館の「プラド美術館展 ベラスケスと絵画の栄光」。

上野の国立西洋美術館の「プラド美術館展 ベラスケスと絵画の栄光」。

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 ベラスケスは、スペイン絵画の黄金時代の17世紀バロック期のスペインの画家で、マネが「画家中の画家」と呼んだ巨匠である。

才能豊かなベラスケスを「二足の草鞋の人生」という観点から眺めてみたい。

24歳で「王の画家」になったベラスケスは。宮廷官吏、宮廷警吏、王の私室取次係、王室衣装係、王室侍従代、王室配室係、王室配室長と栄達を極めていく。有能な官僚だった。1660年のマリア・テレサの婚儀での采配し、「夜に旅し、昼に働くという日々の連続」というハードなスケジュールをこなしている。王宮内の雑務すべてを掌握し、監督し、改宗ユダヤ教徒の家系という負の遺産を背負ったベラスケスは、貴族にしか認められないスペイン最高位の一つである名誉あるサンティアゴ騎士団への入団が許された。

しかし、それに連れて画家としての時間はなくなっていった。本来の画家の職務以外に、激務の何倍もの時間を宮廷職に費やさざるを得なかった。王の寵臣の喜びと哀しみは裏表だったのである。

宮廷画家としては、ベラスケスは生涯で120点しか描いていない。主として肖像画を描いた。本人は若い頃から遅筆であったといわれるが、時間がなかったのである。そのうち7点がスペインのプラド美術館からやってきた。

・「ファン・マルティ・モンタニェースの肖像」(制作中の彫刻家を描いた)

・「メニッポス」(哲学者)。

・「マルス」(軍神マルスの放心状態)

・「狩猟服姿のフェリペ4世」(長い銃を持ち猟犬を従えた姿)

・「バリューカスの少年」(矮人の肖像家)

・「王太子バルタサール・カルロス騎馬像」(王子の顔から緑の丘陵。近代的描法、吉田秀和は「絶対色感」と述べた)

・「東方三博士の礼拝」(描かれた人物はベラスケス自身や周辺の人物)

22歳年上のバロック期フランドル画家ルーベンス1577年6月28日 - 1640年5月30日)は、ベラスケス(1599年6月6日(洗礼日) - 1660年8月6日)がロールモデルとした友人であり、ライバルであった。

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「名言との対話」3月26日。山口誓子「私はただ事に当って全力を尽くしただけのことである」

 山口 誓子(やまぐち せいし、1901年明治34年)11月3日 - 1994年平成6年)3月26日)は京都府出身の俳人

虚子の名は、清からでた。誓子は、本名の新比古(ちかひこ)を二分して「ちかひ」を誓、「こ」を子を当て、「ちかひこ」と名乗った。虚子が「せいし」君と呼んだので、そのままになった。

25歳に住友合資会社で働き、病気療養を経て41歳で退社している。47歳、『天狼』創刊。56歳、朝日歌壇の選者。誓子は病気療養中でも、一日も作句を怠ることはなかった。

誓子の俳句に連なる巨人たちの論評がいい。

芭蕉:「よく物を見る」は」芭蕉に始まった。「句整はずんば、舌頭に千転せよ」。

子規:自得悟入型のひと。絵画の写生を俳句、短歌、文章に適用し、そのおのおのを新しくスタートせしめた。

虚子:子規の教えに従って、俳句を進展せしめたのは虚子。文章を進展せしめたのも虚子。写生文の流れは虚子、左千夫を経て漱石長塚節を生んだ。

茂吉:素材拡大の精神を学んだ。近代と西洋。「実相観入」。現実に入って感動し、具象的表現を得て外へ引き返す。短歌を進展せしめたのは茂吉。

誓子は、ケーベル先生の如く「余は常に多くのことを学びつつ老いる」ことを念願する者であると述べ、見たり、聞いたりした事物のメモをとって置き、そのメモを土台にして句をまとめていく。

以下、俳句論。

・俳句は日常的なものに深い意味を読みとる詩である。作者は日常的なものに深い意味を読みとる眼を養わなければならぬのである。・即物具象。即物は観照の段階。具象は関係付けを得て出てくる表現の段階。・物と物とが照らしあわしているという相互関係が必要なのだ。その物と物とがぶつかりあって、火花を散らさなければならぬのだ。そこが短歌とちがうところである。・私の俳句方法は、「物」から入って、その内部の、眼に見えざる関係を捉え、引っ返すときに、又、「物」から出てくるのである。・物は変化して一瞬もとどまることはない。しかし物は他の物と関係しながら変化する。俳句は、その物と物との関係をとらえて物を定着すり詩である。・物は他の物と関係しながら変化している俳句はその物と物との関係をとらえて定着すり詩である。この俳句信条を私は般若心経から学んだ。

