新著『人生遅咲きの時代 ニッポン長寿者列伝』を発刊ーー「終わらざる人々」81人の生涯

新著「人生遅咲きの時代 ニッポン長寿者列伝」(日本地域社会研究所)を発刊。

平成時代に亡くなった95歳から117歳までの長寿者81人の生き方から学ぶ人生100年時代の生き方読本。

「前向きな人」「続ける人」「遅咲きの人」「ひとすじの人」「きわめた人」「テーマ追い人」「みがく人」「気概の人」「健やかな人」「つくる人」「天寿の人」「スーパーセンテナリアン」。

オビ:人生の後半は余生ではない。本番である。だれも自分を「終わった人」とは考えない、いわば「終わらざる人々」。人生後半からひときわ輝きを放った81人の生き様は、新時代を生きる私たちに勇気を与える。

人生遅咲きの時代―ニッポン長寿者列伝 (コミュニティ・ブックス)

 アマゾン

日本地域社会研究所http://www.n-chiken.com/

昇地三郎107歳。金原まさ子106歳。加藤シズエ104歳。金子兜太98歳。宇野千代98歳。塩月弥栄子96歳。小森和子95歳。片岡球子103歳。大野一雄103歳。岩谷直治102歳。高木東六102歳。奥村土牛101歳。三浦敬三101歳。新藤兼人100歳。加藤馨98歳。橋本武101歳。むにのらけじ101歳。豊田英二100歳。佐藤忠良98歳。団藤重光98歳。永田耕衣97歳。芹沢光治良96歳。井伏鱒二95歳。三鬼陽之介95歳。小林ハル105歳。石井桃子101歳。土屋文明100歳。邦正美99歳。笹島信義99歳。上村松篁98歳。吉田秀和98歳。中川一政97歳。今泉俊光97歳。ドナルド・キーン96歳。木村庄之助104歳。東久邇宮稔彦王102歳。柳田誠二郎100歳。来栖継98歳。王馬煕純98歳。宇野精一97歳。安藤百福96歳。笹崎龍雄96歳。木下是雄96歳。岡崎嘉平太92歳。近藤康男106歳。奥むめお101歳。日高六郎101歳。望月百合子100歳。鈴木俊一99歳。大河原良雄99歳。大村はま98歳。坂口謹一郎97歳。大西巨人97歳。山田五十鈴95歳。中川牧三105歳。島田省吾98歳。森信三97歳。蟹江ぎん108歳。日野原重明105歳。水島廣雄102歳。松本重治98歳。流正之95歳。成田きん107歳。塩谷信男105歳。三輪壽雪102歳。三笠宮崇仁100歳。安西愛子100歳。横田喜三郎96歳。笹川良一96歳。飯田美雪103歳。松原泰道101歳。坂村真民97歳。住井すゑ95歳。林雄二郎95歳。大竹省二95歳。小倉遊亀105歳。安藤太郎100歳。大川ミサヲ117歳。長谷川チヨノ115歳。森シノ111歳。

150冊目の著書になる。http://www.hisatune.net/html/02-kenkyuu/tyosaku/index.htm

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スイミング:1000m

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 「名言との対話」3月14日。榎本喜八「目でボールを見るのではなく、臍下丹田でボールをとらえているから、ゆっくり振っても精神的に間に合うんです。ちょうど夢を見ているような状態で打ち終わる」

榎本 喜八(えのもと きはち、1936年12月5日 - 2012年3月14日)は、プロ野球選手。

早稲田実業から毎日オリオンズに入団。「安打製造機」の異名を最初に取った選手。打率.298、ホームラン16本、打点67で新人王。139試合 592打席 490打数 146安打 24二塁打 7三塁打 84得点 87四球 5敬遠 5犠飛 出塁率.414は高卒新人の歴代最高の数字となっており、打率.298 67打点 232塁打 10死球清原和博選手に破られるまでは歴代最高記録。1000本安打・2000本安打の最年少記録を保持し、その他にも数々の高卒新人記録も持つ。率3割越えを6回。1000本安打達成は24歳9か月で高卒新人記録を持つ。2000本安打達成は31歳7か月でイチローに抜かれるまで1位。イチローの1000本安打達成は25歳4か月。2000本安打は、川上哲治山内一弘に続き、榎本喜八は三番目に達成した。

