『女性セブン』の「遅咲き特集」でもらった反応を少し。

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昨日発売の『女性セブン』の「遅咲き特集」でもらった反応です。

  • 「女性セブン」読者層が、知的好奇心を求める時代なんですね。面白いです! ワクワクを求める時代になってきてるのかな?🤗(女性)
  • 先生の「女性セブン」デビュー、おめでとうございます!幅広くご活躍できるのが久恒先生の魅力だと思います。私は先生の書く人物伝の中でも特に女性の巻が好きなのですが、理由は今よりも窮屈であったであろう時代でも、実は結構好き勝手に生きている女性がいたのを発見出来て、とても楽しいからです。これからの活躍も期待しております。(女性)
  • 拝読しました。久恒節全開ですね。インタビューのまとめがうまく、テンポよく読めました。dマガジンで女性週刊誌を読んだのは初めてかも(笑)(男性)
  • 「女性セブン」を初めて買いました。人生100年時代で「遅咲き」に注目した女性誌も着眼が鋭いですネ! 私には無理が気がしますが、、、としたらまだ30年あります。、、少しばかり目的意識を明確に余生を送ろうと思います。赤木春恵さん、も「遅咲き女優」なんですね!、、片岡球子吉田鋼太郎、吉田羊、遠藤憲一、少し違った観点から注目してみます。、、松本清張には知的好奇心をくすぐられます。(男性)

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朝:テレビ体操10分。散歩20分。ヨガ1時間。ウオーキング30分。

昼:橘川さん、ライフシフトジャパンの大野さんとZOOMミーティング。

夜:深呼吸学部に参加:二期に突入。70年代小説。デジタルツールリテラシー。出版社。ソーシャル編集。未来図書館創造会議。、、、、。山下卓山本文緒、町田良夫、、、。(組織における自由には伸縮あり。本気でやれば止める人はいない、、、)

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「名言との対話」5月8日。澁澤龍彦「時間がないのだから本当にやりたいことだけやるよ」

澁澤 龍彥(しぶさわ たつひこ、本名、龍雄(たつお)、1928年5月8日 - 1987年8月5日)は、日本の小説家、フランス文学者、評論家。

2007年9月30日に仙台文学館で開催中の 「澁澤龍彦 幻想文学館」をみている。フランス文学者で、文学、芸術批評、文明論、博物誌、紀行、翻訳など膨大な足跡を残した澁澤龍彦は、「悪徳の栄え」を猥褻文書として起訴されたサド裁判で世に知られるようになった。仙台文学館も含む全国数箇所での展覧は没後20年を記念した企画だった。

東大浪人中に出会った「モダン日本」編集長時代の吉行淳之介。同年生まれで知り合ってから全ての公演を見続けた舞踏家・土方巽との運命的な出会い。画家の池田満寿夫。演劇の唐十郎。公私にわたり世話になり最良の読者の一人でもあった三島由紀夫。先達であった稲垣足穂。フランス文学者・批評家・紀行作家の巌谷国士。小説家・遠藤周作
日本画家・加山又造。詩人・白石かず子。作家・野坂昭如。人形作家・俳優の四谷シモン、、。こういう時代の最先端を疾走する人々が、澁澤の周りにいた。

代表作と呼べるものを以下に記しておく。「夢の宇宙誌--コスモグラフィア・ファンタスティカ」。遊びや消費を賛美したエッセイ集。(「60年代に刊行した十数冊の著書の中で、私のいちばん気に入っているのが、「夢の宇宙誌」である」)。「快楽主義の哲学」(KAPPAブックスのベストセラー)。「滞欧記」。「偏愛的作家論」(泉鏡花谷崎潤一郎、日夏、南方熊楠岡本かの子石川淳堀辰雄稲垣足穂埴谷雄高花田清輝林達夫三島由紀夫野坂昭如吉行淳之介、滝口修三、安西冬衛、鷲巣繁男、吉岡実江戸川乱歩久生十蘭夢野久作小栗虫太郎橘外男中井英夫、、、)。「高丘親王航海記」。「オー嬢の物語」(翻訳)。「さかしま」(「まず装丁にまたまた嫉妬にかられ、一生に一度でいいからこんな本を出したいと   思ひますのに思ふにまかせません。わが身の不運を嘆くのみ」(三島由紀夫からの葉書))。雑誌「血と薔薇」(責任編集)。翻訳はサド、ユイスマン、コクトー、ジュネ、バタイユマンディアルグレアージュ、、。

抜群の記憶力の持ち主で、旅行中はメモを取らなかったが、宿についてその日のことを整理するというやり方だったと妻の龍子が述べている。ノートはやや小型版だが、丹念に書いてあった。絶筆であった「高丘親王航海記」、「滞欧日記」を買って帰る。
そして妻の澁澤龍子が夫と過ごした18年の日々を静かにふりかえった「澁澤龍彦との日々」(白水社)を帰ってから読んだ。澁澤の日常がよくわかるいいエッセイだった。結婚は澁澤龍彦41歳、妻龍子21歳。両方とも辰年生まれ。子どもを持たない約束だった。
「40年近くを、スランプを一度も経験することなくやってこられたのは、好きな翻訳で気分転換をはかれたこともあると思います」「推敲を終えた原稿を清書するのは、私の役目でした」「赤坂「鴨川」のふぐ、麻生の「苞生」、高橋のどじょう屋、、」「澁澤はつねずね、自分は「目の人」だと言い、絵や彫刻のことなど、目で見たもののエッセイはたくさんありますが、、、」「ヨーロッパ旅行を境に、澁澤は変わったと思います、、、、内から外に向かって、何かバアッと開かれた感じがしました」 「ホテルに帰ってから、一日のことをきちんと書きしるすのが習わしでした」「国内旅行の場合は、一つ仕事が終わると息抜きとして出かけたものでした」「書けば必ず三島さんが読んでくれるという、期待感と同時に緊張感がありました」「澁澤は何かにつけ三島さんのことを語りました」「いつも書斎にとじこもって昼夜逆転しているような人が、旅に出ると不思議に早起きで、まあよく歩きます」