以下、選者論。

・選者には俳句観が確立していなければならぬ。俳句がいかなる詩であるかという考えが確立していなければ、他人の句をさばくことができない。選者は自己の俳句観に照らして俳句のよしあしを決め、あたこれは俳句なり、これは俳句に非ずと篩い分けるのだ。・選者は他人のよきところを伸ばさねばならぬ。それによって他人の進むべき道を示すのだ。選者はそのような指導者であり、教育者である。

 

 凧の糸青天濃くて見えわかぬ

 除夜零時過ぎこころの華やぐむ

 日本がここに集る初詣

 

 57歳では、なりたい職業はなかったが、「ただ事に当って全力を尽く」すという態度を貫いた結果、俳句につながる現在の職業が、うってつけの職業になったと語っている。ここに天職の秘密がある。

(参考)『山口誓子 俳句十二か月』(松井利彦

 

 

「ブリューゲル展 画家一族150年の系譜」

 上野の東京都美術館の「ブリューゲル展 画家一族150年の系譜」。

 ブリューゲル一族は170年間、5世代、18人以上が活躍した。

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ピ-テル・ブリューゲル1世(1525/30-1569)。

・「人間とは、いったい何者なのか」「我々が生きる世界とは、いったいいかなるものなのか」。

・「バベルの塔」。彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることgはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」。彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。この町はバベルと呼ばれ、天まで届こうとした塔は途中で8階で建設が終わり「バベルの塔」と呼ばれた。

・完璧で知的な自然描写。おどけもののピーテル。第二のボス。遺言執行人はルーベンス

ピーテル・ブリューゲル2世(1564-1637/1638)。「地獄のブリューゲル」。コピーを量産した長男。

ヤン・ブリューゲル1世(1568-1625)。「花のブリューゲル」(「ビロードのブリューゲル」)。ルーベンスが共同制作者。「ルドルフ2世展」の冊子の表紙はこの人の花だった。

ヤン・ブリューゲル2世(1601-1678)。「花の画家」。11人の子どものうち男子は7人、そのうち5人が画家。

ヤン・ピーテル・ブリューゲル(1628-1664)。

アブラハムブリューゲル(1631-1697)「風景画家・静物画家」

フィリップス・ブリューゲル(1635-1662以降)。静物画家・銅版画家。

フェルディナント・ブリューゲル(1637-1662?)。画家。

ヤン・バプティストブリューゲル(1647-1712)。花と果実の静物画家。

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「名言との対話」3月25日。田村魚菜「「料理或いは食べ物、というレンズのフィルターをつけて歩いてきた」

田村 魚菜(たむら ぎょさい、1914年11月23日 - 1991年3月25日)は、料理研究家。

静岡県生まれ。小学校卒業後、東京の魚屋に奉公、京橋の割烹蔦屋で料理を学び、本山荻舟、四条流石井泰次郎に師事する。1938年に雑誌『魚菜園』を創刊、戦後の1949年に東京自由ヶ丘に料理塾を開き、1955年に魚菜学園を創立。1973年からテレビの料理番組で有名になる。この時代を覚えている。

田村魚菜の誕生日は11月23日で、今では勤労感謝の日だが、昔は新嘗祭と言って日本人の主食である稲の収穫を祝った。名字は田と村という農家出身であることがわかる。名前は魚と野菜という副食である。これが本名というから、料理の道に進むのは運命かもしれない。

考えてみると、食事は1日3回として、1年1095回。そして80年人生では87600回という回数になる。100年人生では1万回を超える計算だ。おろそかにはできない。

魚菜は、学園経営、学校長、ジャーナリズムという仕事以外には、ゴルフ、油絵、狩猟、麻雀などを楽しんだ。料理はゴルフと同じく基本が大事だとも言っている。

「日本は美味しいものばかりである」と食材の豊かさを知る魚菜の観察によれば、日本は味にこだわる、ヨーロッパは食卓のムードを尊重する、アメリカは合理性だ。だから日本の家庭の食事に、ヨーロッパの演出、アメリカの合理性が加わったら最高という見立てになる。