 榎本は早稲田実業出身の先輩荒川博から合気道藤平光一を紹介される。「臍下丹田を意識し、そこに意識を鎮める」。無駄な力が抜け、リラックスした自然体でバッターボックスに立てるようになった。りきまずに体を柔らくして、自在にバットを振り抜くという独特の打法を完成させた。榎本のオリオンズ入団にも関わった荒川は、刀を振らせるなど武道に通じる指導をし、王に一本足打法を指導したコーチである。

「臍下丹田に、自分のバッティングフォームが映るようになったんです。ちょうどタライに張った水に、お月さんがきれいに映る感じ。寸分の狂いもなく、自分の姿が映って、どんなふうに動いているのかまでよくわかった。ボールがバットに当たった瞬間から、バットに乗っていくところもよくわかった。すると、どんなボールに対しても、自分の思い通りに打てちゃう。

1963年7月14日からの11試合で、打率.558(43打数24安打)を記録し、4安打2試合・3安打2試合・2安打4試合。「野球の神様から“神の域”に到達する機会を与えていただいたんですよ」。「野球の神様から“神の域”に到達する機会を与えていただいたんですよ」と語っている。

動画で榎本が安打を打つ場面をみると、バットを振る音が聞こえてくるような気がする。私には、榎本の名前だけは知っていたが、どのようなバッターかは知らなかった。榎本喜八の凄みを同時代の天才たちに語ってもらおう。

「バットコントロールが素晴らしく、あれだけの打撃の名人はいなかった」(荒川博)。「今までに見たバッターの中で一番”正確な”バッターは誰かと聞かれ場、躊躇なく榎本と言うな」(西本幸雄)。「神様という言葉は、榎本にこそふさわしい」(川上哲治)。「左打者の理想は榎本さん。教科書になるフォーム。ほとんど動かない。体も開かない」(張本勲)。

対戦した稲尾和久投手「榎本さんにだけはフォークを投げた。たったひとりのバッターを抑えるために新しいボールを覚えなければならなかったんです」「スポーツではなく真剣勝負、そう、果たし合いだったような気がします」。相手チームの捕手・野村克也「際どいコースを審判が、ストライクに取ってくれた。すると、見送った榎本が指を3㎝ほど広げ、“これぐらい外れている”と呟くではないか。実は、ボールを受けた私も、同じぐらい外れていると思っていた。それほどまでに、正確に見ているのかと驚いた」。

後の世代のスポーツ評論の二宮清純は「寸分の狂いもなくピッチャーが投じたボールを打ち返している証拠であり、ピッチャーにしてみれば何一つとして言い訳が許されない。さながら一太刀で眉間を割られたようなものだろう」

 2000本安打第一号の川上哲治は「球が止まって見える」と言った。第2号の山内一弘「ボールには打つところが5カ所ある。内側、外側、上、下、真ん中だ」と発言している。第3号の榎本喜八は「目でボールを見るのではなく、臍下丹田でボールをとらえている」と語った。沢木耕太郎「敗れざる人々」の中に、「E」という男がでてくる。この本では、マラソンの円谷やボクシングの内藤などを読んだが、榎本の部分を読まなかたの惜しかった。天才と努力の人たち、神の領域に達した人たちの言葉を追いかけたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

公的イベントから私的イベントの季節へ移行。

朝の散歩で、翡翠カワセミ)の美しい姿をよく見かける。

川面を一閃して飛ぶ姿を今日は、数度みた。

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公的なイベントが次々と中止になっている。今日は、銀行まわりなどやるべきことをやった。そして3月中の私的なイベントを調整する。近隣への短い旅行。見るべき施設の見学。人の紹介。小さな飲み会の設定、、。

13日の金曜日、株はさらに大暴落中。世界経済は同時に奈落への道か。日本経済は大不況の足音が聞こえる。

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「名言との対話」3月13日。原民喜「死は僕を生長させた 愛は僕を持続させた 孤独は僕を僕にした」

