仙台日帰り。知研東北の設立総会と記念講演。

久しぶりの仙台には、昼前に到着。

まず、メトロポリタンホテルで横野さんと富田さんと食事。

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一番町の第一生命タワービルで「知研東北」設立総会・講演会。

東北各地からメンバーが参集。

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 総会

・高橋副理事長あいさつ」知研の再興。50周年行事。沖縄・九州・宮島。岡山・関西。北海道、、。

・全員で名刺交換

・記念撮影

・岡山の伊藤会長:知研岡山20年の経験から。

日経新聞の中澤編集委員梅棹忠夫。知はオリジナリティ。知的生産が普通の人がやる時代になる。予言者。、、、

・知研東北の大槻会長

・福島の大久自動社販売社長)

・青森の柳谷さん(マツダアンフィニ青森)

・酒田の菅原さん(菅原工務所常務)

・宮城の片瀬さん(明治合成社長)

・宮城の早坂さん(早坂精密工業社長)

・秋田の黒田さん

・秋田の萩原さん(三共光学工業専務)

・福島の佐藤さん(ローヤル油機常務)

・福島の高橋さん(高帆製薬工業代表)

・東京から力丸さん(アトリエマヌー代表)

・事務局の本山さん(宮城。東貿易東北マネジャー)

・岩澤さん(マグネットデザイン)

 山田さん(山田総合労務事務所)。喜多さん。村上さん(中小機構・東北)。北海道新聞の平原編集委員

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私の記念講演「人生100年時代を迎え撃つ、 アタマとココロの革命を!」を1時間40分。

 

 懇親会。

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 仙台駅でコンサート。指揮者は池辺晋一郎

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「名言との対話」6月2日。羽田健太郎来年は今年よりちょっとだけいい音楽を弾けるようになりたい。それだけを思って走っています」

羽田 健太郎 (はねだ けんたろう、1949年1月12日 - 2007年6月2日) は、日本の作曲家編曲家ピアニスト

音楽活動はクラシックポップスフュージョンなど多岐にわたり、劇伴音楽においても『西部警察PARTII』『渡る世間は鬼ばかり』のテーマ曲などが広く知られる。

桐朋音楽大学卒業後にスタジオミュージシャンとしての活躍を開始。人材が当時は乏しかったことから非常に重宝された。スタジオ録音全盛期の時代と、羽田の活躍の時期が重なったのである。羽田はクラシックとポップスの橋渡し的役目を果たし、タレント司会者としても活動した。2000年4月から2007年5月までテレビ朝日系列の音楽番組『題名のない音楽会21』の司会を務めた。私もこの番組で顔を知った。

「音楽っていうのは喜びを10倍にしてくれる。そして悲しみを2分の1にしてくれる親友。」

小学校では後の歌手小川知子と同級生であり、高学年になってからは毎学年1学期の学級委員は優等生の羽田と小川だった。小川知子は自伝で『私の初恋の人は羽田健太郎君。』と語っている。

冒頭の言葉のように、少しづつ上手くなろうという意志は持っていたが、飲酒癖があり、50代に入ると体調を崩すことが多くなった。多彩な才能が過労を招き、それを乗り越えるために飲酒で紛らわそうとしたのであろう。健康管理の大事さを58歳で亡くなったハネケンは教えてくれる。

 

夜の大学院のテーマは日本文化:「武士道」「禅」「俳句」「箸」「パチンコ」「カラオケ」「茶道」「相撲」「歌舞伎」「温泉」「畳」「桜」「ひらがな」「神道」「生け花」「和服」「インスタントラーメン」「マンガ」「落語」。

夜の大学院の授業(18時半ー21時40分)は19人が出席。本日のテーマは「日本文化」の図解に挑戦。「武士道」「禅」「俳句」「箸」「パチンコ」「カラオケ」「茶道」「相撲」「歌舞伎」「温泉」「畳」「桜」「ひらがな」「神道」「生け花」「和服」「インスタントラーメン」「マンガ」「落語」。

日本人に加え、中国、韓国、ベトナムからの留学生もおり、楽しい授業となった。最初は私が出演するDVDをみてもらった。テーマは「コンビニ」。

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以下、受講生の感想。

・【第4講感想・総括】。・共通点と意見の違いを可視化。・項目の洗い出し、グループ化、キーワード化。・言い換えや色使い。今回の私のテーマは「神道」でした。認識の相違や共通点は図解により整理ができた他、その文章では説明されていないことや不足している情報の把握もできました。

・図解も回が進むにつれて少しずつわかって来たような気がします。今日のテーマは禅‼️いままで自分の中で理解していたものを図解で整理して再チャージ出来たた。自分の引き出しを整理することに図解は武器になる。ありがとうございます。

・ご講義ありがとうございました。楽しくなってきました。忠実に、正確に、矢印の方向も、論点は沢山出て来るのだろうなと思います。意見交換が楽しくなりそうです。生け花の先生、文章と図を見せたら、いいね👍をくださいました。ありがとうございました。