それから10年後の 2017年10月11日に世田谷文学館の「澁澤龍彦」展--「ミクロコスモスとマクロコスモス」をみる機会があった。「伸縮自在のミクロコスモスとマクロコスモスの観念を、二つながら手にれることが必要なのではないか」

忘れてまた買った『澁澤龍彦との日々』で気に入ったところに印をつけた。後で照合してみたが、2007年にピックアップしたところと全く同じ箇所だったのには自分でも驚いた。

この作家は関心が広くかつ膨大な量の仕事を残しており、翻訳全集全15巻別巻1巻、全集全22巻別巻2巻がある。「執筆は遅いほうでした。平均すれば一日に一枚か二枚というほどでした、、」との妻の証言があるが、それでこれほどの量が残るものなのだろうか不思議な感じがする。

翻訳については「独創性を完全に殺したところで勝負できるからこそ面白い」と言っていたが、「変化を自覚しつつ、新しい道を探し求める傾向」があり、「やがては小説でも書くより以外には行き場がないんじゃないか」と考えており、そのとおりになった。妻は「五十を過ぎたころから、澁澤は「持ち時間が少なくなったから」としきりに言うようになりました、、、「時間がないのだから本当にやりたいことだけやるよ」と、、、」と語っていたそうだ。確かに死を意識してから10年はなかったことになる。59歳で亡くなったのだ、がもし天寿を全うしていたらどのくらいの翻訳や著作が生まれたのか、皆目見当がつかない。 

澁澤龍彦との日々 (白水uブックス)

澁澤龍彦との日々 (白水uブックス)

  • 作者:澁澤 龍子
  • 発売日: 2009/10/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

 

 

本日発売の『女性セブン』ーー『人生は「遅咲き」がちょうどいい』

本日発売の『女性セブン』(小学館)5月27日号に『人生は「遅咲き」がちょうどいい』という企画にインタビューが掲載されました。駅の売店に売っていました。この雑誌は女性誌ではメジャーなんですね。

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以下、「遅咲き」として紹介されている人たち。

 森光子(女優)。赤木春恵(女優)。吉丸美枝子(ビューティライフプロデューサー)。山本博(アーチェリー選手)。片岡球子(画家。103歳)。吉田鋼太郎(俳優)。吉田羊(俳優)。遠藤憲一(俳優)。江口のり子(女優)。鴨長明文人)。葛飾北斎(画家)。与謝蕪村俳人)。松本清張(小説家)。宮脇俊三(作家)。カーネル・サンダーズ(実業家。ケンタッキーフライドチキン)。ヴェラ・ウォン(デザイナー)。アンナ・メアリー・ロバートソン(画家。101歳)

いい機会なので「女性セブン」をくまなく読んでみました。小室圭。東山紀之。嵐。羽生結弦福原愛佐野史郎。お墓。生保。館ひろし五味太郎山田詠美。夏井いつき。佐藤愛子。無敵ウィルス。ワクチン。ダイエット。おかえりモネ。かかりつけ医。PB冷凍食品。薬と食べ物の組み合わせ。、、、守備範囲の広さに驚きました。総合雑誌です。

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 昼食は橘川さんとモモちゃんと京王永山で。出版社。子ども塾。新しい老後。、、、、、。

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・U社の企画:進行中。

・岡山の伊藤さんに説明。

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「名言との対話」5月7日。小泉清子「凍りつく道歩みつつ創意湧く」

小泉 清子(こいずみ きよこ、1918年5月7日 - 2019年2月17日)は、日本実業家で、きもの研究家。100歳のセンテナリアン。

 東京生まれ。4年間一緒に暮らした夫を戦争で亡くし、二人の子供を育てるため上野広小路松坂屋の前に小さな呉服店「鈴乃屋」を創業する。「鈴乃屋」という名前は父の姓の鈴木と母の名前の乃婦からとった。花柳界でのきものや芝居におけるきものを観察したり、男社会の差別や邪魔を乗り越えて、その店を日本有数の全国チェーンに成長させ、女性企業家の先駆けと言われた。

NHK大河ドラマの「衣裳考証」を担当した。NHK「人・物・録」の映像では次のように紹介されている。

「全国チェーンの呉服店を切り盛りするかたわら、着物文化の素晴らしさをテレビを通して伝えようと大河ドラマの衣装考証を長年続けてきた。「独眼竜正宗」の黄金の胴服や「功名が辻」のパッチワークの打ち掛けなど、史実を踏まえながらも自由な発想で制作し、時に大きな話題を集めた。「山河燃ゆ」以来33作32年にわたって大河ドラマを支えてきた。着物一筋に生きた100年の生涯だった」。

社内報に毎月67回、5年半にわたって連載した文章をまとめた自伝『夢我夢中ーきもの一筋チャレンジ人生』(NHK出版)を楽しく読んだ。2003年に出たこの本では、1984年から20年にわたり大河ドラマの衣裳考証をしたとある。当時は85歳だった。「山河燃ゆ」から平安朝から現代までの日本の歴史に沿った衣裳を制作したのだ。「春の怒涛」「炎立と」「琉球の嵐」「八代将軍吉宗」「「いのち」「利家とまつ」「独眼竜政宗」「春日局」「武田信玄」「毛利元就」、、。それから12年、97歳までやりつづけたというわけだ。

