年末年始にやること:総括(〇▲✖)と計画(新世界?)

年末年始にやること。

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  • 年末の「2020年の計画」の総括:〇✖▲。数字。事件。継続。プロジェクト。
  • 年始の「2021年の計画」の作成:方針。方向。目標。公私個。新世界。
  • 『図解コミュニケーション全集』第2巻に入れる4冊分の著書の原稿の校正。

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「名言との対話」12月29日。石川淳「くだらないものは書くな。お前が仕事をしているなら、お前がヴィヨンのように泥棒であろうと、あるいは人殺しであろうと一向に構わぬ」

石川 淳(いしかわ じゅん、1899年明治32年)3月7日 - 1987年昭和62年)12月29日)は、日本小説家文芸評論家翻訳家

東京浅草生まれ。漢学者で昌平黌の儒官であった祖父と琴の師匠をしている祖母のもとで育てられ、小学校時代から『論語』の素読をさせられる。中学時代には森鴎外夏目漱石を愛読し、森鴎外訳『諸国物語』に感銘を受け、通学途中の市電の中で森鴎外を見かけたことに感激した。そして東京外語大学でフランス語を学び、翻訳に打ち込む。戦中には「江戸期」に留学したと言われるほど江戸文化に親しんでいる。こうして和漢洋の三極構造が有機的に組み合わさった深い教養人が誕生した。

1937年普賢』で第4回芥川賞。1957年『紫苑物語』で芸術選奨文部大臣賞。1961年多年にわたる作家業績により日本芸術院賞1981年『江戸文學掌記』で第32回読売文学賞(評論・伝記部門)。1982年石川淳選集』全17巻にいたる現代文学への貢献で朝日賞。

 澁澤龍彦編『石川淳 随筆集』(平凡社)を読んだ。編者が、石川のダンディを示すそうとした書だ。ダンディとは、精神のおしゃれ、カッコよさを指す。和漢洋、古今聖俗を自由に往還する石川の随筆を精選し、歯ごたえがある書となっている。

本を読むことは美容術の秘薬であるとして、「詩酒微逐」という言葉を紹介している。読書人は目を使うから自然に顔が立派になるということだろう。

随筆について述べているのが興味深い。中国では古来、士太夫の文学は詩と随筆にあるとし、散文ではなく詩、そして軽いニュアンスのエッセイではなく随筆を文学のトップにあげている。ヨーロッパでは詩人が最上の文学者の地位にあるのと同じである。また随筆家の基本条件として、博く書をさがしてその抄をつくることにあるとし、食うにこまらぬという保証、つまり金利生活者であることが重要だと指摘している。つまり地位と財産がある者の文学が随筆なのだ。

この書では、古今東西の著名人を罵倒していて驚いた。為永春水については品性いやしきにちかく俗悪ほとんど下司に類したと評している。滝沢馬琴は士太夫きどりだが、あさましい文体のあとに愚劣なつらつきを残していると書く。永井荷風の晩年の随筆は小市民の愚痴と切り捨てる。アランについても「ウソッパチにきまっているのだから、わざわざ翻訳するにはおよばない」と書く。ほめているのかけなしているのかよくわからない文章にも困惑させられる。幻惑してからかって面白がっているのだろうか。

アンドレ・ジイドの「完全な真摯さを我がものにしようと念ずる者は、30歳前後で自分自身に驚き、自分は一体どうなるのだろうという不安に徹しない限り、その目的を達することは出来ない」という言葉を紹介している。安易な社会への妥協と参加を戒めている。石川が定職を持たない理由だろうか。30歳前後の不安については私もよくわかる。

「陽根の運動は必ず倫理的に無法でなくてはならない」「情熱の過度はそうしても女人遍歴という形式をとらざるをえず、したがって、有為の男子はどうしてもドン・ファンたらざるをえない」「批評というものはその惚れ方の度合にかかった」、、、、、。

夫人によれば「ふだん石川はあまり喋らない。お酒を飲んだときはうるさいほどペラペラ喋るくせに、その他のときはほとんど黙っている。黙って原稿用紙に向き合い、黙々と読書し、だから家の中はいたって静かであった」そうだ。

太宰治坂口安吾と並び「無頼派」と呼ばれたが、彼らとは違い88歳で亡くなるまで創作意欲は衰えなかった。独自孤高の文体で、和洋漢の広い学識を背景に時代と世相を作品に投影しているものから、ユーモラスなものまで多岐にわたり執筆している。晩年の『狂風記』は多くの若者から支持を得ている。

石川への弔辞では、安部公房は「あるべき表現、のぞむべき表現を、「精神の運動」と言い切った」とし、丸谷才一は「石川淳全集はわれわれを励ます。何を悲しむことがあろう」と述べている。「世界はさまざまな異なった考え方によって成り立ち、そして思想は他者を自覚することなしには生まれようもない」といわれた人もいた。