原 民喜(はら たみき、1905年明治38年)11月15日 - 1951年昭和26年)3月13日)は、日本の詩人小説家

原民喜という人物については名前も知らなかった。ノンフィクション作家で優れた作品を書き続けている梯久美子原民喜 死と愛と孤独』(岩波新書)を読んだ。

民喜という名前は、日露戦争に勝って民が喜ぶという意味でつけられた名前である。広島の原爆をテーマとした作品「夏の花」「死と夢」などの作品で知られる。

1951年、45歳で中央線吉祥寺と西荻窪間で鉄道自殺をする。葬儀委員長は佐藤春夫広島城址に「詩碑」が建立される。設計は谷口吉郎、陶板製作は加藤唐九郎。何枚かの写真をみると、10代前半の学生服姿の写真では聡明で透明感のある目線があり、慶応予科時代は真実を見抜こうとする意志を感じる目をしている。

「死は僕を生長させた」。商人としての才覚とやわらかな感受性を持った庇護者・父の死、愛情を注いでくれた母の死、そして可愛がってくれ、原が14歳の時の姉の死。原には死は身近にあった。その死たちが原を生長させた。

原自身の死はどのように受け止められたか。4歳下の埴谷雄高「あなたは死によってのみ生きたていた類まれな作家でした」。大江健三郎「われわれを、狂気と絶望に対して闘うべく、全身をあげて励ますところの自殺者である」。原の小説「永遠のみどり」には「ヒロシマのデルタに 青葉 したたれ」という後代にあてたメッセージがある。

「愛は僕を持続させた」。永遠の女性となった同郷の6歳下の妻・貞恵。夫の才能を信じ、作家として立つという原の夢を自分の夢とした。「お書きなさい、それはそれはきっといいものが書けます」。明るく。貞恵は「出しゃばらず、弟を扱うように原君をやさしく扱っていた」(伊藤整)。貞恵の句「着ぶくれて庭はく人や枯芙蓉」「菜を洗ふ手もと暮れゆく秋の雨」もいい。結婚6年目に肺結核を発症し、結婚11年半で33歳で死去してしまう。愛が原が原であることを辛うじて保った。

「孤独は僕を僕にした」。原は1945年2月に広島に疎開する。原爆という惨劇に遭うために移ったようなものだった。「便所ニ居れ頭上ニサクレ ツスル音アリテ頭ヲ打ツ 次ノ瞬間真暗騒音」と記している。代表作「夏の花」は、GHQの検閲を避けるために「原子爆弾」からタイトルを変え、「三田文学」に載せた。心象風景を書いた他の作品とは違い、目と耳でとらえた事象の記録に徹する文体を用いた。広島が発する言葉に耳を澄ませたのだ。「日の暑さ死臭に満てる百日紅」「梯子にゐる屍もあり雲の峰」「水をのみ死にゆく少女蝉の声」。「これらは「死」ではない、このやうに慌しい無造作な死が「死」と云へるだろうか」。「僕は堪えよ、静けさに堪えよ。幻に堪えよ。生の深みに堪えよ。堪えて堪えて堪えてゆくことに堪えよ。一つの嘆きに堪えよ。無数の嘆きに堪えよ。嘆きよ、嘆きよ、僕を貫け。帰るところを失った僕を貫け。突き放された世界の僕を貫け」(『鎮魂歌』より)。「自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ」。それが原が生きる理由だった。「嘆きは僕と結びつく。僕は結びつく。僕は無数と結びつく」。孤独が原を原にした。

原民喜 死と愛と孤独の肖像』の「あとがき」に、著者の梯久美子は「個人の発する弱く小さな声が、意外なほど遠くまで届くこと、そしてそれこそが文学のもつ力であることを、原の作品と人生を通して教わった気がしている」と書いている。文学の意味はそこにあったのか。

原民喜は、日露戦争の翌年に生まれ、太平洋戦争の広島で原爆の被害に遭っている。名前の由来といい、被爆といい、原民喜は、遭うべきものに遭うべきときに遭っている感じがする。その一生は、偶然と必然が織りなす「死と愛と孤独」にあった。そして短すぎる生涯であったにもかかわらず、この本の中で描かれた多くの文学者たちに鮮烈な記憶を与え、彼らの文学に確かな影響を与えている。

17歳年下で親しかった遠藤周作は原の遺書を読んで「貴方の死は何てきれいなんだ」と日記に記している。「沈黙」を書いたキリスト者・遠藤には「イエスの生涯」という作品がある。そこではイエスは徹底して無力な存在として描かれている。人々の悲しみや苦痛やみじめさを引き受け、そばに寄り添おうとした。原民喜はイエスであった。