推薦文を書いた脚本家で「おしん」の橋田寿賀子によれば、小泉清子の生涯は「おしん以上にドラマティック」で、ひどい思いは「おしん」以上だとみている。

呉服は元来男の仕事だったが、「女の身体にまとう着物の職業こそ、女の心理を一番知っている女性の仕事ではないか」と反発している。そして美しいものはどの国に人々をも魅了することがわかり、生涯を投じても悔いはないと決心を固めていく。鈴乃屋は「伝統・中庸・革新」をテーマとし、つみき運動「きものをつくる・みせる・きせる」を展開していく。

その過程できものとは相性がいい書道、茶道、俳句などをたしなむようになっている。一方で、小泉は熱心に勉強していく。商工会議所の経営専門学院で学び、慶應ハーバードビジネススクールで学び、そして渥美俊一のペガサスクラブで最新のマネジメントを身に着けていく。そしてセイコきもの文化財団を創設し、きもの美術館の夢を追う。

「きもの一筋チャレンジ人生」であるが、NHK大河ドラマの「衣裳考証」はライフワークになっている。伝統を守りながら、新しい夢を盛り込んでいく仕事を、私たちも楽しんだことになる。

きものの柄は 「花鳥山水」の模様が本流だ。きもののいのちは、色彩と素材の調和である。きものの調和の美は世界のどの衣裳よりも優れている。そのきものでもっとも大切なことは着心地である。問屋を通さずに生産者に直接発注し、コミュニケーションをとりながら着心地に改良を加えていく新しいモデルは、女性たちからの圧倒的な支持があった。

女性企業家のさきがけとして一筋に邁進した小泉清子は「ビジネスは三寒四温ままならず」と詠んでいる。山あり谷ありの日々を連想させる。「平たんな道を歩いていたのでは アイデアは出ない」とし、詠んだ「凍りつく道歩みつつ創意湧く」は、仕事の面白さを語って余りある。

 小泉清子の100年にわたる壮大な、そして直線的な生涯は、「女のくせに」への反発から始まり、「女だから」へと天職へ向かう。天命を意識した生涯だったといえるだろう。

 

 

都築道夫「泣く蝉よりもなかなかに泣かぬ蛍が身を焦がす」。葛原しげる「子どもはいつもニコニコ笑顔でピンピンしていてほしい」。

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「名言との対話」の第6弾の2020年版「戦後編」を編集中。2日ほど書いていない日があったので、作成する。明日は「まえがき」を書くことにします。5月中に発刊予定。

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「名言との対話」11月27日。都築道夫「泣く蝉よりもなかなかに泣かぬ蛍が身を焦がす」

都筑 道夫(つづき みちお、1929年7月6日 - 2003年11月27日)は、日本推理作家SF作家

東京生まれ。学費未納で早稲田実業学校中退。1956年に早川書房に入社。日本語版「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の編集長をつとめる。1959年作家生活にはいり、技巧的な本格推理、ハードボイルド、シート・-ショートと幅ひろく活躍。最終学歴は「小学校卒」と本人がいうように、英語は全くの独学だった。

1961年に長編『やぶにらみの時計』を発表。以後、『誘拐作戦』『三重露出』『キリオン・スレイの生活と推理』などを発表する。ショート・ショートも得意とし、時代小説の推理短編シリーズには『なめくじ長屋捕物さわぎ』、評論集には『死体を無事に消すまで』がある。2001年に半自叙伝『推理作家の出来るまで』で日本推理作家協会賞、2003年には日本ミステリー文学大賞を受賞した。

  「泣く蝉よりもなかなかに泣かぬ蛍が身を焦がす」という浄瑠璃の一節をハードボイルドの精神としてしばしば引用した。蝉は鳴くが光らない、鳴くことのできない蛍は身を焦がさんばかりに光っている。「恋に焦がれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす」という都都逸があるように、口に出していうより、口に出していわないほうが、心の中では深く思っているという意味で使っていたのだろう。

ハードボイルド作家の元祖ともいうべきヘミングウェイは、「非情のスタイル」「修飾語を極度に削った文章」「人間の行為を即物的に描いて、主人公の感動を説明する修飾語をほとんど使わない」「抒情性を排した文体」「修飾語よりも具体物のイメージにたよる簡潔非情な文体」とハードボイルドを説明している。必要以上に言わない、説明しないという淡々とした語り口の文章が、逆に読者の感動を呼ぶという意味だろう。

都築は推理小説を「謎と論理のエンタテイメント」であると考えていた。犯人が仕掛けるトリックよりは、ロジックの方が重要である。魅力的な謎と、なぜそのような状況が生じたのかという必然性が論理的に語られるならば、トリックなどなくても推理小説は成り立つ。推理小説におけるトリックは、いわば修飾の多い仕掛けであるとしてとらずに、「軽くても、うまい小説が書きたかった」と述べていた。都築道夫は、推理小説をロジックを中心に書くために、蝉調ではなく蛍調のハードボイルドタッチで書こうとしたのである。

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「名言との対話」12月7日。葛原しげる「子どもはいつもニコニコ笑顔でピンピンしていてほしい」