『舌の味・人の味』という著書の中の「食べ上手」というエッセイでは、外出時には、主婦がいくら力んでも無理な料理を食べなさいという。それは、うなぎの蒲焼き、天ぷら、にぎりずしの3つだ。これを交互に食べるとよいとアドバイスをしている。

田村魚菜のいう、その人独特のレンズのフィルターとは専門性のことである。職業人とは、長い間に身につけた独特のフィルターで世の中を見る人である。損害保険のトップ企業の幹部の方と食事をしたとき、世の事象をすべてリスクという観点から見ていて敬服したことがある。学校歴という意味での学歴ではなく、生涯を通じての学習の歴史である学習歴が重要であることが田村魚菜の人生からもみえてくる。

 

参考『舌の味・人の味』(田村魚菜)。

 

 

 

 

 

 

品川での大学院教員勉強会に出席

 大学院教員研修会:対象は主として客員教授

 ・徳岡研究科長

実務家教員100%・60名体制・100講座。ポラリス・デロイト・IBM・編集工学研究所。テーマ専門コース(ルール形成・奉行・ベンチャーCFO)。研究所フェロー。ソーシャルイノベーションセンター・ライフシフトキャリアセンター・ライフシフト教養セミナー(ライフシフト連塾)・品川塾。多摩大出版会・TGSテキストブックシリーズ。、、、

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 IBM鈴木先生

ビジネスイノベーション推進能力。アルファ碁・グーグルスピーカー・ロボット・マネジメントエキスパート(医者・弁護士。これがポイント。ベテランの継承、海外の仕事)。プロセスに知がつまっている(議事録など)。チャット、JAL、簡保、カルテ、人材マッチング、確定申告、、、。

 

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 ミニパーティ。

新人:博報堂からの徳永先生(客員・博士課程。マーケッティング)と懇談。

他に、コールセンターの専門家(日本の課題が凝縮)。事業承継(税理士・中小企業コンサル)。ベンチャー(日本CFO協会)。医療コミュニケーション(医師。異業種交流)。、、。

佐藤先生:入試

滝川課長:設備、秋入試、、、。

 

 

 「名言との対話」3月24日。田村喜子「「方」がつくのは偉いのよ。だって、「親方」と「奥方」には頭があがらないでしょ」

田村 喜子(たむら よしこ、1932年10月25日 - 2012年3月24日)は、日本ノンフィクション作家

琵琶湖疏水の完成は、明治期の日本土木界が世界に誇る大工事であり、燦然と輝く金字塔である。京都を近代都市として再生させるため、生命を賭して難事業に挑んだ若き土木技師田辺朔郎ら、男たちの熱い闘いと不屈の精神をノンフィクションタッチで綴る長篇」という『京都インクライン物語』で1982年に第1回土木学会著作賞(1991年から出版賞)を受賞した。

それ以降、田村は土木をテーマとしたノンフィクションを執筆していく。『疏水誕生』『物語 分水路 信濃川に挑んだ人々』『関門とんねる物語』『ザイールの虹・メコンの夢 国際協力の先駆者たち』『浪漫列島「道の駅」めぐり』『土木のこころ 夢追いびとたちの系譜』『野洲川物語 小樽運河ものがたり』、そして 2010年の『余部鉄橋物語』などである。

田村の描いた人々は、国鉄最後の土木屋藤井松太郎、東洋のパナマ運河ともいうべき世紀の大土木事業である越後平野の守り神である大河津分水路の建設に挑んだ宮本武之輔、世界初の海底隧道に挑んだ国鉄技術陣国鉄技術陣、ラオスのナムグム・ダム、ザイールのマタディ橋、を完成させた非凡な技術者群像、20世紀日本で活躍した土木技術者たち、国土の礎づくりを使命とし邁進した男たちの魅力的な人物像、、など日本の技術者魂の化身たちだ。

土石・木材・鉄材などを使用して、道路・橋梁きようりよう・鉄道・港湾・堤防・河川・上下水道などを造る建設工事を行う地味な技術者は、「土方」と呼ばれることがある。冒頭の言葉は、その一人である苦瀬博仁(東京海洋大学教授)に田村喜子が励ました言葉である。「家」がつく偉い人よりも、現場に立ってものづくりを行う技術者たちは励まされて土木学会の賞を送ったのであろう。この賞は、その後、八田與一を書いた古川勝三、伊能忠敬を書いた井上ひさしローマ人の物語を書いた塩野七生などが受章している。2010年に出張で台湾の八田ダムを訪問したときに私が読んだ古川勝三の本がこの賞を受賞していたことを思い出した。その第一回受賞者が田村喜子だったのだ。