原民喜 死と愛と孤独の肖像 (岩波新書)

 

「蓋棺録」ーー梓みちよ。宍戸錠。小林庄一郎。藤田宣永。

「蓋棺録」(文芸春秋4月号)から。

梓みちよ。「この歌(こんにちは赤ちゃん)は私の宝なのだと、気がつくのに時間がかかったんです」(1月29日没。76歳)

宍戸錠「90歳の殺し屋が、100歳の殺し屋に殺されてしまう映画を撮りたい」(1月18日没・86歳)

小林庄一郎「これで関経連会長にはなれないな」(2月4日没。97歳)

藤田宣永「妻は僕のすべてですよ」(1月30日没。69歳)。「世間の扱いが違う二人が夫婦で、残酷な日々でした」(小池真理子

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立川

・所用

・けやき出版を訪問。

大学

・秘書と打ち合わせ。

・学長室:渡辺、山本、高野。

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「名言との対話」3月12日。上原正吉「奉公人根性を去れ」

上原 正吉(うえはら しょうきち、1897年明治30年12月26日 - 1983年(昭和58年)3月12日)は、日本実業家政治家

埼玉県出身。 高等小学校卒業後、いくつかの職場を経て、大正製薬創業者の石井絹治郎に仕え、業績をあげ続け、第3代社長に就任する。

この人の名が世間の耳目をそばだてたのは、高額所得番付である。1964年1966年1976年1977年1979年の計6回も日本一を占めた。当時の新聞、テレになどのマスメディアで名前をよくみた記憶がある。この度『大正製薬 上原正吉と その妻小枝』(仲俊二郎)を読むと、その所得の大半は、大正製薬株式配当であることを知った。社長として高収益を上げ続ける業績の賜物だったから価値がある。

上原は薬業とい製造業を天職に定めた。そして「営業は男子一生の仕事なり」の気概を持って、禁欲的職業倫理で勤勉に働いた。「上原正吉、この名をして財界の一勢力たらしめん」という高い志を胸に、小成に甘んじない姿勢で邁進していく。

 上原正吉の特徴は、「考える」ところにあった。しつこく考える人であった。常識を疑う姿勢で、問題を根本から考えて、根気よく人に聞き、気がついた点をノートに記し、解決策をひねりだす。

問屋を通さない特約株主制度を創設する。小売りの薬店に100円の出資で株を所有してもらい。配当を払い、販売実績に応じて割戻金を払う。生産者と消費者が株主である得意先の薬屋を通して直結することになり、消費者の声が直接届き、品質が向上することになった。そしてこの特約株主制度をさらに大衆化した共生会をつくる。今でいう一株株主制度だ。これで資金調達問題も一気に解決できた。共同で工場をつくり、薬を生産し、自家製の専売店として店頭に並べ売るという仕組みだから、メンバーは喜んだ。

 また社員教育に熱心だった。腕のよい外商員を養成し、自分の分身をつくることに没頭した。従業員は住み込みであり、夕食後、日々の発生する問題とその解決策を論じ、薬という製品知識を教え込んだ。いわば毎日が合宿であった。それは「上原学校」と呼ばれた。上原の薫陶を直接受けた卒業生たちと一緒に大正製薬をつくったのだ。上原は人をつくったのである。

上原自身も、激務の傍ら、夜学で明治薬学校(明治薬科大学)で学び、大阪青年会英語学校(YMCA)に夜通い、一番の成績を残している。自分自身の教育にも成功している。そして常に陣頭に立った。

上原の仕事のやり方は近代的であり、感心した。文書は候体をやめて口語体にした。コミュニケーションツールとして社内報を活用し、社是の説明、偉人傑人を紹介した修養講話、修羅場の経験を語った。作文と面接だけの入社試験で有為の人材を確保。作業の標準化。できる社員のモデル化。製品の規格化。無借金経営。社員の躾。始業よりも早い出社。年功序列の破壊。伝票へのカナタイプの全面採用。モンロー計算機の導入。IBM型電子計算機の導入。、、、。こういった足跡をたどると、常識にとらわれない、革新の人だったことがわかる。新時代の経営の王道を自ら切りひらいた、その姿がみえる気がする。