葛原 しげる(くずはら しげる1886年明治19年)6月25日 - 1961年昭和36年)12月7日)は、日本童謡詩人、童謡作詞家童話作家、教育者。

広島県福山中学(現福山誠之館高校)から東京高等師範学校英語科(現筑波大)に進学。教育実習で訪れた付属小学校で唱歌作曲家の田村虎蔵の音楽授業を参観して感激し、本格的に作詞の道を志すようになった。

卒業後、九段精華高女教諭、同理事、跡見女学校講師として教壇に立ちながら、博文館編集局で児童雑誌の編集にも携わり、自らも複数の雑誌に積極的に投稿した。代表作「夕日」は1921年に「白鳩」に発表している。吉丸一昌の「新作唱歌」(1912年~1916年)と共に、まだ童謡という名は用いていないが、後の童謡運動の先駆けとなった。

作曲家の宮城道雄と親交があり、宮城作品全425曲のうち、葛原作詞の童曲は98曲にも及ぶ。無名だった宮城の後援者として生涯変わらぬ友情を持ち続けた。

一方、高等師範学校の学生を対象に、教育現場での「実演童話」を研究する「大塚講話会」を設立。勤務先の九段精華高女が1945年に戦禍で廃校となったのを機に、故郷の神辺に帰り至誠高女(現戸手高校)の校長に就任した。

代表作の「ぎんぎんぎらぎら」で始まる「夕日」は故郷である神辺町八尋の情景を歌ったものだ。最初は「きんきんきらきら」だったが、小学校2年生の長女に、朝日は「きんきんきらから」だが、夕日は「ぎんぎん」でしょといわれ変更したとの逸話がある。

他に、「とんび」、「白兎」、「キユーピーさん」、「羽衣」、「たんぽぽ」などがある。また「どんどんひゃらら、どんどんひゃらら」の「村祭」も葛原作詞であることが後にわかった。

神辺は菅茶山の出身地だ。2018年に儒者で詩人の茶山の記念館を訪問したことがある。茶山は34歳から私塾「黄葉夕陽村舎」(こうようせきようそんしゃ)を開き、村の子ども達に学問を教えた。林述斎から「詩は茶山」といあわれるほどで、「宋詩に学べ」運動を行った当代一の詩人であった。この茶山が私塾を「黄葉夕陽村舎」となずけたのは、夕日が絶品だったからだが、葛原はその夕日を題材とした童謡をつくった。それが代表作となったのである。北原白秋西条八十、野口雨情らとともに知られる作詞家の葛原が作詞した童謡は約1,200、校歌約400にのぼる。

定年後は郷土の子弟教育に尽力し、地元の人たちからも「ニコピン先生」と呼ばれ親しまれた。子どもはいつもニコニコ笑顔でピンピンしていてほしいと願い、自らも実践したからついた名前である。命日の12月7日になると生家の前で「ニコピン忌」がおこなわれる。

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「名言との対話」5月6日。オーソン・ウェルズ「映画にせずにはいられないんだ」

オーソン・ウェルズOrson Welles, 1915年5月6日 - 1985年10月10日)は、アメリカ合衆国映画監督脚本家俳優

アメリカ・ウィスコンシン州ケノーシャ出身。16歳でアイルランドのダブリンにある、有名なゲート劇場で脇役として舞台デビューを果たす。その後、劇団「マーキュリー劇場」を主宰し、シェイクスピアを斬新に解釈するなど、さまざまな実験的な公演を行って高く評価された。『市民ケーン』でアカデミー賞脚本賞を、『オーソン・ウェルズの オセロ』でカンヌ国際映画祭パルム・ドールを、『強迫/ロープ殺人事件』でカンヌ国際映画祭男優賞を受賞。オーソン・ウェルズは、映画、演劇、ラジオの3つの芸術で傑作を作り上げた人物である。

オーソン・ウェルズ 偽自伝』(バーバラ・リーミング。宮本高晴訳。文芸春秋)を読んだ。オビには「巨大な天才児が後世に仕掛けたトリッキーな「遺書」「シュイクスピア俳優として名をなし、ラジオ『宇宙戦争』で全米を驚愕させ、『市民ケーン』を世に問うた。ーーそのとき、彼は25歳だった。「天才」の荷を負った放浪の旅が始まる。旧弊なハリウッドに追われた栄光のジプシーか? 己が才気をもてあそぶ気ままな道化師か? 突然の死を前に明かした、オーソン・ウェルズ「最後の弁明」とある。

20か月以上にわたってインタビューし続けた著者によれば、頭が切れ、機知に冨み、辛辣で、魅力的であり、一方で、ずかしがり屋で、内省的で、傷つきやすい人であった。

 「自伝」の前に「偽」をつけて「偽自伝」となっている。それはオーソンが巨大で複雑な人物であることを想像させる。

インタビューの過程でオーソンが語るイメージの数々は、魔術者のようだった。「映画にせずにはいられないんだ」とオーソンは笑い、最後に「ただ誰もそうさせてはくれないのさ」という自嘲で終わっている。ハリウッドの映画ビジネスは一筋縄ではいかない魑魅魍魎の世界であり、オーソンにしても十分な仕事ができなったのであろう。

ハリウッドでも、政治の分野でも大きな影響力のあったオーソンの言葉をいくつか、拾ってみよう。

社会や人生について。「人種差別は人間の本性ではない。それは人間性の放棄だ」「芸術の敵は、限界です」「時は流れ去らない。それは積もるのだ」。

自分については、「私は成果よりも実験に価値を見出す」「私は枠に、自分をはめたくない」と信条を明らかにしている。実験を重ね、枠からはみ出し、限界に挑む人なのだ。

「イングリッシュ・アドベンチャー」という英語教材がはやったことがある。私も「家出のドリッピー」を一時よく聞いてきた。髭もじゃのおじさんの広告で有名なストーリー教材で、ベストセラー作家シドニシェルダンの脚本と、有名俳優オーソンウェルズの低い重低音のナレーションで、魅力的だったことを思い出した。