 

 

 

 

 

 

多摩大学教職員懇親会(京王プラザホテル)

新宿の京王プラザホテルで、多摩大学教職員懇親会。

経営情報学部、グローバルスタディーズ学部、大学院経営情報学研究科の教員と職員。

学長あいさつ。理事長挨拶。永年勤続表彰:30年2人。10年9人。退職者:4人(教員3人・職員1人)。新規採用者:5人(教員3人)。

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私も10年表彰。 f:id:k-hisatune:20180324073907j:image

 

 私の中締めの挨拶。

「サバイバルステージは終了」「量から質への転換の初年度」「躍進の10年、衰退の10年、再建の10年。そして飛躍の10年へ」「教育はアクティブラーニング・研究はジェロントロジーで大学ブランディング確立へ」。

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終了後は、2階の「樹林」で、杉田学部長、小林経営情報学科長、趙事業構想学科長と懇親。臨時学科連絡会(?)となった。

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15時半:大学運営会議:多摩大出版会も議題に。

 

「名言との対話(平成命日編)」3月23日。大橋鎮子「私は『暮らしの手帖』一冊全体を『戦争中の暮らしの記録』だけで作りましょう、と提案しました。臨時増刊、特別号、単行本などにするよりも、定期の『暮らしの手帖』に載せたほうが、よりたくさんの人に手に取ってもらえ、読んでもらえる。しかも、雑誌もよく売れ、営業的にプラスになると思ったからです」

大橋 鎭子(おおはし しずこ、1920年3月10日 - 2013年3月23日)は、日本の編集者エッセイスト暮しの手帖社社主・社長。雑誌『暮しの手帖』を創刊した。

日本興業銀行日本読書新聞を経て、戦後の1948年に花森安治を編集長とした『暮しの手帖』を創刊。1954年から「商品テスト」をはじめた。広告をもらわない自立した雑誌であった。この企画で工業製品の品質改善の菊きっかけとなるほど影響力があった。「婦人家庭雑誌に新しき形式を生み出した努力」について菊池寛賞を受章した。この雑誌は主婦の支持を集め100万部に迫るほど人気があった。

2016年度前期放送のNHK連続テレビ小説とと姉ちゃん』は、大橋らをモデルとして『暮しの手帖』(劇中では『あなたの暮し』)の創業の軌跡を描くフィクション作品として制作され、大橋がモデルのヒロインを高畑充希が好演したことは記憶に新しい。「とと」は父という意味で、家族を養う「ねえちゃん」という意味だ。私も毎朝、この主人公の人生ドラマを共感しながら見た。

大橋鎮子は2002年には東京都文化賞を受賞している。「暮しの手帖社を設立し、雑誌「暮しの手帖」を今日まで作り続けてきた努力」と「人々の出会いや、日々の暮しを美しい文体でつづったエッセイ「すてきなあなたに」は読者に静かな共感と深い感動を呼び起こした」がその理由である。

単行本『すてきなあなたに3』の「あとがき」には、エリザベス・サンダーズ・ホームで育ったアメリカ兵と日本人女性の間に生まれた孤児たちが養子縁組でアメリカに旅立っていくのを見送る設立者・沢田美喜が夜空に向かってハンカチを振る姿の描写が語られている。こういう心あたたまる日々の感動をエッセイで残したのだ。「三月の章」には、「雨と傘と「なくしたスカーフ」「姿勢が大切」「神戸散歩」「チョコレートの帽子」「フルーツスープ」「春のアドバオス」「ズックの靴」などのエッセイが並んでいる。

冒頭の言葉は、大橋鎮子がヒットを生む企画力と時代をつかむ営業力を兼ね備えた経営者であったことをうかがわせる。

すてきなあなたに〈3〉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上野で「ブリューゲル」「ベラスケス」。品川(大学院):入試最終予測、運営委員会、研究発表会。