稲垣足穂は『弥勒』で「もっともお前が何を仕出かそうと問題ではないが、それならそれで仕事をしろ」の後に、「くだらないものは書くな。お前が仕事をしているなら、お前がヴィヨンのように泥棒であろうと、あるいは人殺しであろうと一向に構わぬ」と言われたと石川の言葉を書き留めている。自身で「精神の運動」と呼ぶダイナミズムによる作品をつくり続けることを至上としたのだ。この「精神の運動」とは何だろうか。

石川淳随筆集 (907) (平凡社ライブラリー)

 

外山滋比古「100歳人生はこう歩く」。村崎芙蓉子「誰も見たことのない100歳をめざして」

目黒で橘川さんと昼食:総研。学会。会社。「大鴻運天天酒楼」「神乃珈琲」。

夕刻から荻窪の出版社で打ち上げ会:社長夫妻。女性編集者。弁護士。発明家。コミュニティ。

電話:猪俣さん。hanaの野上さん。出版社:fbで近況報告あり。

帰宅後:BS1スペシャル「良心を束ねて河となすーー医師中村哲73年の軌跡」をみる。

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移動中に、NHKラジオ深夜便のインタビューの聞き逃し配信を2つ聴いた。2つとも期せずして「人生100年時代」がテーマだった。

  • 外山滋比古「100歳人生はこう歩く」:今年の8月6日に96歳で亡くなった「知の巨人」の95歳の時のインタビュー。朝寝、昼寝。レム睡眠。運動。300冊近い著書。自分のことは自分で。少食。牛乳。人のための料理。体の全部を動かす。耳を使う生活。声を出す。目は過去を活字で追う。4人。セレンデピティ。ワイガヤ。勉強会。おしゃべりの会。30か月までの幼児教育。旧制高校。ダベリング。幼保教育(音楽・絵画)。3歳から5、6歳までの天才教育。失敗から学ぶ。挽回力で伸びる。120。3回の入試で2回失敗。実験的に生きる。やってみる。100年時代は元気に暮らす工夫を。

  • 村崎芙蓉子「誰も見たことのない100歳をめざして」:85歳で現役の内科医。57歳から女性の更年期障害専門の病院を開き28年。このタイトルは気に入った。東京女子医科大学卒業後、同大付属日本心臓血圧研究所にて循環器医学を学ぶ。 その後、新宿三井ビルクリニック副院長を経て、1992年「女性成人病クリニック」を開設し、同クリニック院長。診療の傍ら執筆や講演活動を行っていたが、著書「カイワレ族の偏差値日記(鎌倉書房)」がTVドラマ化され話題となり、「カイワレ族」が流行語となるなどして広くその名を知られるようになった。第40回NHK紅白歌合戦にも、審査員として出場。

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「名言との対話」12月28日。内藤陳「コーヒー一杯を我慢すれば、文庫本が買えるじゃないか。単行本なら、一食抜けばいい」

内藤 陳(ないとう ちん、1936年昭和11年9月18日 - 2011年平成23年12月28日)は、日本のコメディアン俳優書評家

父はプロレタリア文学作家内藤辰雄。中学2年生で父親から勘当されて家出。役者を志し、喫茶店のボーイや八百屋の荷車引き、選挙運動の旗持ち、サンドイッチマン大道芸人などの職を転々とする。研究生として榎本健一映演プロを卒業。浅草のストリップ劇場の舞台に立ち、コミックショーを演じる。 1963年、トリオ・ザ・パンチを結成。1981年から『月刊プレイボーイ』で「読まずに死ねるか!」を連載。日本冒険小説協会を設立して会長に就任。新宿ゴールデン街イギリスの作家ギャビン・ライアルの冒険小説の傑作にちなんだネーミングのバー「深夜プラスワン」を経営した。

内藤陳は「冒険小説のみが男の小説だ」という。それでは、冒険小説とは何か?歴史的な事件、戦争革命秘境などを背景とし、SF推理小説、スパイ小説、海洋冒険小説山岳冒険小説などを含む。壮大なアクションが多いというのが一般的な説明だ。

内藤陳が会長の日本冒険小説協会は、毎年大賞を選んでいる。北方謙三船戸与一逢坂剛高村薫馳星周夢枕獏宮部みゆき大沢在昌、などが受賞している。1回、2回の連続受賞者の開高健が冒険小説大明神と奉られている。内藤陳によれば、最高は『三国志』だそうだ。冒険小説の要素がすべて入っている総合冒険小説と呼ぶべき傑作という評価で、吉川英治の「全4巻」をすすめている。

『読まずに死ねるか!』(集英社文庫)を読んだ。3枚半の1400字の各エッセイの冒頭の言葉が惹きつける。「オドロイタの、まあビックリしたよ」「ついに来た。この欄に、なんとファンレターが来た、しかもピンクのフートー」「まだ見ぬわが愛する冒険小説狂のみなさま、」「幕が降りた」「これが、どうにも堪らなくうれしいんだよな」「キタ、キタ、キタ!!」「エレクとしたペニスに良心はない」「「、、チンタラ、チンタラ忙しい」「ねェ、ちょいと読んだ?」、、、、、、。