ところで、 アメリカの伝記は膨大な量であることにいつもどおり驚いた。私は日本の歴代首相の回顧録などを読んできたが、鳩山一郎村山富市宮澤喜一竹下登ら、すべて大型の書物ではない。外国の著名人はどうか。私が読んだ中では、ニクソンサッチャード・ゴールリー・クアンユー金日成などの政治家の回顧録はぶ厚い書物になっている。それは、ロックフェラー、ジャックウェルチなど経済界の大物の場合も同様だ。オーソン・ウェルズの場合も、531ページのハードカバーで、さらに人名索引と題名・事項索引もきちんとついており、歴史の審判に耐えるしろものである。

英国の伝統を引き継いで「自伝文学」というジャンルがアメリカにはあり、隆盛を誇っている。アメリカには伝記作家(バーバラ・リーミングは「伝記作者」を言っている)という職業が存在していることも含め、歴史を残すという意味での「記録」ということを重視している。このあたりは少し深掘りしてみたい。 

オーソン・ウェルズ偽自伝

オーソン・ウェルズ偽自伝

 

 

 

 

 

「抽象写真」ーー接写の面白さ。荒俣宏「何かを得るために何かをあきらめる」。橋田寿賀子「人生ムダなことはひとつもなかった」。

 「抽象写真」ーーー自然や人工物の接写は想像力を刺激してくれます。

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  •  NHKラジオ深夜便(「2021年5月4日)「わたしのがむしゃら時代」荒俣宏)を散歩しながら聴く。1万歩。アンコール放送(2019年2月の再放送)。「何かを得るために何かをあきらめる」がテーマ。1947年生まれの団塊世代
  •  一浴一冊:橋田寿賀子『人生ムダなことはひとつもなかった 私の履歴書』(大和書房)。1925年生まれの脚本家の生涯。

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「名言との対話」5月5日。伊勢彦信「同じ遺伝子で私の体と鶏が出来てるように感じる」

伊勢彦信(いせ のぶひこ1929年5月5日〜  )は、日本の経営者。

 200786日 放送の「カンブリア宮殿」の解説は、伊勢信彦の率いる鶏卵業イセグループの歩みを説明してくれている。

「長年にわたり、"物価の優等生"といわれ、日本人の食卓に欠かせない食材となっているたまご。その卵で、一財を築き上げた会社がある。富山に本拠を置くイセグループ。販売量ナンバーワンを誇るブランド卵「森のたまご」を生み出した鶏卵業界のトップメーカーである。1960年代、中小零細の鶏卵農家がひしめいていた時代に、大規模な採卵農場を建設。生産、製造、物流の一貫した流通システムを確立し、1979年には、販売量で、国内ナンバーワンに立つ。その1年後、今度はなんとアメリカへ進出、1984年に、生産量・販売量ともに全米ナンバーワンを獲得した。その後も、卵の常識を打ち破ってきたイセグループは、積極的なビジネスを展開している。そのひとつが、卵そのものに付加価値をつける研究。鶏のえさに特殊な方法で、DHA(ドコサヘキサエン酸)やビタミンなどを添加し、栄養素を強化した"健康卵"を次々と開発、鶏卵では初の栄養機能食品も生み出している。また、卵の加工ビジネスにも乗り出し、コンビニエンスストアのおでんダネ用の卵やサンドイッチで使われるタマゴサラダなどを供給、大手コンビニやスーパーの食を支えている。一方で、食の安全が脅かされる時代、消費者の健康をどう守っていくのか。トップメーカーに課せられた使命も重い。 "エッグキング"の異名をとるイセグループ伊勢彦信会長をゲストに迎え、日本・アメリカでの成功の方程式、さらには、たまごビジネスの最前線で、今何が起こっているのか。最新の開発事情、安全なたまごの選び方について聞く」。

 また、山田清機『卵でピカソを買った男 「エッグ・キング」伊勢彦信の成功法則』(実業之日本社)という伝記がある。それによると「富山県の一養鶏家が、なぜ全米トップの座につけたのか。世界有数の絵画コレクターでもあるミステリアスな男、伊勢彦信の成功法則。鶏卵の生産・販売を手がけるイセ食品の伊勢彦信会長は、世界の「エッグ・キング」である一方、ピカソ、モジリアニ、マチスなど数々の名画の所有者でもある。“ミステリアス”な伊勢氏の人生から、成功の秘密を探る」。「伊勢氏は富山で父から養鶏業を引き継いだ。ヒヨコの育種改良事業から採卵事業に拡大。委託養鶏の一種「ツリー・エッグ・システム」を立ち上げ、大成功を収めた。生産調整によって国内の事業拡大が望めなくなると米国に進出。4年で全米のトップに立った」との解説がアマゾンにある。

この本のアマゾンの書評の一つには、「アンディーウォーホルなどのポップアーチストと友達になり、オークションで印象派の名画を競り落とす。大金持ちだが、スーツは値切って買う。有名人と知り合いだが、どう見ても田舎のおっさん。70過ぎなのに、ニューヨークとハンバーガーをこよなく愛し、富山の田んぼの中の豪邸に住まう。ともかく破天荒なオヤジ。ギャップに満ちた謎の人物。こんなオモロイ人物が日本にいたのか!と驚かされた」(マルメロ)とある。