製品の品質を向上させた後は、メディアを使った広告を大胆に売っていく。始まったテレビでは、私は「サモン」のコマーシャルをよく覚えている。「子曰く、、、、40歳にして惑わずサモンを飲む。楽しいかな人生、幸福なるかなサモン」で一世を風靡した。王選手の「ファイトでいこう!リポビタンD」の宣伝は巷にあふれて、ビジネスマン時代の私もよく飲んだ。提供番組もいい。「コンバット」、「木下恵介劇場」、「青春とは何だ」、主題の「柔」を美空ひばりが歌った「姿三四郎」など枚挙にいとまがない。

52歳からは政治家としても活躍し、参議院議員を5期つとめた。科学技術庁長官、原子力委員長などを歴任した。遺族援護が政治家としてのライフワークだった。

「焦らず、無理せず、背伸びせず」。息子で後継社長の上原昭二は父の言葉を挙げて、「自分の力以上のことをやると、破滅を招いてしまう。経営面でいえば、自分たちの力を十分見極め、無理に背伸びをしないことが肝心だということです。これが私の経営観であり、人生訓になっています。」と語る。息子の教育にも成功しているようだ。11歳年下の妻・小枝との二人三脚で築いた人生であった。

「奉公人根性を去れ」は、本人の心構えを窺える言葉だ。若い頃から、奉公人意識ではなく経営者として当事者意識でことにあたったのであろう。奉公人根性とは、今でいう「サラリーマン根性」のことだ。阪急創業者の小林一三が「サラリーマンとして成功したければ、まずサラリーマン根性を捨てることだ」と言ったのと同じである。意識が、心構えが、志が、人を育てることを痛感する。

 

大正製薬 上原正吉とその妻小枝―わずか七人の会社からの出発だった

 

 

「Apple 新宿」で「3・11」の黙祷。

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  • 「らんぶる」で仙台からみえた保険の佐藤さんと打ち合わせ。
  • 新宿マルイ本館1Fの「Apple 新宿」。突然不思議な雰囲気になった。「3・11」の黙祷だった。
  • 出版社。出版予定の打ち合わせ。その後、社長夫妻と茜霧島を飲みながら懇談。富士宮。文化堂。インデザイン、、、。

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「名言との対話」3月11日。オーレ・キアク・クリスチャンセン「子どもたちには最高のものを」

 オーレ・キアク・クリスチャンセン(Ole Kirk Christiansen, 1891年4月7日 - 1958年3月11日)は、レゴグループ創設者。

デンマーク生まれのクリスチャンセンは家は貧しくておもちゃを買う余裕がなく、代わりに木片を切ってそれを人形に見立てて遊んでいた。14歳になると、兄の一人から大工仕事を教わる。そして大工として働き、20歳になる頃には外国に出ていく。そこで働いて得たお金でデンマークに戻り、小さな木工所を作り、家屋の建築や修理を行っていた。世界恐慌で本業が縮小すると、不況で物が売れない中でも、玩具、おもちゃだけは衰えをみせないことから、木製おもちゃの製造販売を開始する。そして1932年に生活雑貨と玩具を製作する会社を創立し、「レゴ」が誕生する。

 レゴデンマーク語: LEGO)は、この玩具会社とプラスチック製の組み立てブロック玩具ブランドである。 レゴはデンマーク語で「よく遊べ(leg godt)」という単語の略を社名にしたものだ。またLEGOにはラテン語で「組み立てる」の意味がある。「組み立てて遊ぶ」という意味の命名である。そして「最高のものこそ価値がある。Only the best is good enough.」という信念で、その通りの製品開発を行う企業となる。

木工ブロックでの積み木に加えて、柔軟性のあるプラスチックを使い、ブロック同士がきちん結合する「自動結合式」のレゴブロックが誕生し、世界中の子どもたちを熱狂させた。

クリスチャンセンは「自由に形作られるブロック遊びが子供達を没頭させて、想像力を刺激させる」という考えだった。小学校時代の息子がプラスチックの断片を組み立てながら熱中して、大きな船などを何日もかかって組み立てる姿をみているので、私にも親しみがあるおもちゃのブランドだ。

1歳半からのDUPLO(デュプロ)シリーズ、定番のシティシリーズなどを開発し、レゴブロックをシリーズとして売り出して、ブロックを個別にバラバラに買っても一つの玩具として遊べるようにするなど、「つなげて組み立てて遊ぶ」ことができるレゴは人気があった。

