『50歳からの人生戦略は「図」で考える』ーーキャリアデザインの教科書。予約が始まっている。

 6月にプレジデント社からでる著書の予約が始まっているのを発見しました。

 50歳からの人生戦略は「図」で考える

 以下、「はじめに」の抜き書き。

・「五〇歳という年齢には〝魔物〟が棲んでいる」

・「五〇代は人生の後半の始まり」ととらえ、あとは力が徐々に衰えていくことを受け入れて生きるのか。それとも、「五〇代こそ新たな人生戦略を立てるとき」ととらえ、人間としての完成に向かって生きたいと望むのか。

・五〇代でどのような人生戦略を立て、ライフデザインを描けばいいのか。その人生戦略やライフデザインを、私が考案した「人生鳥瞰図」を使って導く方法を伝授するのが、この本のねらいです。

・偉人には遅咲きの人が多いということです。四〇代や五〇代、あるいは、六〇代から人生を完成させる道を進み始めているのです。

・遅咲きの人たちに共通するのは、いつも、「いまから」と考えていることです。自分のピークはまだ先にあると思っている。自分の人生を、「いまから」ステップアップさせたい、人生行路について、「いまから」舵を切ってみたい。本書が読者の「いまから」を後押しできれば、望外の幸せです。

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今日は、豊洲手づくり市を訪問。 

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「名言との対話」5月30日。安芸ノ海節男「双葉山に勝った自分がみっともない相撲は取れない」

安芸ノ海 節男(あきのうみ せつお、1914年5月30日 - 1979年3月25日)は、広島県出身の大相撲力士。第37代横綱

安芸ノ海は不滅の69連勝という不滅の記録を残した大横綱双葉山の連勝記録をストップさせた平幕力士である。その偉業が目立つので、本日までこの力士が横綱にまでのぼったことは知らなかった。

1836年(昭和11年春場所7日目から始まった双葉山の連勝は、1939年(昭和13年春場所3日目まで続いていた。当時は1年2場所制だったから、丸3年にわたって勝ち続けたのである。

4日目の相手の安芸ノ海は前頭三枚目で初顔合わせだった。「打倒双葉」を合言葉に研究に励む出羽海部屋では、双葉の弱点をつかみ、その作戦を安芸ノ海に授け、双葉山が破れる「世紀の大一番」となった。このときラジオ中継の和田信賢アナウンサーは、「双葉敗る! 双葉敗る! 双葉敗る! 時に昭和14年1月15日。旭日昇天まさに69連勝、70連勝を目指して躍進する双葉山、出羽一門の新鋭・安藝ノ海に屈す! 双葉、70連勝ならず! まさに70、古来やはり稀なり!」と絶叫した。

「今日の双葉山に挑む者」との連載連載を持っていた近藤日出造の取材に答えて、初日対戦相手の五ツ嶋が「オレなんかダメだが、うちの安芸ノ海は面白いよ」と語ったことは、後に「世紀の予言」と語り草になった。

その安芸ノ海は「ひいきの人が、貸し家が二軒ついた家をほうびにくれたよ」と語っていた。それほどの大事件だったのだ。師匠たちからは 「勝って褒められるより、負けて騒がれるようになれ」と諭された。

連勝を止められたとき、双葉山は「我いまだ木鶏足り得ず」(ワレイマダモッケイタリエズ)と安岡正篤に打電したというエピソードがある。荘子(達生篇)に収められている故事に由来する言葉で、木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態をさす。真人(道を体得した人物)は他者に惑わされることはないという意味である。63連勝の 白鵬も敗れたとき、支度部屋で「いまだ木鶏たりえず、だな」と語ったとされる。

1943年(昭和18年)、1944年(昭和19年)には、2人は東西の横綱同士で対戦している。対戦成績は双葉山の9勝1敗だった。物言いがつく一番があるなど、善戦はしたが安芸ノ海は二度と勝てなかった。

12回の優勝のうち8回の全勝優勝の大横綱双葉山は「稽古は本場所のごとく、本場所は稽古のごとく」が信条であった。「双葉関は相手が誰でも変わらぬ相撲を取った人だが、自分に対してだけは特別な感情があるように感じた」と感じていたと安芸ノ海は、「横綱になれたのは、あの一番があったからです」と後に語っている。優勝は1回であり、また師匠との軋轢もあり、晩年は不遇だった。

今も折に触れて、テレビの映像でこの取組みが流れるので、よく知っているような気していたが、そうではなかった。この一番をめぐる背景、敗者となった双葉山の心境、当時の世相、そして勝者の人生に与えた影響などを知ることができた。歴史が一点に凝縮された感じがする。人は人生の一瞬の輝きで歴史に残ることがある。その代表がこの世紀の大一番だ。