伊勢彦信はピカソセザンヌルノワール、中国陶磁器、尾形光琳など、国内外の絵画や陶磁器から現代アートに至るまでの蒐集者で、世界的な美術本コレクターでもある。「日本金工をさぐるイセの眼(め)」「幻のコレクション中国陶磁名品展」などの展覧会も数多く開催している。
「卵でピカソを買った男」伊勢彦信は、「同じ遺伝子で私の体と鶏が出来てるように感じる」と語っている。「私は草木の精である」といった植物学者の牧野富太郎、「わが輩は豚である」と語った養豚業の笹崎龍雄と同じだ。こういう言葉を吐けるまで「卵」にのめり込んだのである。その副産物が美術品となったのだ。

 

 

 

 

 

八王子の片倉城跡を訪問。数学の関孝和と縁のある住吉神社、北村西望の彫刻公園の存在は収穫。

八王子の片倉城跡。

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住吉神社の中をみせてもらった。数学の関孝和に関係がある。
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片倉城址公園。北村西望を記念した彫刻公園でした。この彫刻は自刻像です。

昭和50年代半ば、「市内の街頭や公園に彫刻を」と ”彫刻のある街づくり”が進められた際、日本彫刻協会主催の「日彫展」に設けられた ”北村西望賞” 受賞作品を野外展示する「彫刻公園構想」が進められました。彫刻家・北村西望が本公園を非常に気に入り、展示場所として自ら選定されました。昭和57年の除幕式では「彫刻は三千年も保ち、年代に負けない。三千年も大事にしてもらえることはありがたい」と喜びを語ったそうです。公園内には計19体の彫刻があり、そのうち『浦島一長寿の舞』が西望の作品です。

 

北村西望は102歳まで生きたセンテナリアンで、武蔵野の自然、特に緑豊かな八王子の自然をこよなく愛した人。
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・「女性セブン」の原稿チェック。6日号。

・JAL時代の友人の新関さんから連絡があり電話で話をしました。ホテル日航サイパン日航財団、、の話題など。

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「名言との対話」5月4日。井筒俊彦「すべてのものの一つ一つが輻輳する存在連関の糸の集中点としてのみ存在する」

井筒 俊彦(いづつ としひこ、1914年大正3年5月4日 - 1993年(平成5年)1月7日)は、日本の言語学者イスラーム学者、東洋思想研究者、神秘主義哲学者 

慶應義塾大学卒業後、助手、助教授を経て1954年に40歳で文学部教授。1959年から1961年までロックデラー財団研究員としてレバノン、エジプト、シリア、ドイツ、フランスなど中近東や欧州などで研究生活を送る。1962年(48歳)慶應義塾大学言語文化研究所教授。1967年(53歳)スイス。エラノス会議会員となる。哲学者、科学者、芸術家、心理学者、宗教学者など世界の碩学が集う人間の精神性を探求する会議で、日本人としては鈴木大拙についで二人目。1979年にイラン革命に揺れるイランから帰国し、日本語で執筆することを決意し、1980-1982年に代表作『意識と本質』を著す。1982年日本学士院会員。同年、毎日出版文化賞、朝日賞受賞。1993年鎌倉の自宅にて逝去(78歳)。鎌倉市円覚寺に眠る。

井筒俊彦全集」全12巻・別巻が2013年から順次刊行されている。「30を超える言語を自在に逍遥した井筒俊彦は、その天才的な言語能力を縦横無尽に駆使して、ギリシア哲学、イスラーム哲学、中世ユダヤ哲学、インド哲学老荘思想、仏教、禅までをも含めた人類の叡知を時空を超えた有機的統一体として読み解き、東洋哲学と西洋哲学の「対話」を目指しました」。

井筒俊彦との対談で、司馬遼太郎が「二十人ぐらいの天才が一人になっている」と評した。その井筒が書いた『意識と本質』(岩波文庫)を読んでみたが、とても手に負える代物ではなかった。

井筒は西と東の間を行きつ戻りつしつつ揺れ動きながら、70歳近くになって自分の実存の「根」は東洋にあったとしみじみと感じる。自分の内面に「私の東洋」を発見したのだ。西洋哲学はヘレニズムとヘブライズムの二本柱で全体を見とおすことができる。東洋哲学は錯綜しつつ並存する複数の哲学的伝統がある。それを理解する方法として井筒は「共時的構造化」を考える。時間軸をはずし空間的に配置し一つの思想関連的空間を創りだそうとした。そして、第二段として己自身の身にそっくり引き受けて、自分の東洋哲学的視座を打ち立てようとした。新しい東洋哲学を世界的コンテクストにおいて生み出す努力を始めるという宣言であった。

この本の扱う時間と空間は宇宙そのもののようであり、読み解くこと自体も尋常なことではない。ここでは、ほんの数ページの「マンダラ」に関する記述のみを取り上げる。

マンダラは、無時間的な動きを持つ全体共時的な動きである。胎蔵界マンダラは中心点から創造的エネルギーが周辺部に達し、ひるがえって中心部に戻る。一切が全部同時に現態勢にある。金剛界マンダラは下降、上昇していく意識の変化をあらわしている。時間的にみえるが、無時間的空間となっている。マンダラとは「正覚」を得た人の深層意識に現れた一切存在者の真の形姿の図示だ。全体的、総合的「本質」の構造だ。相互関連システムであり、全体構造性をもっている。すべてものの一つ一つが輻輳する存在連関の糸の集中点としてのみ存在する。