内藤陳は、自身を「面白本のオススメ屋」という。「いいおすすめ屋であることは、確かですね。書評家っていうのとは違う」とし、「いいものをほめたい」と書き続けて、ファンからの圧倒的支持を得た。新宿ゴールデン街の小さな「深夜プラスワン」には、冒険小説のファンたちが集まっていた。草野心平の居酒屋「火の車」と同じく、一度行ってみたかったなあと残念に思ったが、調べるとまだあるらしい。寄ってみよう。

読まずに死ねるか! (集英社文庫)

 

 

渋谷の東急Bunkamura美術館の「ベルナール・ビュフェ展」。

渋谷の東急Bunkamura美術館の「ベルナール・ビュフェ展」。

ベルナール・ビュフェ1945‐1999

ベルナール・ビュフェ(1945-1999)は、黒い描線と抑制された色彩によって第二次世界大戦後の不安感や虚無感を描出し、世界中の人々の共感を呼んだ。その虚飾を廃した人物描写は、当時の若者に多大な影響を及ぼしたサルトル実存主義カミュの不条理の思想の具現化として映り、ビュフェ旋風を巻き起こす。

1958年、ビュフェは30歳でアナベルと結婚。ビュフェはアナベルの豊かな才能や表情に魅せられ、創作活動において多様な表現を試みている。「人は愛する女性の中にいつだって何かを発見するものだ」。アナベルは、ビュフェにとって生涯の女神(ミューズ)であり、彼女をモデルにした作品も多く残した。

17歳の日記には「少なくとも1日に4、5時間を(手を動かして)作業する。言い訳をして怠けない。精神的に立ち止まらず描く。毎日、朝昼晩の深い瞑想」という記述がある。その態度は晩年まで変わらなかった。

「風景画のなかで僕が重んじるのは構図です」

「素直な愛情をもって、絵と対話してほしい。絵画はそれについて話すものではなく、ただ感じ取るものである。ひとつの絵画を判断するには、百分の一秒あれば足りるのです」。

1973年、岡野喜一郎によって静岡県長泉町に「ベルナール・ビュフェ美術館」が開館している。今や、世界一の2000点のフビュフェコレクションを誇っている。喜一郎はスルガ銀行初代頭取の岡野喜太郎の子で第3代頭取をつとめた人物だ。喜太郎については私の「名言との対話」で取り上げている。岡野 喜太郎(おかの きたろう、1864年5月9日元治元年4月4日) - 1965年昭和40年)6月6日)は、駿河国駿東郡青野村(現・静岡県沼津市青野)出身の銀行家静岡県多額納税者。スルガ銀行創設者。

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「名言との対話」12月27日。加藤保男「回ってきたチャンスはその場でとびかからないと逃げてしまう」

加藤保男(かとう やすお、1949年3月6日 - 1982年12月27日)は、日本の登山家

加藤保男『雪煙をめざして』(中公文庫)を読んだ。登山家として著名な加藤保男とは私と同じ学年だったことが分かった。エベレスト登頂三度の快挙を果たしながら、三度目の下山途中で亡くなったのは33歳のときだった。「僕」という言い方を含め若い登山家の放つ英気を感じるさわやかな自伝だ。亡くなる前年に書いた本である。

兄・滝男に先導され、日本の穂高に登り、ヨーロッパのアルプスでアイガー北壁の直登ルートを征服し、さらにヒマラヤへと向かう。岩と氷の世界に果敢に挑戦し続けた天才クライマーは、8000メートル峰に4度、エベレストに3度の登頂を果たした。エベレストをネパールチベット両側から登頂したのは世界初である。加藤自身は「二つの別の山、チョラモンマとエベレストに登ったのだと思っている」と述べている。エベレスト3シーズン(春・秋・冬)登頂も世界初だ。

1974年、エベレスト登頂で、両足指、右手中指、薬指、小指の第一関節から先を切断し、身体障碍者になった。1980年5月3日 - エベレスト(チョモランマ)にチベット側の北東稜から登頂。下山中に8,750mでビバークとなったが、無事に下山した。1981年10月 には 尾崎隆ら3人による遠征隊でマナスルに無酸素登頂を果たした。

そして、1982年12月27日 、 日本人初の冬期エベレスト登頂を果たした(東南稜)が、下山中に消息を絶った。「成功を優先すれば生命が危ない。生命を大事にすれば成功はおぼつかない」と「あとがき」で語っているように、最高峰への挑戦は体調と天候を見きわめながらの進退の決断の連続だっただろう。限界に挑み続けていると、いつかは命を落とすことになる。加藤の山の友人、知人で山で亡くなった人は多い。ライバル意識を持つようになった兄・滝男は、今年2020年3月に76歳で死去している。