・本日もありがとうございました。冒頭の動画での図解が形成されていくプロセスは分かりやすかったです。ただ、はじめの半分くらいまでは何とかできそうでしたが後半の半分はなかなかあそこまで発想が及ばないなと思いました。やはりまだ図解を構成するという部分までは至りません。まずは本質的な部分をキーワード化、概念化できるスキルを身につけたいと思いました。次回は学会のため欠席です。度々で申し訳ありません。学会では論文のテーマに合致したシンポジウムが企画されています。そこでの発表やディスカッションを図解にしてゼミや中間発表で使用するという課題を自らにかしたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。

・本日もありがとうございました。今日は相撲の起源を力士の体から考えるというテーマでした。もちろん今まで力士の体について考えたこともなかったため、金太郎をイメージとした少年相撲による豊作、不作を占うという起源、女性〔妊婦〕をイメージした女相撲による豊作を願った儀式的な起源があることに驚きました。図解を作成することで、自分の理解度は深まり、短時間で説明できるようになることを実感できました。ただ、ややワンパターンになりつつある私の図解。よりよい図解ができるように練習に励みたいと思います。

・担当は「畳」でした。日本人なのに日本の文化についてあまり知らないと実感しました。文章を何度読み返してもよくわからかったのですが、図にすると頭が整理されて理解しやすかったです。何度も書き直しましたがその度に思考が整理されているなと思いました。また、他の人の発表も図があるおかげで素直に理解できました。まだまだ図の作成が下手ですが繰り返し練習して身につけます。

・感想。* アウトプットを意識してインプットすることの重要性* どうしたら伝わりやすくなるか?考えて書き直していくこ* 3つの手法(3つの塊にして話された方はわかりやすい)と改めて大事と思った。ありがとうございました。来週は仕事で参加できませんが、次回講義楽しみにしてます。よろしくお願いします。

・落語について、図解をまとめました。まず文章を読み、大事なところを線を引き、そこをまずは箇条書きなり思いつくレベルでまずは書き出して、そこから図解にまとめるようにしました。はじめの頃よりは慣れてきましたが、それでもまだまだ発想が乏しいです。引き続き日頃から意識していきたいと思います。

・本日もありがとうございました。今日の作業では初めに検討した図解では際に細かく書きすぎて情報量が多くなりすぎました。余計な情報をそぎ落とし、重要な点を見つけていく作業が重要であることが経験出来ました。次回の講義も楽しみにしております。

 ・本日もありがとうございました。詩人を図解してはいけないのがよく分かりました。言葉で誤魔化す世界が詩であって、そこが詩の良さなんだと。冒頭の講義の感想で、図解が難しく感じたのは、逆に言葉の大切さを改めて感じてきたように思います。うまく組み合わせていこうと思います。

 ・先生、皆様、授業お疲れ様でした。第4回授業の感想です。今回は作成した図表を掲載するようにとのことでしたので、図表をアップ致します。今回は俳句を担当しました。今回の授業で大事な点は、一般化と構造化の2つだと思いました。段々、記事を読んでいて、記事の説明は不完全なものであり(記事内容だけでは構造的、網羅的ではない)、記事内容に忠実に図表化すると、お題を十分には構造化しきれないことを感じました。例えば、俳句の由来について、正岡子規の記述はあったのですが、松尾芭蕉の記述はありませんでした。調べてみると、後世にかなり影響を与えた人物ですが、記述がありませんでした。また、類似例としては、短歌や川柳との違いも触れる必要があると思いますが、記述がなかったので、調べて補足しました。結果的に真ん中に俳句の特徴を集約して、周囲にそれぞれの項目を書き、足りない情報は補足する、というスタイルに今回は落ち着きました。普段目にする記事も、実は基本的な内容に関する網羅性を欠いているものが結構あると思いますが、授業を受けて目が肥えて来たから感じるようになったのだと思いました。

