久留米の「坂本繁二郎生家」と「青木繁旧居」を訪問。二人は小学校以来の親友。晩成の鈍才・坂本は87歳、早熟の天才・青木は28歳の生涯だった。。

久留米で「坂本繁二郎生家」と「青木繁旧居」を訪問。

この二人は近所に住む小学校時代からの親友だった。坂本繁二郎は、師の森三美の世話で母校久留米高等小学校の代用教員をしていたことがある。このときの教え子の中にブリジストン創業者の石橋正二郎(1889-1976年)や、政治家石井光次郎(1889-1981年)がいた。石橋が青木繁坂本繁二郎の絵を収集したのもこの縁である。2011年に東京のブリジストン美術館青木繁展が開かれているのもそういう流れの中の一コマである。

青木繁代表作「海の幸」が印象に残る画家であるが、この作品を描いた20歳を少し超えた頃を頂点に28年という短く苦悩の多い人生を送ったことを知った。
青木は何に一生を賭けるかと思案する。「人生とは何ぞや」「我は男子として如何に我を発揮すべきや」。学者、政治、軍人、、、。哲学、宗教、文学、、、そして最後に芸術にたどり着く。「われは丹青の技によって、歴山帝(アレクサンダー大王)若しくはそれ以上の高傑な偉大な真実な、そして情操を偽らざる天真流露、玉の如き男子となり得るのだ」。
上京し東京美術学校に入り、黒田清輝の指導を受ける。上野の図書館に通い、古事記日本書紀をはじめ諸国の神話、宗教書を読み漁る。「海の幸」「わだつみのいろこの宮」「大穴牟知命(オオナムチノミコト)」などの作品を描くが、父危篤の報を受けて久留米に帰り、以後熊本、佐賀方面を放浪。福岡にて28歳の生涯を閉じる。
この画家の没した翌年に坂本繁二郎などの友人が「青木繁君遺作展覧会」を開催する。青木の作品に好意的であった夏目漱石は「青木君の絵を久し振りに見ました。あの人は天才と思ひます」と友人あての書簡の中で書いている。そしてその翌年に「青木繁画集」が刊行された。青木は死後に評価を高めた。
そして後に久留米出身の河北倫明(京都国立近代美術館長)が「青木繁の生涯と芸術」という論考を書き、私たちは夭折の天才画家・青木繁の芸術を知ることができる。また渡辺洋の「悲劇の洋画家 青木繁 伝」(小学館文庫)には、同郷で繁の叔母モトにかわいがられた人を母に持つ渡辺は小説の形式で、青木繁の人間像に迫っている。この小説では会話には方言を用いており、青木本人の言葉や、友人たちとの会話が真実味を帯びて描かれている。
同時代を生きた友人、そして後に掘り起こしてくれた郷里の具眼の士、そういった人たちによって青木繁は100年もの間、生き続けてきたのである。

実際に見た「海の幸」は、私のイメージと比べると小さかった。それでもタテ70.2センチ、ヨコ182センチの横長の大作だが、昔教科書で見た鮮烈なイメージの大きさほどではなかった。しかし、荒削りの迫力にある絵には強いメッセージを受けた。老人、若人などが10人ほどおり、大きなサメを背負う人や棒でかつぐ人などが夕陽の落ちる波打ち際の浜辺で歩く姿が描かれている。一人だけ画面を向いている白い顔があり、これは恋人の福田たねであるという説がある。神話的な世界と見る人をつなぐ不思議な目である。

友人の坂本繁二郎は、「流れ星のような生涯だった」と言い、蒲原有明は「比類のない伝説のようだ」と青木の生涯を総括している。福田たねとの間に生まれた幸彦は、後の尺八奏者、随筆家である福田蘭童で、ある。

