世田谷文学館で一日だけ開催された「イラストレーター 安西水丸」展。

世田谷文学館で一日だけ開催された「イラストレーター 安西水丸」展。

 日大芸術学部卒。電通(国際広告)、渡米しADAC(NYCのデザインスタジオ)、27歳で帰国し平凡社嵐山光三郎に出会う。同年生まれ)に入社、32歳「ガロ」に漫画を描く、35歳初の単行本、39歳退社しフリーになる。村上春樹と仕事をする。憧れの人であった和田誠とは20001年から2014年まで「二人展」を続け、200点の「NO IDEA」という作品を生み出す。

広告、雑誌の表紙や漫画、挿絵などで活躍。小説、漫画、絵本などの著作も多い。本人はあくまで「イラストレーター」と自身を規定していた。会場に開智された著書や絵本は、軽く100冊を超える量だった。

東京赤坂生まれでだが、喘息があり、千葉県の千倉に移住。この千倉のイメージが残る。安西の特徴である画面の水平線は千倉の海の水平線をイメージしている。「その人にしか描けない絵」を描こうとした。ユーモアと哀愁がある作品は今でのファンが多いようで、会場は若い人も多かった。

 この企画展は500点以上の原画などを使った、工夫に満ちたイベントだ。翌日から緊急事態宣言に入ったのでたった一日だけ公開というのは悲しい。「JALプランナー」という懐かしいポスターがあった。1988年だから私のJAL広報部時代だ。
「こんな風に生きたいとおもっていることがある。絶景ではなく、車窓をの風景のような人間でいたいということだ」(「ニッポンあっちこっち」)

シンプルな絵が特色だが、「たくさん仕事を受けるようになっても「絵の質が落ちないように、時間をかけずに描けるように、と考えたスタイル」だそうで、戦略的で驚いた。

兄弟のようだった村上春樹は「安西水丸という一人の人間を絵というかたちで表し続けていたのだという気がする」。『村上朝日堂』などの独特の表紙は安西の作品だったことがわかった。水丸は「自由にやらせてもらった」と語っている。 

安西水丸 地球の細道

安西水丸 地球の細道

  • 作者:安西 水丸
  • 発売日: 2014/08/26
  • メディア: 単行本
 

 『地球の細道』というタイトルのエッセイを購入し、読んでみた。世界中を旅したときのエッセイ集だ。「旅する人」の92の旅風景と文章がつづられている。芭蕉は日本、水丸は世界。下の写真はこの本の冒頭に載っている2014年7月6日の鎌倉のアトリエ・書斎だ。この本の原稿を書いているときの机の上が写っている。シチリアの旅の執筆途中のようだ。ガイドブック、街の地図、ウィキペデア「シチリア」の項の印刷、辞書、百科事典、会田雄次「敗者の条件」、原稿用紙などが並んでいる。コカ・コーラのデザインも好きだったようだ。

エッセイをよんで驚くことは、それぞれの土地がらと歴史、そこに関係する人物などの記述が半端ではないことだ。それは現地取材と、綿密な資料の読み込みが支えていることがわかる写真である。

例えば「西武国境警備隊の町から八王子城址へ」というページを開くと、北条早雲、氏綱、氏康の顔、八王子千人同心屋敷跡記念碑、北条氏照の墓、八王子城の曳き橋、本丸の祠などのイラストがある。そして、エッセイも資料の読み込みがうかがえる。本人も歴史好きといっているように、調べは徹底していると感心した。

松江の堀尾吉晴近江八幡の殺生関白秀次、土木の天才行基菩薩、間宮林蔵ら北方の探検家たち、信州上田の真田一族、肥前の熊・竜造寺隆信、南国土佐のマトリョーシカ小江戸・佐原、小京都・飯田、そして海外でもアトランタリー将軍などが描かれている。それぞれ読ませる内容だった。相当なインテリだったと敬服した。

「初旅や こけし微笑む 奥の細道」(水夢)

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多摩センター:秘書の近藤さんと打ち合わせ。

週刊「女性セブン」から取材依頼あり。

夜はデメケンのミーティング。

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「名言との対話」4月26日。加藤秀俊「結局、紙と鉛筆があればよいのだ」

加藤 秀俊(かとう ひでとし、1930年(昭和5年)4月26日 - )は、日本の評論家・社会学者。

日本万国博覧会に尽力し、林雄二郎(51歳、梅棹忠夫(47歳)、川添登(41歳)加藤秀俊(37歳)、小松左京(36歳)らは1968年に日本未来学会を創設した。親しかった梅棹忠夫について加藤は「梅棹さんは先々まで見通して手を打つ人だった。洞察力があるといえば聞こえはいいが、要するにたいへんんな「悪党」であった」と述べている。国立民族学博物館をつくることにつながる彼らの陰謀を重ねる様子が浮かんでくる。