以下、留学生

・今日の講座はとても感謝しております。図解する前は先生のテレビ教育から図解制作説明を理解した事は非常に嬉しかった。皆様もうお疲れ様でした。先生のテレビ教育における説明の説明を見ながら、メモを取ること図解制作に非常な重要性があると思います。先生から解说をいただいました図解制作はまず、文を読みながら重要な動詞を見つけて、キーワードを見つけたり、丸を箇筿して、後文の関連関係変化所線を引いて。矢印の表现脳中考えで、次に脳の中で文の意味をまとめ、作者の意図と、作者がどんなlogic 的な手法で表現したのか。その手法をよってsystem を分類する。今回先生の解说から気になるのは図を制作時まず、system を分けて同じsystem内容を集めから、图解制作時に同じ所属性キーワード同じ行、列に並ばれて描いて、関連性を考えたら、所属関係の変化によって横or縦にする。先生が今回の授業取材は日本文化について。日本の教育、生活、娯楽、経済歴史などの各分野の文化、外国人留学生にとって、学生たちの図解によって日本の深さや博広文化を直観することができる。今後、観光産業の研究を進め私にとって、重要な意義があります。今回皆さんが作った図は、昔よりよくわかりやすくてしっかり理解できる実感がありました。特に他人が見にやすいように男のclassmate がかわいい花を描いていた、カラーペンでポイントをつけていた女性classmate もういます。皆は素晴らしかった。今回,私は「溫泉」について日本文化を図解担当していました。先生は留学生に優しくて簡単な文を配って、自由な選びますけれども、最初を読まれだ日本文化分野あまり知らないと実感しました。温泉文化について文典を配って読まれだ時、何回温泉に行った事あった私は温泉文化ついて図解大丈夫だと思いましたが日本文化ついて文章難しさは思わず、さっすか博深広大な日本文化、わからなっかった単語が多い、辞書を調べてばかりが、何度読み返してもよくわからかったのですが図にすると頭が整理されて理解しにくいでした。何度も書き直しましたがその度に思考が整理されているなと思いました。まだまだ図の作成が下手ですが繰り返し練習して身につける非常に必要と思います,图左は先生に出した初稿です。图右は読み直して、描き直した图解です、(≧∇≦)從列はsystem をよて同じ所属性キーワド、横行は関連性あるキーワードを並べます、関連性変化によて、矢印の方向を向く。制作した時間がすごくかかりましたから、copy する担当者が長い時間で私を待っていましたけれども、まだうまくいかなかった。迷惑をかけた申し訳けございません。

・本日は茶道について、いかに皆さんに分かりやすく伝えられるか、考えました。伝えるという視点で、読み込んでいくと、思考が何度も整理され深く理解できると感じました。とはいえ、満足のいく図解にはなっておらず、もっと事例をこなして行きたいと思いました。茶道は昨年からはじめたばかりですが、知らないことがあり、勉強になりました。今を大切に生きる、一期一会、ステキな言葉と思うだけてない生き方が、できるといいなと思いました。

・本日の講義ありがとうございました。日本文化を中心としていろいろな話題を聞いた。私のテーマはインスタントラーメンです。食品、ファスト消費品産業に興味を持って以前インスタント食品に関するレポートなど読んだことがあった。そして、文章のまとめ、図解を説明した後自分の考えを発表した。図解とは、ポイントのを抜粋することは大事と思う。でも、何が漏れるが心配。今後は力を入れて勉強しましょう。

・本日もありがとうございました。日本文化の講義でカラオケや日本の文化などについて、深く分かるようになっています。日本の文化といえば、歌舞伎や茶道などですが、今日は パチンコでも日本の特徴な文化と思われます。次回も頑張っています。よろしくお願いします。

・本日の授業、ありがとうございました。先生も、皆さんもお疲れ様です。私のテーマは「マンガ」です。初めて、この文章からマンガの歴史を知りました。良い図表の描く方も、日本のマンガ文化も、沢山勉強になりました。今日は発表できなかったが、次回は頑張ります。よろしくお願いします。

・久恒先生、講義、ありがとうございました。今日、「ひらがな」というテーマをやりました。両国の歴史上の似た点を気づきました。日本で、最初の頃には、漢字しかないでした。そして、漢字を読み書きできるのは、僧侶、役人、貴族の男に限られていました。この点は、古代の中国文化と似ています。古代の女性は、「女誡」、「内訓」、「女論語」と「女範捷録」しか読めないでした。従って、「古代の中国人の女性は教育を受ける権力がない」と言っても過言ではないと思います。そこで、古代の日本女性でも中国女性でも、社会地位が極めて低いということがまた気づきました。これから、この問題について、深く調べたいです。以上です。

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10時:橘川先生(客員)

10時40分:授業

12時半:河合先生(客員)

12時40分:杉田学部長

13時:事務局との定例ミーティング

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「名言との対話」6月1日。松田道雄「いい小児科医は歴史家でなければならない」

松田 道雄(まつだ みちお、1908年10月26日 - 1998年6月1日)は日本の医師育児評論家歴史家

戦後、小児科の医師として診療する傍ら、平和問題談話会に参加、末川博恒藤恭田中美知太郎桑原武夫らの知遇を得る。1960年京都大学人文科学研究所の共同研究「革命の比較研究」などに参加する。1978年には武谷三男野間宏水上勉らとともに安楽死法制化を阻止する会声明発起人となった。

1967年に小児科の診療を辞め、執筆・評論活動に専念。代表作でベストセラーの『育児の百科』(岩波書店)をはじめ、数多くの著作がある。ロシア語史料に基づくロシア革命史研究の開拓者としても知られ、その分野の著書も多数ある。

