「明治の人は偉かった」--江戸時代の教育事情

「武士の家計簿」を書いた磯田道史さんの所論に興味がある。
「近世大名家臣団の社会構造」とは対になっている。以上の2冊を読めば、江戸時代の武士社会の仕組みがわかる。
本日は「江戸時代の備忘録」というこぼれ話をつづった軽い文庫をざっと読む。

江戸の備忘録 (文春文庫)

江戸の備忘録 (文春文庫)

家康「大将のつとめは、逃げること」だから、剣術には冷淡で、騎馬と水泳に力を入れた。
太田垣蓮月の「あだ味方 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の 人と思へば」という歌で、西郷の江戸攻めを回避した。

江戸の教育事情もわかって面白い。一両は30万円。
寺子屋に子供をやると、親は今の金で年間10万円程の学費を払った。入学金(束脩)、授業料(謝儀)2万を5回。
上級武士は家柄で高禄が保証されているが、下級武士は計算などができなければ仕事にありつけなかった。

武士には「侍」「徒士」という「士分」と、「足軽、中間以下」の段階があり、大きな隔たりがあった。
明治維新の立役者は、大隈・板垣・陸奥・高杉・桂・井上以外は、ほとんどが中級以下の「下級武士」であった。
西郷・大久保・黒田・勝・江藤・副島・福沢は、徒士層であり、山形・伊藤は中間層であった。

「侍」は身分があがるほど、領主に近くなる。下がるほど「官僚」的色彩が強くなる。
「徒士」は官僚なので実務、事務的実力が必要だった。家督相続時には筆跡と算盤の試験があった。組織の命運は自家の存亡にかかわる。藩校などで必死に勉強したのは、徒士の師弟だった。役付にならなければ収入が増えないからだ。

日露戦争までの日本人は偉かった」というが、その中核を担った乃木・大山・児玉・秋山兄弟らは「徒士」として育った人たちだった。「明治の人は偉かった」という述懐は、そういう人たちが、各界にいたということだろう。

1800年ころから武士の教育に力を入れた藩は幕末には雄藩となり、明治維新を経て1904年の日露戦争のまでの間に、多くの人材を輩出した。この間、100年の歳月が流れている。教育は国家百年の計なのだ。

藩校システムは近代化の準備として有効だったが、人間を均質化した面もある。儒教、特に朱子学は観念的にすぎる傾向がある。
経験談中心の「夜話」や、薩摩藩の「郷中教育」での思考訓練など。師と弟子の対面学習、とことん面倒を見るという文化。、、
マンツーマン教育は多様な人材を育てる。近世以前の武士教育は、実践的でリアリスティックだった。

現代の教育現場で格闘している者にとって、ヒントになる。