「副学長日誌・志塾の風」180322

品川の大学院。

・15時半:滝川課長:大学院入試の最終予測。

・15時45分:志賀入試委員長:学部入試の最終予測。

・16時:アジア子ども若者研究会のメンバー(私は顧問)を事務局に紹介。5月16日にキックオフ。

・16時半:橘川さんと懇談:児玉博。未来学会。一本ゲタ。公文塾。

・17時半:大学院運営委員会:自己点検進行確認。修了生アンケート報告(カリキュラム:院生サービスの問題。ハラスメント担当。講義資料アップ、、)。VOIC褒賞。オリエンテーション。論文基礎講座。入試広報委員会報告(最終予測、女子院生)。入学式。

・19時:大学院研究会:テーマは「大都市郊外型高齢化に立ち向かう実践的研究」の共同研究。今泉教務委員長と小林学長室長から説明:以下、アイデア。多摩大出版会から「ジェロントロジーブックス・シリーズ」(資金援助)。過去の修士論文の出版・共著。院生・客員教授への参加募集・説明会。大学院の担当は徳岡・今泉。

・20時:小林先生に「食のジェロントロジー」の説明

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上野。桜は3部咲き。詳細は別途。

・13時:東京都美術館ブリューゲル展。

・14時:国立西洋美術館プラド美術館展「ベラスケス」。

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「名言との対話(平成命日編)」3月22日。胡桃沢耕史「稿料格安 締切厳守」

胡桃沢 耕史(くるみざわ こうし、1925年4月26日 - 1994年3月22日)は日本作家

1955年のデビュー作『壮士再び帰らず』で第7回オール讀物新人賞受章から、1983年の『黒パン俘虜記』での直木賞、そして死去するまで本名清水正二郎名の作品(70以上。翻訳60以上)、胡桃沢耕史名の作品(85ほど)などその量は200以上と膨大だ。海外を舞台にした冒険小説や、ユーモア推理小説が中心である。

拓殖大学国語学科に入学。3年間の満州放浪。特務機関で活動。シベリア抑留。シナリオライター。NHKプロデューサー。専業作家。寺内大吉の「近代説話」同人。性豪小説。バイクによる世界放浪。9年間の沈黙。『翔んでる警視』シリーズ。1983年、異郷での冒険小説。満州・中国大陸を舞台にした『天山を越えて』で日本推理作家協会賞1984年、2回の候補を経てシベリア抑留を描いた『黒パン俘虜記』で直木賞シルクロード踏破計画を実行。バイクツーリングが趣味。カメラと弦楽器のコレクター。「愛句」宗匠直木三十五を崇拝。

『〆切本』という興味深い本がある。明治以降の数多くの作家たちの原稿〆切を巡るエピソードが満載の本だ。この中に胡桃沢耕史が載っている。ある記者の「作家名刺ホルダー」には取材した多くの作家の名刺を収められており、胡桃沢耕史の名刺の右肩には「稿料格安 締切厳守」というメモが書かれていたという。源氏鶏太の『精力絶倫物語』は胡桃沢がモデルというから魅力のある快男児だったのだろう。自由奔放な行動派作家というイメージだが、意外にも締め切りを守ることを信条としていたのである。

黒パン俘虜記 (文春文庫 (402‐1))

 

彼岸の日の雪の卒業式

 卒業式。彼岸に日に雪は珍しい。記憶に残るだろう。

壇上者紹介。左から、学長、理事長、私、学部長(松が邪魔)、後援会長、同窓会役員。

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・ 学長:アジアダイナミズム:2000年、日本はアジア断トツ1位。中国は4分の1。その他アジア(印・東南アジア)は日本の4分の1。2010年中国が日本を抜く。2018年、中国は日本の3倍に。日本を除くアジアは4倍。2030年以降にはリニアで7000万人の人口ゾーン。中国は日本の6倍。日本を除くアジアは10倍。2800万人のインバウンドは4000万から6000万へ。ジェロントロジー:現在、65歳以上3500万人、80歳以上1000万にンン、100歳以上7万人。ライフプランが必要。経済的自立と社会的貢献。何のプロになるのか。学び続けよう。

・理事長:専門・友人・先生。夢と志。本気。高木美保。人に勝つ人は力あり、自分に勝つ人は強し。夢なき人に構想無し、構想なき人に計画なし、計画なき人に実行なし、実行なき人に成功なし、ゆえに夢なき人に成功なし(吉田松陰)。