1949年に『赤ん坊の科学』で毎日出版文化賞1963年に『君のたちの天分をいかそう』で児童福祉文化賞をそれぞれ受賞。死後、個人蔵書は「松田道雄文庫」として熊本学園大学に収められた。この大学には縁があるので、機会をみて訪ねたい。

この人の名は岩波新書『私は赤ちゃん』で知っていた。手元の本によると1960年第一刷りで1989年時点で第44刷りのロングセラーだ。著者自身が赤ちゃんの目で周囲を観察した誕生から一歳半までの成長の過程を描いた不思議な作品だ。しかし読んでいて全く違和感がなかった。授乳のしかた、衣服の調節、夜泣き、離乳、下痢、発熱、ひきつけ、予防接種、、など両親の不安を消そうという試みがよく書かれていて感心した。文章がやさしく、かつ実にうまい。名著である。

「あまり自信のある親は、よい親ではない。子どもといっしょに人生を探求し、いっしょにそだってくれる親がいい」「一年間の育児で母親としておおくのことをまなばれたと思う。赤ちゃんも成長したけれども、両親も人間として成長されたことを信じる」「 赤ちゃんとともに生きる母親が、その全生命をつねに新鮮に、つねに楽しく生きることが、赤ちゃんのまわりをつねに明るくする」

親がいらいらして子どもにたいして平常心をもてないために子どもが緊張し、それが症状に出る。小児科医は診察を通じてその親子の格闘と成長を見つめ、励ましながら伴走する役割を持っている。主治医とは患者の歴史の目撃者であり、教訓の抽出者である。特に小児科医には子どもだけでなく親も含めた親子の歴史についての観察力が必要なのだろう。いい小児科医が歴史家であるとは虚をつかれる思いがするが、慧眼という外はない。

私は赤ちゃん (岩波新書)

私は赤ちゃん (岩波新書)

 

 

 

 

 

 

 

 

リレー講座:前川喜平「安倍政権下の教育政策」

10時半:研究室で事務処理。

13時:松井さん:高大接続改革の近況報告。

14時:高橋さん:知研北海道。okuno clinic

14時50分:リレー講座:前川喜平「安倍政権下の教育政策」。

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・1980年代の中曽根政権:憲法改正につなげるために、まず国家主義的な供給側の自由拡大のために教育基本法の改正を目指し、1984年に臨教審を設置。結果は逆に学習者の自由拡大の方向の答申が出た。個性重視・生涯学習・変化対応。その流れの中に現在のアクティブラーニングがある。

・第一次安倍政権で教育基本法を改正した。伊吹文科大臣は道徳の教科化はやらなかった。

・第二次安倍政権で教育再生実行会議を設置。下村文科大臣が計画者と実行者を兼ねた。2018年度から徳道教育の教科化が始まった。検定教科書を使用。評価はするが点数化はせずに記述式で評価。教育勅語を使ってもよいという閣議決定

・個人と地球の欠落。戦前回帰。国体思想。家族国家観、、、。

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「名言との対話(平成命日編)」5月31日。佐橋滋「古今東西のそれぞれの分野で偉かったという人の教えを受けてみる。それが本を読むということである」

佐橋 滋(さはし しげる1913年大正2年)4月5日 - 1993年平成5年)5月31日)は日本官僚通商産業事務次官

城山三郎官僚たちの夏』の主人公・風越信吾のモデルとされている。「ミスター通産省」。「佐橋大臣・三木次官」。退官後は天下りをせずに、6年後に新設された、高度成長後の国民の余暇の充実をテーマとした余暇開発センター理事長に就任。「余暇開」は毎年「レジャー白書」を発表し、航空会社にいた私も参考にしていた。

強いリーダーシップと明晰な行動、大胆さ、面倒見のよさ、潔い出処進退、、。過去の官僚像と異なる爽快なイメージは各界において広く評価されファンも多かった。城山三郎は佐橋に高い評価を与え、佐橋のイメージ形成に大きく寄与した。『官僚たちの夏』は心躍りながら読んだものだ。

佐橋の多選の佐藤総理批判は有名だ。「総理大臣のポストが居心地がよいようでは困ったものである。、、権力ポストには職務と責任が付随する。これを職責という。、、、利口と聡明とは違う。利口とは読んで字のごとく口先がうまいということである」。「えらい人と、えらい地位とは、必ずしも合致するものではない。、、ほんとうにえらい人は、自らえらいと思わない人である」。佐藤を利口、あるいは利口ぶった人だと言ったのである。

佐橋は現役時代は「ミスター通産省」と呼ばれた傑物であり、次官時代も歯に衣着せぬ言動で三木武夫通産省時代には「佐橋大臣、三木次官」とマスコミが揶揄していたことも記憶にある。「実務家の発想は、今の時点で何をすべきか。将来に備えていま、何を準備し、何に着手しておいたらいいのか、からし出発しなければならない」と考えていたから、その発言と政策は説得力があったのだろう。