「回ってきたチャンスはその場でとびかからないと逃げてしまう」は、「幸運の女神に後ろ髪はない」ということわざと同じ意味だ。加藤保男は高峰や難所に誘われるたびに、即断即決で参加を表明して、自分の世界を広げている。そうでなければ、30歳を少し過ぎたあたりで、世界最高のクライマーにはなれなかっただろう。チャンスはリスクと同義語だ。

雪煙をめざして (1983年) (中公文庫)

三鷹市美術ギャラリー「太宰治展示室 三鷹の此の小さい家」

三鷹市美術ギャラリー太宰治展示室 三鷹の此の小さい家」。

青森県五所川原三鷹太宰治文学サロン、そして「津軽」「人間失格」などの小説では知ることのなかった太宰治の人となりや生涯についてのエピソードを楽しんだ。

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12月にオープン。15年の作家生活の半分以上が三鷹。6畳、4.5畳、3畳の12坪の借家。30歳で娶った妻の美知子とのあいだに、長女の園子を授かった。東京女子師範出の美知子は初期の太宰の著作を2冊読んで才能に感銘を受けた。意外なことに太宰は子煩悩だった。手紙魔だった。

小説150作のうち90冊。「走れメロス」「斜陽」「人間失格」などの代表作を書いた。60カ国以上で翻訳されている。

中央線沿線の三鷹は、終生の師で後に「私は太宰には情熱をかけました」と語った井伏鱒二の住む荻窪や、妻の実家のある甲府に便利で、死後の全集編集を託したいと願っていた亀井勝一郎の住む吉祥寺も近い。また新宿や出版社の多い神田にも便利だ。また新宿や出版社の多い神田にも便利だ。

太宰の人となりに惹かれる友人も多かった。無頼派の二大作家と呼ばれた坂口安吾は「世界文学史に残る作家」と讃えている。また「」一緒に勉強しよう」と受け入れてもらった小山清は「太宰さんと飲むよさは、それを共にした人でなければわからない」と言っている。太宰の墓前で自死を謀った田中英光ら弟子も多かった。

「無趣味」という文章。「どこに住んでも同じことである。どうでもいい事ではないか」「私は衣食住については全く趣味がない。大いに衣食住に凝って得意顔の人は、私にしては、どうしてだか、、、、。

 多才。絵を描く。実にうまい。自画像も多い。トレードマークの二重廻し。

1947年半ばから体調不良。5月頃から精神に異常。被害妄想、行方不明、不眠症、酒量が増えた。3月に心中する山崎富栄と知り合う。11月、太田静子(自宅を訪問した読者の一人)に女児。1948年は喀血しながら執筆。

納税告知書。所得税額21万に対し、納税額1174771円。これに狼狽し、審査請求書を書いている。著作業は、参考書、旅行、探訪、資料入手などの調査費支出がある、、。

1948年6月「太宰治情死」。39歳の誕生日の6月19日の早朝に発見された。

書斎兼応接間に佐藤一斎の額がかかっているのは意外だった。妻の実家の石原家から借りたものである。「寒暑栄枯夫地之呼吸也 苦楽寵辱人生之呼吸也 在達者何必驚其遽至哉」。『言志四録4』(佐藤一齋 川上正光全訳注 講談社学術文庫)には「寒暑栄枯。天地之呼吸也。苦楽栄辱。人生之呼吸也。即世界之所以為活物。」とsり、読み下し文として「寒暑、栄枯は、天地の呼吸なり。苦楽、栄辱は人生の呼吸なり。即ち世界の活物たる所」とある。

引き出しが二つある小さな机。200字詰めの原稿用紙。蔵書は持たない。亀井勝一郎の世話。リンゴ箱をタテにして本棚にしていた。

一日5枚が限度。朝9時から午後3時前後まで。夜は執筆しない。

佐藤春夫「美しき子とよき文とを残して君去りき」。夫人に短冊、娘にサイン帳。

「春風や麦の中ゆく水の音 待ち待ちてことし咲きけり桃の花 白と聞きつつ花は紅なり」「川沿ぞひの路をのぼれば赤き橋 またゆきゆけば人の家かな」

桜桃忌は1992年まで続けられた。

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朝:今年最後のヨガ教室で1時間。

午後:車の点検。

夜:深呼吸学部:アイムの佐藤典雅さんの映像に感銘を受けた。発達障害自閉症の学校。GAKU君。アイム。7施設。放課後デイサービス。ノーベル高等学院。就労支援。ピカソカレッジ。アインシュタイン川崎市宮前。生涯スパン。アート。金の管理。生活保護があるから心配ない。引きこもりが困る。特性を個性に。楽しさ。意味不明の事件は発達障害者の事件。IQ70-85。自己肯定感。マジメは危険。明るい、爽やか、可愛がられる子に。NO!。最低限のルールで自由に。耐久性。危機を乗り越える力。家庭環境の安心。生きる強さとコミュニケーション。、、、。