谷口治達「青木繁 坂本繁二郎」(西日本新聞社)には、高等小学校時代からの友人二人の軌跡が描かれていて興味深く読んだ。28歳で夭折した早熟の天才・青木繁と、明治・大正・昭和と87歳まで画業を全うした晩成の坂本繁二郎
二人の友人であり早稲田大学を出て故郷で旧制中学の国語教師をしていた梅野満雄の二人の比較がよく特徴をとらえている。「彼らは大いに似て大いに異なるところが面白い対照だ。同じ久留米に生まれてしかも同年、眼が共に乱視。彼は動、是は静。、、青木は天才、坂本は鈍才。彼は華やか、是は地味。青木は馬で坂本は牛。青木は天に住み、坂本は地に棲む。彼は浮き是は沈む。青木は放逸不羈、坂本は沈潜自重。青木は早熟、坂本は晩成。、、、」

周囲に迷惑をかけ続けた青木繁は悲劇の天才であり、人格者・坂本繁二郎は求道の画人であった。どちらにも「繁」という字がついているのが面白い。

 

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夜は「遅咲き偉人伝」の集録。テーマは「人物記念館1000館の旅」から。1時間。

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「名言との対話」6月18日。ルー・ゲーリッグしかし、今日、私は、自分をこの世で最も幸せな男だと思っています

ヘンリー・ルイス・ゲーリッグHenry Louis Gehrig, ドイツ語:Heinrich Ludwig Gehrig(ハインリヒ・ルートヴィヒ・ゲーリヒ), 1903年6月19日 - 1941年6月2日)は、メジャーリーグプロ野球選手。

ニューヨーク市生まれ。1920年代から1930年代にかけてニューヨーク・ヤンキースで活躍した名選手である。17年間で1995打点を挙げ、生涯打率は3割4分。1927年1936年にはアメリカンリーグMVP。1934年には三冠王本塁打王3回、打点王5回。打率.350以上6回、150打点以上7回、100四球以上11回、200安打以上8回、40本塁打以上が5回。1931年の184打点は未だに破られていないア・リーグ記録である。ルースとゲーリッグの二枚看板を中心とした強力打線は「殺人打線」と呼ばれヤンキースの黄金時代を築いた。

1934年の来日時、沢村栄治の好投による「完封負け」の危機から全米軍を救ったのがゲーリッグのソロ本塁打による1点だったから、日本でも強い印象を与えた。

連続試合出場記録は2130試合という世界記録は、後に「鉄人」と呼ばれた衣笠(2215)、リプケン(2632)に破られる。

1939年には当時史上最年少で殿堂入りを果たし、MLB史上初めて自身の背番号4」が永久欠番に指定された。『トータルスラッガーズリスト メジャーリーグ万能強打者列伝』第二巻(著者:箭球兜士郎 野球文明研究所)には、打撃成績が詳しく紹介さている。

愛称は「アイアン・ホース」、そしてライバルであった動的なベーブ・ルースとの比較で「静かなる英雄」とも呼ばれている。ゲーリッグは1941年6月2日に37歳の若さで亡くなる。翌1942年にゲーリッグの半生を描いた『打撃王』が公開されている。

筋萎縮性側索硬化症(ALS)と知ったゲーリッグは引退を決意し、連続試合出場記録は本人に手で幕を閉じている。衝撃を受けた世間は、この病気を「ルーゲーリッグ病」と呼んだ。手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく。しかし、体の感覚、視力や聴力、内臓機能、そして精神機能にはダメージはない。難病である。

ベース・ルースもかけつけた「ルー・ゲーリッグ感謝デー」での挨拶は、「ファンの皆様、ここ2週間に私が経験した不運についてのニュースをご存知でしょう。しかし、今日、私は、自分をこの世で最も幸せな男だと思っています」だった。1941年6月2日に没。

「鉄の馬」と称される、14年間無休の頑強なスラッガーは、ALSという難病で野球選手としての活躍を絶たれている。そういう不運がなければ、連続出場記録はさらに伸びていただろう。数々の記録もさらに華々しいものになったはずだ。37歳という短いが濃厚な生涯については、本人は「幸せ」だとしている。ルー・ゲーリッグは、記録とともに記憶に残る英雄だった。