・杉田学部長:時代と社会を知る。情報を得たら判断し行動せよ。職業を通じて成功をはかれ。現代の志塾を説明できるか。日本のナイチンゲール・井深八重の人生。

・水越さん(同窓会):挑戦。失敗を成長に。友人。(JR東日本で私が講師をしていた時の受講生)。

・島本(総代):松本ゼミ一期生。大学祭・奥多摩・栃木のフィールドワーク。

・岡(総代):フットサル部福住監督「オフザピッチ日本一」「自らの力で自らの価値を高める」「当たり前のことに感謝」。チームマネジメント。杉田ゼミ。

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 11時半:理事長と昼食を摂りながら報告と相談。人事方針。

12時20分:学長に報告と相談。出版会。食のジェロントロジー。人事方針。

12時40分:学部長に理事長・学長との相談結果を説明。

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「名言との対話」。3月21日。江戸家猫八(四代目)「仕事を全うしたい」

 四代目江戸家 猫八(よだいめ えどや ねこはち、1949年11月30日 - 2016年3月21日)は、動物の声帯模写を得意とする、落語協会所属の物真似芸人である。

祖父は初代江戸家猫八。三代目江戸家猫八の父に弟子入り。三代目死去の際、出棺の挨拶で、声帯模写でウグイスの鳴き真似で父を送った。2009年に江戸家子猫から江戸家猫八を襲名。2011年、長男が小猫を襲名。

動物の声帯模写は、4代で120年続いている江戸家の家業である。声帯模写は春のウグイスが代表であるが、ホトトギス、コオロギ、スズムシ、ホオジロ、ニワトリ、ヒツジ、アルパカなどの声を模写した。動物園などの現場でじっくり観察するのである。三代目は馴染みがあるが、「動物はプロ、こちらはアマチュア」と高座で言いながら名人芸を披露していた姿を思い出す。

2016年3月8日の『徹子の部屋』に、四代目猫八、二代目小猫で出演した。私も見た。この時の「親子競演動物モノマネ芸」をユーチューブで改めて見たが、ウグイスやカエルの鳴き声の競演は実に楽しかった。親の猫八はすでに胃がんに冒されていてやや痩せていた。その猫八は「仕事を全うしたい」と入院を拒否していたのである。これが最後の仕事となった。その心意気に感ずるものがある。

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態勢の立て直し。

 先週、忙しかったので、態勢の立て直し。

ブログ連続記入は、4921日。6月に5000日という計算。

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「名言との対話」3月20日。須賀敦子「書くべき仕事が見つかった。いままでの仕事はゴミみたいなもんだから」

須賀 敦子(すが あつこ、1929年1月19日] - 1998年3月20日)は、日本随筆家イタリア文学者。

18歳で洗礼を受ける。24歳で渡欧、以後日欧を往き来する。32歳ペッピーノと結婚。34歳、谷崎潤一郎春琴抄』『蘆刈』のイタリア語訳を刊行し、以後日本文学のイタリア語版を刊行していく。谷崎作品のほか、川端康成『山の音』、安部公房砂の女』などを刊行する。長く大学の非常勤講師を務めた後に、53歳、上智大学国語学助教授。60歳、比較文化学部教授。

須賀敦子の名は、ビジネスマン時代に同僚の女性から名前を聞いてはいたが、本を読むまでには至らなかった。今回『須賀敦子を読む』を読んで、須賀自身のエッセイに興味が湧いた。

 翻訳を長く仕事とし、生前はエッセイを書いた。翻訳は自分をさらけ出さないで、責任をとらずに文章を書く楽しみを味わえたから、須賀は好きでありいい仕事をし、イタリア共和国カヴァリエール功労賞を受章。2014年には、イタリア語から日本語への優れた翻訳を表彰する須賀敦子翻訳賞が創設された。また、エッセイでは女流文学賞講談社エッセイスト賞を受賞している。2014年にはイタリア語から日本語への優れた翻訳を表彰する須賀敦子翻訳賞が創設された。

 少女時代から「書く人」になりたいと願った。書くということは「息をするのとおなじくらい大切なこと」という須賀は、『』ミラノ 霧の風景」から始まる完成度の高いエッセイ群によって、たどってきた時間を生き直したと『須賀敦子を読む』の著者・湯川豊はいう。信仰と文学の一体化を実現する道を発見した須賀敦子が語った「書くべき仕事が見つかった。、、」は、死の直前の1998年2月4日の言葉だ。「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」(孔子)を彷彿とさせる。孔子の言う道は真理という意味であるが、須賀敦子の場合は自分の進むべき道であったろう。

 須賀敦子を読む (集英社文庫)