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「名言との対話」12月26日。和辻哲郎「僕の知識の乏しさは反って容易に結論を掴ませる」

和辻 哲郎(わつじ てつろう、1889年3月1日 - 1960年12月26日)は、日本哲学者倫理学者、文化史家、日本思想史家。

 「医は仁術」を信奉している父に影響を受ける。文学に興味があり、一高では戯曲や翻訳も書くが、谷崎潤一郎と友人になり、文学は谷崎に及ばないと感じ、哲学にすすむ。夏目漱石を敬愛した。法政大教授、京都帝大教授、東京帝大教授を歴任する。『風土 人間学的考察』『日本古代文化』『原始仏教の実践哲学』『鎖国 日本の悲劇』など、日本の精神史に影響を与える名著を多く書いた。文化勲章受賞。

日本的思想と西洋哲学の融合、止揚しようと志した。さまざまな「間柄」に応じた「役割」を引き受けて生きるのが人間という考えだ。その「間柄」は「信頼」によって支えられていると、日本の伝統的な生き方に根ざしている哲学、倫理学を提唱した。

『古寺巡礼』を改めて読んだ。感受性にあふれたみずみずしい文章だ。「僕」という書き方に若さを感じる。戦地に赴く青年が一期の思い出に奈良を訪ねるとして手に入れたという。この書に導かれて奈良を旅する人は多い。有島武郎、水原秋櫻子、白洲正子。日本とは何か、日本人とは何か探るときに手にする書物となっている。東大寺唐招提寺薬師寺法隆寺中宮寺久米寺、岡寺、、、。法華寺十一面観音、薬師寺吉祥天女百済観音、法隆寺金堂壁画、、。実感、印象記、感想の収録であり、和辻の若さがにおってくるようだ。

「漠々たる黄土の大陸と、十六の少女の如く可憐なる大和の山水」。「日本文はむしろ教養の不足から生まれたのである。即ち平安朝の和文は漢字の素養の少い女の世界から生まれ、漢字まじりの文は漢文を作る力のない武士の階級から生まれ、口語体は文章体をさえ解しない民衆の間から生まれた」「模倣は問題ではない。ただかくの如き傑作の生まれたことが、---ただそれのみが、重大な問題である」

和辻は「僕の知識の乏しさは反って容易に結論を掴ませる」と書いている。先入観にとたわれずに、ひたすら「観た」のだ。そして次のように言う。「「観る」とはすでに一定しているものを映すことではない。無限に新しいものを見いだして行くことである。だから観ることは直ちに創造に連なる。しかし、そのためにはまず純粋に観る立場に立ち得なくてはならない」。和辻哲郎はあくまでも自分の目で観ようとした人である。奈良には何度か足を運んだが、この『古寺巡礼』を手に再度訪れたいと思う。しかし、和辻はそれを叱るであろう。

初版 古寺巡礼 (ちくま学芸文庫)

 

今年の文化勲章、文化功労者の言葉から。

10月28日の新聞記事。

文化勲章

  • 橋田寿賀子(脚本家、95歳)「多くの女性脚本家が活躍している。それだけは私が開拓したと自負している」
  • 澄川喜一(彫刻家、89歳)「半分は木が作ってくれる。素材と対話しながらの共同作業です」「自分がこうしたいと思っても木が嫌がることがある。今でも木から教えられることが多いです」

文化功労者

  • 三枝成彰(作曲家、78歳)「才能はない。人の3倍努力した」「全部で十何年かかる。(上演まで)生きているのは無理でしょうね」

文化勲章の奥田小由女(人形作家。83歳)は、同じく1984年の文化勲章奥田元宋(画家)の妻。夫婦で文化勲章は日本初、広島県三次市に「ふたりの美術館」。

久保田淳(日本文学。87歳)。近藤淳(物理学、90)。

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「名言との対話」12月25日。ダン・池田「草を刈る人、野の果てを見ずという。見なければいいのか」

ダン池田(だん いけだ、本名・池田 啓助1935年4月11日- 2007年12月25日)は、日本バンドマスター・ラテンパーカッション奏者・指揮者タレント

中央大学中退。1969年、「ダン池田とニューブリード」というバンドを結成。フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』のカラー放送開始と同時に専属バンドとなり、『オールスター家族対抗歌合戦』・『スターどっきり報告』・『オールスター水泳大会』、『ズバリ!当てましょう』などに出演。『NHK紅白歌合戦』(NHK)では1972年1984年まで13年間に渡り指揮者を務めた。ひげがトレードマークの人気指揮者だったので、名前と笑顔と優れた演奏は私もよく知っている。

1985年、告発本『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』を出版し、70万部のベストセラーになった。芸能界の内情を暴露したことで追放される。田原俊彦近藤真彦松田聖子早見優柏原芳恵など当時のビッグアイドルの恋愛やタブー話を書いた。

