昨日の3月31日から山形県の天童市と村山市を車で訪問している。
天童市では、「天童広重」と呼ばれる肉筆画で有名な天童の広重美術館を訪問した。
広重(1797−1858年)の画業200年を記念して平成9年にオープンした美術館だが、数年前にも訪れたことがあり2回目の訪問である。滝の湯ホテルという大きなホテル所有のコレクションを展示した美術館で、内部は落ち着いた雰囲気で、二つの部屋で広重の浮世絵などを堪能できる。
江戸後期天童藩は財政が苦しく、商人や富農の献金の献金や借金で運営をしていた。江戸詰めの藩士吉田専佐衛門、木村宮之助や、藩医の田野文仲といった人々が、狂歌を通じて懇意になった広重に依頼して肉筆画を200枚描いてもらって、献金の御礼や借金返済の肩代わりをした。広重は丸2年かけて完成している。この大量の肉筆画・広重が後に「天童広重」と呼ばれた。狂歌は滑稽や風刺を読み込んだ和歌であるが、藩士たちはそれで得た人脈で藩の財政を救ったのである。広重は東海道広重という名前で狂歌も詠んでいた。
広重は晩年の工夫として竪絵と呼ばれる浮世絵を描いている。絵は横が広い画幅の中に描くのが一般的だが、難しいといわれる縦長の絵も描いている。
また死絵(しにえ)と呼ばれる絵もあった。これは、著名人が死亡したときに出版される追悼の絵で、肖像画に業績や辞世の句、戒名などを加えた絵である。
「斉藤真一 心の美術館」は出羽桜美術館分館である。
斉藤真一は1922年生まれ(大正11年)というから私の亡くなった父と同世代である。倉敷市に生まれ東京美術学校を出て、中学校の教師になる。37歳の時にフランスに留学し、藤田嗣司と親交があった。帰国するときに藤田から「日本に帰ったら秋田や東北がいいから、一生懸命に描きなさい」とアドバイスを受ける。
盲目の女旅芸人である「ごぜ」に興味を惹かれて一生、そのテーマを追いかけていく。高校の教師をしながら休日は、裏日本の彼女等の足跡を訪ねていく。49歳で18年つとめた伊東高校を辞める。
高田キクエという「ごぜ」に出会い、ごぜ宿を探す旅を続け、多くのごぜの生涯を聞き出してそれを絵や文章に残していった。ごぜは、越後高田や新潟長岡に多く、3人から5人ほどがグループとなって、雪解けから12月まで村から村へ旅を続ける。雪の深い日本海側の人々にとって、ごぜの訪問は唯一の娯楽だった。三味線を弾き、祭文松枝を歌い、閉ざされた山国の寒村に娯楽を持ち込んだ。
斉藤の描く絵は、悲しい絵であるが、赤が鮮烈である。
「赤より「赤赤」という字に惹かれてならない。赤だ何か絵の具のチューブから出したままの色彩に思えるが、「赤赤」はもっと、火のように鮮やかでパチパチ音をたてて眼底に焼き付いているような滲みの余韻を持っているから妙である」と自身が語っている。
旅の中で絵と日記が記したものを展示してあった。
「「ごぜ」その語感から、私はいつも得たいの知れない女の故里にようなものを感じている。そして、その古めかしい語感をたどり、一人静かに今旅をしている。そして人気のない淋しい町や村を訪ね、その語感をたどり、さまよっているのだ」という言葉を見つけた。
哀しい絵である。見るものに強い印象を与える絵である。
小説の挿絵を描いてもらっていた水上勉は「父は虚無僧さんだったという。氏もまた漂白の者の血を持ち、私と同じような魂の原風景をもてあます人か、となつかしさをおぼえた」と記している。
斉藤は文章も書けたようで、「ごぜ 盲目の女旅芸人」という本で、日本エッセイスト賞を受けている。51歳のときであった。
古い民家を使ったこの美術館は、「心の美術館」という名前である。確かに心を打つ、心に残る絵の多い不思議な美術館だった。
分館である「斉藤真一 心の美術館」から道路を隔てた向い側が本館の出羽桜美術館である。
出羽桜はこの地方の代表的な銘酒だが、その当主であった三代目社長・仲野清次郎がつっくった財団法人が管理するのがこの美術館である。現在も大きな酒造であるから一升瓶がうずたかく積まれた酒蔵の隣に大きな民家がある。これが美術館である。当日は「さくらの雅 李朝のむくもり」というタイトルの展示を行っていた。出羽桜という名前のとおり、桜というモチーフにこだわっているようだ。出羽桜がこの地方の新聞に打っている広告をまとめたものがあって見たが、「酒は文化なり 出羽桜の信念です」というテーマで酒と文化の関わりを述べている。朝鮮李朝の壺や桜をあしらった陶磁器や掛け軸などが展示されていた。一番奥に厚い扉の防火蔵があり、李朝の雑器が保管されていた。庭に面した廊下にゆったりと座るための椅子があった。もはやここを愛した主人はいないが、そこのこの財団の初代理事長の仲野清次郎が座っているような錯覚にとらわれる。
「古美術を蒐め、その美しさを慈しむことは、若い樹木が、年輪を重ねてゆくと同じである。それぞれの場に執念く生きて、その樹格を整えてゆくように、例え分野は狭くとも、それなりの品位を整えたいと思いながら、その理想の遙かさを覚えるばかりである。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−私の学生の頃は、一部の茶陶は別として、柳宗悦等の白樺派の李朝賞賛の声さえ、萎え衰えようとする、戦後の混乱期であった。