現役の時、酔えば必ず歌った「通産佐橋節」がある。「男なら」という歌に節を改作したものだ。「未練残すな 浮世のことは 花は散り際 男は度胸 どうせ 一度は散るものを」から始まる。国士官僚の心意気がうかがえる。

「公務員のモラルは一国の道徳水準のバロメーターといわれる」「由来、大蔵省は、決して自らまちがっていたということをいわない役所である」「権威は、謙虚さと、英知と勇気があって初めて、権威にふさわしい正しさを持つものである」「愚民の上に苛き政府有り」と語る佐橋滋は、隠蔽・改ざん・嘘、にまみれた感のある後輩たちをみたらどう思うだろうか。

佐橋は読書家で『毛沢東語録』の大事な教えとして「愚公山を移す」を挙げ、それを生活態度にまで高めようと言う。90歳で家の前の山を他へ移そうと思い、箕で土を運んだ寓話である。知巧を用いず、勉めてやまぬときは、ついに大事業をなしとげるというたとえだが、この本を熟読していることに精神の柔軟性をみる想いがする。人間を知恵がある賢い人という意味でホモ・サピエンスという。それは「考える人」という意味であり、考えるとは疑うことでもある。人間は、現場を持ちながら読書で昔の偉い人の教えを受けていなければ動物に成り下がってしまう。佐橋滋は現場と読書を往復しながら疑う精神を持ち続けた人だった。

 

憂情無限 (1971年)

 

 

 

 

教授会。T-Studioで石川先生と収録。東京で人物館2館。日本興業倶楽部で寺島講演。

・10時:学部運営委員会

・10時40分:教授会:授業評価の表彰「インターゼミ」も。ホームゼミの考え方の大転換。社会的投資研究所の新設。、、、。

・13時:T-Studioで「名言との対話」の収録。石川先生と対談。座右の銘「一期一会」を巡って。17分。しばらく、女性シリーズでいこう。

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 ・日本橋三井記念美術館で「大名茶人 松平不昧」展。

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 ・東京駅の東京ステーションギャラリーで「イザベラ・バード」展。

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19時:日本興業倶楽部で寺島文庫リレー塾。第1回は寺島実郎「世界の構造変化の本質を考える」。

・経営は時代認識を深め進めること。知の基盤インフラが時代を見抜く目を育てる。

・歴史の鏡を磨く。20世紀とは?「1900年への旅:欧州・アメリカ」 戦後日本とは?「世界での連載。脳力のレッスン」 近代とは?「17世紀オランダ」。この1年はモンゴル3部作。モンゴル史観で西洋史観、中華史観の相対化。大英帝国との対比。

・ネットワーク型で世界を捉える。大中華圏(華僑・華人ネットワーク。連結の中国)。大英帝国(英語・英国法などのソフトパワーユニオンジャックの矢)。次にユダヤネットワーク。

・2018年の日本:ソト。GAFA+Mで364兆円・テンセントとアリババで107兆円、合計500兆円。ITXFT。ニューセブンシスターズ。デジタル専制。蛙跳び経済。夢にカネがつく時代。データリズムの時代。

・2018年の日本:ウチ。ものづくり国家日本の危機。技能オリンピック9位に転落。現場力・管理職・経営のゆるみ。中国の強大化(スピード感。2018年日本の3倍。不安と苛立ち。中国の強権化:2期政権の実績づくり:経済は6%後半成長(5割は政府のインフラ投資)。外交軍事で東ジアをグリップ(香港。台湾。北朝鮮)。北朝鮮問題では中国の存在感。中国は和戦両用。朝鮮半島の非核化「体制保証・米軍の引き上げ・経済協力」。日本は構想力において劣後。外交は失敗。大きなビジョンと構想を示していない。

・日本の内なる構造変化:2018年「65歳以上3500万人・80歳以上1000万人・100歳以上7万人」。2050年「65歳以上3800万人・80歳以上1600万人・100歳以上53万人。2045年の人口「東京と沖縄。秋田はマイナス40%。都市集中」。国道16号線上の団地。都市郊外型高齢化の深刻。ジェロントロジー高齢社会工学)!100年人生と異次元の高齢化の日本がモデル。高齢者を活かしきる戦略。

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「名言との対話(平成命日編)」5月30日。粕谷一希金は遣えば無くなるが、頭は使えば使うほど良くなる

粕谷 一希(かすや かずき、1930年2月4日 - 2014年5月30日)は東京府出身の日本の評論家編集者、出版事業家。

名刺一つで総理にも乞食にも会える仕事はほかにはない仕事であり、苦労も多いが自由を満喫できるのが編集者であると考え、粕谷一希は生涯一編集者として過ごした。「編集とは筆者とテーマの選択的構成である」と定義した粕谷は、イデオロギーを嫌った、保守感覚と現実主義の潮流を築いた名編集者だった。