30年間にわたり、芸能界の裏も表も、上も下も、内も外も、すべてを知り尽くしたダン50歳の池田の日記を編集した本だ。「はじめに」には、芸能界に「天誅を加える」と書いている怒りの書である。

600人の新人歌手がデビューし、翌年まで残るのは5人。その翌年には1人か2人。それがアイドル・ゲームだ。ダン池田からみて点が辛いのは、石田あゆみ、早見優、シブがき隊、チェッカーズ、サザン・オールスターズ、今陽子八代亜紀松田聖子千昌夫坂本九。高いのは、石川さゆり都はるみ山口百恵中森明菜細川たかし五木ひろし。カネで左右される賞の内実、オーディデョン番組のインチキさなどを執拗に暴露する。

芸能界という伏魔殿で、バンドマスターは、侮辱され、恥辱にまみれ、屈辱の毎日を送る。有名にはなったが、家一軒持てない。飼い殺しのハムスターだ。バンドで400万円の収入があっても、18人で配分するから、バンドマスターは50万円以下となる。先輩のスマイリー小原、チャーリー石黒などの悲哀もでてくる。ダン池田によれば、マスコミは低俗、視聴者はバカ。だからテレビはアホ製造機だとなる。

芸能界を語りながら、太宰治「世間でよいといわれ、尊敬されている人たちは、みなウソつきでニセ者だ」(「斜陽」から)などこういう言葉がときおりでてくる。ダンは読書家だった。

過去を振り返らない。バンドマスターは捨てて、自分の食い扶持は自分でかせぐ。行く手には海が洋々と広がっている。「日の光をかりて照る月たらんよりは、自ら光を放つ灯火たれ!」という森鴎外の言葉のとおりに生きていこうと決意の船出だった。

冒頭にあげた言葉には「手もとの楽譜だけを見ていればいいのか。ちきしょう。いまに見ていろ!」と続く。その結果、芸能界の怒りを買い、追放の憂き目にあい、ディナーショーなど単発での仕事をマイペースでこなしたり、芸能事務所を設立して演歌歌手をデビューさせたりした。また住まいのあった埼玉県で開業したバー「ダン池田の店」でマスターをつとめていた。

出版から20年以上経って、ダン池田が亡くなったときの、新聞記事が今回読んだ古本に挟んであった。芸能レポーター梨元勝は「われわれでも10知っているうちの7しか話さないが、ダンさんは全部言っちゃった」とインタビューに答えている。追放されたダン池田は、「日記を出版社の社長に出さない?って酒の席で口説かれた。してやられた」と話しながら、「後悔はしていないよ」と語っている。男の意地だろう。

芸能界本日モ反省ノ色ナシ (〔第1弾〕)

 

 

 

クリスマス・イブは、九州の母、浦安の妹、妻とのコミュニケーションの日。

母親からLINEで送られてきた大分県からの母の表彰式の写真。11月3日の文化の日。付き添いの私が手をがっちり握っているのに感激したとのこと。

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永山、立川と用事を済ます合間に、加藤保男『雪煙をめざして』(中公文庫)を読了した。登山家として著名な加藤保夫とは同じ学年だったことが分かった。エベレスト登頂三度の快挙を果たしながら、下山途中で亡くなったのは33歳のときだった。「僕」という言い方を含め若い登山家の放つ英気を感じる自伝だ。この人については27日の「名言との対話」で迫ることにしよう。

立川では浦安に住む妹夫妻と喫茶で懇談する機会を持った。

夕食は、妻と二人のクリスマスイブを祝う外食。

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「名言との対話」12月24日。美濃部亮吉「そばとウナギ、きれいな若い女性、そして半蔵門付近のお堀端」

美濃部 亮吉(みのべ りょうきち、1904年明治37年〉2月5日 - 1984年昭和59年〉12月24日)は、日本マルクス経済学者政治家東京都知事(第6・7・8代)、参議院議員全国区)も歴任した。

天皇機関説の美濃部達吉と菊地大麓の長女の母との間に生まれた長男である。東京帝大で大内兵衛に師事し助手になるが。河合栄治郎に嫌われ法政大に転出。1960年からの2年間、NHKテレビ『やさしい経済教室』の解説者だった。

1967年、社会党共産党推薦での東京都知事に自民・民社推薦の松下寿立法政大学総長を破り当選。1971年、自民党推薦の秦野章警視総監を破り再選。1975年、自民党推薦の石原慎太郎を破り当選。1979年都知事を退任。1980年、参議院選挙で当選。

美濃部亮吉 都知事の12年』で、東京大空襲について、「一瞬のうちにいのちをうばわれた十万人の悲痛を通して、底知れぬ戦争への憎しみと、おかしたあやまちを頬冠りしようとするものへの憤りにみちた告発は、そのまま、日本戦後の初心そのものである。そしてーこの初心は、私の都政に対する原点である」と語っている。

