101歳の水田洋先生の意気軒高。6月刊行の本の最終校正が終了。駅前の飲食店の惨状。ZOOMミーティング3件(デメケン、学会、NPO)

今朝の東京新聞名古屋大学名誉教授の水田洋先生が「己の道」シリーズの4回目として2ページにわたって顏写真付きで登場されているのを発見しました。ビジネスマン勉強会「知研」に入会した当時、講演を聴き、テープ起こしをしてやり取りをした方です。現在の年齢は「101」となっていました。「社会思想詩研究の大家」という紹介です。

当時は60歳前だったのかと驚きました。トマス・ホッブスアダム・スミスの研究家の名古屋大学教授としてしか知りませんでしたが、行動派でもあったようです。名古屋五輪の招致反対運動、愛知万博に環境破壊の観点から異を唱える、「あいち九条の会」の代表世話人自衛隊イラク派遣差し止め訴訟の原告として、書斎から飛び出している学者です。

まず個人があり、その個人が権力を国家や政治に譲渡する約束をしたというホッブスの考えが基本にあります。「人間は、国家や政治権力に抵抗する権利がある」とし、最近の日本の政治に対しては「民主主義にはこんな危険がありますよというサンプルを見せてくれた。随分高くつくサンプルだ。それでも、個人個人がいざとなったら選挙で変えていけるという回路があることが大事。まあ、これからが見ものですよ」と締めくくっています。百一歳を迎え今なお意気軒高なセンテナリアンの水田先生の言葉には重いものがあります。

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10時半:P出版社から出す50代向けの著書の最終の著者校正を、南大沢のイトーヨーカ堂内にあるカフェで編集者に手渡しました。お客は非常に少ない。後は、6月の刊行を待つだけです。長いつきあいの女性編集者なので、業界事情をさかなに1時間半ほどの会話をたのしみました。「50歳」「人生戦略」「人生鳥瞰図」などがキーワードになります。

昼食は妻ととろうとしたのですが、緊急事態宣言下で駅前の店はほとんどしまっていて、開いているのはラーメン屋だけという惨状でした。

19時半:デジタルメディア研究所の定例ミーティング。6月25日予定の仏教未来フェスへの参加を要請され今週末に打ち合わせをするという報告も。

20時:サウジアラビアから参加された富士箱根伊豆国際学会の五條堀会長を交えての意見交換会。デメケン、深呼吸学部、学会のメンバーが参加。わたしも「プロジェクト」と「富士山」をテーマとしたいくつか提案をしました。

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20時半:NPO法人知的生産の技術研究会についてのミーティング。福島事務局長、八木会長夫人、理事長の私の3人で、意見交換できました。

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「名言との対話」5月3日。金澤弘和「おこらない、いばらない、おそれない」

金澤 弘和(かなざわ ひろかず、1931年(昭和6年)5月3日 - 2019年(令和元年)12月8日)は、空手家。

岩手県生まれ。拓殖大学空手部在籍時より松濤館流空手の開祖である船越義珍日本空手協会設立者の中山正敏らに空手道を学んだ。卒業後、日本空手協会の第一期研修生となる。1957年、1958年の日本空手協会主催の全国大会で2年連続優勝を果たす。海外へ空手を普及する先陣を切って、1960年からハワイを皮切りにイギリス、ドイツなど世界各地で空手を指導し、空手を世界に普及した基盤を確立した。「調和の哲学」に基づいた空手で、世界100ヵ国以上で指導し、「世界のカナザワ」の異名をもらう。

1977年、日本空手協会から除名され、師と仰いだ中山正敏から別れることになった。このとき、「空手の原点に帰ろう。「空」は可能性だ。これからは自分を修めるための空手に重きを置こう」と考え、1978年、國際松濤館空手道連盟を設立した。映像で「間と呼吸」を大事にする「型と組手」の演武をする映像をみたが、見事なものだった。

70歳で書いた自叙伝『我が空手人生』(日本武道館)を読んだ。人間には「天命」があるという空手という一本道を歩んだ男の自叙伝だ。

まず最初に感じたことは、人格形成に故郷の父母の教えが強い影響を与えていることだ。父の教えは「どの分野でもよいから一所懸命やれ、曲がったことはするな」「特性を生かしなさい」「強い者は、自分から決して喧嘩をしない」。そして母の教えは「人様の気がつかない所、人様の嫌がる所を進んで掃除しなさい」「金と女で人格が変わるようでは、本物の男ではない」「弱い者とは、自分より弱い者をいじめる者」を記述している。また、お世話になった指導者や空手を通じて得た異分野の偉い人たちの言動からも学んでいる。素直に人から学ぶという姿勢が金澤弘和の特徴だと思う。

私の父が拓殖大学の卒業生であり、「教育大前」というバス停を「拓大前」と変えさせようとしたえぴーどなどは父から聞いいて、父を思い出した。

金澤弘和は70歳、80歳になっても続けられる空手、長く続けられる空手を目指しており、「30代には50代のことを想定した努力を重ね、50代には70代を想定した努力を重ねた。私が理想とする空手道は、弱い人間や女性が習得でき、老人になればなるほど強くなっていけるものである」という。

「60代に入ると、気力の年代に入る。気功法を中心とした練習に切り替えていく。筋力、内臓力は加齢とともに落ちるが、気力、精神力は加齢とともに深まっていく可能性がある」。

そして古希を迎えたときには、「知れば知るほど、登れば登るほど山が高くなり、尽くせば尽くすほど、極めれば極めるほど、限りなく深く、終りのないのが我が空手人生である」と最後に語っている。87歳、亡くなる1年前の「花は桜木 人は武士」と色紙に書いている写真もある。

生涯の友として空手道の一本道を歩み、「おこらない、いばらない、おそれない」をモットーとした金澤弘和の人生は、精進、修養、求道の道である。ただ強くなるのが目的ではなく、健康長寿を強く意識したこの人の空手道は、年齢を重ねながら、カラダからココロに移行していく空手だろうか。人生100年時代の空手道だと理解した。

我が空手人生

我が空手人生

  • 作者:金沢 弘和
  • 発売日: 2002/01/01
  • メディア: 単行本