加藤秀俊の『整理学』をはじめとする名著や対談などはよく読んできたし、NPO知研でもお呼びして謦咳に接したこともある。

加藤秀俊著作集 10 人物と人生』(中央公論社)を読んだときに抜き出した文章を記す。 加藤秀俊が語った「人物と人生」は、今日の時点でも納得感が高い。若いときにも読んだと思うが、本当には理解できなかったのだろう。人生の秋霜を経てきて、改めて読むとうなづくことが多い。

 ・「生きがい」ある人生とは、プライドをもって生きることができる、ということである。・「ショート・ショート時代」、、時間的な持続力をもった人間が例外的な偉人として珍重される。、、もしも何十年かの人生を通じて、なにごとかについての持続力をもつことができるなら、それは、とりもなおさず、「生きがい」のある人生であった、ということである。・年月は恐ろしい。、、、蓄積は貴い。、、だいじなことは、その蓄積をじぶんの力でつくるということである。自力でつみ上げていくことである。、、コツコツと蓄積していくこと---そのプロセスが貴重なのだ、とわたしは思う。・「責任ある仕事」とは、、、自由のある仕事、ということになる。そして自由度が大きければ大きいだけ、責任も大きくなる。・もしも、未来社会がより「ゆたか」な社会で、すべての人間が、最低の文化的生活を保障されるようになるのだとすれば、少なからぬ数の人間が、職業生活から脱落して、のびやかに二十日ダイコンをつくるようになるだろう。(小松左京『そして誰もしなくなった』)。8万円の給料で働くよりは、5万円の社会保障をうけることを選ぶだろう。、、こうした生き方によってつくられる文化を仮に「若隠居」文化と呼ぶことにしよう。・東洋の思想は「縁」という観念によてこの「偶然」を必然化した。・道というのは、「えらぶ」ものではなく、「見えてくる」ものであるらしいのである。それは、ひとつの丘をこえてみて、はじめて、つぎの丘が見えてくるのに似ている。こうしようとおもってこうなるのではない。こうしてみようか、とおもってやってみると、やってきた結果として、次がみえてくるのである。・世界は無数の断片のちらばりによってできあがっている、茫漠たるものだ。その断片のひとつに手をつけてみると、それが手がかりになってつぎの断片が見えてくる。そんなふうにして、いくつかの断片が見えない糸でつながり、関係づけられてゆく。、、このアミダくじ的世界観にもとづく作業の過程という以外のなにもんでもない。断片と断片を糸でつないでゆけば、ひょっとして、首飾りのようなものができるかもしれないが、、。・毎日が選択肢の連続だ。こう、と決めたら、それでやってみよう、とわたしはいつもおもっている。そしてどうにかなるさ、と信じている。ほんとうに、どうにかなるものだ。・将来、すこしづつ人間というっものをより深く学びつつ、この領域(評伝・伝記)でのしごともつづけてゆきたいとかんがえている。

加藤秀俊の「通勤電車、奴隷船」説。満員電車が事故で30分以上動かない時、気分が悪い人や、失神する人がでる。古代ヨーロッパの奴隷船が目的地に着くまでに4人に1人は死んでいた。通勤電車で毎日もまれていた私は、怒りとともに、その説に共感した覚えがある。

加藤秀俊著作集』(全12巻、中央公論社, 1980-1981年)が編まれている。自分が描いた文章はすべて管理していたその結果がこれだろう。私たちが取材した1982年の時点ですでに完成していたのには今さらながら驚いた。1巻「探求の技法」2巻「人間関係」3巻「世相史」4巻「大衆文化論」5巻「時間と空間」6巻「世代と教育」7巻「生活研究」8巻「比較文化論」9巻「情報と文明」10巻「人物と人生」11巻「旅行と紀行」12巻「アメリカ研究」。

1982年に『私の書斎活用術』(「講談社)という本をつくった時に取材している。約2年かけて、17人の著名人の書斎を訪ねた。そのときはそういう先生たちと1日何時間も一緒になれるし、それはもう楽しくてしかたがなかった。社会学者として知られる加藤秀俊は整理の達人で、インターネット上で「加藤秀俊データベース」を公開している人だけあって、当時から自分が今までやってきた仕事を全部ファイリングしていた。当時は52歳。「 事務所はルーティンワーク、書斎は知的生産の場」「常に一号機を買う」「1時間4枚、一日5時間が限度」「書斎は自分自身。自分の肉体と神と鉛筆さえあればよい」「司馬遼太郎梅棹忠夫の文章を参考」「旅行中のできごとはテープに吹き込んで後で文章化」「一番優れた情報源は友人」、、。

「知的生産の技術」の先達として大いに刺激を受けた先生だ。あらゆることを試した人の結論は、自分の肉体と「紙と鉛筆」だったのには納得する。健筆を続けられることを祈る。 

私の書斎活用術 (オレンジバックス)

私の書斎活用術 (オレンジバックス)

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