しかし、2代目、3代目が引き継いだレゴは、1990年頃から経営が不振に陥り、 2004年、レゴは社内の改革をはかる。創業の精神である「遊びを通して子どもの創造性を育む」ことに立ち返り、メインの消費者である子どもに着目する。創業者の理念「子どもたちには最高のものを」をもとに、新しい価値観として「最大ではなく最高を目指す」と定め、高級玩具市場をターゲットに絞り成功する。このV字回復の復活劇は「デンマークの奇跡」とも呼ばれている。

現在では、新しいスター・ウォーズアナと雪の女王まで多彩な製品がある。2017年4月1日、名古屋に日本初のレゴのテーマパーク「レゴランド ジャパン (LEGOLAND JAPAN) 」がオープンした。世界において8番目のレゴランドである。

「最高のものこそ価値がある」、だから「子どもたちには最高のものを」提供して「よく遊」んでもらおうという創業者の精神は、世代交代で経営が危機に陥ったとき、「最大ではなく最高を」という形で甦っている。創業の精神は、危機を克服するバネの役割をすることがある。創業の精神は、時代を貫く貴重な経営資源である。

 

 

 

 

 

 

 

 

望遠レンズと広角レンズ

 梅棹忠夫著作集第5巻「比較文明学研究」の図解の2回目が終了。全部で47枚。これをパワーポイントで整理し、3回目の図解として仕上げる。第一部「文明の生態史観」、第二部「比較文明論の展開」、第三部「文明学の課題と展望」。30年以上の研究のこの成果は、望遠レンズと広角レンズでみた比較文明への原視点だ。

次は、第14巻「情報と文明」に挑んでいく予定。

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ヨガ教室:1時間。

ジム:スイミング1000m40分。

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 「名言との対話」3月10日。幣原喜重郎文明と戦争とは結局両立しえないものである。文明が速やかに戦争を全滅しなければ、戦争がまず文明を全滅することになるであろう」

幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう、1872年9月13日明治5年8月11日〉- 1951年昭和26年〉3月10日)は、日本外交官政治家位階従一位勲等勲一等爵位男爵

大阪府門真生まれ。帝大法科卒業後、外務省に入省。次官、駐米大使、外務大臣を歴任。戦後1945年首相。1949年衆議院議長

主力艦保有率について対米英6割を受諾した1922年に終結したワシントン会議全権の幣原喜重郎駐米大使は、1924年加藤高明内閣の外務大臣に就任し、以降若槻礼次郎浜口雄幸内閣で外相を歴任し、1931年の満州事変勃発まで、国際協調路線を推進した立役者である。

中国に対しては内政不干渉を貫いた。欧米に対しては1930年のロンドン軍縮会議では補助艦保有率を対米6.975割に抑えた。野党の犬養毅鳩山一郎、枢密院顧問らは天皇統帥権干犯問題と攻撃したが、浜口首相とともに努力し、批准にこぎつける。海軍は条約派艦隊派に割れた。1936年には日本は会議から脱退し、軍縮時代は終わりを告げる。この時代は個人の名前をつけた「幣原外交」と呼ばれた。

1941年の松岡洋右外相の日ソ中立条約調印については、「国際問題に素養も理解もなき民間の喝采を博せんとする外交ほど国家の前途に取って重大なる憂患はない」と非難している。

 

 第二次大戦後、親英米の外交通であるとして首相に就任する。1946年の天皇人間宣言の発布に関与し天皇制を維持する。新憲法草案作成などをめぐりGHQとの交渉にあたった。

2006年に外務省が日本外交史上大きな足跡を残した人物として「幣原外交の時代」というタイトルで特別展示を行っている。以下、展示資料から。

「1930年1月に開催されたロンドン海軍軍縮条約の締結に際して幣原は、「統帥権干犯」を問われながらも、浜口首相とともに、軍部の圧力に屈することなく条約批准に努めました。」「日華関税協定の締結により中国の関税自主権を認め、また中国の呼称を「支那」から「中華民国」に改めるなど、中国側の要望に理解を示しました」。

国会図書館の憲政資料室には、幣原喜重郎関係文書(幣原平和文庫)があり、日本国憲法制定関係をはじめとして自筆諸論文や書簡、極東軍事裁判広田被告弁護関係、ロンドン軍縮会議ワシントン会議、幣原・モリス会談、幣原内閣、などの関係資料などがある。