大学を卒業して大正時代に花開いた中央公論社に入社。「中央公論」、「婦人公論」、「思想の科学」を経て、「中央公論」のデスク6年、そして1967年より編集長(3年)と、23年間を中央公論社で過ごした。この間、永井陽之助高坂正堯萩原延寿山崎正和塩野七生庄司薫高橋英夫白川静などを世に送り出した。塩野七生も最初に『ルネサンスの女たち』に中央公論に書かされたし、寺島実郎も粕谷が目をつけて中央公論にデビューさせている。粕谷一希は名伯楽だった。

1978年退社後も、1986年『東京人』編集長、『外交フォーラム』。1987年、都市出版社を設立するなど編集の道を歩む。

雑誌連載が単行本になった中で面白かったのは松本重治『上海時代』と石光真人『ある明治人の記録--会津人柴五郎の遺書』であったと粕谷は回想している。私は粕谷の編集とは知らなかったが、いずれも熱中して読んだ名著である。

「戦後論壇は、京都人の梅棹忠夫と大阪人の司馬遼太郎が制覇した」という粕谷は、その流れをつくった人でもある。2008年に大阪で開催された「梅棹忠夫先生の米寿を祝う会」で、粕谷は私の席の前に座っていた。この人があの粕谷一希かとある種の感慨を覚えたことがある。

「偉大なことをするのは、素人が多い」「どのような栄耀栄華を得ようが、若き日の旧友の眼に耐えられない人生は空しい」

筆者や作家の粕谷像は「賢者の風格。叡智の言葉。良き書生。編集者が死ぬと時代が変わる」などである。名編集者・粕谷一希の人物が匂うようだ。

 「頭は使えば使うほど良くなるは夫人が観察した粕谷の口癖である。「日本が知的になるには、本を大事にするということから始めなければならない」、そのことが日本人を知的にすると信じていた。粕谷一希は、編集という天職を全うする中で、優れた人物との交流を続けながら、自らの生きた「時代」と格闘したのである。

 

編集とは何か

 

 

 

 

新著の前書き。

人生100年時代が到来しつつある。日本では「百寿者」というが、欧米では一世紀を生き抜いたという意味で「センテナリアン」と呼んでいる。この時代をリスクととらえる風潮が多いが、私は千載一遇のチャンスとみるべきだと思っている。

人生80年時代といわれた頃から「志学・而立・不惑知命耳順従心」という孔子の人生訓から脱却し、超高齢時代にふさわしい人生の考え方を私は提唱してきた。人生50年時代を1.6倍すると、志学は26歳、而立は48歳、不惑は64歳、知命は80歳、耳順は96歳、従心は112歳となる。26歳から48歳が青年期、48歳から64歳が壮年期、64歳から80歳が実年期、80歳から96歳が熟年期、96歳から112歳が大人期、それ以降125歳までは仙人期と考えたらいい。人生100時代と言われるようになってようやくこの考え方を納得してもらえるようになったのではないか。20代半ばから80歳まで、青年期と壮年期と実年期とあわせて3つのキャリアを持てる時代になったし、その後も3期あるのだ。

さて、2018年6月7日に私が毎日書き続けているブログ「今日も生涯の一日なり」が5000日を迎えた。このブログでその日が命日と誕生日の偉人を対象に、心に響いた言葉と人生の軌跡と私の感慨を記すという修行を2016年、2017年に行った。その中から90歳以上の地平に立った人々を抜き出したのが本書である。

また、2005年から始めた「人物記念館の旅」は、すでに800館を超えてライフワークとなってきたが、「偉い人」の条件が自分なりにわかってきた。それは影響力ということである。深く、広く、そして長く影響を与える人が偉い人だ。彼らの共通項は7つある。「仰ぎ見る師匠の存在」「敵との切磋、友との琢磨」「持続する志」「修養・鍛錬・研鑽」「飛翔する構想力」「日本への回帰」である。その分類ごとに高齢順に並べている。107歳と最高齢平櫛田中を含め、訪問した記念館やそこで入手した資料や書籍から拾った言葉を使っているから、知られていない名言も多いはずだ。

百寿者は2050年には53万人になるとの予測はあるが、現在ではまだ7万人であり数は多くないので、この本では90歳以上の人を取り上げることにした。「平成」の次の時代が見えている今、超高齢化時代を生きる読者に耳を傾けていただければ幸いだ。

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「名言との対話(平成命日編)」5月29日。新藤兼人「私は仕事をして生きてきた。その仕事の中に私自身が含まれていると私は思います。仕事とは、私であり続けること、私とは何かを考え続けることなんです」

新藤 兼人(しんどう かねと、1912年明治45年)4月22日 - 2012年平成24年)5月29日)は、日本映画監督脚本家1997年文化功労者2002年文化勲章。

