明治維新につながる活動を行った草莽の志士清河八郎は1830年生まれで、長州の吉田松陰と同年である。昭和37年の没100年記念記念事業として遺品の収集と保管、そして偉業の顕彰のために建てられた記念館である。その横に昭和8年に竣工した清河神社がある。神社と記念館の間に清河の坐像がある。幕府から徴募された浪士組234名に向かって京都壬生の寺で「我々は尊王譲位を志す志士である」と述べ、ほぼ全員を賛同者にした有名な演説を行っている姿である。このとき、離脱したのが近藤勇以下後の新鮮組だ。羽織、袴の姿で刀をさし、センスを持っているこの坐像は回天しょう始清河八郎先生との揮毫がある。これは鶴岡出身の大川周明だた。
斉藤元司が本名であるが、生れ故郷の清川を使おうとするが、川は小さいので大きな河の文字を用いることにした。また鎮西八郎為朝を尊敬していたので、八郎を名乗った。
清川村の素封家に生れた八郎は家出をし、江戸へ出る。22歳で神田お玉が池の千葉道場で千葉周作から北辰一刀流の免許を受け、25歳のときに神田三河町で文武指南を行う塾を開く。この時代、文を教える塾と武を教える道場を一緒に兼ねた塾は極めて珍しかった。
教育者を本分としtれいた清河は桜田門外の変に衝撃を受ける。その名簿を見て、年齢の若さや身分の低さに驚き、時代の変化と自らの役割に目覚める。
清河は「虎尻之会」または「英雄の会」と呼ばれる会を結成し盟主となり、幕府を倒し天皇の親政に変える回天の大事業を画策し、水戸、仙台、京都、九州を遊説し義師をつのる。平野國臣やまき保臣ら各地の志士に会っている。
寺田屋事変で挫折するが、その後も活発に活動を重ねるが、34歳の時に刺客に襲われ志し半ばに倒れる。
館内には徳富蘇峰の諸書があった。
維新
回天
偉業
之魁
また、頭山満の書も飾ってある。
明治維新を高く評価し信長時代から明治時代までを「近世日本国民史」という百冊の本を書いた徳富蘇峰と右翼陣営の頭目であった頭山満の書である。
金屏風の書は、寺田屋事変の数日前に薩摩屋敷で書いたものだった。
智信
仁勇
厳
清河は少年時代から日記をつけていた。
「旦起私乗」という名前の日記には天・地・人の3巻がある。「旦起」とは、朝早くおきて勉強するという意味で、「乗」とは記録のことである。天は18歳の日記、地は19歳の日記、人は20歳の日記であるが、すべて漢文で書かれており、清河の学識の高さが偲ばれる。「私乗後編」も展示されていた。こちらはメモ帳に小さな字でぎっしり書かれていた。
塾の教科書は手書きの印刷だった自分で書いた文章を、木の活字を買って印刷したものだ。講義は訓話中心であったそうで、「文を以って義を説き、義を以って文を述べる」というやり方だった。
「西遊八冊」という旅行の記録がある。
母親を連れて伊勢参りを行った169日間の旅の記録である。
善光寺、伊勢参り、奈良、京都、大阪、四国の金毘羅、安芸の宮島、京の祇園、大阪天神、天橋立、石山寺、三井寺、江戸の芝居と壮大な観光旅行である。母は駕篭、自分は徒歩であった。この克明な記録は、自分のためではなかった。母が後に思い出せるようにかな文で書いている。
清河八郎記念館の前に鶴岡藩の藩校「明徳館」を訪ねたが、清河は明徳館をまったく評価していない。家族にあてた手紙が残っている。
「学問のためにはまるでなりません。聖堂(明徳館のこと)より大豪傑が出たことがなく、田舎では公儀の聖堂といえば大変なところと思っているでしょうが、実際はとるに足らないところです」
鶴岡出身の作家・藤沢周平は、清河八郎を「回天の門」という小説で描いている。
清河八郎は、家を飛び出し、遊女を妻に迎え、革命に奔走し、書や歌を詠み、全国を駆け巡って、短い人生を駆け抜けた。この本を読みながら、破天荒で時代を回転させた魅力的な人物とじっくりとつきあってみたい。