今日から2泊3日の京都。本日はりてらしい塾in京都で講義。

京都。今日から2泊3日。

まず、りてらしい塾in京都。18時から。会場は京都市左京区下鴨の住宅街の中にあった。マナビノバ下鴨教室。ここは年齢に関係なく、大学生や大学院生が先生となった子供たちのための塾を開催している。この2階で講義が始まる。

受講生は、京都市内の大学院生、大学生、そして、社会人たちだ。

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第一部は図書館サービス計画研究所(トサケン)の仁上代表の文献探索講座。アカデミックな論文を仕上げるための様々な文献調査の方法を講義。

第二部は私の講座。「考える人は仕事ができる--図解文章法のススメ」。1時間20分の講義と質疑応答。

 

終了後は近所の居酒屋で受講生たちとの歓談の時間。

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「名言との対話」6月12日。杉下茂「戦争が怖いところは、終戦が終わりではないこところだ」

杉下茂(1925年9月17日-2023年6月12日)は、プロ野球選手、コーチ、監督、解説者。享年96 。

中日ドラゴンズのエースとして活躍し、沢村栄治賞を史上初めて3度受賞している。武器は日本プロ野球史上初の本格的なフォークボールであり、「フォークボールの神様」と呼ばれた。また名投手コーチとしても知られている。

1954年には32勝をあげ、防御率は1.39、奪三振は273を記録して、中日ドラゴンの初優勝に大きく貢献をした。この年の日本シリーズでは西鉄ライオンズを破り、シリーズのMVPを獲得した。

生涯の通算では、215勝123敗である。防御率は2.23。

現役引退後は、大毎オリオンズの投手コーチ、阪神タイガースの投手兼ヘッドコーチに就任している。1966年には阪神タイガースの監督に就任した。

現役引退後は、大毎オリオンズの投手コーチ、阪神タイガースの投手兼ヘッドコーチに就任している。1966年には阪神タイガースの監督に就任した。1918年には中日の監督。その後野球解説者を経て、1975年には読売ジャイアンツの投手兼ヘッドコーチに就任。1985年には野球殿堂入りを果たした。90歳を超えても臨時コーチとして中日ドラゴンズの投手の指導に当たった。

杉下はライバルの金田正一と並ぶ野球界のレジェンドである事は間違いないが、この人のことを調べていて、戦争体験を伝えることを意識していた人だということがわかった。

戦時中は、手榴弾を投げすぎて、肩を壊した野球選手の話も多かったが、学生時代に肩を壊していた杉下は体全体を使って投げることで肩は大丈夫だった。中国で転戦したが、人は栄養失調で死ぬ時、髪の色が赤くなると語っている。過酷な環境の中での唯一の心の拠り所はスポーツだった。特に野球は人気があった。

「戦争の怖いところは、終戦が本当の終わりではないところだ」。戦後はとにかくいつもお腹を空かせていた。日本中が「ひもじい」と言う感覚で毎日を過ごしていた。「人間の未来や可能性を奪ってしまう戦争は二度と起こしてはいけない。そのためには誰もが意見を言える世の中にしておくことだ」と、東京新聞のインタビューで語っている。

どのような分野でも一流のトップランクにあげられると、その分野以外のことでも発言ができるようになる。それが有名になることの良さでもある。杉下は、圧倒的な野球界での実績をもとに、戦争体験を伝えることを役目として考えていた。この「ひもじい」という感覚は、様々な人が語っている。例えばそれが子供たちが夢中になる「アンパンマン」の誕生につながった例もある。

杉下は生涯現役で活躍し、昨年96歳で亡くなっている。その間、野球以外でも子供たちに向けて、このような話を続けたに違いない。