幣原喜重郎は、第一次世界大戦第二次世界大戦の間の時代に大きな役割を果たした。そして敗戦後の難局に首相に指名されたときには、天皇人間宣言、新憲法の制定に関しても関与するなど、大きな構えで仕事をした人物だと思う。

「文明と戦争とは結局両立しえないものである。文明が速やかに戦争を全滅しなければ、戦争がまず文明を全滅することになるであろう」。これは憲法改正法案に関する幣原首相の所信表明である。戦争放棄を定めた日本国憲法第9条は幣原の提案と言われている。

 

 



水泳1000mーー平泳ぎとクロール

昨日はジムのプールで1000m泳いだ。40分ほどかかっている。今まで500mが天井であったが、1000m泳いだのは初めてだ。平泳ぎとクロールで交代しながら泳いでいると単調さが消えて、距離がのびることがわかった。

ビジネスマン時代の尊敬する上司は週末に1000m泳いで気分転換をはかっていた。また吉永小百合さんも1000m毎日のように泳いでいると聞く。

局面が変わった。これからは、1キロをノルマとしていこうか。

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新型コロナ騒ぎで、平日にも公園に人が多くなってきた。

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午前。大学:ひと仕事。

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「名言との対話」3月9日。成田知己「大異大同。中異大同。小異大同」

成田 知巳(なりた ともみ、1912年9月15日 - 1979年3月9日)は、日本の政治家日本社会党政策審議会長・書記長・委員長を歴任した。

香川県高松生まれ。 東京帝国大学法学部卒。三井鉱山に入社、三井化学文書課長を退職して戦後初の衆院選日本社会党から当選し、以後連続12回当選。60年安保での論客、党内左右両派の仲裁役として活躍。1962年書記長に就任した。1967年には佐々木更三委員長とともに辞任したが、1968年に委員長に就任。党体質改善のため、社会党の弱点として「日常活動の不足・議員党的体質・労組依存」と指摘して克服に努力を重ねた。これは成田三原則と呼ばれた。

『成田知己・活動の記録』第二巻を読んだ。1968年から1979年までの、主として社会党委員長時代の執筆、演説の記録である。社会党野党第一党であった。対峙する相手は前半は佐藤内閣、後半は田中、三木、福田が相手であった。私がものごころがついてからは長い間、成田委員長時代だった。党内の内紛、他の公明党民社党共産党などとの共闘などの難問に取り組んだ人という印象ある。

この本の中で、野党共闘の具体的戦術をインタビューで語っている。意見の不一致があるのに共闘なんかできないという意見に対して、「意見がまったく一致しているなら、別の政党である必要はないんですよ」と笑いながら答えている。続けて「当面たとえば日中国交回復というような具体的な問題について意見の一致をみた場合に、そこで力を合わせてやるというのが共闘なんでしてね」と語っている。綱領が違い、基本政策が違うのであるから、大異を捨てて大同につく、中異大同、小異大同という例をあげながら、意見の相違は棚上げにして、一致した点で統一戦線を組もうとするのがいいと主張している。

このテーマは、野合批判で必ずでてくるものだ。運動をやっていく過程で相互批判をやり、それによって前進があるし、運動の過程で信頼関係が発展するというのが成田の考えで、江田三郎書記長、そして石橋正嗣書記長とのコンビで努力した。しかし、野党の統一戦線は不発に終わった。後任は飛鳥田一雄であり、石橋、土井たか子、そして村山富市と続く。村山委員長は自社政権で総理に就任し、社会党は消滅した。

1978年の大福対決(大平・福田)では、予備選前から、開票日にも、「最後は必ず大平が勝つ」と予言し的中させている。石橋湛山以来の哲学を持った総裁になるだろうというい期待を述べて強い相手になると警戒している。また予備選で敗れて本選を迎える前に辞任した福田首相については「福田首相の引き際が立派だった」と述べている。

野党連合構想は中選挙区時代のものであり、小選挙区制度では、成田知己のいう「大異大同」「中異大同」「小異大同」路線でいくしかないだろう。

 

『 成田知己活動の記録』第2巻(成田知己追悼刊行会)

 

 