図解コミュニケーションを研究する過程で、私は「人間は関係の糸の中に浮かんでいる」と考えるようになっている。すべてのものは関係の海の中の一点として存在しているのだ。「全体、構造、関係」などを常に考えている私は、井筒の以上の論考は理解できる感じがする。井筒が書いた『意識と本質』は、手元に置いておくべき書物だ。

 

意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)
 

 

 

 

 

101歳の水田洋先生の意気軒高。6月刊行の本の最終校正が終了。駅前の飲食店の惨状。ZOOMミーティング3件(デメケン、学会、NPO)

今朝の東京新聞名古屋大学名誉教授の水田洋先生が「己の道」シリーズの4回目として2ページにわたって顏写真付きで登場されているのを発見しました。ビジネスマン勉強会「知研」に入会した当時、講演を聴き、テープ起こしをしてやり取りをした方です。現在の年齢は「101」となっていました。「社会思想詩研究の大家」という紹介です。

当時は60歳前だったのかと驚きました。トマス・ホッブスアダム・スミスの研究家の名古屋大学教授としてしか知りませんでしたが、行動派でもあったようです。名古屋五輪の招致反対運動、愛知万博に環境破壊の観点から異を唱える、「あいち九条の会」の代表世話人自衛隊イラク派遣差し止め訴訟の原告として、書斎から飛び出している学者です。

まず個人があり、その個人が権力を国家や政治に譲渡する約束をしたというホッブスの考えが基本にあります。「人間は、国家や政治権力に抵抗する権利がある」とし、最近の日本の政治に対しては「民主主義にはこんな危険がありますよというサンプルを見せてくれた。随分高くつくサンプルだ。それでも、個人個人がいざとなったら選挙で変えていけるという回路があることが大事。まあ、これからが見ものですよ」と締めくくっています。百一歳を迎え今なお意気軒高なセンテナリアンの水田先生の言葉には重いものがあります。

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10時半:P出版社から出す50代向けの著書の最終の著者校正を、南大沢のイトーヨーカ堂内にあるカフェで編集者に手渡しました。お客は非常に少ない。後は、6月の刊行を待つだけです。長いつきあいの女性編集者なので、業界事情をさかなに1時間半ほどの会話をたのしみました。「50歳」「人生戦略」「人生鳥瞰図」などがキーワードになります。

昼食は妻ととろうとしたのですが、緊急事態宣言下で駅前の店はほとんどしまっていて、開いているのはラーメン屋だけという惨状でした。

19時半:デジタルメディア研究所の定例ミーティング。6月25日予定の仏教未来フェスへの参加を要請され今週末に打ち合わせをするという報告も。

20時:サウジアラビアから参加された富士箱根伊豆国際学会の五條堀会長を交えての意見交換会。デメケン、深呼吸学部、学会のメンバーが参加。わたしも「プロジェクト」と「富士山」をテーマとしたいくつか提案をしました。

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20時半:NPO法人知的生産の技術研究会についてのミーティング。福島事務局長、八木会長夫人、理事長の私の3人で、意見交換できました。

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「名言との対話」5月3日。金澤弘和「おこらない、いばらない、おそれない」

金澤 弘和(かなざわ ひろかず、1931年(昭和6年)5月3日 - 2019年(令和元年)12月8日)は、空手家。

岩手県生まれ。拓殖大学空手部在籍時より松濤館流空手の開祖である船越義珍日本空手協会設立者の中山正敏らに空手道を学んだ。卒業後、日本空手協会の第一期研修生となる。1957年、1958年の日本空手協会主催の全国大会で2年連続優勝を果たす。海外へ空手を普及する先陣を切って、1960年からハワイを皮切りにイギリス、ドイツなど世界各地で空手を指導し、空手を世界に普及した基盤を確立した。「調和の哲学」に基づいた空手で、世界100ヵ国以上で指導し、「世界のカナザワ」の異名をもらう。

1977年、日本空手協会から除名され、師と仰いだ中山正敏から別れることになった。このとき、「空手の原点に帰ろう。「空」は可能性だ。これからは自分を修めるための空手に重きを置こう」と考え、1978年、國際松濤館空手道連盟を設立した。映像で「間と呼吸」を大事にする「型と組手」の演武をする映像をみたが、見事なものだった。

70歳で書いた自叙伝『我が空手人生』(日本武道館)を読んだ。人間には「天命」があるという空手という一本道を歩んだ男の自叙伝だ。

まず最初に感じたことは、人格形成に故郷の父母の教えが強い影響を与えていることだ。父の教えは「どの分野でもよいから一所懸命やれ、曲がったことはするな」「特性を生かしなさい」「強い者は、自分から決して喧嘩をしない」。そして母の教えは「人様の気がつかない所、人様の嫌がる所を進んで掃除しなさい」「金と女で人格が変わるようでは、本物の男ではない」「弱い者とは、自分より弱い者をいじめる者」を記述している。また、お世話になった指導者や空手を通じて得た異分野の偉い人たちの言動からも学んでいる。素直に人から学ぶという姿勢が金澤弘和の特徴だと思う。

私の父が拓殖大学の卒業生であり、「教育大前」というバス停を「拓大前」と変えさせようとしたえぴーどなどは父から聞いいて、父を思い出した。

金澤弘和は70歳、80歳になっても続けられる空手、長く続けられる空手を目指しており、「30代には50代のことを想定した努力を重ね、50代には70代を想定した努力を重ねた。私が理想とする空手道は、弱い人間や女性が習得でき、老人になればなるほど強くなっていけるものである」という。