京都の蜷川虎三知事から始まり、東京の美濃部亮吉都知事、大阪の黒田了一府知事が並列した革新知事の時代があった。美濃部は都知事として、「広場と青空の東京構想」を打ち出す。公共インフラ投資の凍結・廃止・撤去、老人医療の無料化、高齢者の都交通の無料化、公営ギャンブルの胚子、都職員の高い給与と数の増加、などを行った。そして北朝鮮を訪問し金日成首相と会談、自民党幹事長であった保利茂からの書簡(保利書簡)を預かり中華人民共和国を訪問し周恩来首相と面談している。

東京都知事の歴史は、キャッチフレーズの歴史でもある。「東京オリンピック」の東龍太郎、「物価と福祉」の美濃部亮吉、「財政再建」の鈴木俊一の「都市博中止の」青島幸男、「ディーゼル規制」の石原慎太郎、短命の猪瀬直樹舛添要一を経て、豊洲移転」の小池百合子と続いている。

都知事再選に向けての選挙戦で、独特の「ミノベスマイル」とともに、「東京で自慢できるものを3つ挙げてほしい」とのの質問に自民推薦の警視総監経験者の秦野候補は「皇居、地下鉄、高速道路」と答えた。美濃部は「そばとウナギ、きれいな若い女性、そして半蔵門付近のお堀端」と回答して都民の共感を得た。近代施設というハードをあげた文明論と、都民が共感できるソフトの要素を誉めた文化論の戦いとでもいおうか。軍配は文化論の圧勝となった。

作家の童門冬二美濃部都政の幹部として広報室長、企画調整局長、政策室長を歴任し、知事の辞任に付き合って51歳で退職し今も小説を書いている。その童門は広報室長時代に美濃部知事から、やさしい文章を書くことを教えられ、知事に惚れこんで仕事をしていたという。

1973年に東京で就職した私は美濃部都政の後半を知っており、評価は様々であったが、独特のミノベ・スマイル、やさしい語り口、見事なコピー創造力が、長期12年の革新都政を実現させたことは間違いないと思う。「そば、うなぎ、女性、お堀端」と並べる感覚は作家以上の腕前だ。

 

クラウドファンディング第2弾ーー『図解コミュニケーション全集』第2巻『技術編』

『図解コミュニケーション全集』第2巻『技術編』の発行が対象としたクラウドファンディング第2弾を始めた。

(はじめての方へ)ご支援いただける方は、上のグリーンファンディングの募集のトップページhttps://greenfunding.jp/miraifes/projects/4420?utm_medium=GREENFUNDING&utm_source=Portal

の右上の「会員登録」から入っていただき、会員登録した上で、ご支援のメニューから選んで、お申込みください。支援を希望するが登録をしたくない方、その他質問・ご相談は、事務局(吉池拓磨 yoshiike.takuma@gmail.com)まで、ご連絡ください。


久恒啓一『Zoomオンライン図解塾』のご案内

Zoomを使ってのオンライン図解塾講座を行っています。受講はリターンのいくつかでお申し込みできますが、通常は、以下のnoteマガジン「久恒啓一の図解塾」(月額1万円)の会員登録をすると、久恒啓一の各種コンテンツの閲覧の他に、図解塾の購読権もあります。

YAMI大学 深呼吸学部・特別学科「久恒啓一の図解塾」


推薦の言葉

野田一夫(多摩大学名誉学長)

梅棹忠夫国立民族学博物館初代館長の名著『知的生産の技術』(岩波新書)の延長線上に、私がビジネス界から学界に招いた久恒啓一君が30年来進めてきた「図解革命」が進行中です。その集大成である『図解コミュニケーション全集』が完成すれば、「図解革命」の経典となるでしょう。


福島哲史(オフィスヴォイス代表取締役
「図解コミュニケーション」をテーマとする久恒啓一氏と「ヴォイスコミュニケーション」をライフワークとしている私とは、NPO法人知的生産の技術研究会の同志として活動をともにしてきました。一冊目の「原論編」に続き、「技術編」が世に出ることで、コミュニケーションに関わる分野がより豊かな沃野になることを期待しています。

