滑川海彦の「情報文武両道塾」が開講ーー「反・密教学」「「スティーブ・ジョブス 驚異のプレゼン」

滑川海彦の「情報文武両道塾」に参加します。

千葉県生まれ。東京大学法学部卒業後、都庁勤務を経て著作・翻訳業。1984年に「データベース---電子図書館の検索・活用法」(共著・東洋経済新報社)を出版。著書に「ソーシャル・ウェブ入門」(技術評論社)他、訳書に「フェイスブック 若き天才の野望」、「HARD THINGS」他、多数。2006年からTechCrunch Japan記事を翻訳中。

 

「反・密教学」講座(5月19日)の図メモ。出家思考と在家思考。

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 本日の 第1回「スティーブ・ジョブス 驚異のプレゼン」(6月8日)の図メモ。

黒字はジョブスの主張。赤字は触発されてでてきたジョブスへの私の「反論」と「新論」。こういうやり方でセミナーを聴いていこうか。

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 白川静孔子。シャノン。マクルーハンなどがテーマになる。毎月第2・4火曜日。

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「名言との対話」6月8日。江見絹子「水、火、土、風の四大元素が私の主要なモチーフを形成してきた。今後もそれらを統合したところにあらわれるであろう宇宙的な空間を目指してゆくことになるだろう」

江見 絹子(えみ きぬこ、1923年〈大正12年〉6月7日- 2015年〈平成27年〉1月13日。本名は荻野絹子)は、日本の画家。夫はアメリカ人で、作家の荻野アンナは長女。

兵庫県明石市生まれ。大反対する父を説き伏せ、卒業後に油絵の道へ進んだ。洋画家の伊川寛の個人教授を受けた後、戦後は神戸市立洋画研究所で学んだ。

中学校の図画教師を経て、1949年、第4回行動展に「鏡の前」で初入選、1950年、第5回展で「三裸」「ポーズ」を出品し「三裸」で奨励賞を受賞、1952年、第7回展で最高賞である行動美術賞を受賞、1953年に「三立婦」を出品し行動美術協会で初の女性会員となった。

1953年からはアメリカやヨーロッパへ渡り、日本国外での個展の開催や絵画の研究を行った。1951年より神奈川県横浜市山手へ転居した。1954年、南ヨーロッパ旅行でラスコー洞窟とアルタミラ洞窟の壁画を見た影響で、対象を簡略化した形体で捉える半抽象へと、作風が大きく変化した。

1961年に神奈川県女流美術家協会の設立の発起人となり、長年にわたって代表を務め、美術の普及や後進の指導に尽力した。1964年からは横浜市民を対象とした指導研究会や、公募展「女流展」を開催した。1991年に第40回横浜文化賞、1997年に第46回神奈川文化賞を受賞した。1996年3月「江見絹子自選展」、2004年4月に「江見絹子展」、2010年11月に「江見絹子」展が開催された。享年91。

1975年以降は「火、水、風、土」の四大元素をモチーフとして、形と色によって画面に動きや光が宿る抽象画を制作した。水、火、土、風の四大元素とは、万物は風火水土の四つの元素から成り立っているというヨーロッパの思想だ。火は熱さ、風は動き、水は湿りけ、地は堅さを本質とする。「火」は凝結して「風」になり、「風」は液化して「水」になり、「水」は固化して「土」になり、「土」は昇華して「火」になる。自然界にはこのような循環があるとする。この考え方を絵画の世界に壮大な展開をしたのである。

フランス文学者で、小説家の慶應義塾大学文学部教授になった娘の荻野アンナが2020年2月26日の「婦人公論」で、母を語っている。

以上にみるように、絵画の世界を追求し続けたのに感心するが、娘の眼にはどう映ったのだろうか。アンナの文学研究や創作活動には、母親の強い影響がある。江見絹子は、船乗りだったアメリカ人の父も母も自分勝手な人だったようだ。母の江見絹子はお金に執着がない人で、「売り絵」は一切描かなかった。自分が描きたい絵のみを追求した。絵が売れるようになると、収入をすべて家の普請につぎ込み、好みの空間を作り上げた。高齢になって介護の段階になっても、絶対に家から離れたくないと言い張る。長生きしてほしいけれど、お金がいつまで続くかわからないが、「将来のことは考えない」という方針を、ハッキリ固めている。

母の死後にアンナは老後の資金をすべてつぎ込んで、母の作品を何とか残そうと一大決心をしている。絵も、家も、庭も作品であり、家そのものを美術館にできないだろうか。「男なら岡本太郎、女なら江見絹子」と評価され、抽象画で一時代を築いた画家であり、美術史的にもきちんと残す意義がある。借金をし、退職金もすべて使おう。母娘とも、形のないものを信じる気持ちがある。アンナの場合は、書く仕事や学問だ。「父は港、港に女を作るタイプでしたが、私は湯治場、湯治場に、茶飲み爺さんを作りたい。“女寅さん”として、ふらふらしていたいですね」。こちらも名言だ。江見絹子美術館までたどりつければ素晴らしい。母は人生100年時代のモデルだが、娘も「実年期」以降の生き方のモデルだ。