「60代に入ると、気力の年代に入る。気功法を中心とした練習に切り替えていく。筋力、内臓力は加齢とともに落ちるが、気力、精神力は加齢とともに深まっていく可能性がある」。

そして古希を迎えたときには、「知れば知るほど、登れば登るほど山が高くなり、尽くせば尽くすほど、極めれば極めるほど、限りなく深く、終りのないのが我が空手人生である」と最後に語っている。87歳、亡くなる1年前の「花は桜木 人は武士」と色紙に書いている写真もある。

生涯の友として空手道の一本道を歩み、「おこらない、いばらない、おそれない」をモットーとした金澤弘和の人生は、精進、修養、求道の道である。ただ強くなるのが目的ではなく、健康長寿を強く意識したこの人の空手道は、年齢を重ねながら、カラダからココロに移行していく空手だろうか。人生100年時代の空手道だと理解した。

我が空手人生

我が空手人生

  • 作者:金沢 弘和
  • 発売日: 2002/01/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

今年で500年を迎えた八王子の滝山城に登る。

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午前でひと仕事終えて、午後は車で 八王子の滝山城を訪問。先日訪問した八王子城の続き。1521年に築城。今年は500年。3つの尾根が集中し堅固な構えの「二の丸」からの眺め。中世城郭の最高傑作の名城。
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本丸の神社。

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午前:P社から刊行する本の著者による最終校正を終了。

一浴一冊。高平哲郎由利徹が行く』(白水社)。

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名言との対話」5月2日。岩橋明子「音声によって手軽に読書が楽しめたり、情報の伝達ができればそれは本当に福音でしょう」

岩橋明子(いわはし あきこ 1929年5月2日〜2019年6月17日)は、社会福祉活動家。19歳の時、岩橋武夫が設立した学校の教師になる。岩橋武夫は早稲田大学理工学部在学中に網膜剥離で失明し中退し、郷里の関西学院大学文学部に入学し卒業した。日本盲人エスペラント協会を創設。ヘレン・ケラー女史を2回にわたり日本に招致した人物である。1937年、1948年にヘレン・ケラーを迎えて、障害福祉を啓発するための大々的な全国キャンペーンを展開し、1949年に身体障害者福祉法が公布される成果をあげた。
岩橋明子は1952年、29歳で二代目理事長となる岩橋英行と結婚。40代後半で失明した夫の秘書役をつとめた。夫の奈良女子大の講義の準備、海外での会議での同時通訳も担当した。「後になると必ず忘れてしまうのが海外での特徴的な現象」であり、その日のうちに記録を作り続けた。岩橋英行は、法人名を日本ライトハウスと改め、視覚障害リハビリテーション体系を確立し、1969年には「職業・生活訓練センター」を完成させている。アジアを中心とする盲人の国際交流の推進に努めた英行が59歳で急死し、明子は後を継いで社会福祉法人日本ライトハウス理事長となる。事業発展に尽力するとともに世界各国の視覚障害者福祉の新しい流れを紹介し、わが国の視覚障害関係事業推進に寄与し、視覚障害がある人も、ごく普通に社会に出て行ける道をつくった。

『展示と朗読を学ぼう』(福村出版)を読んだ。日本点字図書館理事長の本間一夫、宮城教育大学教授の田中農夫男と岩橋明子の共編だ。点字と朗読について、実際の例や実情に即してわかりやすく取りあげた本で、点字や朗読をめぐる今日の情勢や話題についても広く取りあげている。以下、目次。1目の不自由な人の生活、2点字とその実際、3朗読とその実際、4点字と朗読をめぐる話題で構成されている。目や耳の不自由な人たちの生活とそれを克服しようとする関係者の努力が分かる労著だ。編者でもある岩橋明子は「私と朗読」という章を担当している。

「目の見えない方・見えにくい方の情報誌読書2019年8・9月号」(社福)日本ライトハウス情報文化センター)をみると、「ひごばしニュース」 1頁「便利グッズ紹介」4頁「お役立ち本棚」6頁「情報カフェ」6頁「点字新着図書」7頁「録音新着図書」12頁「図書特集」18頁「情報カフェ(続き) 」20頁という構成で情報が満載でずいぶんと喜ばれているだろう。

近年では 視覚障害をもって生まれる子どもの数は減っているが、逆に中途失明者や高齢の視覚障害者は増えている。根気と意欲がいるので途中から点字を習得することは難しく、『点字と朗読を学ぼう』で「音声によって手軽に読書が楽しめたり、情報の伝達ができればそれは本当に福音でしょう」と岩橋明子は30年前の1991年に語っている。その後のインターネットの普及や耳で聞くオーディオブックの誕生、ポッドキャストでの音声による情報発信等で随分と視覚障害者には便利な世の中になってきて、岩橋明子の夢は実現しつつある。

何代にもわたる先人の努力の積み重ねがあり、さらに新しい技術を加味しながら組織は発展していく。先人たちはその組織を担う人たちの心に中に永遠に生き続ける。目の見えない方・見えにくい人々のための総合福祉施設である 日本ライトハウスは、岩橋武夫が1922年に自宅で点字図書を出版した年を創業の年としており、2022年には創業100年を迎える。現在では視覚障害リハビリテーション部門、盲導犬訓練所、点字出版部門(点字情報技術センター)、点字図書館部門(情報文化センター)を擁している。障害者福祉の世界を少しだけ知った。

点字と朗読を学ぼう

点字と朗読を学ぼう

  • 発売日: 1991/03/01
  • メディア: 単行本