                  
〇「図解コミュニケーション全集」第2巻「技術編」に収録する書籍の内容。

 1997年発行の『図解の技術・表現の技術』(ダイヤモンド社)は、1990年の処女作『コミュニケーションのための図解の技術』から6年以上経って現実のビジネスや生活の場面での活用や応用を通じて深まってきた考え方の提示と同時に、図解が描けるようになる「技術」、特に「表現の技術」を中心とした本です。
 2002年12月発行の『図で考える人の図解表現の技術』(日本経済新聞社)は、2002年5月の『図で考える人は仕事ができる』の続編で、私の主宰した「図解塾」の講義や実習を題材としており、図解表現と図解思考の基礎的なトレーニング編の位置づけとなった本です。
 2003年発行の『図で考える人は仕事ができるーー実戦編』(日本経済新聞社)は、日経の『図で考える人は仕事ができる』の実践編として、いろいろな仕事やさまざまな場面での図の描き方・使い方を紹介し、実際の仕事で応用できるようになることを企図してまとめた本です。
 2009年発行の『スッキリ考え、1秒で説得 図解の極意』(アスキー)は、図を描くという目的を達成しようとする過程でパワーポイントなどのソフトウェアの技術を身につけることをめざした技術書です。
 2012年発行の『図で考える技術が身につくトレーニング30』(ユーキャン)は、図解思考は理解した、図解の技術も体得した、どのような分野で活用できるかもわかった。そのうえで、図で考えるトレーニングをしたいという読者の要望に応えて編んだ本です。ビジネスマンの悩みや新聞記事などを材料に、図を描きながら問題を解決していくプロセスを体感できる本です。

以上、5冊の書籍を収録する予定です。


参考。
久恒啓一「図解コミュニケーション全集」全10巻。
第一巻 内容 原論編 「図解コミュニケーション原論」2020年8月刊行済み。
第二巻 内容 技術編 「図解コミュニケーションの技術」
第三巻 内容 実践編 「よむ・考える・かく」

第四巻 内容 展開編1「ワークデザイン(仕事論)」
第五巻 内容 展開編2「キャリアデザイン(キャリア戦略)」
第六巻 内容 展開編3「ライフデザイン(人生戦略)」
第七巻 内容 応用編1「世界の名著」
第八巻 内容 応用編2「ビジネス理論」
第九巻 内容 応用編3「日本探検」
第十巻 内容 応用編4「ウェブ時代をゆく


支援は2000円から7段階で選択できます。前回の募集でできなかった出版パーティは今回とあわせて行う予定です。

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「名言との対話」12月23日。巽悟朗「これが終わったら、次はこれをやろう、、とライフワークで取り組み、一つまた一つと消していっただけですわ」

巽 悟朗(たつみ ごろう、1935年7月18日 - 2003年12月23日)は、元大阪証券取引所社長、光世証券創業者。

大阪市船場生まれ。同志社大学経済学部ではアメリカンフットボール選手や応援団長を経験した。卒業後、山源証券(現・マディソン証券)に入社。1961年、25歳にして光世証券を創業、一代で東証一部上場企業に育て上げた。2000年、大阪証券取引所理事長に就任。2001年、大阪証券取引所初代社長に就任。ナスダック・ジャパン市場(現・新ジャスダック市場)の創設に尽力。「北浜の風雲児」の異名をもつ。68歳で永眠。

雑誌「プレジデント」の2001年2月11日号などの資料で、巽悟朗の足跡を追う。弁護士だった父の影響が大きい。「人は世のため人のためになって一人前」と教育を受け、身だしなみとマナーの大事さを教え込まれる。

修行で入った証券会社では、新入社員でありながら一流品で身を固め、一流の料亭やクラブに通うスタイルで、日本一の金持ち・松下幸之助から大口の注文を獲得している。「偉い人は、若い者を大事にします」と注文をとる秘訣を語った。

創業した光世証券では個人客ではなく、法人の一本釣りという戦略をとり、独特の相場観と投機の精神で進撃していった。そして破竹の勢いで、「火中の栗を拾う気持ち」で23年ぶりに民間人として最年少で大阪証券取引所理事長に就任し、日証大阪地区会長を10年つとめ、ナスダックジャパン創設にも尽力している。「巽悟朗と光世証券の三十年史」のタイトルは「独歩」である。まさに独立独歩の人だった。巽の息子は後に「弱点、死角がない」「最後のツメはきちんとやらんといかん」と言っていたと述懐している。

1992年のバブル崩壊時には、鋭い嗅覚で構造変化を察知し社員を5分の1にするなど戦線を縮小する。そして10年ほど前からの先物取引の研究を生かして、売買手数料ビジネスからデリバティブ金融派生商品)を中心とした自己売買(ディーリング)にシフトして生き残っている。

芦屋の六麓地区に建てたドイツの古城のような、美術館とみまがう巨大な洋館も一流好みの証である。大企業に勤めることは「あたかも墓場を選んでいるような感じがします」とは、就活に励む若者への貴重なアドバイスであるかも知れない。

巽悟朗の創業当時の事務所には二畳大の紙が貼ってあった。東証上場までの巨大なフローチャート図である。「これが終わったら、次はこれをやろう、、とライフワークで取り組み、一つまた一つと消していっただけですわ」と後に語っているように図解仕事人だった。この人の図解はだんだん大きくなって、最終目標が、自社の発展だけでなく「商都大阪の復権」という志に大きく育っていった。その志を遂げようとする執念が北浜の風雲児・巽悟朗の生涯を支えたのであろう。