1933年徴兵検査が終わった頃、「すごい映画に出合った。尾道の“玉栄館”という映画館で見た。山中貞雄監督の『盤嶽の一生』で、人の生き方を考えさせる、知恵の働いた映画だった。「これだっ」と思った、突然ね、映画をやろうと思った」。

33歳、1945年秋に書いた『待帆荘』がマキノ正博によって『待ちぼうけの女』(1946年)として映画化され1947年キネマ旬報ベストテン4位となり初めて脚本家として実力が認められた。その後、シナリオライターとして活躍。

1949年に独立プロダクションの先駈けとなる近代映画協会を設立した。1951年、『愛妻物語』(乙羽信子主演)で39歳にして宿願の監督デビューを果たす。遅咲きの監督だ。1952年原子爆弾を取り上げた映画『原爆の子』を発表。チェコ国際映画祭平和賞、英国フィルムアカデミー国連賞、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞など多くの賞を受けた。この頃、主演の乙羽根信子と愛人関係となる。

以降は自作のシナリオを自らの資金繰りで監督する独立映画作家となり、劇団民藝の協力やカンパなどを得て数多くの作品を発表。1960年『裸の島』を制作し、1961年モスクワ国際映画祭でグランプリを獲る。

出生した〈広島〉と〈性と人間〉に固執し、手がけた脚本は370本にもおよび多くの賞を受賞した。監督に加え、脚本家、プロデューサー、経営者、教育者、著述者など多彩な活動を行った。1978年(昭和53年)に乙羽信子と再婚。

近代映画協会1960年代に100近くあった独立プロのうち唯一成功し、現在も存続、映画作品を送り出している。日本のインディペンデント映画の先駆者であり多くの門下生を育てた新藤監督の業績を讃えた新人監督のための「新藤兼人賞」がある。

100歳を迎え、東京都内で誕生会が開かれ、集まった映画人を前に「これが最後の言葉です。どうもありがとう。さようなら」と挨拶した。2012年5月29日老衰のため東京都港区の自宅で亡くなった]。満100歳であった。

「自分は世界で唯一の貴重な存在なんだと考えることが大切なんです」という新藤は「私の財産は、挫折なんです」というほど挫折が多かったが、それを財産として成長を遂げた。新藤は、映画人という天職に70年以上の期間を費やした。それは自己発見と自分づくりの100年におよぶ仕事人生であったのだ。「人は死んでしまうが、死なない人もいるのだ」。残した作品には永遠の命があり、新藤兼人は死んではいない。

 

 

会食と会議。

昼食は、九段のグランドパレスの萬寿苑にて。松本地域活性化マネジメントセンター長(多摩大総研副所長)と多摩大総研客員教授をお願いしている渡辺さんと摂る。

「長寿食。食と音楽。シリーズとリピート。時代認識。日野市。京王プラザホテル。17年間3000回イベント。BASEQ。舞浜倶楽部。、、、、。」

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14時:松本先生と文庫カフェで情報交換

14時半:瀧川課長・福井さんから会議資料の説明を受ける。

15時:多摩大研究開発機構評議員会(私は機構長)を開催。

・メンバー:多摩大総研。多摩大情報社会研究所。多摩大医療・介護ソリューション研究所。多摩大ルール傾城戦略研究所。

・社会的投資研究所の新設。2017年度算報告。人事。2018年度事業計画進捗。

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「名言との対話(平成命日編)」5月28日。藤村富美男「私の終生のライバルは、鶴岡さんただ一人です」

藤村 富美男(ふじむら ふみお、1916年8月14日 - 1992年5月28日)は、広島県呉市山手町出身プロ野球選手監督解説者

呉港中学の投手として夏の甲子園大会で優勝。決勝で当たった熊本工業の川上哲治から3連続三振を奪っている。凱旋時の呉市民の熱狂ぶりは、連合艦隊入港以上のものだったという。

職業野球のタイガースではピッチャーをやりながら、二塁、一塁、三塁を守った。そして37インチの物干し竿と呼ばれた長いバットを振り回した強打者でもあった。川上の赤バット、大下の青バットに対抗し、「色を塗るだけなら誰でもできる、自分は他人の真似のできないバットを使おうと考え」、藤村はゴルフのドライバーをヒントに運動具店に長尺バットを作らせたのだ。2018年現在、アメリカのメジャーリーグで活躍する大谷f翔平の「二刀流」の先輩なのである。

戦時中の1943年には敵性語の追放があった。野球連盟は新用語を通達し、ストライクは正球、ボールは悪球、ヒットは正打、そしてストライクは1本、二本を数え。三振はそれまで、アウトは「ひけ」と呼んだ。

戦後の1946年には選手兼監督という二刀流で、投手としては13勝2敗、防御率2.27。打者としては打率3割2分3厘という堂々たる成績を挙げた。1947年以降は不動の4番打者として、史上最強といわれた「ダイナマイト打線」を象徴する存在となった。1950年に打者として3割6分2厘で首位打者となって翌年も3割2分を打ってからは打者に専念した。