ニッポン放送「戸田恵子 オトナクオリティ」に出演。

ラジコ「戸田恵子 オトナクオリティ」。

女優・戸田恵子が大人の上質で豊な生活をエンジョイするための「人・モノ・コト」にフォーカスする番組!全国900以上の記念館を訪ね歩いた、多摩大学元副学長、久恒啓一が人物記念館の魅力を紹介する。

  http://radiko.jp/#!/ts/LFR/20200308140000一週間以内なら聞けます。

ニッポン放送戸田恵子 オトナクオリティ」

   https://www.1242.com/otokuri/

東京新聞3月8日。

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関東(ニッポン放送14時から)、仙台(東北放送9時半から)、九州(九州朝日放送17時半から)あたりから、反応が入り始めた。

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「名言との対話」3月8日。山岡孫吉「買うときは、頭を下げろ。売るときは、胸を張れ!」

山岡 孫吉(やまおか まごきち、1888年明治21年)3月22日 - 1962年昭和37年)3月8日)は、世界初の小型ディーゼルエンジンを開発したヤンマー(現・ヤンマーホールディングス創業者。

滋賀県出身。尋常高等科卒業後1903年、1万円を貯めようと母より貰った米一俵を換金した3円60銭を手に持ち大阪へ奉公に出る、1905年大阪瓦斯工事人夫として仕事をしていた時にガスエンジンに出会う。1906年、商売を志して独立、ゴム管ガス器具販売で1年で千円を手にする。中間マージンをとるブローカーではなく、技術で製品をつくるメーカーになろうとし、1912年、25歳で「山岡発動機工作所」を開いた。ガスエンジンの需要が多く、第一次世界大戦が終了した1918年、31歳で30万円の利益をあげた。

1921年農業用小型石油エンジンメーカーとなり、ヤンマーを商標として用いた。1932年、欧米視察に出、ドイツで開かれたメッセディーゼル博士が開発したエンジンに出合い、小型ディーゼルエンジン開発を決意した。売れている石油エンジンの販売をやめて、背水の陣で立ち向かう。無間地獄を乗り切り、1933年、世界初のディーゼルエンジン小型化に成功した。15人の技術者たちがエンジンのまわりで泣いていた、孫吉も一緒に泣いた。孫吉の人生のクライマックスである。

1953年、二度目の欧州視察で、ルドルフ・ディーゼル博士(1858年生)顕彰をすすめようとし、ドイツで話題になり、ドイツ政府より大十字功労勲章受章を贈られる。1957年、ディーゼル博士生誕100年・ディーゼルエンジン開発60年を前に博士が少年期を過ごしたバイエルン州アウクスブルク市ビッテルバッハ公園に記念石庭苑を寄贈した。自然石には「偉人は自分一人のためでなく、多くの人々のために、この世に生を受けたのである」という博士の座右の銘が刻まれている。

1957年、テレビで「ヤン坊マー坊天気予報」を開始した。子ども時代の私はこの天気予報を毎日のようにみていた。この天気予報は2014年3月31日で、55年にわたる放送を終了している長寿番組だった。この天気予報でヤンマーの名前を知った。1961年、大阪市北区茶屋町にヤンマー本社ビルを竣工させた。孫吉は1962年、社長在職のまま死去する。

山岡は1951年。第一回『藍綬褒章』を受章し、1955年、ドイツ発明協会金牌、1957年、ドイツ大功労十字章などを受賞している。

1956年に山岡荘八山岡孫吉伝 三円六十銭から百億長者へ』が刊行されている。わずか3年60銭を身につけて奉公に出た山岡孫吉は、1万円を目標とするのだが、結果的に百億の長者になるという伝記である。私は今回伝記の書き手として定評のある小島直記の『エンジン一代 山岡孫吉伝』(集英社文庫)を読んだ。

小成に甘んじない生き方をした山岡孫吉「優秀な社員は会社の宝や、貸借対照表にのらない大資産や」として大家族主義で社員を大事にした。そして「買うときは、頭を下げろ。売るときは、胸を張れ!」と社員に語っている。買うときは横柄に、売るときは卑屈に、という態度が普通である。購買は頭が高く、営業は腰が低いのが常識だ。優れた商品を買うのだから、ありがたく思う。自信のある製品を売るんだから矜持を持つ。これが山岡孫吉の信条なのだ。この言葉は、大事にしたい。

 エンジン一代―山岡孫吉伝 (集英社文庫)