『ハドリアヌス帝の回想』という名著を書いたユルスナールの軌跡と方法を追う。

マルグリット・ユルスナールハドリアヌス帝の回想』(多田智満子=訳)を読了。世評名高い名著である。先日の九州への往復の交通機関の中で読み終わった。

ハドリアヌス帝(76年ー138年)は、ローマ5賢帝の一人。異常な多才の人。文学、哲学にも精通。優れた軍人。途方もない旅行家。有能な行政官として数々の施策を断行した。神とも呼ばれた偉大な皇帝である。

40歳を超えたあたりで帝位につき、その治世は21年間(117年から138年)続いた。特筆すべきは次の帝位を譲る養子と、その次の養子(孫)の帝位も決めていたことである。その孫は『随想録』を書いたマルクス・アウレリウスである。ハドリアヌス帝は「永遠のローマ」の基礎を築いた名君である。

この本は、このハドリアヌスが孫に「いとしいマルクスよ」と呼びかけ、自らの生涯を回想するという形式で始まり、幼少のころから、青年時代、皇帝時代、「目をみひらいたまま、死のなかに歩入るよう努めよう、、、」という最後の言葉のとおり、その死まで描いた傑作である。

この本の内容、つまりハドリニアヌス帝が述べる生涯に出会う、多彩な人物、遭遇する事件とそこから引き出す教訓、旅の過程での発見、皇帝であることを活かした猛烈な仕事ぶり、人生についての深い知見、、、など、感銘を受ける箇所が随所にある。この本は手元に置いて、座右の書の一つにする。

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今日はこの本を書いたマグリットユルスナール1903年ー1987年)という女性作家がこの本をどのようにして書いたか、に焦点をあてたい。

20-25歳。この本を発想して文章を書く。その原稿は破り捨てられた。24歳、比類なき繁栄にあったローマの一人の人間を描くことを生涯の主たる活動にすることを決心する。

31歳から着手。34歳まで何回もとりあげ、そして放棄する。対話形式ではうまくいかないことがわかる。いちどきに全体の曲線を見てとれるような仕方、という視点を発見する。

34歳から36歳。この本のことで頭を使うことをやめてしまう。

36歳から45歳。計画を放棄する。不可能と思い、意気阻喪し、関心を失う。44歳、30代の頃に書いた覚書を捨ててしまう。無用となった。

ハドリアヌスを知識人、旅人、詩人、恋人と考えていたが、皇帝であったこの人の肖像を作り直すことを考えるようになっていく。「向こう岸に泳ぎつけるかどうかわからぬまま、水に飛び込む泳ぎ手のような気分」で3年の調査、研究に入る。「すべて媒介なしにすませる」ため、一人称で書くことにする。

2世紀に書かれた文章を、2世紀の目、魂、感覚で読もうと努力し、己を投影することを禁じた。そして彼に未来への先見の明をもつ視力を与えた。「日記」ではなく、「回想」とした。それは行動人が日記をつけることはめったにないからだ。

46歳。人間の運命を愛する人びとのみが理解してくれればいい。

毎朝、前夜の仕事を焼き捨てていく。「偉大な人物の生涯を書いている」こtぽに気がつく。「ひとりの男の生涯が描く図形を見失わないこと」。「自分がこうであると信じた事。こうでありたいと望んだこと、そしてこうであったこと」。

47歳。皇帝は死ぬよりほかになすべきことがない。

「最善を尽くす。やり直す。修正の上にさらに目にもつかぬ修正を重ねる」。

48歳。『ハドリアヌス帝の回想』を発表。フランスだけでなく世界から絶賛を受ける。

以上は、ユルスナールによる「作者による覚え書き」を要約したものである。20代から50歳直前まで4半世紀にわたる苦闘の歴史である。テーマを発見し、独自の視点をみつけ、膨大な資料を読み込み、書いては捨て書いては消すという日々の積み重ねの中で、この名著が誕生したことがわかる。ユルスナールにとって、ハドリアヌスは恋人であったのだ。

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「名言との対話」6月2日。ルー・ゲーリッグしかし、今日、私は、自分をこの世で最も幸せな男だと思っています

ヘンリー・ルイス・ゲーリッグHenry Louis Gehrig, ドイツ語:Heinrich Ludwig Gehrig(ハインリヒ・ルートヴィヒ・ゲーリヒ), 1903年6月19日 - 1941年6月2日)は、メジャーリーグプロ野球選手。

ニューヨーク市生まれ。1920年代から1930年代にかけてニューヨーク・ヤンキースで活躍した名選手である。17年間で1995打点を挙げ、生涯打率は3割4分。1927年1936年にはアメリカンリーグMVP。1934年には三冠王本塁打王3回、打点王5回。打率.350以上6回、150打点以上7回、100四球以上11回、200安打以上8回、40本塁打以上が5回。1931年の184打点は未だに破られていないア・リーグ記録である。ルースとゲーリッグの二枚看板を中心とした強力打線は「殺人打線」と呼ばれヤンキースの黄金時代を築いた。

1934年の来日時、沢村栄治の好投による「完封負け」の危機から全米軍を救ったのがゲーリッグのソロ本塁打による1点だったから、日本でも強い印象を与えた。

1939年には当時史上最年少で殿堂入りを果たし、MLB史上初めて自身の背番号4」が永久欠番に指定された。『トータルスラッガーズリスト メジャーリーグ万能強打者列伝』第二巻(著者:箭球兜士郎 野球文明研究所)には、打撃成績が詳しく紹介さている。

愛称は「アイアン・ホース」、そしてライバルであった動的なベーブ・ルースとの比較で「静かなる英雄」とも呼ばれている。ゲーリッグは1941年6月2日に37歳の若さで亡くなる。翌1942年にゲーリッグの半生を描いた『打撃王』が公開されている。

筋萎縮性側索硬化症(ALS)と知ったゲーリッグは引退を決意し、連続試合出場記録2130の世界記録(当時。後に「鉄人」と呼ばれた衣笠(2215)、リプケン(2632)に破られる)は本人の手で幕を閉じている。衝撃を受けた世間は、この病気を「ルーゲーリッグ病」と呼んだ。手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく。しかし、体の感覚、視力や聴力、内臓機能、そして精神機能にはダメージはない。難病である。

ベース・ルースもかけつけた「ルー・ゲーリッグ感謝デー」での本人の挨拶は、「ファンの皆様、ここ2週間に私が経験した不運についてのニュースをご存知でしょう。しかし、今日、私は、自分をこの世で最も幸せな男だと思っています」だった。

「鉄の馬」と称される、14年間無休の頑強なスラッガーは、ALSという難病で野球選手としての活躍を絶たれている。そういう不運がなければ、連続出場記録はさらに伸びていただろう。数々の記録もさらに華々しいものになったはずだ。37歳という短いが濃厚な生涯については、本人は「幸せ」だとしている。ルー・ゲーリッグは、記録とともに記憶に残る英雄だった。