生涯記録をみよう。投手としては10年で34勝11敗(最多は13勝)、防御率は2.34。打者としては19年間でホームラン224本、打点1126、打率3割(最高は3割6分2厘)。年間191安打は1994年イチローに破られるまで44年間日本プロ野球記録であった。1949年の46ホームランは、1948年青田昇川上哲治の記録25本を一気に21本更新。「阿修羅の藤村」「猛打、猛守、猛走」と評したジャーナリストもいた。日本で最初のサイクル安打を記録し、これを2度達成している。藤村富美男プロ野球創成期を代表するスター選手であった。

1956年の広島戦で9回裏二死満塁から三塁ベースコーチに立っていた選手兼任監督・藤村は「ワシが代打や」と球審に告げて打席に入ると、左翼に豪快な代打・逆転・サヨナラ・満塁本塁打を叩き込み試合を決めた。これが最後のホームランとなった。

藤村は初代ミスター・タイガースよ呼ばれた。ミスタージャイアンツ長嶋茂雄は「藤村に憧れて三塁手になった」と公言している。また世界のホームラン王・ 王貞治の一本足打法は、川上監督が藤村のフォームを参考にしたものである。

少年時代の沢村投手、現役時代の川上、別当など、気になる存在はいたが、藤村にとって南海ホークスで活躍した同じ呉出身の同年生まれの初代「ミスターホークス」で、プロ野球史上最多勝監督鶴岡一人が終生のライバルであった。リーグは違ったが、その活躍を横目に見ながら、自分を鍛え、磨いていった野球人生であった。終生のライバルの存在は大きい。

 

(参考)『ミスター・タイガース 藤村富美男伝』

ミスター・タイガース―藤村富美男伝

 

花と緑と水と人と。「カメラマン絵描き詩人に俳句詠み 初夏の公園みなアーチスト」

  初夏の公園を散策。花と緑と水と、人と。今日の一首。

  カメラマン絵描き詩人に俳句詠み 初夏の公園みなアーチスト

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中曽根元首相、本日100歳。健康長寿の秘訣は?

「規則正しい生活」と「森羅万象に関心を持つこと」(日経新聞

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「名言との対話(平成命日編)」5月28日。山地進「教育は大切だからね」

山地 進(やまじ すすむ、1925年5月12日 - 2005年5月27日)は、総務事務次官を経て日本航空社長,会長。

東京大学工学部造船工学科を卒業、更に法学部政治学科へと進む。運輸省に入省。1981年から総理府に転じ、1984年に新設された総務事務次官に就任。1985年に辞任し日本航空常勤顧問。同年8月、日航ジャンボ機墜落事故が発生し12月に代表取締役社長に就任。1987年には完全民営化を実現させた。副会長を経て1991年6月に会長となる。1998年相談役を経て2004年に名誉顧問。

 話題となった山﨑豊子『沈まぬ太陽』では、1985年の御巣鷹山墜落事件処理のために時の中曽根首相(利根川)が1986年に鐘紡代表取締役会長の伊藤淳二(国見正之)を会長にすえ、天下り官僚の山地進( 海野昇)を社長にしたという想定になっている。

 私のビジネスマン時代の30代半ば以降は、山地社長利光社長の近くで仕事をし、辞めるときは近藤社長から激励されたことを思い出した。山地社長時代は広報課長であり、毎週のようにブリーフィングを行った。社長室での報告や決済、そして雑談と思い出は尽きない。「君たち、社長になんてなるもんじゃないよ」と言われたことがある。案件はすべて決まってからくるし、選択できるのは昼飯の「蕎麦かうどんか」だけだと、ユーモアを交えながらの説明に、部長以下、笑ったこともあった。

山地さんは、日本酒の大吟醸日航のファーストクラスに載せるプロジェクトを実施したときの社長で、この件で何回か接触した記憶がある。シンセサイザー富田勲先生とタッグを組んでのプロジェクトだったが、10年間搭載が続き評判もよかった。発端は山地社長だった。後日、関係者と神田和泉屋で酒宴を持った時に、お招きしたが体調が悪くお目にかかれなかった。しかし、電話でお話することができた。私には「相変わらず絵を描いているか?」「教育に頑張っているか?」「体調が戻ったらまた大吟醸を飲みたいな」という言葉をかけてもらった。

1997年の私の宮城大への転出にあたって山地会長に挨拶に伺うと、「君は個性派だったからね。会社にとっては大きな損失だが、本人にとっては、その方がいいだろう。教育は大切だからね」と励ましていただいた。「教育は大切だ」という言葉が耳にこだましながら仕事をし続けてもう20年になる。

 

沈まぬ太陽 文庫 全5巻 完結セット (新潮文庫) [文庫] [Jan 01, 2002] [文庫] [Jan 01, 2002] [文庫] [Jan 0...